認知症の高齢者特有のと書き出しましたが、紙が貴重な時代に生きた高齢者の方々は、人によっては認知症を患う中で、トイレットペーパーやティッシュペーパーを束ねる行為、それを大事に保管する行為、そして、保管してある事を忘れて、同じ行為を繰り返して、タンスや押し入れの中に偶然、大量の紙の束を発見する事がある。 うちのグループホームにおいても同じケースが見受けられた。紙に拘る気持ちは、そのまま、その人の生活歴に関係するが、そこには利己的な悪意は存在しないことを介護する側は理解しなければいけない。先にも述べたように、その人にとって『紙』は貴重品であると同時に、必需品である。そして、もしもの時の為に自分に必要な分だけ保管しておく必要性に、くるくると丸めて大事に保管しておく行為が、この事例にある行動です。
一般的に家庭や一部施設において、このような行動を問題視する傾向があるが、この行動の元となる本人の気持ちを、もう一度じっくりと考えることで、問題となる要因の解決が必要と考える。例えば、太陽の家の利用者Aさんの場合、「不足」を非常に嫌う性格で、潤沢に物が溢れる生活を好まれる。常にトイレに行けば紙は用意されているものの、彼女の居室には「紙」は、人為的に必要分以外の余分は置かないようにしている。問題は、この点にあると考える。職員は、利用者が紙を隠す(隠すようにみえる)ことから、紙の無駄(・・・・視点を変えて、収集した紙の再利用先を考える必要がある)を防ぐ方向に考えがちである。
必要最小限の判断は人によって違う、また記憶に障害を抱えたものと、そうでない者とでは当然基準に格差が生じる。この際、利用者の居室には、隠さなくても良い程の紙を表に出すことや、トイレットペーパーのロールの予備をトイレに準備する事。に徹することから、利用者の「紙の不足懸念」を払いのけることが可能と思われる。
次に、このAさん、紙を細かくちぎって、ドアの隙間や窓の隙間に詰め込む作業を秘かに行っている。これについては、必死になってプライバシーを守っているのであり、決して隙間風が多いと言う理由では無い。グループホームは認知症高齢者の共同生活の場であり、1ユニット9名の利用者が個室ではあるが、共同の居間で過ごしたり、テレビを観たりして生活している。施設の廊下は、本人にとっては、差し詰め公道であり、居室が家の認識で生活している。実際は職員以外の他者が侵入することはあり得ない。しかし、彼女にとって、職員すら侵入者の一人なのだろう。介護するためと言いながら、何の許可も得ないで居室に入り、いろいろと着替えを取り出していく職員は、彼女にとっては文句も言えない高圧的な侵略者の一部と思っているかもしれない。
これを機に、グループホームの職員は、居室の扱い、入居者の感情についてもう一度考えてもらう必要がある。
太陽の家の7号車。と言っても何の事か分からない人も多いと思いますが、事業所にとって7番目の車両で、唯一の人力パワーの車両、つまり自転車の事です。 近隣のお店へのお買い物には自転車を使う方が早いし楽な場合があります。私達の太陽の家は、ご存じのように鈴鹿市の中心部にあって、中央道路と言う名称の幹線道路沿いに位置します。車で施設を出るにも、反対車線に出るために、沢山の車列の切れる隙間をぬっていかなければなりません。信号の変わり目がタイミング良く利用できればいいのですが、いつもタイミング良いとは限りません。兎に角、中央道路の交通量は多いうえに、沢山のお店がひしめき合い、右へ左へ進路変更する車が多く走っています。車を運転するにも、前方に注意していないと事故に繋がりかねない道路を通り、お店の前には駐車場も無い。そんな場面では自転車が機動力を発揮します。狭い路地もなんのその。車の渋滞も横目に路側帯をスイスイ!暑い夏の昼間も風を切って走れば暑さを感じません(その反面、自転車が停まると最悪ですが)
