最近の雑誌やテレビなどで良く目にする「アラフォー」や「美魔女」とか言われ妙齢でありながら、何かと美しさが際立つ年代の女性たちが取り上げられている。僕も40歳をとうの昔に超えてきた世代だが、今の時代に40歳を越えると言うことは、それなりに高いハードルが設定されているような気がする。つまり、40歳として世間一般に出すためには、最低限度ここまでは満たしておいてくださいな!と言う基準点が多くあると言う事です。 例えば、髪の長さはこれくらい。ウエーブはこの程度までは許されるけど、これ以上のウエーブはブーブーですよ!とかね・・・・・!?
人間は何歳になっても若さと美貌を追求し続けるようで、それは女性に限らず男性にも同様の事が追求されてきている。ただ、男性の場合、女性に比べると若さや美しさを追求する人の割合が低い事は今でも変わらない。男性の方が、年齢を増すごとに、そんな年齢にこだわる事に興味を示さなくなる人が多いのは事実である。しかし、40歳という年齢のポイントに限らず、常に自分の置かれている社会的立場、地位、ポジションなどに注意を払いながら生活する事の重要性を高齢者介護を実践する者として認識している。ADL=QOLは同じことなんだ! 日常生活に支障がきたされれば生活自体の質が低下する。介護職員には「教養」が必要とする理論は、僕のブログの中にも書いたが、人生を素晴らしいものにするには、そこにも「教養」が必要なんだと思う。 じゃあ、人生のターニングポイントって、そんなにも難しい事であり、普通の人では成し得ないものなんだろうか?
僕は決してそのような特異性を持って考えてはいないが、しかし、自分自身の人生を大切に考え、努力してきた人にとっては、それまでの自分自身の方向性を変換するためのポイントであり、それだけ中途半端には軽視できないと考えている。子供だった自分自身が、色々と学びながらここまで成長してきた証として、少しだけ自分の生きざまを変えてみよう。とすること。それがターニングポイントとして重要なのであると思う。
先日、同盟のタイトルでブログを書こうとして断念してしまった。断念した理由は、書いているうちに次第しだいと話がつまらなくなり、読む事が辛くなるような内容だったからである。そそくさと、そのブログを削除して、その後、このタイトルのブログは公表されなかった。今日、ブログ話題を考えていて、やはりこのタイトルを完成させようと思い直してのブログである。
さて、たわごととは、非常にアンニュイな表現であって、良くも悪くも心のこもらない嘘八百的言葉のように解釈されそうだが、実際、たわごとだから「嘘」とまでは行かなくとも「希望的観測」といった程度で読んでもらえれば良いのかな・・・・・?と思って書いている。 ここで僕が今、やりたいことを書いてみよう。 まず、新緑の美しい御在所岳に登りたい。簡単なおにぎり弁当でも持って中道を登ってみるか?と時々考えている。天気の良い日の御在所は最高だ。登山道の所々からは四日市市内、伊勢湾、知多半島に至るまで、水平線までしっかりと見渡す事が出来る。そんな素晴らしいパノラマを見ながら、鶯の鳴き声をBGMに持参したおにぎりをほお張りたい。上等のおにぎりには、たくあん一枚が一番よく似合う。沢庵の一切れを片手に、おにぎりをもう一方の手に、その両方を交互に食べる。これこそ至極の喜びである。もちろん、他におかずを持って行っても良いが、僕は沢庵か梅干しのいずれかが好きだ。ご飯を食べてエネルギーを補充したら、左手にロープウエイのケーブルを眺めながら、頂上を目指す。頂上までは、それ程の時間をかけなくても登り切ってしまえる。早い人で2時間程度。僕のような亀でもトータル4時間もあれば充分である。
