人間の人生ってなんだと考えさせられる事故が報道された。60年前に生まれた子供の取り違え事故である。私と同じ昭和28年に生まれた男性が、まったく違う環境の元、何も知らず60年間生活してきた。
この報道を知った時に、自分と同じだけの時間を過ごしてきた人が、本来の家庭ではない家に暮らし、その環境に片方は経済的にも精神的にもゆとりをもって育てられ、もう片方は困窮した経済力と満足な教育も受けられない家庭環境に育てられた人生。
60年という年月は、長いようでいて過ぎ去るスピードは早い。60歳となって思うことは、もっとしっかりと自分の人生を考えて努力を積んでくれば良かったという反省と、そんな貴重な学びを得た時にはすでに体力と知力もピークを越え、今後は低下していく一方に成り果ててしまっている。後悔先に立たずと言ってもよいほど、人生てのは果敢なく侘しいものである。
これから人生をやり直すには、年齢を重ねすぎたというのが実感である。60歳になって、今までの自分の人生は間違っていました!と言われて、本当ならば別の人生を送っていたかもしれない。と言われても困惑以外のなにものでもない。
今、私の両親は赤の他人で、本当の両親、家族は全く縁もゆかりもない人と告げられても困ってしまう。おまけに本来の家庭に育っていれば、今の自分の得る金品よりも多く、経済的にも豊かな生活があった!と分かればどうする?逆に、今の自分の生活レベルを全て破棄して、貧困生活に強制的に連れ戻されるとすればどうなる?
たった一回のミスで、人そのものの全てがこれほども簡単に変わってしまう事故。取り違えした病院には、とても大きな罪があるけれど、それを償う金額が3700万円。これは高いのか安いのか?それは当事者でなければ判断できないと思う。とても辛い話であり、辛い人生を歩かされる運命の悪戯で済ましてしまっていいのかと思ってしまった。
今日は同じ市内にある「グループホーム陽だまり長屋」さんのご厚意で芋ほりをさせて頂きました。本来だと太陽の家の入居者さんをお連れして一緒に収穫させてもらうと良かったのですが、ここ数日の寒さに風邪を恐れて、普段から仕事しないので有名な余った職員(笑)で陽だまり長屋さんの畑にお邪魔しました。
こちらの施設とのつながりは、当太陽の家の居宅介護支援事業所のつながりと、認知症グループホームの協議会(三重県地域密着型サービス協議会)の仲間と言う訳で、普段からお互い協力しあっている関係です。
太陽の家のために、特別にひとうね分の芋を残しておいていただき、おまけに芋の蔦はすべて刈り取られて、本当に助かりました。芋の蔦から切ることを想定して、大型の鎌も持参し、鍬やスコップをもって4人で訪問したのですが、先にも述べたように、土を掘って芋を収穫するだけ。と準備万端整えて頂いており、こちらとしては非常に有り難く、楽ちんな収穫でした。
ものの20分程度で芋を掘り起し、全ての芋を頂戴してきたのですが。太陽の家に帰るなり、さっそく手分けして芋を洗い、一部の芋を蒸かして”きんこいも”を作るためにスライスして天日干しにしました。数日後には、甘く独特の粘りをもったきんこいもの出来上がりを、利用者の皆さんと一緒に頬張る予定です。
まったく別の事業所であるグループホーム同士ではあるのですが、お互いが共に出来ることをする友好な関係作りは、とてもありがたく感謝の気持ちでいっぱいになるのです。うちには畑が無いので、こういう風に色々な事業所さんに季節の農産物などをおすそ分けいただき、非常に助かっているのです。
ネット上で申し訳ないのですが、陽だまり長屋さんに心より感謝申し上げます。ありがとうございました。
ちょっと古い写真だけど、サイクリング途中で歩道橋の上で休憩をとった時のスナップがでてきた。あの時、まだ、それほど使われていそうにない真新しい歩道橋を通り過ぎ、何気なく自転車をとめて階段を上がってみた。
この歩道橋は鈴鹿から津市内までぬけるバイパス上にかけられた歩道橋であるが、完成してから1年ほどが経過している。上に上がってみて、まだまだきれいな橋の上部をみて、いったい誰が?何人の人が行き来するための歩道橋だろう?という疑問がわいてきた。確かに、このバイパスは交通量も多く、道路幅も広い。しかし、山間部を突き抜けるように作られたバイパス。歩道橋の階段に到達するまでに、何段もの階段と坂道を登らなくてはいけない。
小学生の子供くらい元気組でなければ、このような歩道橋を登り、道を渡り、長い階段を下りなければ反対側に到達しない。こんなモノが何で日本の道路には必要なの?
