みのもんたでは無いけど、不連続とは良く言ったものだ!連載となると締め切りやら、定期的に継続するやらの負荷がかかるけど、不連続なら何時だって中止できるしね・・・。まあ、とにかく、「うちの丸子さん」と題して想像上の人物”丸子さん”に認知症を患ってもらって、面白い行動であるけど、それが認知症なんですよ!って皆さんに理解して頂くためにちょこっと特集を組んでみます。
うちの丸子さん、昼間は快活なんです。朝もはよから洗濯です。両手いっぱいの衣類やら毛布まで抱えきれないほどの洗濯物をもって廊下を歩いています。
「あれ~っ、丸子さん、お洗濯なの?」と僕が声をかけると「部屋中に虫がわいて、痒くって寝てられへんし、天気もええんで洗濯しよ!思うて!」と言い残してランドリー部屋へ向かいます。洗濯機のふたを開けて、手に抱えた洗濯物を一生懸命詰め込んでいます。
洗濯機に入りきらない洗濯物の山を見て、「丸子さん、これ全部をいっぺんには入らんのとちゃう???」と僕は聞いてみました。
丸子さん、そこは長年主婦をやっていただけあって、男の僕には指図されたくないのでしょう。
「そんなこと、あんたに言われんでもわかっとる! そんなもん、二回に分けたらええだけや!」と人の忠告を無視して洗濯物を適当に分けて、なんとか洗濯機が自動で回る程度まで調整。さて、洗剤や柔軟剤を入れる場所が分からないのか、それとも洗剤を入れなければいけない事も忘れているのか。そのまま、スイッチオン!
洗濯機は素直に言うことを聞いてくれます。自動で水が入り、勝手に右に左に動き始めます。
丸子さんは、一回目の洗濯を始めると、さも忙しそうに居室に帰ろうと、傍で様子観察をしている私を邪魔そうに見つめながら、とっとと歩き始めたのです。
さて、洗濯機は洗剤も入れられることなく、最初から「すすぎ」状態。丸子さんにはばれない様に、こっそり洗剤を入れてしまいます。これで、時間が経過すれば、一回目の洗濯は十分出来上がっているはずです。ランドリールームを離れ、事務所で仕事をしていると、丸子さんがエレベーターで降りてくるのです。
「あれ?丸子さん、洗濯はどうしたの? もう終わったの?」と、いぶかしげに私が問いただすと
「なに言うとんの? 私の洗濯はM子ちゃん(うちの職員さんです)がいつもやってくれるやんか!私は、そんなことせえへん!」
真剣な眼差しで答える丸子さんに、私は来たぞ!来たぞ!と思いながらも、これから何をする予定なのかを聞いた。すると、丸子さん、今度は、お散歩に行くと言い出す。
ふ~ン・・・・これは洗濯物自体、忘れたな!・・・と感じた僕は、取りあえず丸子さんと外に出てはみるものの、数歩歩いて立ち止り丸子さんを見て言った。「丸子さん、思い出したよ!洗濯しとったんやった!ちょっと、洗濯物を放ってきたんで、先に見てくるわ!一緒にいってくれへん?」と。すると、丸子さん、黙って僕のあとについてランドリールームまで着いてきてくれました。それは、子供の世話をするお母さんの頃を思い起こしているのでしょうか?!しかたないなぁ・・・とでも言いたげな表情でした。
ランドリールームに着いて、洗濯機の中のものを見て、何だか洗濯物が自分の物のような微かな記憶が・・・でも、なんでこの機会の中に自分の下着やパンツなどが入っているのかが理解できない。不思議そうであり、不可解な現象に不機嫌になりつつもあり、とても複雑な顔をしています。
「これ丸子さんの洗濯物やけど、僕が勝手に廊下に落ちとったんで洗っといたん!」と大ウソこきバリバリの僕の言葉に、丸子さんは少しは納得してくれた様子。「廊下に私の洗濯もんが落ちとったん?・・・なんでやろ????」
「廊下に、なんで洗濯物が落ちとったかは分からんけど、洗濯物が多すぎてこぼれ落ちたんちゃうの?」の問いかけに、丸子さんはすっかりと納得させられて、おまけに洗濯物干しも手伝わされたというお話でした。
認知症の方は、断片的に記憶が落ちます。自分が意思をもってやり始めたことでも、途中でその目的や意図を忘れてしまいがちです。介助者は、そんなばあさんの姿に慌てず、その人を思いやって言葉かけをしてみてください。相手の力と知恵をお借りするスタンスの接し方は認知症高齢者には、とても受け入れやすい環境となります。決して叱らない。相手の行動であっても諫めない。
洗濯を失敗しても、特に問題となることは無いのですから、心を大きくもって見てあげてください。
私は飛行機が大好きである。飛行機そのものが好きであり、それに乗って旅行に出かけることも好きである。人によっては、あの鉄の塊が空を飛ぶことが信じられないと乗ることも嫌うご仁がいるが、私は滑走路から飛び立つ姿も、大空からゆっくりと舞い降りる姿も好きである。中部国際空港が完成してから以降、この鈴鹿上空も航路の一部となっているのか、結構低空で飛ぶ旅客機の姿を施設の上空に確認できる時もある。
あの大きく広げた翼ですべるように滑空する姿は美しい。もちろん、私たちの地域では離発着の現場には少し距離を置く関係で騒音が問題になることはないからかもしれないが、あの流れるような流線型のシルエットは、美しい芸術作品のような気品まで感じる。とにかく、大好きである。