頂上に登って、ロープウエイ客と混じって一息入れる。流石に歩いて1000メートルを超える高さまで登ると、結構汗をかく。持参したTシャツに着替えて、売店で甘酒でも買って飲むのも体が温まる。夏の盛りでも、頂上付近は結構気温が低い。余分な衣類でもなければ風邪をひきかねない。そして、帰り道に必要となる水分を頂上で補給して、次は下山の準備。バックパックをしっかりと中身を固定し、靴ひもを締めなおし、ゆっくりと下山する。山道は登る時よりも降りる時の方が膝関節に負荷がかかる。杖があれば、よりベター。無くとも、膝をかばうように石段から飛び降りて歩く方法を避けるようにし、出来る限り膝に優しく歩く。それでも、下山にかかる時間は登りよりも早く感じる。
登山を終え、汗で濡れた体を軽くふきとり、そのまま近くの温泉に入る。御在所近辺には旅館に宿泊しなくても温泉だけの利用も受け入れてくれるところが多い。登山する前に、風呂の目星をつけておくと後で楽かも。こんな、一日山の中の遊びもやってみたい。さらに、たわごとは発展して、海外旅行まで・・・・数日の休みをとってバリに行きたい。紺碧の海を眺めながら、高級リゾートホテルのプールサイドでチェアーに横たわりながら、ゆっくりと本を読んで過ごしたい。咽が乾いたらウエイターに冷たいトロピカルドリンクを注文し、空を真っ赤に染めた夕日が沈んだ後は、キャンドルの明かりの灯るオーシャンサイドのレストランのテーブルでシーフードを堪能したい。ソムリエお勧めのワインを舐めながら、ロブスター料理なんて・・・・最高じゃないか!
食事がすんだら、昼間借りておいたバイクに乗って、民族舞踊のショウにでも出かけたい。恰好を気にせず、ビーチサンダルと短パンとTシャツ姿で、ヘルメットもかぶらず熱帯の夜の街を颯爽と走りながら、通りに漂う屋台の匂いを体中で受け止めながら・・・・。古くから伝わる舞踊に堪能したら、後はホテルに帰ってシャワーを浴びて寝るだけ。シャワーを浴びながら、お湯が体に少ししみる・・・「今日は、ちょっと日焼けしたかな・・・・?」と一人呟き、真っ白なシーツの間に滑り込むように体を包ませる。
いやあ、最高の時間だ!こんな生活に憧れながら、実際の旅行は、せっかく来たのだから、勿体ないからと時間の許す限りのショッピングと見物。日本人特有の時間の過ごし方。また旅行の仕方。本当ならせっかく来たのだから、のんびりしなけりゃ!と言うのが欧米風。こんな欧米風の旅行を死ぬまでに一度は体験してみたい。
前のブログでも書いたように、日本に、いや世界に原子力発電は必要か、否か?と言う課題については、なかなか結論を見いだせない大きな問題であると思う。しかし、昨日からニュースでも取り上げられているようにソフトバンクの発案のように太陽光発電を各自治体と共同事業として全国展開すれば、その発電量は原発に匹敵するという試算が成り立つようである。もしも、それが可能であり、事業予算的にも数千億の規模で設置できるのであれば、これほど素晴らしい代替案は無いのではないか?と思う。福島の事故の賠償額から考えても、かなり金額も少なく太陽光パネルを設置していける様である。
フランス政府の一押しの新型原子力発電設備は防御壁が二重構造となり、例え飛行機の体当たりあったとしても、原子炉への被害は食い止められる程屈強な代物らしい。しかし、この原子炉の製造コストが、今までの一般的な原子炉よりも高額らしく世界に普及させるには、価格の面で競争力に欠けるらしい。
