最近目立ってニュースとなる一般人による悪ふざけ行為について、日本人の一般常識の変化に驚かされることが多い。コンビニスタッフのアイスクリームストッカーに寝そべり、その写真をツイッターに投稿、同じように若者のグループ客の一人が、コンビニスタッフの目を盗んで同じ行為を行ったり、最近では全国チェーン展開中のレストランでも、似たような悪ふざけ写真をツイッターに投稿等。
共に現代人の目立ちたがり行為の一環のように報道されているが、さらに少し時期をさかのぼれば、関西の大学生がテーマパークのアトラクションでの常識外の行動を行い、それらのアトラクションを運休させる結果となったり・・・と、その行為は底知らずで、まったく常識の範疇を越えて、あきれてものが言えない状況である。
以前、認知症指導者研修において「倫理と道徳」について自分なりの定義を書いたことがある。僕の考える倫理とは社会的道徳の規範となるものが倫理であり、倫理は同時に自らが律することで維持されていることから、人の目に触れないところにおいては倫理は簡単に犯される可能性も秘めている。と書いたことがある。要するに他人が見ていないところでは、タバコやゴミのポイ捨てを行うことが、それに相当すると考えている。
この定義を今の若い者の倫理観に当てはめてみると、ツイッターと言うある意味、公然と不特定多数の人の目に触れることを前提としてなされる行為は、倫理観の問題ではないことは明白である。倫理観の欠如というより、もとより倫理観すら持ち合わせていない人々の数の方が大多数を占める時代となったのかもしれない。
我々の介護の業界においても、サービス利用者を笑いのネタにし、ツイッターや動画サイトに投稿し、自分と同じ笑いを他者に求めて、(言うなれば「共犯者」)を作ることで、自分の行為を正当化させよううとするケースが明るみに出たことがある。赤信号、みんなで渡れば怖くない的感覚が、全てにおいてまかり通り、そこに人間の尊厳や人としての不可侵の権利を踏みにじる行為が、いとも簡単に行われてしまう現代。
教育が悪いのか、家庭環境が悪いのか?それは分からないが、この時勢、介護職員となっていく若者たちには、古臭いかもしれないが人とつぃての一般常識をもう一度考える機会を与えていかなければいけない。と思う。
僕のパソコンのホームは Yahooに設定されているのだが、このブラウザーには、その日の星座の運勢が表示されている。同じように別のプロバイダーのブラウザーを見ると、そこにも星座の運勢が表示されている。
この二つの示す運勢が、まったく異なる運勢を示していることに、いつも惑わされる。惑わされるくらいなら見なけりゃいいのに・・・と思うが、ついつい興味があってみてしまう。そして、結果として「アホくさ!」と言う気分になって、あてにもしないわけだが。しかし、占いなんて、昔から「当たるもハッケ、当たらないもハッケ!」と言われるくらい、いい加減なものである。
しかし、この運勢を信じる人にとっては、その日の人生の指針となり得る「運勢判断」。占い師の技量の問題と言うより、それらに縋らなければいけない自分自身の精神状況を考慮して、そんなものを笑って一喝できる鈍感力を養いたいものだ!