太陽の家

  • ホーム
  • 太陽の家とは
  • 施設のご案内
  • サービスのご案内
  • ブログ-施設長の部屋

ブログ-施設長の部屋

2010/4/16
自分の趣味

dsc02344.JPGdsc02346.JPG 国家試験も終了して今は、言わば「鳥の巣症候群」にとらわれているような状態が続いています。要するに目標がなくなり手持ち無沙汰。手持ち無沙汰を通り越して何かやらなければいけない焦りもあったりして、非常に微妙な状況に追い込まれてしまいました。これは、定年退職を迎えた人々が感じる穴の開いた空虚な間隔に似ていることと思えます。こんなときは、今までやりたくて仕方なかった趣味のプラモデルでも作るか!と毎日考えてはいるものの、そのためにワザワザ、模型屋さんへ足を運ぶ手間が面倒くさい。

 実は、僕はプラモデルを組み立てる趣味以外に骨董まではいかないけど、ちょっこっと古い物を集めることが好きなんです。例えば、使い古した携帯電話(そんなに古くはないでしょ!?)、昔のバービー人形(新しいバービーも好きです)、ブリキのおもちゃ(この辺になると、少しだけ希少価値が出てくるのですが・・・・もちろん箱つきで集めています)まあ兎に角、ジャンクグッズと言われる、人によってはまったく価値の無いものんを沢山集めています。その中に、古いプラモデルも沢山含まれています。古い発売当初の物で1970年ごろに発売されたフェラーリ ディーノの模型などです。もちろん、組み立てていない物です。

 模型屋さんへ行くのが面倒なら、そのコレクションで持っているプラモを組み立てたら・・・・?と思われるかもしれませんが。そんな訳には行かないのがコレクターの辛いところ。ほこり被って薄汚れた箱に入ったフェラーリの模型は。恐らくこのまま僕が死んでも素材のまま残っていくのでしょう! (^ ^) そして、誰か関係者が、僕の死後、家の整理をしている最中に見つけて言うのです。

『こんな古い模型、誰も欲しがる者はおらんわ!』と・・・・そして、ゴミとして放り出されるのでしょうね!

 まあ、そんな僕の大切なゴミの話ではなくって、僕らの世代が要介護者となる時はそれ程遠い先のことではないのですが、認知症ケアの中で今叫ばれているパーソンセンタードケアとか、センター方式のケアプランにもあるようにその人の生活暦を大切にした介護。団塊の世代の人々は日本の高度成長の時代の人々ですよね!僕の一つ先の世代に生まれた方々くらいから、世の中は物質文明の初期に思春期を向かえ多趣味な人が多いのです。趣味もそうですが、音楽も多様化しています。邦楽派もいれば、ビートルズ派、ロックンロール派、クラッシック派と本当に多彩です。こんな生活様式のまったく違う中で老いていった人々をケアすることを想像するのですが、今のケアの仕方で大丈夫?と訝しく思うときがあります。

 高齢者介護の事業所を訪ねると必ず唱歌や童謡を歌っている場面に遭遇します。まず、このあたりから変化しそうです。歌う唄が唱歌ではなくルイジアナママかもしれません。又は、知る人ぞ知るザ・カーナビーツの一曲かもしれません。そして、何か好きなことを見つけましょうね!という促しには「プラモデルを買ってきてくれ!」と言っているかも知れません。東京が好きで秋葉原に事の他愛着のある者にとっては、家を勝手に脱出して東京の秋葉原まで徘徊するかもしれません。こんな人たちの面倒を見るのですから、これから先に福祉の世界に働く人達は、いろいろと勉強しなくてはいけないことが増えて大変そうです。

 まあ、その頃の僕は、ボケボケの老人になってる頃ですから、世間の事など、どうでも良くなってて関係ないですけどね・・・・!と一人ほくそ笑んでいるのでした!!

2010/4/15
アクセス アナリティックスとは?