原発反対派の自分からすれば、そこまで費用をつぎ込んで、100%の安全が保障されない原発に傾倒するよりも、やはり自然エネルギーへ世界全体がシフトする方が賢明ではないか?!目に見えない放射線におびえながら、窓もない閉鎖空間に住み続ける不幸よりも、例え電気が不足しがちで、多少の苦労と不便を感じながらも、もう一度アナログの生活に甘んじるのも良いのではないかと考えている。夏は縁側に打ち水、すだれに蚊帳、蚊取り線香・・・・一匹の蚊も室内に入れない「虫コナーズ」を四方八方に置いて、空気の入れ替えもままならない。そんな生活って、本当に幸せなのかと思うのである。
タコ部屋と言っても、海の中のタコの話では無い。(そんなこたア言わなくっても分かるか・・・・!笑) また機会あって4人の男性と一緒の部屋に寝泊まりする機会に遭遇した自分であるが、こんな貴重な体験はめったに味わえるものではない。もしや、皆さんは、刑務所に入れられた私を想像したのではないでしょうね・・・・?刑務所では無いのですが、まあ、それに近いかもしれない。兎に角、四人が一緒に人部屋に暮らすと言う事は、色々と困った問題が生じてくる。日常生活の中では特に問題は無い。ただ、一番の問題は夜間の就寝時間にある。ここまで書けば、賢明な私のブログを読んで頂ける諸兄にはピンと察する事が出来ると思いますが、「イビキ」の問題です。年齢に関係なく、大半の男性は夜間に大きな鼾をかく人が多い。私の同室の人、全てがいびきをかく。かく言う自分も恐らく大きな鼾をかくと思う。
四人が一斉に「よ~い、どん!」と寝床に入って、横になった途端に大いびきの奴が一番楽である。なにせ他人のイビキに邪魔されずに一人シャアシャアと眠りにつける。気の弱い私なんて、只でさえ寝床が変わり、枕が変わっただけで寝つきが悪い。おまけに必死になって目をつぶり、寝なけりゃ!と自分に暗示をかけながらも、周りのいびきは三重奏となって私の睡眠への導入を断ってしまう。何度も、何度も大きなため息をつきながら寝返りを打ち、少しでもいびきの響かない絶好のポジションを求めて枕の位置を変える。こうなってくると、最悪である。動けば動くほど目は冴え、自分の意識は遮断できずに頭の中をぐるぐる駆け巡るいびきの三重奏が際立ってくる。 寝付けないからと言って電気を付けてパソコンで遊ぶわけにもいかず、音楽を聞く事も出来ず、ただ静かに無抵抗を装うしか手は無いのである。
次に、オナラの処理である。他のオヤジ達は何の遠慮もなく、それも思いっきり「放屁」する。臭いこそ少ないものの、部屋の天井を揺るがすほどの大音量で放屁するオヤジ達は、その後に気分もスッキリ、また大きな鼾と寝言までくわえて、盛りだくさんのオンステージ。私だって下っ腹は膨張し、ガスを抜かなければと思いつつ、なかなか思いっきり良く放屁出来ない。同室の者たちは寝入っているのだからオナラの一発や二発、何てことないや!とは思うものの、やはり小市民の私には恥ずかしくてできない。だからと言って、今更、布団から這い出してトイレにまで行くのも面倒である。ここは腹を決めて放屁するしかない!と一念発起、下っ腹に力をこめて一発!「す~っ!。ぷす~っ!」と何とも情けない放屁であった。
またまた、原子力発電の是非が大きな話題となっている。今、現在フランスで開催されているサミットの場が、その話題の中心となって世界に発信されているのである。今日のNHKのニュースワッチ9でも取り上げられていたが、福井県の敦賀の原発を推進する市民等の意見を取材していたものの、推進派は、それなりに原発で生活を営む人達で、住民なかにも交付金等のメリットを言う人の多さに、ことさら驚いてしまったというのが、僕の感想である。