僕は、車を優先する社会が、とてもつもなく無駄な建造物をそこいらに作っているような気がする。橋を使わなくても、車が歩行者を優先的に守ることができる社会であれば、こんなモノは必要ないではないか?
歩道橋の上から下を通りすぎる車を見ていたら、くわえタバコで片手でハンドルを抑えビュンビュン飛ばしていく若い女性ドライバーがいた。ヨーロッパでは考えられない運転する姿勢である。車を移動手段ではなく動く応接間のようにくつろぎながら運転する人が、日本には多すぎるように思う。
空。小春日和。絶好の自転車日和。
鈴鹿川の河口、こんな立派な道路だけど一般車両は通行できないのですよ!もちろん、歩行者や自転車は入ることはできるのですが、この堤防道路へのアプローチ道はチェーンが張られ、この舗装路も一部区間だけで、この先は未舗装であり、挙句の果てに電車の線路などで一貫して通行が不可能な状態です。
何度も言うように、我々のようなロードタイプの自転車が車を気にせず走行できる道路ってのは、私の住む地域の近隣には少ないのが現実です。河川敷の側道にしても、雑草や笹薮などによって、スムーズな走行はできないし夏場はマムシが出没して、とても危険な場所でもあります。
まあ、川沿いだから蛇が出没することは仕方ないとしても、スムーズに且つ安全に自転車を走行させることのできる環境は三重県にはないのかもしれませんね。この河川管理用の道路も、もっと有効に市民が活用できるような配慮と采配を行政が実践してくれれば、市民の余暇の過ごし方も変化していくのではないでしょうか?
最後に、この日曜日、いろいろなイベントが各地で開催されていた小春日和の最高の天候の日の空をワイドショットで撮影してみました。薄らと残る飛行機雲が確認できるくらいで、風もなく日の当たる場所ではとても温かな一日でした。
先日、うちのサービスを利用する婆さんが
「草引きが得意なのに、自宅はコンクリートで固められてしまい草も生えない!」と呟いていた。
そっか!最近の住宅は車を止めるカーポートなるものから玄関までコンクリートや石で固められて、見た目格好よく、モダンなデザインの家が多いよな~・・・花壇を持っているにしろ、それ程大きくない植え込みには、造園業者がしっかりと計算して植栽を選定して、これまた見た目格好いい。夜間などほんのりと照明に照らし出された植栽に、これ以上素人の出る幕はないほどの完璧さ。
住宅はどんどんハイテク化し、キッチンや水回りなどオール電化。部屋の間仕切りには段差なく、全てフラット仕様で昔のように窓の建付けが悪く隙間風が吹き込むような近代建築には見当たらなくなってきたわけで、そんな住宅は外構工事までパッケージで購入するわけだから、当然庭に草が生えるだけの余地すら残さない。
婆さんや爺さんの仕事を奪っているのは、こういった新しい感性の世代文化みたいなものも大きく影響を及ぼしているのだ!と考えさせられた言葉である。
この数字は介護に携わる人ならわかるはず。
そうです。80歳にして20本の自分の歯を維持しよう!って歯の健康を目標とするスローガンである。お蔭様で僕はこの歳になっても全て自分の歯であって、左上奥歯が少しだけ歯肉炎っぽい。本当にありがたい話であって、このまま歳を重ねても自分の歯を維持したいと願ってやまないのである。
さて、そんな僕も、先ほど書いたように左上奥歯が時々痛むときがある。キリキリ痛むのではなく、何となく常にシクシク痛むって感じである。歯科医に確認してもらったが、特に異常はない。しかし、少しだけ歯周ポケットにプラークが残っていると言う。プラークとは、食事の食べかす等が固まったもの、歯垢ともいう。もちろん三度の食事の後には必ず歯磨きを実践してはいるが、なんせ奥歯に歯ブラシが届きにくい。磨いたつもりでも細かな場所に歯垢を残してしまうようである。
そこで、先日、歯科医の勧めで電動歯ブラシを購入してみた。それも一番高額と言われるものをネット通販で購入した。ネット上での購入で市販価格より3000円は安く購入できたから、まあ良い出来かもしれない。発注二日後には荷物が届き、さっそくその日からは毎回の歯磨きを電動歯ブラシで実施。
この電動歯ブラシを使うようになってから1週間が経過する。それまでの歯ブラシと比較してみると歯磨き後の歯の表面のツルツル感がまったく違う。歯磨きを終えて舌触りがまったく違うのに驚いた。そして、それまで取れなかったタバコのヤニが、とてもきれいに取れていく。歯と歯の隙間も当然、とてもきれいになっていく。それでいて、磨き過ぎのような知覚過敏も軽減されている。
まったく嘘のようだが、この電動歯ブラシ。想像以上に優れものである。お小遣いから購入するには、少し高額かもしれないが、歯を悪くして歯科医にかかることを思えば安いものである。ただ難点を言えば、電動歯ブラシのブラシ部分を交換するにあたって、これまた高額である点。そして、歯磨き中の唾液や泡の飛び散りがすごい。よっぽど上手に磨かないと洗面所の鏡には、悲惨なほど白い点々を見ることになるかも・・・
こうやってブログに今、欲しい物を公開しておくとクリスマスの朝起きると玄関先に、まさしく写真のモノが届いていたりして・・・なんて甘いか・・・?!