私の年代の者にとって、(ちょうど、受験勉強のさなかに深夜ラジオを聴きながら机に向かっていた年代の者なら)馴染みのラジオ番組が、更なる飛行機に対する情熱を湧きあがらせてくれた過去を思い起こさせてくれる。あの当時は日本航空がスポンサーとして、城達也氏の甘い声でささやくように語りかける世界旅行への誘い「ジェットストリーム」という番組に聞き惚れながら、毎夜毎夜、深夜の12時にスタートする番組の中でまだ見ぬ世界へワープしていたものである。
いまどきの若い人には、すでに懐メロと言われるような古い映画音楽や世界各地の名曲を流し、その時折々の世界の街の紹介は、その当時の若造の自分には好奇心と夢と希望に溢れ、将来、自分の足でいろいろな世界の街を歩いてみたいと夢を膨らませるのであった。
飛行機には、本当にいろいろな思い出が詰まっているような気がして、今でも上空にジェットエンジンの音が聞こえてくると、ついつい上空に銀色にひかる機影を探し求めてしまうのである。
私は思春期の頃をアメリカのカリフォルニアで過ごしていた。大学に通学しながらサンフランシスコ近辺の小さな町に暮らしているころ、時としてホームシックにかかることもあった。何という理由もなく急に家族が恋しくなり、日本が恋しくなる。(海外に出ると、やたらと国粋主義者になってしまうのですね・・・!)そんなホームシックの折に必ず出かける所が飛行場であった。自分の住まいからも近く、24時間閉鎖することなく絶え間ない飛行機が世界各地から飛来するサンフランシスコ空港は南サンフランシスコのBAYサイドにあって夜間は全体的にオレンジ色の照明で照らしだされた滑走路とターミナルビルは、遠目からも美しくロマンチックな雰囲気であった。あの当時は、飛行機のハイジャックも無く、搭乗客以外の者でも何の規制もなくターミナルに入れた。それも、アメリカは入国こそ審査は厳しいものの、出国に際してはとてもルーズな国で、国際便にしても出発ロビーまで見送りに入れるのである。
そんな、ターミナルビルのボーディングデッキの椅子に腰かけて、色々な国々へ出発してく人々を見てると自分のさみしさが癒されて来るような気がしたものだ。飛行場独特のアナウンスの音やジェットエンジンの音を聞いていると、実際はどこへ出発する当てのない自分も、今すぐにでもサンフランシスコを後に飛び立っていくような錯覚を味わい、そして納得して家に帰る。そんな生活であったことも思い出されてくるのである。
年を重ね、記憶も定かでなく、心身の調子も低下してくる状況は、あの時のサンフランシスコ空港の出国ロビーに居るように、色々な雑踏のにぎわいやいろいろな違った人種に取り囲まれながら、自分自身はどこへ行く当てもなく座っているだけ。ただ時間と空間だけが流れるように自分自身の周りを通り過ぎてゆくような感覚ではないだろうかと思う。何かをやりたいのだが、何をしたらよいのかが分らない。意思を伝えるにも言葉が伝わりにくい、面倒である。そんな環境が高齢者のまわりにあるのではないだろうか。
自分が長年かけて築いてきたものが、次第次第に消えてゆく。出発ロビーにいる人たちが時の経過とともに機内に消え、やがて夢と希望を乗せた飛行機も長い滑走路から空の果てに向けて飛び立っていく。
太陽の家を利用してくださる高齢者の方の気持ちは定かではないが、こんな僕が感じた寂しさや孤独感に似た環境に暮らしているのかもしれない。
今日、ある筋から緊急ニュースが入れられたが、それは、私たちと同業の認知症グループホームにおける入居者への虐待行為である。この事件は先月末にすでに発生しており、福島県に所在するグループホームの65歳(年齢はしっかりと覚えていない)が40歳の男性介護職員による暴行が元で死亡した事件が発覚。今日、第一発見者である男性介護職員が逮捕されたというのである。
入居者の男性は比較的若い認知症の方であり、その死亡原因が内臓出血と窒息とニュースソースは発表していた。このニュースは一時、yahoo動画ニュースでも閲覧できていたが、今は検索しても出てこない。誰かが意図的に情報の操作をしているようである。
私のブログでも度あるごとに認知症高齢者への虐待や身体拘束について書いてきたが、実際の問題としてこのような事件が発生してしまって、同じような施設を運営する者として、非常に恥ずかしいし悲しい気持ちとなる。
太陽の家では、虐待や身体拘束は絶対にない。また、させない!と強く職員を指導し、同時に”してしまうような環境を排除するために、職員のストレスケアを行っている。しかし、このような事件が起きてしまうと、社会的な批判の対象となり真面目に対応している職員も同じように捉えられがちで、大きな憤りを感じてしまう。まだ、この事件の真相は伝わってこないが、二度とこのような痛ましい事件が起こらないように、管理者や経営者の方々には職員の様子をしっかりと観察していただきたい。
来週早々にも、太陽の家の職員には話はするが、この事件を教訓にわれわれの施設では、間違ってもこのような事件が起こらないよう、もう一度、体制を見直し、職員間の風通しを良くし、思い込まないような環境の整備に努めるつもりである。
皆さんにご紹介します。
この画像を見て何を考えますでしょうか?