福島の原発でも、この震災に遭遇するまでは、原発の不安定性や危険性等は表ざたにされていなかった。日本中の国民の多くは、福島県にあれほどの原発が存在していた事すら、この事故が報道されるまで知らなかったと思う。そんな田舎町の福島も今となっては、世界に名を広めてしまった。そして、福島の原発界隈で暮らす人たちは、イブンの生まれ故郷を捨てなければいけない立場となってしまった。それもあの1000年に一度あるかと言うほどの大地震に端を発し、今なお、自分の家に立ち寄る事すら制限される身である。
NHKのニュース9で取材を受けた福井県の敦賀の原発推進派が言うには、原発が無くなると食っていけなくなる。安心、安全を徹底して共存する事こそが重要だ!と・・・・・しかし、福島の原発推進派だった人にしても、この福井の人々と同じ意見を持って、今まで原発を受け入れてきたはずである。しかし、そんな安全ははずの原発も壊れることもあり得る事を、今回初めて知ったと言う感想を持ッているのではないかと想像する。以前は、原発様さまであった地域住民も、いざ、自分の家から放射能汚染から身を守るためにも、自宅を捨てなければならなくなった。
僕にすれば、福井県の敦賀のひとびとが推進する原発。それこそ、正当性のバイアスが存在するのではないか?自分だけは原発に異常をきたしても死なない!という偏ったみかたである。皆が推進するから特に反対する理由もない。という群集心理に邪魔されて正論を見いだせない人々。
原子力発電を国を挙げて推進するフランス、アメリカ、日本と、先進諸国の考える理論には、必ず経済的なメリットが多いはずである。国民が裕福である為にも、国策として原子力を売りまくる。本当に原子力だけが、人々の生活を賄えれるのか?福井県で原発を相手に商売している人も、原発が無くなれば食っていけないのではなく、無くなっても食っていける「原発依存」から脱却する為の方法を考えるべきではないのか?それこそ、パラダイム・シフトが根底から必要となっているのではないか?
この言葉からスタートした昨日のブログは、何だか訳の分からない文章で、どうみても連携しない話題を無理やりに、澄んだ空気に例えてブログをかいた。よく読みなおしてみると、澄んだ空気とバイアスは、交わらないなあ・・・・と言う反省も感じている。まあ、でも広い意味で言えば、空気が澄んでいること、山が綺麗に見えること、バイアスという偏った正当な判断を阻害する考え方。空気中に沢山のゴミ(視界を阻害する因子)が浮遊している事をバイアスに准えれば理屈は通るのです。
さて、今日の澄んだ空気は、伊勢湾の対岸、知多半島までくっきりと描き出してます。文明社会となる前の日本では、晴れた日には、必ず今日と同じ光景が伊勢湾を挟んで知多と鈴鹿の両方から見えていたのでしょう。もちろん、その時代の事ですから、コンクリート製の建屋もない時代ですから、もっともっと緑も豊富で、水の色も澄んできれいだったことでしょう。
そんな時代に暮らす人々の社会は、今の社会と比べても、とても小さな世界だったのでしょうね。その地で生まれ、育って、その故郷から出ることも少なく、鈴鹿に暮らす人の大半は知多半島にすむ人々との交流も無かったのではないでしょうか?人生の平均寿命が40歳代の時代の話です。弱肉強食に近い時代背景もありますが、そこに暮ら事によるやりがいやニーズなどの量と質によって、人の生きる力に大きく影響を及ぼします。やはり活動範囲は、健康と長寿のバロメーターなのですね。
ここ数日の雨模様の後に見る鈴鹿山脈の青々とした若葉の美しい姿が非常に印象的だった。雨によって空中のゴミが洗い流されたのか、山肌を覆い尽くす若葉の一枚一枚までがみえるほど、とても近くに入道が岳を見ながら、車を運転していた。車でも入道が岳登山口まで30分の上はゆうにかかる距離であるにもかかわらず、歩いていけるような距離と錯覚しそうである。残念ながら、走行中でもあり、おまけにカメラを持っていなかったので、この美しい風景を写真に収めることができなかった事が悔やまれる。
