認知症の人と一緒に暮らしていると、時として面白い光景に出会うことがある。
特にグループホーム等の入所系の施設に暮らす認知症の人達は
自分の世界に暮らす人たちだから、銘々が全てマイペースで暮らしている。
基本的には、時間を設定して、ある程度のスケジュールは決めているものの
そんなスケジュールなんてお構いなし。
施設では、昼食と夕食の間に、おやつの時間を設けているところも多いが、
事件は、こんなおやつの時間に発生した。
なんと、一人の入居者が、同じテーブルに席する入居者のおやつの饅頭をとって食べてしまった。
そればかりか、別の人のコーヒーカップの中身だけを自分のカップに移して飲んでしまった。
全て、その人たちがしっかりと覚醒していない状態の時に盗み盗りされてしまった。
そのような話が、今日のカンファレンスで紹介され、さて、どうすればよいでしょうか?と言う相談があった。
さてさて、相手が認知症の日糸ですから、盗み食いする行為に罪悪感も無いはず。
そして、聴くところによると、盗まれた方も、その行為に気付いてない!
そこで、私の答えとして、まず、そのおやつの時間と言う者を職員がどのようにとらえているか?が問題としました。
日常のルーティーンとして、時間がきたからおやつを配膳し、飲み物を提供する。でなく
しっかりと皆さんにおやつを食べる!と言う意識をもって楽しんでもらえるよう声掛けをしているのか?と言う課題
全員がしっかりと目を覚まし、これから美味しいおやつを楽しく食べる意識となれるような雰囲気づくり。
そして、全員が揃っておやつを楽しむ。
それでも、他の人から盗み食いされるようならば、職員が中間にはいって、入居者間のトラブルを回避する。
悪いことは悪いと、盗んだ人に理解してもらい、盗まれた方には、悪意あって盗んではない音を理解してもらう。
僕は、これがケアの醍醐味と思っています。
みんなで認知症の人を理解し、その上で生活していく支援をする。
難しいようですが、少し多面的に看れば簡単に出来ることですね。
皆さん、これからは、認知症の人が困った状況とならないよう、事前におぜん立てをしっかりと行ってください。
昨日、同業のグループホーム管理者と会話した話から一言。
僕の思う認知症ケアについて説明させてもらった。
僕の理想とする認知症ケアは、一言で言えば『緩和』です。
緩和と言えば、がんの末期患者の痛みや苦痛を和らげることと同じように思われるかもしれないが
認知症に関して言えば、苦痛、不安感を和らげることとなります。
認知症を患っても、癌のような肉体的な痛みはないですね。
其れよりも精神的な苦痛や不安感の方が大きいはずです。
しかし、認知症も経過年数によっては心身ともに重度となり
時として頻繁な医療処置を必要とするケースもあります。
例えば、点滴治療、胃瘻や経管栄養、人工呼吸器の設置などです。
要するに寝たきり状態となり、自力で栄養摂取や排泄が出来なくなってくるに従い
外科的な治療も必要となります。
これらは一般的に延命治療のひとつですが
僕は、この延命治療自体の必要性については反対の考えを持っています。
今、日本の認知症ケアは、自立支援だけでなく地域共生社会として
地域資源を公的、インフォーマルを含めてつなぎ合わせ、その人の生きる力を向上させようとしています。
人として生きることは非常に重要です。
ただ、生きる姿をどの様に共有ができるか?が、その人の周りの人にできているか?が大きな課題となります。
認知症をボケ老人と考えず、生きる事に不便な状態が出現してきていると考える。
私たちは、その不便さをお手伝いする。それがフォーマル・インフォーマルなサービスです。
認知症を患った人やご家族には、重度になった場合の本人が一番望む緩和の姿を考えて頂きたい。
どうすれば、苦痛なく、自然に人生を暮らすことが出来るか?
私たちの認知症ケアは、そこの点を大前提として万全の支援を実践していきます。
新型コロナが第8波突入と言う、日本の状況は、認知症の人にとっては非常に恐ろしい。
何故、恐ろしいかと言えば、この感染拡大によって、さらに人と会う機会が制限される。
人ととの交流は遮断され、ただでさえ一人ぽっちの毎日が
さらに寂しい毎日となって、そして、そのことがしっかりと自分の中で理解されない。
ひょっとすると、私って、皆から嫌われてしまった?