 ” Access Analytics ”アクセス アナリティックスとは、簡単に言えば、このホームページに外部からアクセスして頂いた回数データのことである。簡単に言えば、テレビの視聴率みたいなものであって、時間別、曜日別、ページ別、アクセス経路別に回数が記録されるシステムである。太陽の家のHPにも、このシステムは採用されており、これらのデータは色々な形でHPの質の向上を目指して利用されている。とは言うものの、テレビ局にとって視聴率は営業成績の判断材料として重視されているように、私自身にとってもこのHPを訪問してくれる人の数は大きな意味を持っている。例えば、ブログやHPの更新が滞った時などは端的にアクセス数が減少する。また、逆に更新回数が増えるほどアクセス数は増加する。もちろん、単なるアクセス数からは、閲覧者の評価は見えてこない。しかし、ブログを書き込めば書き込むほど伸びるアクセス数は、麻薬と同じで気にし始めると中毒のように気がかりとなり、その分ブログ等の書き込み回数も自然と増えてしまう。

 問題はアクセス数を気にするあまり、自分の書きたい、伝えたい言葉が伝えきれない場面である。今のところ、訪問者を対象としたゴマすり文章は書いてはいないが、これがエスカレートする中で喜ばれる文章を書いてしまうことが一番の気がかりなことである。毒舌とまではいかないが、結構、思いのままの文章を書いている自分が他人から見て面白いのであって、ゴマすり文章は読んでいて飽きが来ると思っている。かと言って、あまりに私的な話は読んでいても楽しくは無い。如何にすれば、読んで面白く、役に立つ新たなる発見を導き出せるかが勝負のポイントだと考えている。

 毎夜毎夜、皆が寝静まった頃、一人でデスクのパソコンに向かって、黙々とキーボードをたたき、睡魔が全身の筋肉を緩めるまで新ネタに考えを廻らせて今日もまた座り心地の悪い椅子と安物の会議机に向かって文書を模索している。

2010/4/15
僕の七つ道具

旅行用の必需品、薬、香水、ハンドクリーム、葉巻、シガーカッター

旅行用の必需品、薬、香水、ハンドクリーム、葉巻、シガーカッター

僕の愛用の孫の手と耳かき

僕の愛用の孫の手と耳かき

 人は、それぞれ自分が普段、必ず持ち歩く物がいくつかあることと思う。私自身も自分のブリーフケースの中に必ず入れて持ち歩く道具類が存在する。手帳、筆記用具、携帯電話、身分証明書の類やクレジットカード、携帯電話の充電器、目薬、アイポットとイヤホン、デジカメ、本(読みもしないのに福祉学の本)などを常に持ち歩いている。そして、普通の人が持ち歩かない物として、「収縮式孫の手」と「耳かき」がある。これは、本当に優れ物の一つなんだ。加齢と共に皮膚が乾燥しやすくなって、別にシラミもいないのに背中がかゆくなる。老人性乾皮症がその原因である。同じように耳が痒くなることも多い。そんなときに孫の手があると非常に便利である。それも携帯用だから必要なときには適度な長さに伸びる優れものである。まぁ、日常的にはこのような「道具」を持ち歩いて、快適な毎日を過ごす努力をしている。(笑)

 さて、この春までは大学に学んでいた学生さんをしていた関係で、頻繁に泊りがけのスクーリングに東京や大阪へ行くことも多かったが、その時の僕の七つ道具は、薬、ありとあらゆる薬をパッケージに入れて持ち歩いていた。例えばアレルギーのための薬、解熱剤、頭痛薬、下痢止め、咳止め、睡眠薬、胃薬、消化薬、、軟膏、抗生物質、降圧剤等である。それとポケットナイフ、折り畳み傘、ビニール袋、風呂敷、特別な物としてシガーカッター(葉巻が大好きで、旅先で葉巻を嗜むことがひと時の安らぎとなる事から、旅行には必ず葉巻を持参する)、そしてノートパソコン、洗顔セット。これらの物にプラスして普段持ち歩く物を携えて新幹線に乗車する。言ってみれば、女性以上に物に溢れ、沢山の荷物を持って身重な旅行を行っていると思える。確かに、私の荷物はたかが一泊程度でも持ち歩く荷物の量は多いし、重量もかなりのものである。目的地に行く前から荷物は重くかさ張っているので、帰り際に職員さんにお土産なんて買えないし持てない!(すごい勝手なこじ付けを理由に、あまりお土産の類は買わないことにしている)