この日の山の景色でも分かるように、私達の周りの環境と私達自身の行動には、心理的な思考回路が大きく影響を及ぼしている。「バイアス」という言葉があるが、今回の大震災の津波被害でも、このバイアスが大きく影響を及ぼしている。バイアスとは、その人の持つ先入観的、常識的な判断基準というか、例えば・・・災害時にも自分だけは死なないとか、大勢の人が一斉に走りだすと無意識に同じ方向へ走りだしてしまうとか、要するに冷静に客観的に物事を精査し、考え、判断する事が出来なくなる心理状態を言う。今回の津波災害でも、これほどの大きな津波が襲うとは考えられず、避難せず波にのまれたケースがそれである。たびたび、私達は生死を分ける事件事故に際し、「運」という言葉を使って生死の分かれ目を表現する事がある。これも言ってみれば、自分の中のバイアスとの戦いに左右された結果であると言えよう。
僕も時として、目先の苦痛に背を向けたくなる事は、度々経験しながら生きている。生きていると言う事は、当然のごとく「苦痛」の連続であり、決して楽な物では無い。介護を受けている高齢者が時として口にする。「早くお迎えに来てほしい!!」と言う言葉。その感情を測る時、とてもよくわかる気がするのは、僕に限った事では無いはずだ。高齢となり生きる目標もなく、一日を過ごすにも時間の経過がすこぶる遅く、特に夜間の暗闇は、それこそ一生明るくならないのではないかと思えるほど、長く暗く辛いものなんだろう。だから眠れない、眠っていられない。知らず知らずに、暗闇の部屋に明かりをともし、それでも気分は晴れず、ついつい昼間のような活動をすることで、自分の不安な感情を落ち着かせようとするのではないだろうか?認知症の高齢者に多く見受けられる、昼夜逆転現象の一部には、このような心理の働きが関与しているようである。
さて、バイアスの話が、脱線したようだが、このブログのタイトルにも書いたように人間の行動や感情の全ては、考え方次第という事が言いたいのです。もちろん、これは自分自身にも同時に言い聞かせているつもりだが、特に高齢者介護を行う介護職員の皆さんには、高齢者と言えど、認知症を患っていても、痛みや恐怖、不安、寂しさは感じている。同時に、介護する者にも同様の感情の波は存在する。人間である以上、感情の波は大なり小なり常に起こっている。その感情の波の振幅を出来る限り安定させるために、何をすべきで、どのように考えるべきか、真剣に自分自身に問いかけながら間違った方向をチョイスしないように意識を働かさねばならない。先の「バイアス」についても同じ事が言える。災害にあっても自分だけは死なない!という感情は、そのまま「自分自身がバイアスに蹂躙されている状況である事を分かるべきなのである。」
流石に介護の現場では、男性の入り込む隙間は無い!ことを実感するような雑談であった。そこには、女性同士だからこそ話せる話題が存在すること、そして、その中に男性は加わる事の出来ない静かなる拒否権が存在していたように感じて、私もただ黙ってその場を後にしたと言う状況であった。
太陽の家の職員さん、男性スタッフは私とグループホームの管理者以外、送迎運転手さんを除けば他誰も居ない。要するに書生の城なのである。こと業務をこなす中に於いては、男性も女性も関係なく平等に作業を行っているが、ところがどっこい!アフターファイブともなると、やはり女性は強し! 厚顔の私でさえ入り込めない。そんな雰囲気をプンプンさせながら、彼女達の雑談は続いていた。話題?・・・・・それは、ここでは言えません。私には恥ずかしくって・・・・・!
