今日、僕の母親から電話が入った。うちの両親はおかげさまで二人とも健在である。父も母も80歳半ばをこえた。父は年齢相応の物忘れが出始め、最近では部分的に社会生活が自立できていない風にみえる。しかし、まだ車を運転している。先日、父の孫娘がフェイスブックを通じてメッセージを送ってきた。彼女は、爺さんが自分の姪と孫を取り違えたことを持ち出して、いつまで爺さんの車の運転を認めるのか?と聞いてきた。経度認知症状といえるようなボーダーに居るような爺さんである。
母は若いころの重労働が祟ってか、両膝の関節がすり減り歩くことが困難な状態にある。ひざの痛みの影響か、最近では円背も進みつつある。立つこともやっとの状態とひざ関節の痛みは、彼女の日常生活に大きな苦労を強いている。
そりゃ息子の僕が還暦ともなれば、その親が年老いていろいろな身体的問題を抱えても無理ない。そんな年齢に達したのである。
そんな母が、この時期、必ず秋祭りの時に作る押し寿司がある。昔から田舎に伝わる食べ物で、木の箱にごはんと具材を乗せたものを何重にも重ねて圧力をかけて作る押し寿司である。何の変哲もなく、いたって普通の田舎料理。その寿司を僕に食べさしたい一心で連絡してきた。おまけに足が悪いくせに、僕の家まで届けると言う。もちろん、歩くことが困難だから、父親に軽トラックを運転させ、助手席に座ってくるつもりだろうが・・・
我が家に届いた寿司を皿に盛り、添えてあった手作りの紅生姜を見つめながら、何だか笑えてきた。この歳になって・・・何でも自由に手に入る時代に・・・この素朴な食べ物が僕の胸の中に熱いものを湧き立たせる・・・幾つになっても親は子を思い続ける。その想いに胸が熱くなる。
さあ、そろそろ、F-1フィーバーから現実の高齢者介護について自分の気持ちを切り替えよう。(もちろん、自分自身に対する言葉ですよ)
高齢者介護を生業とする職員のレベルは、それこそピンキリです。国家資格さえ持っていれば、それ相応のスキルを約束されているかと言えば、そうでもない現実がある。たとえば、僕のように資格だけはたっぷりと保有するものの、高齢者介護なんて一つも分かっていない者(なんちゃって社会福祉士ですから・・・)も居るくらいだから。
さて、保有資格だけの問題ではなく、今、ここにきて悪評高き”ゆとり教育”の時代を育ってきた若者たちの気づきの無さに介護の質の向上が阻まれている減いつが存在する。ゆとり教育世代全体を悪く言うつもりはないが、私たちの世代が育てた子供たちは、相当甘やかされて育てられた感があり、子供たちが人生経験どころか、何の苦労もなく、社会的常識すら刷り込まれていない「無知」な状態で成長させられている。
このような若者に、介護の気づきや配慮を求めても、どだい無理な注文である。幅広い視野を確保しながら利用者を見守る視点なんて、どこ吹く風。自分の前のことすら見えない者達に、180度の視界をもって周りに注意を払うことなどできっこない。
これでよく事故が起きないものだ!と感心するものの、このままではいけない。と奮起一発、職員研修を実施するが、理屈では理解できていても、その理屈を実際の現場に結び付けることができない。
いったい今の介護はどうなっているんだ???!!!!私たち団塊の世代が、あと数年で要介護者となる時期に、自分たちの育てた子供たちが役割を全うできないなんて・・・・これほどの不幸はないが、それもすべて身から出たさびなのか・・・
今、介護を実践している若者たちよ、そろそろ幅広く社会勉強しようぜ!そして、高齢社会の今の時代に、更なる専門性の向上を目指して頑張ろうではないか!!!
