今日はまだまだ元気だ!ブログの4本目を書きはじめた。今月のブログの総数も過去最高、一日のブログ本数も最高、アクセス数も毎月増加中!と、私自身のやる気(書く気)を自然とくすぐる好材料ばかりではないですか??!! 明日の土曜日は8時間耐久ロードレースの仕事が入っている。そろそろ寝ないと・・・と思いながらも、どうしてもこのネタでブログが書きたい。と思って止まない気持ちでいっぱいだ。このネタとは、音楽である。私がクラシック音楽が好きで!と言う話は以前から何度もお話している。もちろん、ジャズも好きだ。好きは好きだが、同じクラシックにしろ、ジャズにしろ、聴くものと聴かないものが歴然と存在する。まず、クラシックでは交響曲は得意ではない。室内楽が好きである。ジャズでは、4ビートと呼ばれるジャズは得意ではない。どちらかと言えばイージーリスニング的な音楽というか、聴いていて心地よくなる。(本当はくら~くなる音楽が好きなんだ!) まア、この説明も以前、このブログの中で紹介した。
さて、本題に戻ろう。私が好きな音楽を聴く姿勢は、椅子に座って(当たり前か・・・・?)イヤホンを耳に、静かに音楽を聴いていることが多い。もちろん、仕事をしながらBGMとして音楽を流すこともある。しかし、大半は、椅子に座って(または、ベッドで横になりながら・・・・)ヘッドホンをつけて楽しんでいる。クラシックを聴きながら、何か風景や情景を思い描いて聴いているかと言うと、そうでもない。ただ、其のとき、其のときの自分の気分によって聴く音楽は違うし、クラシックにしても年々、好みの作曲家が変わっていく。 そういうわけで、これから先に、自分の其の時の体験や状況を、特定のクラシック音楽を聴くときに思い出すのだろう。
音楽は時とともに、その人の人生とともに・・・という文句がある。私にとっての音楽も、時代時代によって思い出がぎっしりとつまり、それらの音楽を聴く時に、其の曲を聴いていた時代を思い出す。それも、鮮明に。楽しいときも悲しいときも、其の時の感情までリアルに再現されるほど音楽にまつわる自分の体験は深く心に刻まれるようである。
私が1970年代初頭にアメリカに単身渡ったときの思い出の曲は「ロバータ・フラック」の”Killing me softely”である。あの当時のロバータ・フラックと言えば、リリースする曲のすべてがヒットチャート入りするほどの人気の黒人歌手である。ラジオからは毎日毎日、彼女の曲が流れ、今、この曲を聴くとアメリカにいた頃を思い出す。また、G線上のアリアを聴く時、思い出されるのは四駆に乗って山にキャンプしていた頃を思い出す。四駆ブームのときにご他聞にもれず私もジープやらランドクルーザーに乗っていた。そして、かなり頻繁に山へキャンプしに行っていた。其の当時に聞いていたのが、オーボエ奏者の宮本 文昭の曲である。
最近、太陽の家のデイサービスでは、昭和の歌、特に戦後の復興の中で流行した曲を中心に流すことがある。通常のレクリエーションとしての歌とは違って、伴奏も歌詞も入るとデイルームの雰囲気は違ってくる。それまで無関心のように見える利用者も、手拍子し、歌詞を口ずさむのである。それも曲のテンポにあわせて、リズム良く。おまけに歌詞カードもなくても口ずさむことができるのである。通常のレクのときは、歌詞を模造紙に大書きしたものを見ながら、職員のリードを受けて歌っている。この時の歌は、お世辞にも上手とはいえない音程は外れている、テンポもバラバラと、まとまりがない。しかし、本物の曲を流すと、其の曲に応じて歌うことができるということに驚かされる。音楽療法という技法を使って、認知症高齢者を活性化させる方法があるが、まさしくこれが音楽療法であると言える。
まあ、長くなったが、音楽の人に与える影響は目には見えないものの、確実に何かしらの影響を与えているようである。
自己覚知と自律について語ったとこだが、自己覚知には己を知り、自分の出来ない事を他者に依頼し、逆に他者の求めに真摯に耳をかすことが必要で、そう言う訳ではないが、今日の午後、この施設長の部屋のブログネタについて話を聞いてもらった。職員さんは、ブログの読者であると同時に批評家でもある。面白いブログが欠けた後には、必ずなにがしかの感想を聴かせてもらえる。しかし、面白くないと、何も言ってくれない。言うなれば、非常に現実的であり本質に正直である。
