昔、小学校にかよう頃、母親がハンカチと鼻紙を必ず持たせてくれた。僕の時代にはポケットティッシュなどと言う洒落た物は無い時代だったので、本当に単なる白い鼻紙の数枚を持たせてくれていた。大体からして、鼻水は服の袖で拭く。鼻紙を出して悠長に鼻をかむことは、小学生の子供には出来ない。出来ないと言うより、やってる時間が無い。あの当時は、どいつもこいつも、鼻水をたらして生活してたような気がする・・・みんな服の袖がピカピカだった。遊ぶことに必死な時代だった。
そんな時代を通り越し、今やいっぱしのおっさんとなった自分は、今でも外出の際にはハンカチを持参する。夏の薄着の時には、ハンカチと言えどかさ張るものである。小さめのカバンを持って歩くおっさんも居るが 逆におっさん臭すぎて小さなセカンドバッグなんて物を持つ気にはなれないので、出来る限り手ぶらで歩く。財布、免許書、車の鍵などポケットに入れるのは良いが、これまたポケットが膨らみすぎて格好悪い。だから夏場のファッションは難しい。そんな中、必須アイテムだけでポケットの許容量をオーバーしてるのに、そこにティッシュペーパーは尚のことかさ張る。必然的に、大人になった今は鼻紙の代わりのティッシュペーパーは持ち歩かない。
子供時代は服の袖が鼻紙の代用品。それでは、大人になると鼻水の処理をどうするのか?それは、簡単なことで、都会では、毎日、いたる所でポケットティッシュをタダで配ってくれている。この便利な無料配布を利用すれば、鼻紙を必要なときは都会の歩道を歩けば貰えるのである。お金は一切不要。相手から気前良く、差し出してきてくれる。こちらは、ただ受け取るだけ。それでも、都会の女性たちは、タダで差し上げますと出されているティッシュを避けるように歩いているのである。くれる!という鼻紙、遠慮なく貰ってくれば、わざわざティッシュペーパーを買う必要も無いのに・・・・と思いながら都会を歩く度に田舎っぺ丸出しの感覚の自分が居る。
そして、悲劇は突然襲ってくるのである。都心の雑徒を居ている最中に、舞い上がる埃を吸い込んだのか、急に鼻がむずがゆく、思いっきりくしゃみをしてしまった。「は~くしょい!!!」と同時に鼻水が・・・・・流石に半袖シャツでは鼻水はふき取れない。いやア~・・・どうすっぺ~・・・・と考えて、思いついたのが通りでティッシュ配りの兄ちゃんを探すのである。ほんの数メートル歩いただけで、ティッシュを配る若い女の子が居た。其の彼女の前を通過しようとしたとき、ティッシュを持った彼女の手は、僕の目の前を通り過ぎ、すぐ後ろから歩いてくる女性に渡した。良く周りを見回してみると、数人のバイトと思われる若者がティッシュを配って入るものの、渡している相手は若い女性だけ。男は対象外・・・のようである。
いやア、やばい!! 俺の鼻水、一刻の猶予も無い状態だ!汚い話であるが、ズルズル音を立てて吸い込んでないと垂れてくる。もう、こうなってくると恥も外聞も無い。ティッシュ配りのバイト君に、お願いするしかない。『 すみません・・・・ティッシュ下さい!・・・・』 都会は便利だ!