何かが散乱してるぞ!・・・・・・・
駐車場のようだけど・・・・・・、花火の後かな・・・・・・?!
見てわかるとおりの惨状です。10名弱の若者達の花火の狂演から一夜明けた太陽の家裏の駐車場の写真です。昨夜は9時ごろから始まった花火大会(彼ら流の言い方ですれば)は、強い海風にあおられながら私どもの施設真裏のスキップタウン駐車場で始まりました。男女合わせて10名弱の若者達、中高生の年代の若者達ですが、打ち上げ花火やらドラゴンと呼ばれる地花火などを楽しんでいました。途中、改造バイクに乗った連中も合流し、騒々しくはなりましたが、施設方向に流れる煙と火の粉を懸念しながら見守りをしてましたが、程なく連中は立ち去りました。
夏の風物詩の花火、年齢を問わず見る人に感動を与えます。先日も熊野では有名な花火大会が開催され沢山の見物客を魅了したのですが、花火に限らず、イベントを実施するにはそれなりの責任と自覚が必要であることを、若者には学んでいただきたい。
例えば、風の向きを考えて花火を打ち上げるべきだよね!・・・その理由、火の粉が原因で火事になるかもしれない。
煙も同じく。 硝煙(火薬のもえるときに出る煙のこと)が原因で、気管支の弱い人に喘息などの発作が起きるかも。
ここまでの責任は、実際に花火に点火した人間に対してかけられる義務。これで火事になれば、過失責任は着火したものにかかるのですよ。高齢者を預かる施設に花火の火が引火して火事を起こせば、確実に入居者の中に死者はでる。そのような時に花火を楽しんでいた若者には刑事罰が下ることになる。もちろん、施設を管理する側にも入居者の安全を守る義務があるから、入居者を危険にさらした責任を問われることになる。
それよりも何よりも、自分達が楽しんだ後始末くらいはしなきゃいけないと思うのだが、どうでしょうか?
優等生みたいにきっちり掃除して片づけることに抵抗はあるのかもしれないけど、やりっぱなしってどうなんでしょうか?
きっと誰かが掃除するか?! そうだよな!どうせ俺んちでもないし・・・客商売で儲けてるんだから掃除は当然か!? まぁ、こんな理屈が平気でまかり通る人たちなんでしょう。
でもな! なんぼなんでも、同じ人間同士、この鈴鹿市に生活する者同士、できれば俺にもおれの権利を守らせてくれ!
前回、8月19日のブログでも書いたように、新型インフルエンザの脅威はますます増加傾向にあることが、毎日の報道で明らかになってきている。特に抵抗力の弱い人たちには、このインフルエンザは命の危険性を含んでいる。また、報道でも言われているように夏休みが終わって子供たちが学校に戻るころから集団的な感染が懸念されるようだ。
私たちの施設でも高齢であり、抵抗力の弱い人たちばかりをお預かりしている以上、このウイルスには神経質にならざるを得ない。今日から職員には朝礼の時に新型インフルエンザに限らず風邪をひかない!うつさない!に気を配り、自分たちの生活をもう一度改めてほしいと通告した。同時に、新型インフルエンザにかからないように、また少しでも罹患の危険性がある場合にはマスクを着用するように、職員全員に1ケース(50枚入り)の3層構造のマスクを支給した。
マスクに頼るだけではインフルエンザは防げない。同時にウガイ・手洗いの励行、作業用着衣と通勤用の着衣を分けるなどの対応策をお願いした。
この太陽の家からは一切の新型インフルエンザ罹患者を出さない。その強い気持ちと予防対策をもって、この冬のパンデミックフルーを撃退するつもりでいる。
少し話はくどくなるが、若い職員たちは、行動範囲も年長者に比べると広い。また不特定多数の集まる人混みを好む。これは私の若かりし頃も同じで、若さゆえ。と言った無謀さで夜を徹して遊んでいたものであるが、この時期、自分たちの職域を守るためにも少しの間は人ごみに入る時には十分な予防をお願いしたい。プライベートな時間の過ごし方は完全に自由ではあるが、本当に気をつけてもらいたい。