最近、自転車にとっぷりとはまり込んでしまって、車よりも何よりも自転車が欲しい。一台カーボンフレームの自転車を持っているにも関わらず、もう一台欲しい。体一つでなぜ二台も自転車がいるの?と聞かれても、それでもこの一台が欲しい。
自転車を趣味とするようになって、いろいろな場面で自転車に目が行くようになる。自転車そのものだけではなく自転車を使った競技にも興味がわいてくる。次第に今の最先端を行くプロチームやロードバイクなど、トップクラスの素材やファッションに興味がわいてくる。自転車を始めたころは、あのボディラインにぴったりの専用のユニフォームに中年太りの自分の体をさらけ出すことに、むちゃくちゃ抵抗があったにもかかわらず今では、まさしく!って恰好で自転車を転がしている。
人間ってのは逆境に強いっていうのか、図々しくなれるいい加減な鈍感力ってのか分からないが、本当に勝手なものである。さて、このバイクの何が優れているか・・・?まだ乗ったことが無いので良く分からないが、その道の専門書に掛かれている評価はかなり高い。漕ぎ出しのスムーズさ、40Kmに達するまでのスピード感、荒れた路面の衝撃の吸収力など、今までのバイクには無い乗りやすいものらしい。ロードレースの二年連続チャンピオンを誇るチームSKYが採用している、フルカーボンフレーム。イタリア製で自分流のカラーリングを発注できるらしい。
このバイク熱、意外と長続きしている。冬になったら醒めるだろうと予測されていたが、今のところ真冬となっても続けていく意欲でいっぱいである。ただし、真冬の僕の自転車を漕いでいるイメージは、高級なプロ仕様のロードレーサーにまたがるミシェリンのアイドル・キャラクター(ビバンダム君)みたいなものかもしれない・・・
この話は一度紹介したことがあるのか?すでに過去の記憶は忘れてしまった話である。それは、僕が今の自宅を建てる時に住んでいた仮住まいの話である。
新しく家を建てるにつき一年ほど隣町にある住宅街の一軒家を借りて住んだことがある。小さな川沿いに建つその家は、二階建て住宅でダイニングキッチンを含め5部屋を持つ和風建築であった。
玄関前には車二台が余裕で駐車できるスペースがあり、自転車を入れても余裕のスペースを誇る倉庫付住宅で、周りは一軒家が立ち並ぶ住宅街の中。縦長の敷地の真横の隣地には敷地いっぱいまでスレートぶきの作業小屋.