そもそも、何で7号車でお買い物?と言われれば、ほら!例の風鈴の会のお話はしましたよね!その風鈴の会にちなんで、風鈴をぶら下げましょう!と言うことで、皆で手分けして風鈴探しをしたのですが、今の時代、風鈴って近隣住民との音のトラブルの原因となるためか、販売していないお店ばかりで、近所の万屋さんを片っ端から訪ねても、どこも取り扱いなし。そんなわけで、今日の昼間、自転車を漕いで、古くからの商売人の町『神戸』(かんべと読む)なら・・・と考えて自転車を使ったのですが。残念ながら、この地区にも取扱店なし。仕方なしに、ちょっと郊外になるのですが、大型のハードウエアーショップを訪ねるべく、自転車でひとっ走り。
汗だくとなりましたが、探し求めていた風鈴ありました。本当は鉄で出来てる物が欲しかったのですが、季節も終わりに近づきセール品となっていたので、値段に妥協し購入しました。
お陰で、今日は足がパンパンに張っています。自転車は爽快、便利、スムーズでおまけに、狭い道も関係無い。でも、一つだけショックだったのは、赤信号で停車している時に、横に並んだもう一台の自転車。信号が変わるとスイスイと私の自転車よりも早く前に進んで行くのです。あちらには高級な変速機。こちらは無段変速のママチャリ。一生懸命足を動かしても変速機付きの方が、はるかに速くスムーズな様子でした。
ひゃははは・・・・・そんな言葉通り、皆さんに写真ででも公開することが出来ないほど、今は散らかっています。英語で「Messy」と言いますが、兎に角、足の踏み場も無い。ドアも半分しか開かない。なぜなら、ドアの近くに洋服が積み上げられている。全て、クリーニングあがりのカッターシャツの軍団が山積。先日東京から帰ったばかりで、荷物キャリーが元の保管場所に戻されていない。ブリーフケースも床に置かれ、記念の品として購入した置物の入っていた空ケースも床に放置され、ついでに僕のデスクの上も小物が積み重ねられ、今にも雪崩が置きそうな雰囲気です。小さな地震が発生したら、おそらくこのデスクの上の雑貨、メモ、筆記用具の類は、全て床にばら撒かれてしまいそうです。こんな部屋に誰がした?!
さて、この部屋の掃除は、いつが最後だったのだろう。自分自身でも最後に施した掃除が思い出せない。それほどだから、随分と埃もたくさん溜まっていることだろうと想像できる。女性の方が聞いたら、そのバッチイ部屋と共に、そんな中で平気で生活している僕に軽蔑の眼が刺さりそう。 それ程、物で溢れて散らかり放題の部屋を見て、自分で何とかしよう!とは思わないの?と質問されそうだが、今のところ、埃で死にはせん!と反省の色無し。この夏が終わって冬の到来まで、このまま現状維持となるのか?!?!
整理整頓が下手糞な私。そんな性格だから、さぞかし服装もむちゃくちゃ、髭もぼうぼう伸び放題、と思われるかもしれないが、そこはA型の人間と思えるほど整理整頓はされている。毎日同じ洋服を着ることはありえない。入浴、洗顔も頻繁に行い、匂いには超敏感。汗臭い自分自身が大嫌い。カッターシャツなどヨレヨレのノーアイロンは着ない!それも糊がきつく襟がたって首筋が切れるような裃(かみしも)の様なカッターシャツが大好き。 昔、若かりし頃には、僕は普通のGパンと呼ばれるジーンズにアイロンかけて真ん中に折り目をつけて履いていたほどである。今時の若者のGパンは、ホコロビや継ぎ接ぎが新品のうちから付いている様な、言うなれば不良品の様なボロGパンを高額な大枚はたいて購入している。僕からは信じられない時代である。(しかし、そんな時代の流れに逆らって、いも臭いおっさん!と呼ばれることに抵抗し、今では僕のジ-ズもホコロビと継ぎ接ぎがあたっている物を着ているけどね・・・・)
B型の人間って、変なところで拘りを持っているのか?部屋の中はぐちゃぐちゃでも、洗いざらしのカッターシャツは切ることは出来ない。とても妙な感覚の持ち主です。(って、他人事の自分が恥ずかしい)
この熟語の意味は、よく父母や目上の人に仕え、真心を尽して偽りの無いこと。を言います。
今日の風鈴の会で出てきた会話から引き出した四字熟語です。フロアーリーダーは、色々な点で職員をまとめようとする時に、自分からは切り出せないような、言葉に困るときがあると訴えていました。その様なときに、気を利かせて別の職員が、言葉に詰まるリーダーをフォローするらしいのですが、その職員は、決して驕ることなく、先輩職員であるリーダーに忠誠心を尽くし、ずっとついて行きますと話をしていました。こうやって書いてみると「偽善的」な場面を想定してしまいますが、其の職員は、言葉を捜しながら、何とか自分の臣を伝えようとする気持ちが、私からも見えて、非常にほほえましい会話だったと思っています。彼女のそんな本音を聞かされたリーダーも、とてもうれしかったことと想像しています。
