太陽の家

  • ホーム
  • 太陽の家とは
  • 施設のご案内
  • サービスのご案内
  • ブログ-施設長の部屋

ブログ-施設長の部屋

2010/12/20
僕の笑える行動を紹介します。

人間には、無い様に思えても7つの癖があると言われるが、今回は僕の行動の中で笑える行動を紹介したい。

僕は音楽CDを買い集める収集癖がある。気に入った音楽CDはやたらと買ってしまう。もちろん購入したCDは何度も聞く。最近ではIpodに入れて何時も聞いている。しかし、問題は数が増えてきたCDの影に同じCD版がちらほら散見されるのである。以前買ったCDをまた別の日に購入してしまう。つまりダブって同じCDを購入してしまうのである。僕のCDコレクションは今では1000枚を超える枚数となり、それら保有するCDを全て覚えていない点が困った問題なのである。つい先日も、某ネット販売の本屋さんの視聴コーナーで聞いていたら、とても素晴らしいジャズCDを見つけたので、早速購入手続きを。わずか数日で希望したCDは手元に配送され、そのCDを専用の棚に整理しようとした瞬間。同じCDが存在することに気づくのである。これは、笑えると言うより悲しい不注意。

僕は好物は一番最後に食べる主義である。お弁当のおかずには、特にこの癖が顕著に現れる。卵焼きが一番好きな自分は、卵焼きは何が何でも一番最後なのである。ご飯が全部無くなって、最後に卵焼きだけを充分に味わいながら堪能するのである。たまに、嫌いで残していると勘違いされて食べる前に下げられるときがあるが、そんなときは最悪である。それこそ鳶に油揚げ!の状態となってしまう。大切だから、充分に目で味わい、味を想像して楽しんで、そして最後に卵の存在を口で感じる。

次に、財布の中の紙幣はずべて方向をそろえてしまっている。時として買い物先で非常に忙しいレジでは、つり銭を受け取って整理して,財布の中に収納できない場合がある。そんなときは、一旦はポケットに無造作に放り込むが、その後、しっかりと向きをそろえてしまいなおす。財布の中で諭吉は正面を向いていないとだめなのである。それと、お札は出来る限り新札を用意している。折り目がいぱいついている古いお札は嫌なのである。昔は、お札にアイロンをかけていたほどである。(これは、本当です!)

僕は飛行機が好きなので、上空にジェット機の音がすれば、かならず空を見上げる。(子供でも有るまいし・・・とは思うが、そこが何とも癖のようで・・・)

これでいて結構、ゲンをかつぐタイプ。試験を受けるなどの勝負事には服が決まっている。(勝負服ってのがあるわけで、今のところ、この勝負服は成功している。)

書き出したらきりが無いほど、また、トイレでの習慣など本当に沢山の異様な習慣をもっている。これもなくて七癖なのか?それとも奇天烈な習性なのか?まあ、でも笑って貰って何ぼ!ですから、これはこれで良し!とする。

2010/12/20
幅広い視野を目指した介護

毎月恒例である太陽の家職員さんの自己評価を読んでいて今日考えたことを書こう。一人の職員さんは太陽の家に就労するようになってまだ間もない新人職員さんといえる。そんな彼女が、自己評価と次月の目標に、利用者の方を介護してると周りが見えにくい。ハッと気づいて周りを見回すと危険な状況も数多く、また支援を必要とする場面も多かった。として、とても自己評価は辛口の点数がつけられていた。

 彼女のそんな評価を読ませてもらってから、じっくりと彼女の介護を観察させてもらった結果、あることに気づいた。それは、彼女はとてもまじめに利用者の世話をしている。何の問題も無いような、本当に細かなところまで配慮した介護を行っている。しかし、一人の人にかかりっきりとなって、その間、他の利用者の方には目が届いていない。まったく見えていないわけではないだろうが、他に目配りするだけの余裕はないように見える。