しかし、このような書き方をしてしまえば、彼女達が非常にフシダラで卑猥な会話をしてたように邪推されるかもしれないので、彼女たちの信用を守るためにも、あえて説明するなら、胸まわりの筋肉の衰えからオッパイが垂れる!ということに関する話題でした。女性も20歳を過ぎると、色々な部分で体の変化を実感しつつ、変わりゆく自分の姿に驚愕とした思いと、あくなき美への願望というか、欲求は歳を追うごとに強くなっていくんだ!と実感した次第です。
ここ数日湿度が高く
蒸し暑い日が続いています。エアコンで爽やかな部屋が恋しい気分です。しかし、今年は日本中が省エネルギーモードであり、節電の機運が高く、無闇やたらとエアコンで除湿なんて出来そうな雰囲気では無いのが辛いですね。この程度の温度で、汗を抑えきれずエアコンのスイッチに手が伸びるのであれば、非国民!贅沢者!と言われそうな厳しい初夏となりました。しかし、今から節電意識を高めていかないと、夏本番から28度のエアコン設定温度には、誰もが耐えられない温度だと思うので、これも又仕方ないのかな・・・って思いながら汗をかきかき、暑さに耐えていました。
日が陰ってからは、外の温度も下がり、窓を開放しておけば意外と涼しさを感じるのですが、屋外の騒音がいつも以上に大きく響いてくるのが問題です。特に今日は土曜日と言うこともあり、太陽の家の裏の駐車場には夕方から若者たちが集まり、カーステレオの音量いっぱいに、結構騒々しい状況なのでした。このような連中を「ビート族」と言うのか、「ウーハー族」と言うのか知りませんが、超低音を響かせてアップテンポな音楽を流している。騒々しいというのも兎も角、窓を閉めた家の中にまで低音が響いてくるのですが、結構神経にイライラが起きてきそうな・・・・
若いから許されるかもしれませんが、長時間にわたる低音騒音には心身ともにまいってしまいますね!そろそろ、警察にお任せしないと若者の意識に任せていても無理かもしれませんね!
今日の献立は、グリルドポークにキウイのソースとバルサミコを添えた料理。そして、生野菜のバーニャカウーダの二品。
グリルドポークの材料
①豚肉のロース
②ゴールドキウイ・・・・・2個(一個はすりつぶす、もう一個は小口切り)
砂糖・・・・・・・・・・・・・・小さじ2杯
白ワイン・・・・・・・・・・・大さじ2杯
オリーブオイル・・・・・適量
ソースパン(小さめのお鍋にオリーブオイルを少量入れ、すりつぶしたキウイ、白ワイン、砂糖を入れて軽く沸騰させる。沸騰したら残りの小口切りにしたキウイを加えて馴染ませる。焦げないように火を止めて豚肉の準備が整うまで火から下ろす。豚肉のロースには塩コショウをし、温度をあげたグリルに入れて両面に薄らと焦げ目がつくまで火を通す。豚肉に程良く火が通ったら皿に盛り付ける。水洗いした後、充分水気を切ったベビーリーフをのせて、先ほど作りおきしたキウイのソースをかける。キウイソースのかかっていない皿の片側にバルサミコ酢を見た目も美しく垂らして出来上がり。
キウイの甘酸っぱさがロース肉の軽い塩味と合わさって、口当たりもさっぱりと美味しい一品の完了。
次にバーニャカウーダの作り方。
野菜は何でも良い。スティック状に野菜を切って冷水にいれて、シャキッと野菜を戻す。バーニャカウーダは、ニンニクを適当な大きさに切ったものを ひたひたにつかる程度の牛乳でゆがく。ニンニクがペースト状になる程度の軟らかさまで茹でてから取り出し、包丁の背ですりつぶす。小さめの鍋にオリーブオイルを入れ、先ほどのすりつぶしたニンニクとアンチョビを入れて、形が崩れる程度までかき混ぜながら熱を加える。最後に塩と胡椒で味を調えて出来上がり。
バーニャカウーダの材料
ニンニク・・・・・・5~6片
オリーブオイル・・・・30CC程度
アンチョビのオイル漬け・・・・5~6
塩コショウ・・・・・・・・適量
バーニャカウーダと一緒に食べる野菜・・・・・・今日は赤ピーマン、カリフラワー、キュウリ、セロリ、人参をスティック状にきる。野菜をバーニャカウーダのソースに浸して食べる。アンチョビーの生臭さもなく、ニンニクの特有の臭みも無く抵抗なく美味しく食べれるヘルシーな野菜サラダです。
今日の豚肉はグリルすることで、余分な油がぬけて、とてもさっぱりと食べることができます。一度お試しください。