福祉の業界はとにかく、やたらめったらと「資格」を問われます。事業運営に際しても、色々な資格や経験を必要とし、それらの要件が満たされない場合は施設の運営ができない世界です。また、資格だけではなく、人員数や人材の質によって給付される介護報酬の額に差が生まれます。そういう点でも人の力を借りなければできない業種と言えるでしょう。
特に必要とされる資格に「介護支援専門員」俗に言うケアマネジャーですね。そして「看護師」「社会福祉士」や「介護福祉士」などが大きな資格要件となります。
資格みたいなもの、勉強すれば試験に合格して取得できると簡単に思いがちですが、これらの資格試験を受験するには、またまた受験するための資格や経験年数が必要となります。たとえば介護支援専門員は、介護福祉士や社会福祉士などの国家資格をもって5年以上の実務経験を経て受験することができます。もちろん、看護師や保健師、医師、歯科医師などの資格でもOKです。ただ、思いついてケアマネに成りたいから受験してみようか・・・では受験できないと言うことです。(ベースとなる資格さえあれば受験はできます。しかし、実務がない場合は合格しても資格は与えられません)
さて、これらの資格は確かに重要です。しかし、資格を持っていることは、そのままその人に技量が備わっている証明にはなりません!と僕は思うのです。資格取得を急ぐあまり、肝心な人間の心を忘れて資格取得のための勉強に忙しい人に、心あるケアを期待しても叶わぬ望みと思ってしまうのです・・・。
私も、ここまで経験年数はまだまだ少ないです。毎日が勉強の連続です。その中で、自分にできる限りの資格も取得してきました。しかし、先にも書いたように自分の持つ資格は、そのまま自分の技術と知識が高度なレベルであると言う証明ではないこと。また資格取得したその日から、スキルが格段の向上を認められたわけでもありません。しかし、資格取得すると自分の中の意識が変わることは事実です。資格を取得するにつれて責任感が生まれます。自分自身の発言や行動に責任が伴います。僕は、この感覚が重要と考えました。資格がすべてではありません。しかし、資格を取得するために努力し考える姿勢は大事です。私たちが実践する介護の業務は、非常に難しく、常に混乱と不安の中で正解のない支援を継続的行っています。これで終わりという考え方ではなく、常に「今以上」を追求して毎日の反省の上に介護の実践を行ってゆきたいと願っております。
2009年も残すところ、あとほんのわずか。テストに例えるなら、答案を見直しているような場面でしょうか・・・。こう書きながらも、このブログが公開される頃には時計の針は深夜の12時をまわっていることでしょう・・・
この年もいろいろな事がありました。毎日、毎日、真剣に生きたつもりですが、年の終りになって振り返ってみれば、まだまだ反省点も多く次年度に向けての課題となりそうな事項が思い当たります。反省と再計画の繰り返し。まさしく対人援助技術の基本形のようなもので、繰り返し繰り返し、達成されるまで計画として継続するわけです。しかし、ある面、いい加減学んだら!と言われる部分でもあります。今年こそは・・・ではなく。今年は必ず達成できるようにがんばって生きていくつもりです。
やはり、書き込みをしてる最中に、日付が変わってしまいました。
「皆さん、新年、明けましておめでとうございます。旧年にも増して、皆様のご指導、ご鞭撻のほど、心よりお願い申し上げます。」
このタイトル。驚きを表現しています。なんで、もうクリスマス・・・!って感じですが。一年の過ぎる速さに驚いてしまいます。年齢を増すにつれて一年のスピードは速くなっていくように感じます。うちのばあさん達といっしょにクリスマスケーキを食べたのが昨日のように・・・
今日も、利用者の方々とお話をしていたのですが、以前はクリスマスにはケーキを焼いたり、ローストチキンを作ったりと余計な御世話をしていた私ですが、最近はめっきりと何もしなくなってきました。怠けてると言えば、怠けてますが、実際はやることが多くて、実際に年寄りさんと何かをする時間がないのです。今、私が抱えている仕事は施設の防火スプリンクラーの設置で動いています。同時に、三重県グループホーム連絡協議会の年度替りに向けての準備をはじめました。ついでに、勤務表を組まなければなりません。おっと、お給料の支払い準備でコンピューター入力をしなければいけません。あっ!実習先の知的障害者施設へお礼の品を届けなければ・・・・
のんびりとデスクに座ってパソコンやってる場合ではないぞ・・・こんなブログを書いてる場合ではないんだ・・・・!?!?