介護保険事業には、かならず利用者のためのケア・カンファレンスを定期的に実施し、介護計画を立てなければいけない。そして、其の計画は利用者またはご家族の承諾を得なければいけない。太陽の家でも、定期的にケア・カンファレンスを実施しながら、職員間の認識の共有化、計画の見直しと再計画への意見交換を行っている。これが、ケア・カンファレンスと呼ばれる会議である。個別に個人のあらゆる情報を持ち寄り、職員の視点から利用者を細かく解剖する(言葉としては不適格かもしれないが、一番しっくりと感じられる言葉と思う)。その人の出来ること。出来ないこと。家族の要望、本人の夢や要望を細かく噛み砕き、それぞれにベストの方向へ導けるように専門職として、適切な支援方法を検討しあう。
今日も太陽の家デイサービスでは、利用者のカンファレンスが開催された。今日話し合われたのは7名の利用者。所要時間は二時間半。一人当たり20分強の時間をかけている。少し時間をかけすぎている。それほどの難問があるわけでもなく、前回のカンファレンスからの変更の少ない利用者である。今回のカンファレンスの進行を見ていると、時間がかかる理由が理解できる。一つは、参加職員が意見を持っていない。普段の介護の中で気づくことは多いようであるが、それを問題視していなかったり、認識できていない部分が多くに存在する。要するに、利用者の様子を伝えるに足る言葉を知らない。第二に支援方法が画一的であり、新しい視点が見当たらない。数年前から変わらない支援を今なお計画にあげている。これは、絶対におかしい。数年前の計画が今でも、変更されること無く残っている。利用者の機能の変化は無いのか?それとも必要が無いにもかかわらず計画を削除することも無く今まできたのか?という疑問がわいてくる。第三に利用者の主訴の読み取りが甘い。どうしても日常の介護の中で食事、排泄、入浴の三分野に絞られた介護に徹してしまうことで、そのほかの状況や特徴や変化に目が届かない。もう少し、発想の転換を促すカンファレンスでなければ、新たなる支援策は生まれてこないのではないか?
今日の会議でも紹介したように、私たちは福祉、特に高齢者介護の専門職である。専門職は、それなりに多面的な視点を持って、あらゆる角度から柔軟なサポートを提供できるように常に考えておく必要がある。最近の行動パターンが妙に違っている、お願いしても聞き入れてもらえにくい等、たくさんの問題に囲まれているように話し合っている。しかし、実際にもう少し、しっかりと利用者の立場に立って考えてみれば、私たちが問題と考えている課題は、得てしてわれわれからの視点に基づく問題行動で会うことが多い。最近、利用者がおとなしくなってきた。とする、そこには、多数の可能性を考える必要性がある。例えば、反発するだけの体力、気力が減少傾向にないのか?または、体調不良が根底に潜んでないか?提供サービスに妥協したのか?等々 太陽の家だからと言われても結構!僕はもっと斬新でハチャメチャな支援方法を考えて実践してくれる方に期待する。 其の為には、普段から利用者個人の様子観察を適切に行い、その人を理解し、その人の抱える問題を提起できる体制を整えておかなければいけない。意見を求められ言葉に困るようでは、其の利用者と正面から向き合っていない、介護の仕事を生産工場の作業と同じようにしか見ていない証拠。普段から、人の意見や行動には疑問の気持ちをもって観察するようにすれば、自分なりの意見はもてるはず。考えること。職業人として働く、仕事するとはどういう行為を盛って言うのかを学ぶべきだ。
あの太陽の家に通うようになって、生き生きしてきた。とは言ってもらう。より良いサービスは確保できている。次に目指すのは、今まで以上のQOLの向上を目指すために、利用者は何をすべきで(僕にとって介護は受身だけではなく自立支援という言葉通り自らが求め活動することが基本と考えている)、どのような支援を必要としているかを検討しなければいけない。それも、斬新なアイデアを工夫する。そして、介護の質の向上を目指したすばらしい介護を。僕は自慢ではないが、今の太陽の家デイサービスセンターなら、更に高い質のサービスを提供することができると信じている。また、今のクルーなら実現可能であると考えている。そのためにもカンファレンスのレベルアップを目指したい。言われることを全て鵜呑みにするな!なぜ?と感じたならば、納得するまで聞け!と要望するのです。