 また、自分で言うのも何だが、自分の着る服に関してはかなり気を使う方である。同じ日の昼と夜では服を変えないと気がすまない。朝から晩まで一緒の服で勉強し、教授と一緒に食事したりするときも時間を見つけて着替えして出かける。だから、上着から下着まで倍の衣類を準備することとなる。必然的に荷物はかさ張り大きめの旅行かばんを持ち歩くことと成る。全然旅慣れていないと言えるかもしれない。時には靴まで履き替えることもある。

 他人さんが聞いたら、さぞや馬鹿らしいと思われることでも、自分にとってはい非常に重要なアイテム達なのである。

 私の七つ道具にしても、他人から見れば無駄であり意味の無い物ばかりかもしれない。しかし、これが私のライフスタイルなのである。高齢者介護を担う者として、この点を十分に理解できるようにしたい。私たちの価値観で判断するのではなく、その人の価値観を理解し、その人のこだわりを理解してあげることが信頼関係の構築(ラポールの形成)に必要不可欠な要素なのである。(って、小難しいことを並べて・・・・単なるごまかしですか?と言われそうである・・・・はははは)

2010/4/14
一生懸命に書き貯めた文章が一瞬で消え去るとき。(><)

 コンピュータの恐ろしい点がここにある。こうやってブログを書き連ね、考え考え、足らない頭脳をフル稼働させて書いた文章が一瞬で消えてしまうことが時として発生する。何も異常な操作を行ったつもりも無く、単にコンピューターの機嫌が悪いときに、突然プログラムが終了していくのである。成すすべも無く、無常にもコンピュータのブラウザは閉じ、元へ戻そうにもすでに一切のデータは消滅してしまった後。

以前に、僕のブログの書き方は、思い付きをひたすら打ち込んでいくハードタイプであり、文章の構成も何も考えることなく、タダ思いついた言葉をキーボードを使って打ち込んでいく、だから、僕の文章には誤字、脱字が多いのだが、それでも記録されブログとして世間の目に触れることが出来れば、書いた甲斐もあるというものである。しかし、突然のブラックアウトには、それまでの苦労と労力は無になってしまうのである。これは悲しい。悲しいと同時に腹立たしい気持ちとなってしまう。思わず汚い罵りの言葉も出てしまう。

 相手は感情の無いコンピューターだ。機械には私の都合など理解できなくて当然なのだが、思わずキーボードを持って壁に投げつけたくなることもシバシバである。

 まぁ・・・悔やんでも仕方ない。もう一度、文章を思い出しながら書き直しでもするか・・・・・

2010/4/14
衰えつつある父親の姿

 今年で85歳になるのか・・・・。と自分の父親の年齢を考えるときがある。日本人男性の平均年齢を軽く超えている今でも、私自身が自分自身の実年齢をしっかりと認識できないように、同じように年老いていく父親をみてても、そのような年齢に達している現実を認められないようなところがある。自分自身の年齢を増しても、父との歳の差は狭まらないことも、何時までたっても父は父であり、僕はその息子のままで今も生活している。そんな父親だが、普通の会話をしている時に最近、とみに老いを感じるときが増えてきた。

 まず、同じことを繰り返し言うようになってきた。父の日々の生活の中で不安に思う点、疑問に思う点に対してしっかりと説明をし理解を求めたつもりが一晩過ぎると、また同じ不安感、疑問を訴えてくる。その都度、同じ説明を繰り返し納得してもらうが、恐らく昔のように軽く了承することは出来ないまま日々を過ごすのだろう・・・。

 それと、両親の家を訪ねると(僕が両親を訪ねて行く頻度は非常に少ないが)、必ず居眠りをしている。それもテレビを大音量で流しっぱなしにして居眠っている。歳とともに聴力が衰え、人の話し声も聞き取りにくい状況があるらしく、テレビの音量は健常な私にとっては耳が痛くなるほどの音量である。それにも関わらず、こんな騒々しい居間でよく眠れるものだと感心してしまう。