職員間の信頼関係が良好で太い糸で結ばれる姿は、私としても自分をほめられる以上に嬉しいものがあります。職場の人間関係が良好である姿は、そのまま職員たちの関係の維持に多大なる努力が重ねられた結果であり、職員が職場環境の改善に努力してくれているということは、そのまま、この職場を心配し、ケアに思う証拠ではないでしょうか?Don’t Care!な、自分のことしか考えられない職場環境であればあるほど、上質なサービスの提供は不可能であり、其の分、利用者の人々には不利益が発生します。職員の人間関係は、其の施設の提供するサービスの質のバロメーターであると言えるかもしれません。そう考えると、太陽の家の「風鈴の会」が自然発生的に出来上がってきたということは、良質な介護が実践され始めていると言う証なのかもしれません。
「風鈴の会」を大切に考え、今後も出来る限り守っていきたいと考えています。
先日、お福の会に出席したとブログを公開したわけですが、このブログを読んでくれた職員と昼食後の井戸端会議の場で、お福の会の所以を尋ねられた。まあ、僕もそれ程詳しい謂われについては知らないが、福祉に暑い熱意をもった者達の集まりであって、酒を酌み交わす中で色々な忌憚ない意見交換を目的としていると説明。それを受けて、職員曰く、この井戸端会議の場も名称を付けて、熱意ある福祉談義の場として「風鈴の会」と名付けましょうよ!と提案があった。なんで風鈴かと言えば、ご存じのように井戸端会議の場は、施設の裏口近辺であり、暑い炎天下にヨシズで日陰を作っただけの場。少しでも涼しさを演出するためにも風鈴を付けるのも一つだよね・・・・!と言う簡単な理由から、そのような名前が付けられたようです。
まア、いずれにせよ、少ない時間、くつろぎながら介護について苦労を分かち合い、気持ちの整理を付けるために風鈴の会が育っていく事は、とても良い事と考えます。この会にタバコを吸わない者も参加できる場として、活かされていく事を期待しています。
ホテル品川パシフィック東京の来月末閉鎖の話を知って、今回、自分にとって最後の宿泊となろうパシフィック東京の夜を書いてみたい。 最近の僕のブログでご紹介したように、このホテルとの出会いは、僕の就職に関係したホテルとして、其の当時には大きな、真新しい建物で、高級ホテルとしての自信にあふれたホテルとして僕の印象には残っている。1971年の完成したこのホテル。今でも品川駅前に鎮座して、其の景観は、いつも新幹線の窓から品川駅のシンボルタワー的な存在として、東京に向かう時に必ず目に入ってくる建物でした。今回、ホテルのロビーに入り、一番最初に感じたものは「エイジ」でした。今の新しいホテルから比べるとスタイルが古い印象はぬぐえない。そんな年齢を感じてしまいました。もちろん、建物は清潔で美しく保たれていましたが、天井の高さ(天井が低い)、ロビーの広さ(だだっ広い)、売店の取り扱い品目(陳列方法も古臭い)など、昔のイメージにある洗練された感覚は、このホテルからは感じられなかった。(とても失礼な言い方となってしまったが)。添付してる写真は、ホテルの客室、客室からの眺め、ホテルのロビー。
そして、もう一つビックリしたことが、ホテルの荷物タッグ。最近めっきり見かけなくなったホテルオリジナルの荷物タッグ。三角やら丸やら、厚紙にホテルロゴの入ったタグですが、チェックインのときにホテルスタッフに荷物を預けたのですが、その時に僕のキャリーには三角のタグがつけられたのです。今時、珍しい・・・・ので、丁寧にバッグからはずして持ち帰りました。これも僕のコレクションの一つに加えるつもりです。