そんな職員さんと、このブログについて話をしててアイデアをくれた。一つは真面目な連続性のあるテーマに沿った話題。もう一つは何の脈絡も無い、その日の出来事を書けばいいじゃあないですか!と。確かにそうだ。最近のブログは本数ばかりに神経がいっており、その中身については特に注目すべき点は見当たらない。ブログは一日二本と決まっているわけではない。逆に毎日書く必要も無い。まア、言ってみれば、誰が期待し,楽しみにしているわけでもない。そんなに、焦ってブログの更新をする必要も無いわけである。
しかし、ここで困った問題が生じてきた。少しブログのネタ切れ状態が近くなってきた。その事が、片方で書かなければいけない使命感に惑わされ、もう片方で書けばいい!的な投げやりムードたっぷりの毎日に、書いている自分自身が飽きてきた。そこで、職員さんの登場です。「悩んでいる事があるなら話してください!私は聞き上手ですよ~!」ときた。そして、挙句の果てに一本は真面目口調、二本目はふまじめでどうでもいい話。と分けて書けばいいのですよ!と。
そうかい!そうかい!一本は真面目に、もう一本はグウタラに!・・・・・そう簡単には進まないから悩んでいるのでしょう!文章にするには、それなりに気を使う。個人情報、守秘義務、人間関係の強弱など、考え上げればきりがない程の懸案事項をクリアーにして(少なくとも、文章の影響力の最小の内容)を目指して書かなければいけない。神経は使うは、恥もかくは!本当に気を使う作業なのです。そう簡単に、文章がすすむ場面ばかりではないのが現実です。
でも、彼女の言うように、適当にその時の会話を文章化するだけでブログが完成した。もちろん、この文章が社会に及ぼすマイナス影響は少ない。まさしく不特定多数を対象にしたブログの完成。 まア、彼女の言う事もまんざらでもなさそうだ!
デイルームの室内で、少しだけ元気がないなア~と思って、この暑いさなかに外に出してあげた気持ちが仇となり、大事なアンスリュームは日焼けしてしまった。花はもちろん、葉っぱまで日焼けで台無し。窓際の日当たりのよい場所にいて都合よく生活していたのに・・・・何と言う事でしょう・・・・・
自分自身の無知に腹が立ちます。
高齢者介護の現場で最近よく耳にする「自立」と違って「自律」と言う言葉の意味を もう一度自分自身に問うてみたい。
「自律」とは、他に制約されず、自分で自分の行為を制御すること。と広辞林には解説されている。医学の中でも自律は自律神経系等のように自分で制御する機関の名称として使われている言葉であり、非常に馴染みの深い言葉ではある。しかし、介護の現場で、この「自律」という言葉が非常に大きな因子として関係してくるのです。そして、自律を求めて常に学びを目指しているはずが、意外と介護職員の中で理解がすすまない現実に悩まされるところである。例えば、高齢者施設における虐待は、最近でも県内の施設で発覚し問題となったが、これこそ、介護職員の自律が担保されていない典型のようなケースである。
自律には、自分自らが律する事が求められ、そこには冷静に自分自身を見つめなおし、自分を客観的に評価する事が求められる。要するに自己覚知である。自分の性格、人格、人間性や趣味、嗜好までを客観的に見つめなおし、出来ること、出来ない事、好きな事、嫌いな事、得意なこと、不得手な事を全て理解し、その特異性を社会制度の中にどのように当てはめ、どのように生かしていくのか・・・を考えることが必要である。
介護職員の職域として第一番に、ヒューマンサービスの実践者ではある。しかし、そこには、どうしても逃れることのできない人間の性のような要素が人間関係を余計に複雑にしている現実もある。複雑な人間相互の関係は、その事業規模によって、組織の規模によって変化はするものの、その大半の事業所で職員間の人間性、職員対雇用者、職員対利用者、職員対家族等のように複雑に絡み合った人間関係が存在し、そこには数知れないストレス(ストレッサー)が存在する。 過度のストレスは職員の感覚、感情、意欲を次第に消耗させる。この消耗している期間には、問題は顕在化しない。職員も自分なりの責任と自覚をもって働いている以上、何とか自分の力で乗り切ろうとする。だから、この時には問題は表面化せず、水面下で悶々とした苦悩が渦巻いている状態である。時として、職員の一人が突然、辞表を提出する事がある。もう、すでに自分自身の意欲は低下し、どん底の苦悩を味わった後に初めて、管理者は自分の職場に問題がある事を知る。そんな状況が多く見受けられる。これは、第一の問題である自律していない職員による潜在的な虐待の問題と同じように、ストレスによる自己管理と統制の行き届かなくなる第二の状態であり介護現場の大きな問題である。