うちのデイサービスを利用される高齢者の方々をみて、いつも思う事がある。それは、一応にして、高齢者の大半が好かれるタイプのお年寄りである点である。おそらく、この年代の人たちは(私の親を含め)舅姑にいじめられ、それらに耐えて生活を継続してきた世代の人達であり、その経験が自らの反面教師となって「不平」「不満」「小言」を押し殺すように考えるようになったと言っても過言ではないと思えるのです。爺さん、婆さんが若い者に早くから遠慮した生活を強いるようになって、その分、若者の学ぶべき社会的な常識を教える人がいなくなった。また、同時に、大事に加護されるようになった高齢者は、自分自身の目的と将来設計を若者に依存するようになった。全て、若い者が取り仕切る。言うなれば、若者任せ! それで自分の人生に支障をきたすとしても寡黙になる。 自分の将来を(余生を)子供に任せるスタンスは、独自性を失い、個人の能力の低下に結びつく。また、極端な場合は、家族関係の希薄さから、この世に存在しなくなっても誰も気づかない。そんな時代が今なのです。
高齢者は人生の先輩として、豊かな経験に支えられた重要な社会資源である認識は、今の社会からは消え去ろうとしている。シルバー人材センターの活用で、高齢者に一部ではあるが仕事(出来ること)を実施していただく社会的な連携をもっと、住民と共に活用していく社会的な思いやりが不可欠であると思うのです。しかし、錫年層へのマナー教育や者気通念の研修に抜擢したとして、果たしてその効果は期待できるのか?と問えば、そこには過度な遠慮が生じ、若者の成長を促す事が出来ないまま終わる可能性も強い。
誰しも、人から嫌われる事は忠告したくは無い。なにも抵抗せずに相手の話に傾聴し、何でもかんでも受容する姿勢を続ければ、少なくとも人から煙たがられる事は無い。しかし、そんな個人的な理想論だけで、これから先の困難な時代に今の若者や社会が生き残れるのか?と考えた時、答えはどうなるのでしょうか?
僕は、いつまでも煙たい存在として、この社会に生存したい。小言ばかり言って、若者を困らせてやりたい。僕の死後、みんなが「ようやっと、逝ったか!」と言われるとしても平気さ!ドンドン悪者になって、将来的に強くたくましい次世代を担う人を育てることに集中したい。
僕はチーズが大好きなんです。特に臭いチーズがこの上なく好きなのです。
最近、血圧も高く、肥満になりつつある自分としては、チーズを楽しむこともはばかる状態となってきているのですが、それでも、やはり好きな物は好きで、食べたくて仕方が無いのです。うちの職員さんは、僕が毎日、夕食の材料を買いにスーパーへ行っていることを知ってますが、其のスーパーで一番時間をかけて眺めているのがチーズのコーナーです。あまりチーズのような脂肪の塊を食べ続けると、脳梗塞や脳血栓などが恐ろしいのですが・・・・・まア、とにかく、チーズの何が旨いのか?について書いてみたいと思います。
まず、僕の一番好きなチーズはエメンタールチーズ(スイス) 芳香なにおいと食べた瞬間の苦味、それから徐々に口中に広がる胡桃のような味が好きな理由です。このスライスと一緒にミラノ サラミの薄切りを食べる。こんな幸せな瞬間は無いほど!最高に美味しい。 このチーズが受け入れられないとすれば、苦味の部分でしょう。しかし、ミラノ サラミは少しだけ酸味のかかったサラミです。そのサラミの味と、このチーズの味が融合して、口の中いっぱいに広がります。
次に、イタリアのゴルゴンゾーラ チーズがうまい! フランスのブルーチーズと同じで青かびのチーズです。ピザやパスタのソースとしても使われるチーズですが、これはまた、臭い! この臭さがなんともいえない食欲をそそるのです。また、このチーズも結構塩味はきつく、口に入れると塩の味が一番に感じることとなります。また、食べている中で、少しづつですが、石鹸を食べているような味が伝わってきます。フランスのブルーチーズに比べると、イタリアのゴルゴンゾーラは臭みが少ないのですが、それでも慣れない人にはキツイ一品かもしれません。 僕は、このゴルゴンゾーラとマヨネーズ、生クリームを使ってクリーミーイタリアン ドレッシングを作ります。