 また、私の父は今も車を運転する。先日、免許証の書き換えを行ったらしい。ご他聞にもれず、認知症テストを受けさせられたらしい。何とか今回の更新では取り上げられなかったようだが、次回の3年後の更新は難しそうな感想を話していた。父は、昔から車の運転は定評あるほど上手な運転をしていた人で、子供ながら横に乗せてもらってドライブに行くことが楽しかった。仕事柄、結構色々な車を運転することも多く、(私の父親はホンダの販売店のメカニック兼セールスもこなす何でも屋であった)、あの当時はホンダS600や1300クーペなどのスポーツタイプの車両を矢継ぎ早に発表しているような時代で、それらの最新式のモデルに乗せられて出かけることが多かった。その時代の父親の影響を受けて、僕自身も車は大好きである。そんな、車の運転の上手な父親だが、ここ数年、自分の車を何処かしらに擦り付けてくるアクシデントが増えてきた。妹夫婦は交通事故を恐れるあまりに父の運転を自粛するよう求め続けている。高速道路を逆走した事故のニュースなどを聞くたびに真剣に心配しているようである。

 歳を重ね、老いるという事を認めることは難しい。また、老いを認めた時点でその人の人生が極端に小さくしぼんでいくような気がする。実際、加齢と共に大切なものや人を失っていく人生の終末期には、その人の社会が小さくなっていき、それに伴うように身体機能や精神機能までも小さく小さく萎んで、最後には消滅して消えてしまう。

 まだ私は足腰も気力も旺盛な分、自分の世界はかなり大きいと思う。さすがに徹夜を繰り返すことは出来なくなってきているが、明日、急用で海外に飛部必要性があっても対応は可能である。世界各国へ行くことまでは少々難儀かもしれないが、それなりに持っている社会は大きい。しかし、持病の腰痛が悪化し、常に寝起きも辛いほどの腰痛に悩まされるような年齢となってくれば、今までのように一寸東京へ!などといってられない時はくる。そして、移動手段の自家用車すら運転できなくなってくると、自分の位置に地の生活範囲は極端に小さくなってしまう。せいぜい、自宅から数キロ離れた場所までが生活圏と変化してしまう。今、私の父親は、このような瀬戸際に立たされているのだと思う。

 自宅を中心に半径数キロ。それさえも年々距離が小さくなり、自宅から一歩も外に出れなくなってしまうことを考えるのは辛い。何も考えることがなくなる。テレビだけが唯一の情報源となり、そのテレビですら今時の若者をターゲットとする番組構成で、年寄りが見ててもテンポについていけない。会話の意味が理解できない。・・・・・もう居眠るしか方法がないのです。そして、朝になく、昼になく居眠り惚けているうちに時間と曜日の感覚が薄らいでいく。何でもかんでも、今となってはどうでも良くなってくるのです。そして、次第しだいと記憶力が低下し、脳の萎縮が始まっていくのです。

 子供にとって親が老いる姿を見るのは辛い。寿命が延びるにつれ世の中に同じような気持ちで親を見つめ、将来を不安に感じるひとも多いことともう。しかし、私はこれも自然の摂理であると思うし、その中で如何に楽しい余生をおくらせてあげることができるかを考えてあげたい。と思っている。情けない姿をさらす父をみても叱責したり否めたりしないで、父としていつまでも敬い接してあげたいと思う。

 そして、同様にうちのデイサービスやグループホームを利用してくれる方々にも敬い、尊厳をもって生活できるよう接していきたい。


2024年 5月
   12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031    
月別表示
最近の記事

  • 太陽の家 お気軽にお問い合わせください
    〒513-0808 三重県鈴鹿市西條町495-1
    TEL:059-383-8383 FAX:059-383-7938
  • インターネットからお問い合わせ
  • お電話でのお問い合わせ
059-383-8383
受付時間/9:00~18:00
閉じる  印刷する