 その時、気づいたのは、彼女はあまりにも細かな点を含めて利用者のために動きすぎている点である。今日の例から言えば、大よそ10名ばかりの利用者の方々がテーブルに向かってカレンダー作りを行っている中で、まさこさんは視力に障害を抱えているために色付けがしにくい。そんな問題を抱えている。何度も何度も、自分の作っているカレンダーを目に近づけて、下絵の線を確認しようとしている。また、色鉛筆の色も見分けにくそうだ。その時、彼女は、そんなまさこさんを不憫に思ったのか、そばに寄り添い、いろいろと世話を焼き始めた。鉛筆の色と着色すべき箇所を言葉で説明しはじめたのである。

 僕が傍らで見てる限り、まさこさんは苦労はしてるけど、決して作業が苦しくって助けを求めているようには見受けられない。それよりも、必死で自分の目標に向け(この場合、カレンダー作りを不自由な視力にもかかわらず一生懸命完成させようとしていること)がんばっていたのではないか・・・?と思えるのである。つまりは、お年寄りの支援をしてるつもりが、出来ることまで介護側が支援しすぎているのである。常日頃より、うちの太陽の家の介護は「出来ることはやってもらう。出来ないことだけを手伝いながら、次は自分で出来るように支援する」を目指して努力している。しかし、作品の仕上がりを気にするあまり、何のために全ての工程があるのかを見失っている。カレンダー作りの目的は、ただ単に色をつけて壁に飾れる作品を作っているわけではない。作品を作る過程に、どれほど自分自身が目標を定め、仕上がりを想像し、計画的に色をつけることができるか?が一番大きな目的である。僕は、それと同時に、自分が誰の力も借りずに完成させたカレンダーというモノが、その人にとって大きな充実感を与えることが出来るか。そんな思いで、これらの作業を計画に入れている。

 僕は彼女を呼んで注意を促したのは、もう一歩、利用者から離れて見守ること。そうすることで、もっと広い視野で多くの利用者を見守り、必要なときに手を差し伸べることが可能となることを強調した。全体を見守っていると、個々の利用者の思いが徐々に伝わってくる気がする。必要としている支援が個々の利用者別に見えてくるような気がする。「そろそろ、色塗りに飽きてきたようだ」、「色鉛筆を床に落として芯が折れてしまった」「トイレに行きたくなってモジモジしてる」「周りの人の作品を気にしているから、そろそろ自分の作品は完成に近づいているな!」とか、そんな色々な事が見えてくるようになって、その可視化したニーズに対して、どのニーズを優先的に支援するか?ということを自分の中で整理して、判断していくべきではないだろうか?

 新人職員さんは、自分の介護技術に地震が無いために、兎に角、利用者の方への思いやりだけでもしっかりと行いたい。と其の方向ばかりに集中的に支援しようとする。結果、周りの利用者への注意は散漫となり事故が起きてしまう。全ては、小さな範囲でしかものを見れない。その結果である。複数の状況を人間の二個の目で見るには限界がある。トンボのような複眼を持っていない人間には、それらの事柄を出来るだけ幅広く見るためには、自分が一歩も二歩も下がったところから見守っていかなければいけない。サッカーのゴールキーパーはシュートを受ける時には、出来るだけ前に出ようとする。その理由は、前に出るほど、守備エリアが小さくなるからである。シュートをキックするプレーヤーを支点とするならば、其の地点に近づけば近づくほど守る側としては有利になる。介護の場合は、其の支点が多数に散らばっているのだから、逆に支点から遠ざかれば全体が見やすくなる。この原理なのである。

 ちょっと説明が分かりづらかった?まあ、一度、騙されたと思いながら、利用者から身を引いたところから見守りを実践してみれば、今までの自分自身の誤解が理解できるのではないだろうか?!

