ほんのちょっとした切っ掛けから、ロードバイクにハマった!
10キロも走れば息切れ、足が張ってた。
今、100キロは走り切れるようになった。
この歳でも筋肉が付いてくるのが実感できる。
そして、何より走り終わった後の心地良い疲れが
気持ち良い!
走っている時はただひたすら「無」になる。
風と路面から受けるショックを体全体で感じる。
近くを走る車の騒音や通り過ぎていく家々から漏れる生活の匂い
五感の全てが快い刺激を受け
周りの景色が走馬灯の様に静かに通り過ぎていく。
沖縄恩納村から58号線を走り、一番のポイントのエメラルド色した海を
渡って古宇利島へ。
毎年、ほぼ同じコースを走ってスタート地点に戻る。
今年で3年目、3回目の走行。
走り終え、鈴鹿に戻り、またいつもの毎日に
もうすでに心は来年の沖縄に飛んでいる。
一人で知らない土地を走ること。
多少の心細いところが、逆に新鮮な気がする。
年齢ともに多少のことでは驚かない、うろたえなくなってきたからか?!
大げさな表現かもしれないが
この全ての感覚が命を感じさせる。
年々、自分の身の回りの整理整頓ができなくなってきた。
自分のデスクも作業途中の書類と参考図書が山積み。
自宅のデスクもモノをかける状況ではないほどの物であふれ
書類に書き込みをするには、まず今ある書類を横に積んで場所を確保してからでないと
何も書き込みもできない状況である。
決して不潔な性格ではない。不潔と言うより、人並み外れて匂いには過敏で
身だしなみには気を遣う性質である。
見た目小奇麗でも、その実、怠け者?!
いやいや、これも認知症の始まりかもしれない。
記憶力の低下ではなく、実行機能障害が原因かもしれない。
暗に忙しいふりをしている訳ではないが
非常に片付けることが苦手な性格なようです。
今、取り掛かっている業務としては、来週の講演資料のまとめと予習、
その次の週に予定している地域密着型サービス事業管理者研修の資料作り、
認知症初期集中支援チームに関する資料の準備
それと社会福祉法人設立の申請書づくり。
これを2月内にやり遂げなければいけない資料作り。
自分が納得の上、着手した業務ゆえ逃げるわけにはいかない。
おまけに24日、25日の両日は認知症関連の会議に出席するために
仙台に行かなければならない。流石に仙台を日帰りは厳しいので
一泊して帰ることとなったが、今のところ制限時間に追われる自分にとって
この状況は厳しい。
人間生きているうちには、何かと重複するストレスに襲われるもの
適度なストレスは自分を高める!そんなことを言ってられない状況でもある。
まあ、先月中旬に沖縄に自転車旅行に4泊もしたツケが回ってきたと
考えれば、マア、なんとか耐え忍びやり遂げることもできるか・・・・(笑)
今月の14日(バレンタインデー)午後二時より鈴鹿市ふれあいセンターにて講演会を開催いたします。
鈴鹿市健康福祉部・鈴鹿市社会福祉協議会の共催イベントでお話をさせていただくこととなりました。
たっぷり二時間。ぜひお付き合いください。
2月3日現在で、参加申し込みは163名の方にお越しいただけるようです。
ボランティア活動について一言。
先日、ボランティア活動のオファーを電話で受けた時の事である。
歌を唄ってくれると仰る女性の方から一本の電話に対応した。
頭から上から目線の言葉に、少々憤りを感じていた自分だった。
如何にも唄いにいってあげる的な口調に反発してか
心ならずも先方の申し出をお断りした。
実は、鈴鹿市ではボランティア活動が制度化され、鈴鹿市社会福祉協議会を中心に
そこに登録した介護事業所を回れば点数化され、一年の活動に対しスズメの涙程度のお金が支払われるシステムがある。
このシステムの説明会も市役所で受け、吟味した結果、当事業所はボランティアの受け入れを申し込まなかった。
その理由に、敷地が狭く駐車場がすくないこと。
もっと大きな理由として、ボランティア活動の趣旨が日本人社会では少し本来の趣旨からずれが見受けられること。
そして、認知症の人たちの生活に、歌や演劇などを押し付ける形でイベントを開催することに対し
私は反対論者の立場であること。
認知症の人が生活する上で、歌や演劇を見せられることってどうなの???と常に思っている。
自分が好きな演劇や歌手を見に行くなら話は別と考えている。其の為には家族さんと協力して
コンサートに出掛けたり、演劇を見に行く。
趣味のご披露のために介護施設を活用する、一挙両得のような響きはあるが
それらの大半は押し付けに近いものが多い。
同様に、私は認知症グループホームにおけるレクリエーションの必要性を否定している。
レクリエーションの響きは良いが、それらのほとんどは職員の独りよがりが多すぎる。
自分が認知症となった時に レクリエーションを求めるのか?と聞かれれば
必ずしもNo!ではない。時として遊びたいし楽しみたい!一人にしないでほしい!と望むであろう。
しかし、それがレクリエーションではない。
レクリエーション、ボランティア、これらの発想の起点は職員の自己満足なのか?!
さて、皆さんはどのようにお考えか??
私の実父は認知症で、うちのグループホームで世話になっていることは以前にこのブログで公開したとおり。
今、91歳となり、一度、体調不良からターミナル直前まで変化し
医療と介護職員の努力によって復活し、以前よりもまして認知症は重度化しているものの
すこぶる元気になっている。そのことに関して主治医と介護職員の方々には感謝している。
さて、そんな父も数年前まで実際に自分自身が車を運転し、妻を横に乗せて病院や買い物に出掛けていた。
もちろん軽自動車であり、おまけに車体の四方すべてに擦り傷、凹みを作っていた。
認知症の人の運転する車両が重篤な交通災害をまき散らすことで
日本の警察も黙ってみていられなくなり、とうとう認知症検査を強化し
認知症の診断を受けると車の免許証は返納しなければならない。
認知症の診断にも段階評価があればいいが、認知症=すべての機能がゼロではない。
出来ることを奪っていく事は、可能な限り避け、認知症であっても一人で出来ることは行う。
社会支援として、出来ることを伸ばす支援を目指していければ尚の事良い。
日本人はとかく技術力にものを言わせて認知症の人でも運転できる車両の開発に働く。
運転技術に関係なく動く自動車の開発にどれほどの時間を必要とするのか??
それも大切ではあるが、それよりも認知症スクリーニングテストを導入した
免許システムの改善を図る方が、ずっと早く対応できるのではないか。つまり、
認知症の度合いによって運転可能と運転不可を選別していく考え方を採用してほしい。
これと同じことを、先日のEテレ「認知症とともに よく生きる」でも取り上げていた。
認知症の人が運転して事故を起こす。それも子供の列に突っ込んでしまう。
これは非常に困った問題であり、放置できる問題ではない。しかし、
私からすれば、認知症の人が大きな交通事故を引き起こすと同様
運転しながら携帯電話を操作し、話しながら、メールしながら、ゲームしながら運転する輩が
まだまだ多く存在する。偶然、大きな事故には至っていないかもしれないが
重度認知症の人が車を運転すると同様の行為である。
成人のほとんどの人が車を運転する時代。
車が凶器とならないために、社会全体の認識を変えていかないと
認知症の人ばかりが悪者になってしまう!!