第三の状態として、「自律」は、時として誤った捉え方をされる場合が存在する。「自律」の根底に「自由」という言葉が見え隠れするが、この「自由であること」の方が、「制限」を超えて大きく動き始めることがその問題である。多くの行動に「自由がある」事は事実であり、現実ではある。当然、自分自身が決定して、行動に移すことは可能であるが、それを「自由」と判断されると、少し困った事態となる。社会には(介護の現場)には、「自由」もあれば「制限」も存在する。例えば成人は酒を飲む自由、タバコを吸う自由はある。しかし、そこに社会的な規範に伴う制限が存在する。その制限を克服し、与えられた自由を謳歌することは全ての成人には与えられている。問題は、この社会的な規範による制限である。高齢者介護の現場での接遇問題。対象者を子供扱いするような言葉かけ、認知症高齢者を自分より低い存在として扱うなど、社会的規範というより、人間としてのモラルに反する言動が、この自由と制限をしっかりと認識していない為に発生する問題として考えられる。
また、自律していない介護職員と同様、管理できない管理者の増加が更なる介護現場の混迷を深めていると言える。管理者として、要介護者を中心に据えた支援の輪の構築に「すべきこと」「すべきでないこと」をしっかりと示す事の出来ない管理者がそれである。介護職員はおおむね経験が不足し、必要なスキルも伴っていない。これから開発途上の人間と言えば言いすぎかもしれないが、今後の学びに期待したい存在であるにもかかわらず、適切な管理が出来ていない。
これら全ての点に於いて、介護の現場でソーシャルワーカーとして社会福祉を実践する者は、自己覚知を促し、自律を求めて成長していかなければならない。太陽の家においても、職員の自律を目標に、個々の職員が自ら考え、すべきことを判断できる施設に育て上げたいと思う。
ブログの書き出しは、タイトルでほぼ決まる。タイトル次第によって筆が進むか、途切れ途切れになるかに分かれる。ちょうど今頃の時間帯(表題のとおり、あと30分弱で今日も終わろうとする時)が一番緊張し、あせりも起きる時間帯である。話が弾まない時には、ブログの日付が今日ではなくなるからである。別に日付が変わろうと、ブログの総数にはまったく意味のないこだわりではあるが、そこが、一日に最低でも2本のブログを完成したい願望がある以上、結構こだわってしまうのである。
お陰さまで、今月はブログの本数が新記録を達成。この調子で行けば月末には50本ほどはクリアーするだろうと言う勢いである。しかし、世の中には、本当にいろいろなブログが溢れている。大半が私のような素人執筆家が書いているもので、ある程度、其の人物を知らないことには文章を読んでいても意味がプーな時がある。おそらく、僕のブログも同じように、世間一般には「タワケタことを・・・・!」と思われても仕方ない内容である。
こうやってブログを書いているうちにも時間は、刻々と過ぎてゆき、後20分で曜日が変わる。さて、少し急いでこのブログを完成させることとしよう。
ブログネタは、そこいら中に転がっているわけで、注意力と完成を豊かに観察すれば、色々な面白い文章が書けるはずである。面白い文章は、それなりに読み手の生活や社会に近い話題のものが好まれる。そりゃ~まったく自分とは無関係の話題なんて、誰も一生懸命読もうという気になれない。腹がいっぱいの人に食事の話題を提供しても、今はあ食傷気味で~す!と拒否される。腹いっぱいの上、まだ食べる話題かよ!となるわけである。
そして時として、せっかく書いて制限時間も守られた原稿をボツにするときもある。それは、書かれている下書きを読み、色々な事情が見えてくるときにボツにしてしまうことがある。何度も言うようだが、僕の文章は前後を考えて組み立てるのではなく、すべてが思い付きを文章化している。すると、感情だって書いてはみたものの、一部の言葉や文章がキツイかもしれないと思うことがある。そんな首をかしげるような文章を、大胆にも一般の目に触れるようにできないという点で「削除」となる運命である。
まア、この時間帯は特に眠くなる時間帯で、この時間は頭も働かず(えっ・・・・普段から正常に動いていないって???)文章が支離滅裂としてたり、面白くない単調な文章であったりする。そんなときには、一旦、書き上げて公開し、その後に修正すると言う手を使う。まア、今回も手ごたえのない文章かもしれないが、時間が差し迫っているのでこのくらいにして、公開しよう!!!!