2010/12/16
運営推進会議

地域密着型サービスには運営推進会議と言われる地元住民を含んだ会議が二ヶ月毎に開催を義務付けられている。当然、太陽の家のグループホームも、この運営推進会議なるものを開催している。地元住民代表者、民生委員、地域包括から一名(鈴鹿亀山広域連合では行政の代表の変わりに地域包括が参加することとなっている)、家族の代表などを交えて、其の事業所の事業を広く地域に開かれた場所にするための会議を行っている。つまりは、閉鎖的な社会ゆえに地域社会に公開することで、事業所主体となりがちな運営を、公平性を維持しながら利用者主体の運営を守っていこうとするための会議である。確かに地域社会の住民や家族代表などを交えて事業運営を考える場を持つことは、社会福祉という公益性を高め、より意識の高い福祉の提供を見守り、利用者の人権を守るための監視的役割も持ち合わせており有意義なシステムではある。

 そのような運営推進会議が今日、太陽の家で開催された。おおよそ一時間の短時間ではあるが、近況報告やその他運営に関する様子を説明したりして、毎回の運営推進会議は終わっていく。この運営推進会議に関して、沢山の事業所の管理者から、どのような内容を話し合っているのか?とか回数を重ねるにつれ話題がなくなってきた!などの言葉を良く耳にする。実際、太陽の家でも、個々数回の運営推進会議の場における話題が減少傾向にある。減少傾向というより、業務上の個人情報の取り扱いにからんで運営推進会議の中で利用者の近況報告は行いがたい点を抱えている。僕がブログに丸子さんの状態を面白おかしく書けるのは、そこには人物が実在していないからである。認知症という事例を丸子さんの名前で書いているだけだから書けるのである。それが、個人として実在する人物の状況を家族でもない一般市民にお話しするには、少し紀が引けるというのが本音である。

 それと、もう一つの障害が、会議の進行が固いと非難される点である。地域を代表、家族を代表と言われる方々に出向いてもらっておりながら、世間話の延長では申し訳ない気がして仕方ない。その点で、なんとか身になる会議を行いたいあまり、会議の進行画家t区なると言う図式である。これについては、まだまだ自分自身が未熟であるために興味の沸く様な会議を行えない。という反省はある。この点で、なかなか苦労が耐えないのは事実である。いってみれば、一番の頭痛の種かもしれない。僕は、利用者の前で話すことは苦ではない。また、僕の加入している三重県地域密着型サービス協議会(旧三重県グループホーム協議会)の例会の進行や、其の全国大開の大ホールにおける司会進行もまったく苦にはしていない。しかし、地域住民や家族代表を前にすると何故か言葉が進まない。言うことなすことが「セールストーク」的に感じてしまうからである。僕はアホほど素直に洗いざらいの出来事を包み隠さず話している。しかし、それが言い方私大によっては逆作用になってしまう場面を考えてしまうから、余計に言葉を選んで話してしまう。

 まあ、この会議が糞面白くなく、非常に退屈な会議であることは重々承知している。今後の開催をどのように行うのか・・・・?そこが次年度の課題である。

2010/12/16
総合病院での検診

今日は朝から内科検診を受けている。昨晩の9以降絶飲食ののち予約された時間から腹部エコーを施行してもらった。事前予約されていたので、それ程の待ち時間を経験することなく、比較的スムーズに終了。健診結果を提出して次の診察に・・・というところで、文頭に書いたように『内科検診を受けている』と言う表現方法を詳しく説明しなければならない。

 実を言うと、この後に予定されているCT検査には、予約の時間がとれずにエコー検査から次の検査までに4時間ほどの余白が出来てしまったのである。僕を見てくれている総合病院院長も、エコー検査が終了したら一旦帰ってもいいよ!と言ってくださったこともあって、今は事務所のパソコンからの入力を行う事が出来ている。それも、うちの事業所から総合病院までの距離も近く、行き帰りの時間的なロスも少ないと言う事も大きなメリットであるかもしれない。

 この後、昼食をとって再度病院に出かけて昼からの診察に臨むわけだが、初のCT検査。と言うより、この検診自体、初の総合病院受診。あまりに大きすぎてスタッフの数も多く、患者数も多い中で、よくも患者の取り違え(もちろんあってはならない問題だが)が起こらないものだ!と感心してしまう。それと、多くの患者さん達(検診組も含めて)が待合で待っているわけだが、いろいろな思いで待っている事を考えると、多少気分は重くなる。中には重大な疾患を抱えて前途暗く不安な気持ちの方も多いかもしれない。。と言う点である。