ピザなどのトッピングに使うには、とろけるチーズなど市販品のシュレッドした物を使いますが、ゴーダチーズは、オーブンで焼くととろけます。このチーズも食べると、少しですが苦味を感じます。
写真の中でも紹介しているチーズですが、サンタンドレという白カビで覆われたカマンベールっぽいクリームチーズです。口に入れるとバターをなめているような風味が伝わってきます。値段的にも高価ですが、少しだけ切って、リンゴのスライスやドライフルーツと一緒に食べると美味しいです。
先ほども紹介したように、ドライフルーツと一緒にチーズを食べるのは、イタリア料理の中では一般的です。ほんの少しづつ、ドライフルーツのかけらとチーズを少し、口の中に放り込んで、赤ワインでも飲めば最高に幸せな時間がそこにあります。僕もイタリアンで食事するときには必ず、チーズの盛り合わせとサラミや生ハムの盛り合わせを注文します。そして、美味しいワインをなめながら、楽しい会話をして食事を楽しんでいます。こうやって書くと、すごくリッチな生活のように思えるでしょうが、私たちが注文するワインは、それほど高級なワインではなく、一本3~4千円程度。昔の学友と久しぶりの再会を懐かしんで食事を共にするときは、こうやって安いワインをボトルで買って、チーズを肴に数時間、語り合うのです。こんな楽しい時間が、チーズとワインには存在します。
最近の報道で、地元出身の女性がネグレクトから幼児を死なせた事件がある。とても悲しい事件である。子供に恵まれない自分としては、非常に寂しい、悲しい、事件であった。その時を想像すると見に詰まされる思いである。子供は、何不自由無く育っていくものだという意識は、楽観的発想で稚拙な考え方である。爺さん婆さんのお世話する以上に手をかけ導いてやる必要があるにもかかわらず、全ての親が、そのように考えてくれない点で問題は拡大しているように思う。まあ、ここでは、その様な幼稚な大人たちの行動については触れないで、その様な事件を起こした以降の情報流出と家族に及ぶ風評被害について書いてみたい。。
この問題を起こした女性の親について、早くもネット上では色々と細かな情報が独り歩きしている。父親の職業はおろか、離婚暦や生活状況など。本当に細かな情景が浮き彫りとされている。事件を起こしたのは娘のほうであるにもかかわらず、其の父親までが犯罪者のごとくネット上で裁かれている。裁かれていると言うと語弊を招くかもしれないが、実際、裁判官でもない一般人がネット社会の中で、勝手な評価を行い、この事件の裏の情報を元に事件に至った要因を論じている。これは、個人情報も何も、まったく関係なく配慮される思いやりも無い、非常に冷淡で非人間的な行為がネット社会の中で行われているのである。
インターネットは、その人の顔の見えない、所在も明確ではない、形の無いものから発信される割りに、大きな影響力を持つ。つまり、情報源のいかんに関わらず、読んだ人は、それらの情報を信じてしまうことが危険だと思う。どこかの雑誌に書かれていたが、『日本人の悪いところは、情報を鵜呑みにしてしまう。なぜ?どうして?と言うことを考えて理解しようとする姿勢にかける。』とあった。確かにそうである。人の言うことを非常に単純に真に受ける。そして、其のネタが、またチェインメールのように情報として他人に流されていく。時には、真実でない飾りまでついて・・・・
確かに、子供の育て方、指導の仕方に間違いはあったかもしれないが、一つの凶悪事件で、家族全員が社会から罪を負わされることはいかがなものか?日ごろより、自由と権利を主張する人々が多い日本の社会の中で、この点だけは特に封建的で嫌らしい性分を感じてしまう。巨悪事件を、この世から根絶するには、一族全員を同じ穴の狢と裁くのではなく、事件の根本に潜む社会のほころびを埋める作業を社会が行っていかないと、結局のところ同じような事件は必ず起きてしまう。其のたびに、何の罪も無い子供たちに被害が及ぶのであるならば、私たち大人の行く末は危ない。