もう一つ、困ったことのお話です。客室の温度調節のスイッチに強・中・弱の選択しかなく、弱の設定でもエアコンが効きすぎて寒いくらいの温度となっていたことです。部屋でテレビを見ながら飲んでいたのですが、あまりに寒すぎてエアコンのスイッチをOFFにしても、まだ寒い。耐え切れずにバスタブに湯を張り、首まで湯につかってからベッドに入ったくらいです。前回のプリンスホテルでは、温度調節機能は付いていないに等しく、温度を下げようにも設定26度から下に下がらない。そんな不都合を感じたのですが、今回は間逆の環境がありました。お陰で、夜中も熟睡できず、のどが痛く痰が絡む状態でした。
まあ、何だかんだと文句ばかり書きましたが、普段の生活からはかけ離れた環境に身をおけることに感謝して、東京の夜を味わえたことに喜びを感じています。たくさんの人が行き交い、たくさんの人が色々な痴呆から電車で運ばれてきて、また、電車に乗って去っていく。みなさん、それぞれの感想を胸に地元に帰り、またいつもの仕事に戻るのでしょう。人間の営みって、多種多様で面白。東京は人間ウオッチングには最高に適した場所です。と同時に、僕もウオッチングされている一人でもあるのです。人の振りみて我が振り・・・・ですよね。充分に外の空気を吸ってきたののですから、明日からは又、介護の仕事に精出して頑張ろうと思います。
お福の会については、初めてブログに書き込みしますが、この会は数年前から、認知症介護の著名人である和田行男さんを中心に、医師、大学教授、テレビ、新聞や福祉現場の人たち有志が集まり、福祉の将来について語り合う会として、其の当時、使っていた居酒屋の名前をとって「お福の会」と呼んでいるそうです。今では40名~50名程度の著名人が集まり、また厚労省からも参加されていたり、そこの場で取り上げられる話題が、結構そのまま施策に反映されたりと、ある意味、福祉行政や今後の日本の福祉の動向にまで動かしかねない内容が話し合われています。もちろん、私なんぞは、ただただ聞くのみ。発言できるような雰囲気ではないのです。そのような会に参加させてもらえることとなり、今回で2回目。
8月10日の夜7時より10時まで、大井町のうらぶれた小さな居酒屋に集まった人々は、いろいろな仕事の人が集い、新聞記者、テレビ局のディレクター、福祉関係の大学の教授、医療現場からドクターも参加して、お酒を飲みながら、一分間ルールの下、それぞれが熱い意見交換を行っていました。昨日のテーマは、「回想法」について、回想法が本当に認知症高齢者の心のよりどころとなるのか?について討議されました。回想法は療法ではなく、あくまでも利用者との心の壁を取り除くための手法と言う考えかた。また、人には触れられたくない過去を持つ者も居ることからも回想法によって仕舞い込んだ心の傷をこじ開けてしまう必要性。また、充実した人生を送る人にとって回想法の持つ意味など、色々と意見も別れてしまいました。
回想法も、バリデーションと同じく、記憶に障害を抱える高齢者の心の壁を取り除き、心の安泰を求めていくことに変わりは無いのですが、そこには学問として研究対象としての回想法と、普段何気なく福祉現で行われている昔話の延長線上にある回想法の二タイプが存在するようである。いずれも、ある意味、相手を尊重する気持ちと思いやりを持って昔話の中に、その人の人生を垣間見るきっかけを見つけようとすること。と言うことでした。
まあ、小難しい理論の応酬でしたが、このお福の会の後、グループホームの全国組織の代表者達との意見交換も興味深い時間となりました。
油断大敵と言うより、自分自身の超特大級ポカミスに呆れると同時に情けない気持ちとなった昨日の事件についてお話しよう。
昨日から一泊の予定で東京に行ってきたのです。東京には、二ヶ月毎に開かれる『お福の会』という会合が開催され、其の会に、今回で2回目の参加をさせて頂くつもりで新幹線からホテルまで予約を入れて準備はしたのです。しかし、ここ最近、東京への旅行に限らず、生意気なようですが旅行慣れしてきた自分自身が居る。前日から旅行の準備をすることも無く、出発間際に必要な最低限の着替えと諸々の小物をバッグに放り込んで電車に飛び乗ることを繰り返してきました。そして、今までは、何事も無く、近鉄名古屋駅から新幹線の出発までの余裕を5分もあれば充分!と、高をくくっていたこともあります。今回の失敗は新幹線に乗り損ねたと言う話ではなく。白子駅の特急に乗り損ねたのでした。それも、交通渋滞とか、自宅出発が遅れたと言う理由ではなく、僕自身は時間の9分前には白子駅改札に到着していたのです。また生意気なようですが、近鉄電車の利用にはピタパというカードを使って、チケットレスの乗車を利用しているので、カード一枚で改札を潜り抜けるのです。昨日もそのつもりでした。改札口前に来て、カードを取り出そうと財布をカバンの中に探したのですが、まったく見つかりません。