 兎に角、病院は介護の現場と違って、病を治療するための施設ですから、それ以外の余分な物は排除されがちですが、そこには少なからず、待つ側の気持ちを和らげるような工夫がされている。病院に集まるボランティアの方々による、病院の案内やスタッフによるきめ細かな説明など、多くの人がふじゅうを感じなくて済むような配慮が施されている。この細かな心配りが、大勢の疾患に苦しむ人を少なからず救っているような気がした。

2010/12/15
Vs認知症高齢者

認知症って世間では非常に恐ろしい病気と考えられているようであるが、実際に「認知症」という病気はない。認知症とは原因疾患が別にあって、その影響を受けて起こりうる状態の事を言う。例えば、アルツハイマー型認知症の場合は、脳細胞の委縮によって起こりうる様々な症状として記憶に障害を受けたり、人格の変化などがそれである。認知症症状の一番に前述の記憶障害があげられるが、その記憶障害に関して今日、うちの居宅介護支援事業所のケアマネが面白い事を話してくれた。

 彼女は利用者のお宅に出向いては色々と相談援助を行う訳だが、その訪問の際に、やはり認知症特有の記憶障害から彼女が担当ケアマネジャーである事を忘れてしまって、毎回、訪問するたびに「はじめまして!」という会話からスタートするそうである。毎回毎回、訪問してもゼロからのスタートで全てがリセットされる状態と言うのは、我々第三者には笑える事象かもしれないが、当の本人(ケアマネ)にしてみれば大変な苦労なのだろう・・・・記憶が障害を受けると言う事は、逆に言えば世の中の嫌な出来事や嫌な思いをイレースする意味において、とても合理的ではある。だって、思い出したくもない事柄を覚えている我々は、その事だけでも胃が痛くなるような思いの時もあります。そんな不快な思いをしなくても済む。若いころから、そんな苦労をいっぱいしてきて、ようやく人生最後になって記憶が飛んでしまうことは、本来は幸せなことかもしれないと考えるのです。

 しかし、喜んでばかりはいられないのが、その当事者を抱える家族でしょう。なんせ家族の一員が直近の出来事や約束事を記憶できない状態は、家族としては非常にやりずらい。回数を重ねての説明と報告の繰り返しは、それだけでも多大なる労力である。何度も繰り返し説明する労力に家族全体が疲弊するのも当然である。

 我々を生み、育ててくれた両親が年と共に老いてゆき、物忘れが激しくなる。本人にとっても表現はせずとも秘かに不安や焦りを心に抱きながらの毎日は辛かろう!そう考えると、認知症高齢者を抱える家族また本人ともに辛い毎日を送らねばならない。しかし、もう一度よく考えてみれば、認知症となり記憶に障害を受けていたとしても、その状況を受け入れ納得する事で、家族や本人の受ける負担感も減少するはずである。つまりは、歳をとれば身体機能は低下するもの!記憶も定かではなくなるもの!という理解。それが普通であると言う理解。そう考えてみれば特に問題は感じなくて済むのではないか?!実際に我が身に降りかからねば分からない辛さではあるが、自分自身も認知症症状を見せる父を抱えての対応は、兎に角肯定的な日々を目指している。全てに対して否定はしない。まずは相手の言い分を聞き、そのあとに自分の意見を話せば理解する。もちろん、繰り返しの説明をする事は必要ではあるが、その繰り返しさえ小さな努力で苦にはならなくなる。

 認知症介護の中で一番重要な介護は、相手を理解する事。そのまま受容すること。決して昔の元気なころと比較しないこと。今の姿が年老いた両親の姿である事。自分も年老いた時には同じようになる事を考える事です。

 


2024年 4月
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930          
月別表示
最近の記事

  • 太陽の家 お気軽にお問い合わせください
    〒513-0808 三重県鈴鹿市西條町495-1
    TEL:059-383-8383 FAX:059-383-7938
  • インターネットからお問い合わせ
  • お電話でのお問い合わせ
059-383-8383
受付時間/9:00~18:00
閉じる  印刷する