その借家の裏窓を開けると、鼻先に隣の作業小屋の壁と言った具合で隣近所がとても近く建物で密集している状態である。本当に土地を有効に活用している(?)ような建蔽率の高い住宅の中であった。
川沿いの家は湿気を多く入れこんでしまうので敬遠されがちだが、その借家も同様の問題を抱えており、締め切った部屋はかび臭い特有の匂いが常に漂っており、天気の良い日に窓を全開にしておいても甲斐なく、やはり夜になるとカビ臭くって息が詰まる思いだった。それでも住んでみれば都で、日が経つにつれ生活に慣れ始めていた。
そんなある夜、夕食時の晩酌でほろ酔い加減で床についた僕は、知らない間に眠りの淵をふわふわと幽体離脱したように意識がもうろうとしていく中突如、大きなクシャミとブッ~!と強烈なオナラの音に目覚めてしまった。そして男の人が「さっぶ!もう寝よ!」と呟く声が聞こえてきた。それ程深夜ではなかったが、夜遅くまで夜なべをしている隣の住人が、あまりの肌寒さにクシャミをし、おまけに大型台風並みの元気の良いオナラをこいた。そんな瞬間の音だった。 布団の中でもうろうとする意識の中で、僕は必死で笑いをこらえたことを外の空気が寒くなる今頃になると、あの夜の出来事を鮮明に思い出す。
日本の住宅事情と言うより、日本の社会は隣近所が色々な意味で絡み合って、社会を構成している。そこには、いろいろと複雑な事情もあれば、環境の違う者同士が薄く、真近な壁に囲まれて生活している。音も匂いも、それぞれの生活の一部が漏れてくる社会は、それなりに個人情報の扱いに神経質にならずとも生活できた。醤油を借りに隣の台所を訪ねたり、急な雨に隣の洗濯物も取り入れてあげたり、と特に問題もなくお互いが共存する社会があった。
日本の国土は100年前も今も、それほど大きな違いもないまま狭い領土に多くの国民が住んでいる。ひしめき合うがごとく生活している住人の意識が個別化し、自分自身のパーソナリティを主張するにつれ人間関係が薄れていく。
その反面、年の人口は増え続け、ますます高密度の生活空間に多くの人間が住む社会。ちょっと昔を思い出して、隣のオナラも何となく笑って許せる心にゆとりをもって生活できないものか?と思ってしまう。
http://www.youtube.com/watch?v=WfN8vm9HFIs&feature=player_embedded
ニュージーランド航空の機内セイフティービデオ。最近、続々と個々の航空会社が新しいスタイルの機内セイフティービデオをアップしている中、このニュージーランド航空のものは、出演者全員が高齢者といったバージョンを作成したようだ。海外の高齢者住宅に生活する爺さん婆さんを中心に、オーソドックスな機内説明をビデオ化している。シートベルト着用と脱着方法、酸素マスクのつけ方や救命胴衣の扱いなど、内容はいたってオーソドックスではあるが、そのビデオに登場するのは、全てが高齢者。
高齢者を使ったビデオ制作の企画も面白いが、ビデオ撮影の場所が高齢者集合住宅または日本で言う高齢者専用住宅で撮影されている。もちろん撮影に使うぐらいだから高級な高専賃だろうけど、さすがにアメリカ、スケールがでかい。興味ある方は、上にアドレスを張り付けたので一度閲覧してみてください。
再放送のトンイを待ち望んでテレビをつけ、見るような見ないような気持の入らない状態でニュース番組を観ていた。その重い番組とは「いのちの花」と言う殺処分された犬や猫の骨を粉にし土に混ぜ、そこに花を植えて別の命を育てる女子学生の話であった。
一年間に殺処分される犬や猫の数の多さに驚き、その悲惨な末路に悲しく、人間のエゴの醜さに腹立たしくやりきれない気持ちで番組をみた。年間に殺処分される犬や猫の数は14万とか17万匹らしい。うかつにも僕はその数が全国で処分される数なのか、その地域の数なのかを聞き逃してしまった。いずれにせよ、とてつもなく多い。
先日のネットニュースでは、高校生の男子生徒が里親として譲り受けた子猫4匹を自分のボウガンで射殺していたそうだ。
10年前にミニチュアダックスフントが流行り、市内のショッピングセンターのペット売り場では、連日多くのお客さんが着飾ったダックスを連れて、お買い物に来ていた時があった。今、その頃のペットは何処に行ったんだろう?
ある知り合いが言った。飽きたら保健所さ!と。僕は、その言葉を聞いて、非常に腹が立った。無責任な人間のおもちゃとして飼われたペットは、ブームが過ぎれば不要なモノになってしまうのか!
どれほどの人が今日、僕が見た番組を観ていたろう?ペットを命ある生き物としてでなくファッションの一部としか考えない者が、「命」をもてあそぶ。この世の中、どこまで無慈悲になれるのだろう・・・?
番組の中で「いのちの花」の活動のきっかけとなった女子学生の言葉「私たちと同じ命」が僕の心に焼きついた。