そうなんです、財布、クレジットカード、免許書、を忘れてきたのです。お金を一銭も無く、クレジットカードも持たずして特急どころか、宿泊すらできません。慌てて自宅に財布を取りに戻り、再出発をし新幹線には一時間送れの便を予約し直して品川まで向かったのでした。
ここ数日、土日をはさんでブログの更新がおろそかになりました。特に理由は無いのですが、ブログネタに困窮しまして・・・・書くこと無い症候群に襲われ、一時的に筆が止まってしまいました。毎月、月初めには同様の症状が散見され、今月は月のスタートはスムーズに出始め、その後失速傾向にあるという、新たなるパターンに苦しんでおりました。今日も、職員には、ブログ更新の遅延に苦情が出され、僕としては、今日のブログ更新が無い場合は、それこそツーアウト一塁に走者を残し、ボールカウントはツー・スリー。残り一球が勝負と言う状態かもしれません。
そんなこんなで、今日の私のお仕事ぶりを紹介すれば、午前中には、明日の会議に持参する書類作りに忙しく、昼食後にはレクリエーション会議。其の途中で、職員の家族の相談を受け、午後は鈴鹿サーキットにてこの秋開催のF1グランプリの打ち合わせ。通訳の人数、イベントスタッフの人数等の調整や業務のすり合わせを行い、帰宅後には太陽の家の玄関横の小さな庭に落ちこぼれている落ち葉の掃除を行いながら、また夕方には別の職員の相談を受けて、家に帰って夕食を作り、顧問弁護士と電話で会話し、ようやく自分の書斎(書斎と言えるような高級なモノではないのです。本とメモや筆記用具などが散乱した事務机の上に乗っているコンピュータに向かって、一人カチャカチャとキーボードを叩いているのです。こうやって、話してみれば特に何もやっていない。実態不明の管理職と言えなくも無い、非常に中途半端な仕事をしていたようです。
さて、そう言いながらも、明日は東京で会議。福祉の関係のお仕事ですが、前回は6月に上京。二ヶ月目の東京となります。今回は品川パシフィック東京に宿泊予約を入れておりますが、今になって知ったのですが、このホテルも来月末で閉館の予定らしいです。僕がアメリカから帰国した頃には、第一線の高級ホテルで有名で、帰国直後に、このホテルでハワイにあるプロダクションの面接を受けたことを思い出しました。あの当時は、日本に帰国したばかりで、また息子がアメリカ(特にハワイ)に赴任することに反対した両親のために就職をあきらめた経緯がありました。そして、次に地元の本田技研関連の企業が採用してくれて、一時サラリーマンを経験することとなったのですが、そんな若い頃の自分の人生の転換期としての舞台が、このパシフィック東京だったのです。
東京の都心の変化は著しいものがあります。しばらく東京から遠ざかっていると新しいお店がオープンしてたり、新しいホテルが開業してたり、閉鎖されたり。人々の需要と供給のバランスは、店舗ごと、建物ごとが川変わっていくことで保たれているようにも思えます。田舎のようにお店の都合に客側があわせてくれるのではなく、客側をリードしていくためにもお店側が変化していかなければいけない都会では、かかる費用も回収スピードも田舎とはまったく異なっているのでしょう。だから東京はいなかっぺにとっては、「生き馬の目を抜く街」として恐れられるのでしょうね。 しかし、ここにきて閉鎖するホテルに、昔は栄華を誇る日本企業の出資するホテルが多いことに驚きます。プリンスホテルも赤坂から撤退。このパシフィック東京も閉鎖。其の反面、リッツカールトン、コンラッド、マンダリン、ペニンシュラ、ハイアットなど超高級リゾートホテルは、軒並み都内にオープンし、結構盛んに宿泊客を取り込んでいるようにも見えるのですが、実情は如何なものでしょう?景気後退から完全に回復基調とまで行かない現在、ホテル業界も四苦八苦なのでしょうね。