これは何をしてる写真家と言うと、今日の午後、新聞紙を使った橋渡しゲームを行った後、使用済みのボロボロの新聞紙を利用者の皆さんと職員が片付けていたのです。 新聞もリサイクル資源の一つですが、これだけボロボロになると、リサイクル資源と言うよりは可燃物ゴミ。どうせゴミになるなら、もうひと働きしてもらおう!と、利用者の方々に思い思いの大きさに切って、子供の頃のように紙吹雪遊びをしました。自宅ではいい歳してとか、狂った?!とか誤解されやすいのと、大人の仕業とは思えないような、ストレス発散を試みました。いつもは、気品正しくまじめな顔をしてる人も、この紙ふぶき遊びでは童心の顔に戻っていました。個人情報の関係でネット上に、満面の笑顔の利用者さんを紹介できないのが残念ですが、普段、できないことをやる。それが面白かったようです。そして、後片付けは職員だけで行う予定が、利用者の方々も掃除に加わっていただき、床に散らばった新聞紙の切れ端を集めてゴミ袋につめてくださいました。
今回の思いつきで始めた紙ふぶき遊びですが、今後、実施するに当たり注意すべき点があります。其の一つは、一部の利用者の方(非常にまじめで固い性格の利用者)には不適切な遊びである。これは、認知症の有無は関係なく、其の方の性格による部分が大きく、遊び感覚として受け入れができない。今日も、最初から散らかした紙ふぶきを一人で丸め始め、紙ふぶき作りを楽しんでいる他者に叱責を浴びせかけた。咄嗟の判断で、其の方を輪の外に出したが。本人の感情を逆なでするような行為に混ぜてしまった私の行動が軽率だったかもしれない。
第二の問題点として、遊びを終えて利用者共々紙くずを拾い集めていた時の様子から、この遊びを喜ばれた方々は、後片付けにも積極的に参加されたのです。床に落ちた紙くずをかがみ腰姿で拾い集めてくれました。これは、注意しないと前方に向けて転倒する恐れがあるなと感じました。僕は、多少のリスクを負いながらも、ゴミを拾う行動は、自立支援の一環としてどんどん実施すべきと考えています。ただ転倒するリスクがゼロではない限り、後片付けには、それなりに熟練した職員の見守りのもとで行われないと危険であると考えられます。この遊び自体は、椅子に座ったままで実施するので転倒は無いはずです。しかし、後片付けは椅子から立ち上がって行う以上、十分な見守りと危険予知が必要となります。
第三に紙くずが車椅子利用者の背もたれとの間に入り込み、そのまま綺麗に掃除しないと、紙くずを自宅まで持ち帰ってしまいます。遊んだ後は、手の汚れ、髪の毛の乱れ、衣服の隙間などに汚れや紙くずなどの付着に注意が必要です。そう考えると、楽しいお遊びも神経を使います。でも、この遊びの最中の利用者の方々の顔つきは、子供の頃の顔に戻っていますよ。
僕は服の色で一番好きな色は白です。真っ白の色ほどさわやかで夏の季節にピッタリと言うイメージをもっています。ポロシャツでも白が好きです。カーキ色とか乳白色の白でもなく、真っ白な色が好きなんです。でも、白は洗濯を繰り返すうちに黄ばみ、薄汚れてきます。仕事着としても白が大好きで、最近の暑さに、やはり「白」は、涼しくみえるし、汗を想像させない点で、僕にとっての優れものなのです。しかし、白は汚れやすい。一日中着ていると、人間って本当に色々なモノにぶつかりながら生きているんだなアと言う事が分かるほど、色々汚れてしまうのです。また、僕の場合は、食事のたびに、なぜか汚してしまうのです。子供のように食事の仕方が悪いのでしょうか?
今日も刺身を食べていて、箸でつまんだ切り身を、端から滑らせてお醤油のはいった小皿にダイブさせてしまいました。お陰で僕の真っ白なシャツには、醤油の黒っぽい水玉模様が胸の部分に飛び散ってしまいました。また、一昨日は、太陽の家にてスイカを食べたのですが、やはりフロントに二か所程「シミ」を付けてしまいました。パスタ、特にトマトソースのパスタなどは、ハンカチを首元から垂らして食べないと、絶対と言っていい程、胸元を汚してしまいます。
これは、僕の食事を食べる方法が悪いのでしょうか?それとも、僕の口が欠けているのでしょうか????