でも、師走というものの、昔のような年の瀬イメージは薄くなってきました。私、まだ年賀状も書いていないんです!
今日、うちのグループホームの入居者の一名さんが事務所にきて訴えた!
「あんた、忙しいのに悪いけど・・・話きいてくれもらいたいの・・・・!」とAさん。
『うん! どうしたん・・・・?』と私。
「Mさんが、私の部屋に勝手に入ってきて、私の洗濯したての衣類の上にウンコしたん・・・・!それも、すごい量のウンチ!」
私はAさんの訴えを聞きながら、真剣に悩んでいるような彼女には申し訳ないが本気で笑ってしまった。実際に自分の下着や衣服の洗濯上がりの上にうんちが乗っている状況を考えれば腹も立つだろう・・・私は、訴えているAさんに詫びながら、
『Aさんには、申し訳ないけど、Mさん、そんなに沢山のウンチをAさんの着物の上にして、さぞ気持ちよかったんやろね・・・・・△■◎、<>””~7』と言った。
「そやでな、今日から私の部屋は鍵をかけることにしたん!」と彼女は言った。
『うん! その方が良いな!、まあ、職員には注意するように言っとくわ!』と伝えて、Aさんの訴えは終わった。
Mさん、とても重度の認知症です。最近では、自室のクローゼットの中でもオシッコをするらしい。以前からトイレットペーパーに包んだ春巻き状のウンチがタンスの中に入っていたりする方です。他者の部屋も、洗いたての洗濯物も理解できません。その時は、置いてあった洗濯物がトイレに見えたのでしょう。(見えたのでしょう・・・という言い方は妙でしょうが、実際に酔っぱらいのオジサンたち、深夜の繁華街で電柱に向かって一人怒ってブツブツ文句言う人。そんな状況を見た記憶はないですか? それとか、風邪をひいて高熱でうなされるとき、冷たい氷まくらで冷やされるとき、体が宙に浮いていくような気持ち良い感覚になったことはないですか?
認知症も重度になってくると、きっとそのような感覚なんだと思います。人様の衣類の上に、常識では考えられないですよね!でも、できてしまうのです。私は太陽の家の職員さんに伝えたい。認知症の人たちなんです。私たちの社会の常識を当てはめるのではなく、この人たちの感性の中で一緒に生活してあげることがグループホームなんですよ!
押し入れでオシッコしたら、なんで押入れがトイレと錯覚してしまうのか?を考えてみてください。その人にとってのトイレのイメージは私たちが思っているトイレのように、真白な便器に明るい陽射しの入る清潔な洋式トイレではないのかもしれません。少し、極端ですが、彼女の部屋のトイレをカーテンをつけて暗く変えてあげる。逆に押入れの中を明るく変化させてあげれば、この問題は解決するのではないのでしょうか? Mさんが、押し入れでオシッコする行為を嘆くのではなく、その行動を普通と理解して彼女の錯覚を取り除いてあげる工夫が認知症高齢者への支援ではないですか??
Mさん、洗いたてでフカフカの洗濯物の上で、お尻放り出してウンチ・・・・さぞや気持ち良かったことと思います。職員のみなさん、洗濯物の乾いた太陽の香りと洗剤の香りに包まれた空間。足元にはほんのり温かでやわらかな肌触りのもの・・・きっと赤ちゃんの頃感じたような感触を味わいながらの排泄だったのでしょう・・・可愛らしいとと言うか、笑えると言うか・・・認知症のなせる技です。