ここ数日間の仕事で、一日中多くの外国人の中で過ごしてきた。すべての会話が英語の社会に居ると、自分の考え方も欧米人的な感覚と変化していく。
彼らはいたって普通に、握手し、ハグし、キスを交わしながら親交を深めている。そして、女性に対しておくびれることなく感情を表出している。感情の表出と言っても、セクハラもどきの感情の放出ではない。相手の人格を尊重し褒める、美しさをたたえると言う意味の表現である。
日本人社会には存在しない表現である。相手が綺麗!と思えば、素直に美しいと言い、相手を称える。僕は海外生活から日本人の持つ遠慮、忍等の心を忘れてしまったのかもしれないが、できれば死ぬまで海外かぶれの人生を全うしていきたい。いつも香水の香りが漂い、さりげなく女性をエスコートしてフェミニストを気取りたい。
F-1日本GPが終わり二日たった。鈴鹿で一緒に仕事をさせてもらった海外スタッフからメールが届き、その一人と電話で話をした。もうすでにイタリアに戻り、会社の事務所で仕事しているという。イタリアのモデナと言う所にある会社と言えば、知る人にはピン!とくる有名な会社である。
この彼とは、僕がこのF-1GPの仕事に携わるようになってから、ずっと鈴鹿で年に一度のレースのたびに接してきて、いつの間にかお互いの中に信頼関係が作られた。 イタリア人ってのは、情熱家でエモーション、とても熱くなりやすくて喧嘩っ早いけれど、女性には弱く、ロマンティストであると思い込んでいた僕は、このイタリアに住む彼の生活を見てみると、決して気楽な毎日を送ってはいないようだ。実際、今回のような日本にきて一週間、朝早くから夜遅くまで働き、本国イタリアに帰ってすぐに会社に戻り、毎日夜9時過ぎまで働いているそうだ。
イタリア人って、ゆっくりと昼食をワインと共に楽しみ、夕食にもたっぷりと時間をかけて会話を楽しみながら、イタリア料理をたっぷりと楽しんでいる姿を想像していたが、やはり世界的に有名な高級トレンドの発信源で居続ける企業だけに、かなりの点で「働き蜂」ばかりなんだ!と妙に納得する。
しかし、こんな働き蜂の彼を見てて、自分の人生のすべてを企業に注ぎ込んでいるかといえばそればかりではない。自分なりの人生を楽しんで生きている。彼は余暇を利用して日本庭園を自宅に作ったり、家族と旅行したり、食事を楽しんだりしながら、しっかりと仕事は仕事で割り切って実践している。
人間は、何せよ前進しなければ「自己実現」は成し得ないと考えている。一日中寝て暮らしても生きていくことはできる。一日24時間、寝る間を惜しんで仕事に没頭しても生きていける。どちらが楽ちんな人生か?僕は、一日中寝て暮らす人生が、決して楽ちんな人生とは思わない。
仕事一途でも良い。10の内の1でも自分の時間が持てれば、その1に没頭して楽しむ。全てを忘れてのめり込む。そして、残りの9を仕事に打ち込む。要するに気持ちの切り替えをk
金曜日からF-1マシンの走行が始まる。
今朝は、僕が仕事するGPオフィースのスタッフが、今年のF-1記念としてレーシングコース上で記念撮影を行った。僕はスタッフの一人ではあるが、外部の人間であるから、全員とのスナップは存在しない。
唯一、女性スタッフと共に写真撮影を行ったが、この人とは唯一10年以上前から同じGPオフィースで働く女性スタッフの方で、長く英国で暮らしたことのある方である。GPオフィースとは、グランプリ・オフィースの略称であり、主に外国人チームのレース運営のお手伝いを行う部署である。
今でこそ「ホスピタリティ」が叫ばれるが、ここでは10数年前より「コンシェルジュ」として、多方面のサポートを実践してきた。決してノーとは言わない。要望されることには真摯に応える。それを理念に掲げている。
雨の予報の金曜日は快晴となった。朝7時30分。早くもチームの一部はチームのピット前でタイヤ交換の練習を行っている。4本のタイヤを交換するスピードの速さ。これは、ただ単に「すごい!」の一言しかない。インパクトレンチの回転する音が二回。それで、タイヤを外し、はめかえて締め付ける。この工程が終了する。2回・・・それも4本が同時に行われるために、2回にしか聞こえない。ただし、この交換作業だけに関わるスタッフは20数名が関わる。まるでハチの巣に群がる働き蜂のように、マシンを取り囲み、一気に作業を貫徹する。この作業と言うか、動作は素晴らしい芸術作品のようである。
レーシングコースど真ん中。この仕事だからこそできる写真撮影であった。僕の人生の1ページ。