やはり、そこまで気をつけながら食事をするのは、食事を味わう以外に余計な神経を使ってしまいがちで、それこそ、食べた気がしない!と言う本末転倒な場面もあります。食べることが大好きで、パスタを好んで食べる僕です。なんとか、シャツにソースのシミを作らなくとも食べ切れる様な技術が必要とおもいます。
今日から、再び書道を再開しました。手習い小屋と言う風な表現がふさわしいレベルです(まだまだ初歩の初歩段階。筆が思うように動いてくれないので、手が真っ黒になります。笑) 前回の書道では日本書道を行っていたのですが、検定を受けることなく、ただ普段の字を美しく書きたい希望的手習いでした。そして、国家試験も控えており、二頭追う者は一頭も得ずでは無いのですが、少し国家試験の方に真剣に取り組まなくてはいけない危機感から、書道をいったん中断していました。(中断と言うより、辞めてしまったのですが・・・・)。そして、運よく複数の資格を取得に至ったことから、もう一度、書道を習い始める気持ちとなりました。この歳で始める手習いですから、それ程上達するとは考えにくいのですが、書道している間の緊張感がたまらなく面白いと感じるのです。実際に一時間程度の余裕では、半紙3枚くらいの書道しか書けないのですから、いかに集中して丁寧に書いているか判断いただけると思います。正座して、机に向かい、ひと筆ひと筆を集中して息をこらして書をかくと、時間のたつのも忘れてしまいます。
おおよそ二時間程度、机に向かって書いてきました。部屋の中はエアコンが温度を一定に保ち、とても過ごしやすい環境で書かせてもらえるのですが、先生の言うように「筆先を上に・・・・!」と言われても・・・・そうならないから苦労してるんです。本当に悪戦苦闘とはこの事を言うのですね。半紙一枚を墨で真っ黒にして、おまけに自分の手まで墨をつけて、おまけに肩に力が入ってしまい、肩こりまでしてくる始末。なんで、こんなに苦労してまで書道を習うんだろう・・・・やはり、この年齢と立場になると、ひとさまの冠婚葬祭に参列する機会も多く、その度に芳名録とやらに住所と氏名を書かねばなりません。そんな時に、いつも恥ずかしい思いをして時運の名前を書いていましたが、できれば、そのような場面でも達筆で、受付の人々に「ほ~っつ!」と唸らせたいのです。そんな切なる期待と願いを携えて手習いにカムバックしたと言う訳なのです。
僕は、普段から万年筆を使って文字をかく事が好きで、何となく文豪といわれる人々になったような気持ちになります。でも、万年筆を使って書く文字は、あくまでも我流の崩し文字。まったく美しさに欠ける。表現としては「サラサラ~と書きつなれること」が夢ですね。僕の期待する夢に達するには10年以上の年月が必要と思います。ひょっとすると10年でも達成できないかもしれません。しかし、少なくとも今よりはマシな字を書いているかもしれません。そのように夢に大きく期待しながら、毎週火曜日の夜は書道を習いに行く事となりました。数日前にもブログで公表したように、上手く書けるようになった、書けた字をブログで紹介するつもりです。まア、何年先の事やら・・・・・(笑)
今日も熱帯夜、暑い熱気が風に吹かれて体にまとわりつきます。汗がじわ~っとうかんでくるのが感じられる湿度です。こんな夜、部屋の窓を開けて、まだ冷めぬ熱気を感じていると、暗やみの空に浮かぶ赤い月が目に入りました。カメラを用意して、シャッターを押したのですが、やはり手振れを起こし、月がダブってしまいました。でも、この夜の月の色、地上の熱風が月まで届いたような「燃える月」の一枚の写真を公開します。熱中症はもちろん、エアコンによる夏風邪、食欲不振に夜夏ばて等、皆さんも体調管理にご留意ください。
太陽の家デイサービスセンターでは、在宅介護への支援は基より、お年寄りの家族に囲まれ、慣れ親しんだ『自宅』で生きがいある生活を支援することと考えている。「家族」「家」「地域」をお年寄りに結びつけることは、今の時代、非常に難しくなってきている。その理由の一つに核家族化が存在する。女性も男性も、仕事を持つことが一般化し、帰宅時間はまちまち、生活のリズムまでもバラバラの生活の中で、役割も無く自宅に留まる高齢者は、経済成長真っ只中の日本の子供たちのような「かぎっ子」症候群によって、何もすることなく、ただ闇雲に家に閉じこもる生活が増加している。また、この問題の根本には、長寿社会の反動のようなケースも多く見受けられ、ことさら生きることに罪悪感を抱いてしまう高齢者も中には存在する。そのような時代背景の中で、私たち営利法人にも介護ビジネスへの参入が認められてすでに10年が経過している。この間、多方面にわたり政策の変更が繰り返され、一時の介護ビジネスブームもひところに比べると沈静化したようにも感じられる。