ひょっとして何か気に障ることでも言った?
なぜ、だれも私の周りに来てくれないんだろう・・・?
そんな環境は決して良くはありません。
入所系の施設においては、このような状態ですでに3年。
これからお正月を迎えると言うのに、更なる孤独な年末を越さなければならない。
勿論、認知症の人がコロナに罹患すれば更に隔離と言いながらの「拘束」が行われます。
マスクつけて、始終、手を洗い、消毒することが出来なく、
ましてやゾーンニングなんて理解できないわけですから
必然的に居室または特定の部屋に閉じ込められてしまうこととなります。
今では、皆さん、ワクチンを4回も、早い人では5回目のワクチン接種を終えた方もみえます。
ワクチンによって症状が軽く、辞退を理解できないから外に出ようとする。
この現場の状況において、ある意味「隔離」=「拘束」はやむを得ない状況となります。
介護する側からすれば、一人の患者のIADL(日常生活動作)の低下よりも
他者への感染拡大を防止する方向へシフトする。
僕は、この状況に対して、施設側だけでなく行政そのものも
新型コロナに対する考え方には大きな問題があると思っています。
感染拡大を予防しながら、健全な支援はできないものでしょうか?
誰もウイルスを持ち込ませない。その方法は無いのでしょうか?
その人の生活に接することとなる人々が、どの様に自分がウイルスに罹患しないことが出来るのか?
この点をしっかりと意識して、自分の責任を認識し、業務にかかること。
相手が目に見えない敵ではありますが、もう少し神経質であってもいいような気がするのです。
『認知症道中膝栗毛」とは、私が十返舎一九作の「東海道中膝栗毛」からパクったタイトルです。
認知症の人と、ゆっくり、のんびり、共に歩む意味を含んでいます。
認知用の人との生活には、やってはいけない事があります。
①その人を馬鹿にしないこと。
何にも出来ないくせに・・・とか
②その人を叱らないこと。
意味わからない事ばかり言って、人の言うことを聞き入れてくれない!など
③その人を無視すること
結局、役に立たないからと、話に耳をかさない等
④意識的に孤立させるなど・・・
認知症の家族を抱えて普段どおりの生活を継続することは
ご家族にとっては、非常に難しく忍耐力のいることです。
自分の親が、それまでの威厳をなくし、憔悴しきっている姿は見るに忍びないことです。
しかし、私たちが思う以上に、本人は自分の何もできない姿に難とも表現できないやるせない気持ちであると思います。
私の父も、認知症となって、毎日、僕の顔をみると顔を歪めて『ちッ』と舌打ちをしてました。
息子を見ながら、自分の姿に幻滅し、悔しかったのだろうと思いました。
だから、そんな認知症の人の思いと共に、ゆっくり、のんびり、出来なくなった事は諦めながら
出来る能力の残った部分をしっかりと応援し、支えていく忍耐が必要となります。
そのような意味を込めて、認知症に関するブログにこのネーミングをパクリました。
十返舎一九さん、あなたの著書のタイトルをパクりました!ごめんなさい!
先日、久しぶりに送迎に加わった。
その時、運転しながら、同乗していたうちのデイサービス利用者の婆さんたちと会話した。
なぜこのような話題になったのかは、すでに覚えていないけど
「あの世からのお迎え」について話していた時、
同乗していた3人の婆さん全員が言うには
「いつでも迎えに来てもらったら、ありがたく行くよ!」と。
それで、僕は「え~っつ、それでは明日!って言われたら、どうするの?」と質問してみた。
すると、3人が三人とも「それは、早すぎるわさ!」
「そんなもん、一日でも長生きせんならん!」と言って大笑いするのです。
さっきは、いつでもお迎えには応じると言っていたにも関わらず
実際にお迎えが来たならお断りする。
これが年寄りの本音なんですね!と思いながら
自分自身も同じように心の底では思っているのかもしれないなぁ~
テレビのCMじゃあないけど、「人は死ぬまで成長を続けている!」のかもね?!