『認知症道中膝栗毛」とは、私が十返舎一九作の「東海道中膝栗毛」からパクったタイトルです。
認知症の人と、ゆっくり、のんびり、共に歩む意味を含んでいます。
認知用の人との生活には、やってはいけない事があります。
①その人を馬鹿にしないこと。
何にも出来ないくせに・・・とか
②その人を叱らないこと。
意味わからない事ばかり言って、人の言うことを聞き入れてくれない!など
③その人を無視すること
結局、役に立たないからと、話に耳をかさない等
④意識的に孤立させるなど・・・
認知症の家族を抱えて普段どおりの生活を継続することは
ご家族にとっては、非常に難しく忍耐力のいることです。
自分の親が、それまでの威厳をなくし、憔悴しきっている姿は見るに忍びないことです。
しかし、私たちが思う以上に、本人は自分の何もできない姿に難とも表現できないやるせない気持ちであると思います。
私の父も、認知症となって、毎日、僕の顔をみると顔を歪めて『ちッ』と舌打ちをしてました。
息子を見ながら、自分の姿に幻滅し、悔しかったのだろうと思いました。
だから、そんな認知症の人の思いと共に、ゆっくり、のんびり、出来なくなった事は諦めながら
出来る能力の残った部分をしっかりと応援し、支えていく忍耐が必要となります。
そのような意味を込めて、認知症に関するブログにこのネーミングをパクリました。
十返舎一九さん、あなたの著書のタイトルをパクりました!ごめんなさい!
先日、久しぶりに送迎に加わった。
その時、運転しながら、同乗していたうちのデイサービス利用者の婆さんたちと会話した。
なぜこのような話題になったのかは、すでに覚えていないけど
「あの世からのお迎え」について話していた時、
同乗していた3人の婆さん全員が言うには
「いつでも迎えに来てもらったら、ありがたく行くよ!」と。
それで、僕は「え~っつ、それでは明日!って言われたら、どうするの?」と質問してみた。
すると、3人が三人とも「それは、早すぎるわさ!」
「そんなもん、一日でも長生きせんならん!」と言って大笑いするのです。
さっきは、いつでもお迎えには応じると言っていたにも関わらず
実際にお迎えが来たならお断りする。
これが年寄りの本音なんですね!と思いながら
自分自身も同じように心の底では思っているのかもしれないなぁ~
テレビのCMじゃあないけど、「人は死ぬまで成長を続けている!」のかもね?!
今、鈴鹿市の高齢者施策推進会議では、身寄りのない人の入院・入所に関するガイドラインを
完備するために話し合いを継続している。
人は歳を重ね、次第に医療の支援を必要とする状況になっていく。
想定外の救急搬送のケースもある。
その時に、家族が身近に生活する場合は、特段に問題は存在しないものの
家族や親族のいない、独居高齢者の場合は非常に複雑で難解な問題に直面することとなる。
入院の手続、医療行為への同意、経済的負担など
それも緊急性を要する時に煩雑な手続きを経ていく必要もあり、
これらの諸問題を抱えて、当人も安心して病院にかかれる状況ではないのが現実だ。
全ての人が、健康なうちにエンディングノート、リビングウイル等の意思表示を残してもらえれば
多少なりとも手続きは、その人の意向に沿った処置を行うことが出来る。
日本人として、この国で暮らすものとして、何とか自分の最期くらいは
自分の意思に従てケアしてもらえるよう、
出来れば、健康なうちに家族で余生の過ごし方でも話し合ってもらえればありがたい。
今日は、太陽の家デイサービスの利用者様の外出支援の日。
外出支援とは、当事業所の近隣にあるコーヒーショップまで
歩いて出向き、自分で 欲しいものを決めて、発注し、自分で清算する一連の行為を支援することです。
なかなか障害を抱えて気軽に喫茶店に行くこともできない人も多く
年に一度くらいは、このような外出支援も良いと考えての企画です。
新型コロナ蔓延前には実施していた支援ですが、このコロナ禍で3年ほど休止してました。
この度、本当に久しぶりに実施したのですが
皆さん、非常に喜ばれてみえました。
重複しますが、この企画の意図を再度ご説明します。
認知症があっても無くっても、この企画には
その人の意志をしっかりとまとめること、意思を伝える事。
オーダーの品が届くまでの時間を、どの様に共有できるか?
(他者とのかかわり方など)
自分で非日常の雰囲気とテイストを味わうこと。
持参した代さんの範囲内で生産できることと、自分でお金を払うこと。
つり銭を受け取って、自分でつり銭をしまうこと。
安全に歩いて、または移動することが出来ること。
皆さんは、この日の為に、ここ数か月、歩行訓練を実施して頂きました。
最後になりますが、この企画の趣旨をご理解いただき
場所の提供と個別清算を認めて頂いた喫茶店【シルビアコーヒー店】さんに感謝申し上げます。
そして、同行した職員さん、コーヒー一杯も飲まさず。ゴメンナサイ!
認知症も重度となると言葉が出てこなくなる「失語」
今まで出来ていた一般的な行動が出来なくなる「失行」
そして、人の顔やモノを認識できなくなる「失認」と言う障害が出現し始める。
認知症と診断されてから、どれくらいの年月で重度になってしまうのか?は
それぞれの人によって違うし、投薬の開始時期によっても違いは出る。
さて、これらの状態を客観的に考えてみると
一般的な普通の生活を送る上で、ご本人にとってはとても不便なことと思われる。
説明しようにも言葉が出てこない。思い出そうにも頭の中でグルグル回るだけで何も思い出さない。
だから、認知症の人は、自分の思いを正確に伝えることが出来ない。
伝えることが不得手となると、そこで自分の恥ずかしいところを悟られないためにも
作話が増える。要するに作り話であり、自分が思い描いてきた素晴らしい話が口からこぼれる。
失行に関して言えば、調理することが出来なくなる。火にかけたお鍋に、次は何を入れて炒めるのか?が
分からなくなる。又は、パソコンで文章を書くことが出来たお爺ちゃんが、パソコンの立ち上げから戸惑うようになる。
失認として一番困るのが、子供の顔を忘れてしまうこと。
浴、グループホームの入居者のご家族が面会に来て、全く赤の他人と接するような母親の素振りに
娘さんや息子さんが嘆く。そんな場面に遭遇することがある。
結局、認知症も重度となると、その人の若い、良い時代の記憶に満たされ
其のころの記憶だけが生き残っている状態であり、今の現実には受入れ難い状態なんである。
自分の親が、子供の顔を忘れた!と嘆くお気持ちは充分に理解できる。
でも、逆に古い、昔の記憶の中でゆったりと生きているのであれば
それはそれなりにお幸せなのかもしれない。と僕は思っている。
いずれにせよ、認知症の人の様々な障害に対して、周囲の人の理解と配慮があれば
認知症を患っていても、不足部分を補いながら生活を継続する事は可能です。
僕は、それが我々の仕事と考えている。