市場原理を使って、高齢者福祉ビジネスに「競争心理」を使って提供サービスの向上をめざすべきが、意外と営利追求だけに業界全体が突っ走ってしまった感がいがめない。コムスン問題は社会問題化し、営利法人の運営する事業所に対する風当たりも、この事件以降、非常に厳しいものとなった。行政サイドも、営利法人に対する行政指導自体を「実地指導」ではなく「監査」という名目で行うこととなった。社会福祉法人に対する指導とは違い、より厳しい視点で業務をチェックすることとなっている。もちろん、監査自体、公明正大な業務の遂行を実践する事業所にとっては、なんら恐れる必要も無く、堂々としたものである。もちろん、太陽の家もまったく恐れる必要も無く、すべて開示し求められるものを提示するだけである。請求業務にしろ、提供サービスにしろ、誰に恥じるものでなく。逆に全ての人に包み隠さず見てもらいたい気持ちでいっぱいである。
その中でも、通所介護の一番の目玉として、私は「個別機能訓練」をあげたい。とかく書類と人員配置だけで個別機能訓練加算を算入する事業所も存在する中、太陽の家では本来の姿と言うべき、在宅生活の継続に視点をおいた機能訓練を行っている。残存機能を維持するために何が必要で、改善するためにどのような資源を提供しなければいけないのか?と言う点について、真剣に利用者の意思決定の元、実践されている。ただ、ADL機能の向上だけにとどめず、精神的な生きがい、やりがい、目標までも視野に入れた声がけと促し、その結果の自主的な活動へと結び付けていく。これは、先にも述べたように、自宅で留守番(と言いつつ、耳も不自由、体も動きにくい、記憶も定かでなくなってきた人にとって、留守番すら困難な状況もある)しか役割を持たない高齢者に、いかにして新たなる生きがいを持ってもらうか?が一番難しい支援である。
長年培った生活習慣はちょっとやそっとでは変えようがない。家族の思惑と本人の希望の格差は、ケアプランそのもののあり方にも影響を与えている。介護の基本はあくまでも自立支援である。また本人の尊厳ある生活の支援である以上、利用者本人の意思が不可欠である。認知症を患い、自主的な決断が困難な場合を除いても、意思決定に際し家族の意向も大きく左右する要因となっている。現に、先日のグループホーム連絡協議会の管理者研修の中でアンケート調査を行った。其の中の設問に、自分自身が認知症となった場合、何を選ぶか?と言う問いかけをしてみた。答えは三分の一が自宅で過ごす。ほぼ同数をもって「自分の働いてきたグループホームへの入所」という答え。ついで多かったのは、其の時の家族の状況や経済状況によって自分の意思どおりには進まない。という回答が目立った。要するに、これだけ自己主張を重んずる介護保険制度の中で、やはり高齢者介護の実際は、本人の感情や意思とは裏腹に、周りの家族の都合もかなりの点で優先されると言う事実であった。
私たちソーシャルワーカー(介護職員と言う意味で)の理論や理念も、とかく机上の空論的であり、所詮は絵に描いた餅なのか・・・・そうさせないためにも、もう一度、通所介護サービスを原点に立ち返って見つめなおすことから、提供サービスを検証しなおすときが着ていると思う。何のために、太陽の家デイサービスセンターに通い、何を求めて個人負担を支払ってもらっているのか?中途半端な機能訓練を実施し、逆に転倒などの事故の原因を増やすまでも無く、ただ車椅子生活を継続することのほうが痛い思いをせずとも普通の生活が約束されている。という妙な理論で高齢者を縛り付けることなく、もっと元気で健康的な毎日を如何にすれば短期間で改善できるか。そこに高齢者介護の専門性も求められ、それらの必須課題を学び、研鑽することで多くの介護ニーズを満たすことができると考えている。