認知症・・・記憶に障害をもつ。それだけではないが、認知症とは本当に厄介な病である。脳の器質変化が原因となり、人として生きていく中で不都合な面がたくさん生じてくる。
そんな状態に自分の親がなっていくのは、家族として見るに忍びない。普段から認知症高齢者を支援している自分にとっても辛いところである。
その大きな要因として、昔、僕が子供だった頃の親のイメージが崩れてしまう。今、ここにある姿は老いて、威厳を亡くした親の姿がある。厳しかった親が妙に小さく見えるとき。スネかじりの自分にとって親の位置は、遠く先を行く自分よりも大きな存在だった。そんな人物のイメージが消え去ってしまう寂しさに一抹の動揺がもたらされる。
人間いつしか親から離れ、独り立ちしなければならない。それ以上に、次は自分が親の持つ重圧を一身に引き受けなくてはならない。親の庇護のもと内海の穏やかな波間を公開してきた自分も、これからは自分が中心となって社会の荒波に対峙していかなければならない。
もうずいぶんと社会の厳しさの中で生き抜いてきた自分ではあるが。親が相談する対象でなくなる時点から、さらに社会の波風の強さをひしひしと感じざるを得なくなる。
いつか通る道。
私は桜が大好きで、それも散りかけの桜が大好きです。風に流され吹雪のように花弁が散る瞬間。それが一番桜の花の美しい時だと思います。
人生のように華やかな時代もあれば、最終の美を風に身を任せて散りゆく姿は、最後の最後まで美しさを保持し人々の目を楽しませる姿に感動しています。
伊勢自動車道の松坂インター近辺は道路の両面を桜並木が今一番の見ごろでした。運転中に撮影しているので多少ブレはありますが、運転する者の気持ちを優しくしてくれるような気がしました。
爺さん・婆さんとお付き合いして10年が過ぎた。
ずぶの素人だった自分が、色々なことを経験してきた。
10年は長いようで、短かった。
何も分からず、ただガムシャラに突っ走ってきた。ってのが正直な感想である。
そして、時々、そんなガムシャラ機関車も調子が悪くなる時があった。
な~んにもしたくない!気分の時があった。誰とも会いたくない。一日中、家の中に潜んでいたこともある。誰とも話したくはない。会いたくもない。ただ一人でいたかった時。
一日中、車を走らせていた時もあった。地道を走りはがら、何の目的もなく、行き当たりばったりのドライブ。気が付いたら長野にいた。
奇行 ばかりが目立つようだが、こんな不思議な行動が僕の10年を支えてくれた。
ヒューマンサービスは、人間の精神にとても重いストレスをかける業務である。特にソーシャルワーカーの業務は、他のヒューマンサービスの何十倍も重い心の負担を負うこととなる。
2025年、75歳以上の高齢者が人口の三分の一に及ぶ時代。その時代のソーシャルワーカーに求められるものとは??
だんだんと長生きさせられる世の中ではあるが、平均寿命が延びることに比例するように長生きが罪と感じる矛盾した時代が来るような気がする。
今日はエイプリル First. この日だけは『嘘』をついても良い日。
朝から、何か気の利いた嘘を探しながらも、忙しさに振り回され『嘘』どころではない。
そして、もうすぐ、嘘を言える時間も終わろうとしている。
年齢と共に、立場と共に・・・と言うより、自分自身にウイットやセンスが喪失していってるだけかもしれない。
だんだんと面白味もない、単なるオッサン化?!の現われ・・・