クリスマスも、これと言って特別のことも行わず、ただじっと家にいて食事を普通のように摂ってテレビを観て過ごした。そんなクリスマスが過ぎてしまえば、正月までのカウントダウンとなり、毎日がせわしく、仕事だけでなく、一年の締めくくりのための大掃除や正月準備が同時進行で開始される。こうなると、一年の最終は非常に足早に過ぎ去っていくものなんだ。そんな中、今日の夕食後にNHKのBS放送でハイチのストリート・チュルドレンのドキュメンタリーをみた。ハイチのストリート・チュルドレンの二人の兄弟の10年を取材したものだったが、同じ人間でありながら肌の色が違うだけで、生活の違いを目の当たりにして驚愕と悲しみを感じた。
見る者の気持ちを重くする映像であった。以前にも、このブログで触れたことがあるが「貧困の連鎖」そのもので、数世代前は奴隷として植民地につれてこられた黒人社会の貧困が、さらなる貧困を生んでいる。国としての社会保障も無く、全てを自分の力で生きながらえなければいけない人が、この世の中に存在することは驚きである。富裕層の食べ残した残飯を、ゴミ処理施設で奪い合い、力で奪った残飯を頬張る子供たち。小高い丘の上に建つ豪華な屋敷と、その丘のふもとにひしめき合うスラム街。この街では1%の富裕層が国土の半分の土地を所有しているらしい。残りの半分を99%の住民が暮らすわけだから、自然と一人の占有できる面積は小さい。おまけに主だった産業も無く、就労することも困難な社会ゆえ、日々の糧にも困窮する毎日である。所得も無く、家計は苦しく、満足な食事どころか教育すら与えることの出来ない過程では、生れ落ちた子供を邪魔者扱いする親が多く、虐待や暴行が横行する。そんな家庭に居ても、生活していける希望も無く、こども達は家を出て路上で生活するようになる。
そんなストリート・チュルドレンが生きていくために、安い手間賃で洗車をして金を稼いだり、露天商を始めたりといろいろ知恵を働かせて生きようとする。上排水設備も整っていない国であるから、飲み水も満足に手に入らない。排水の一部を利用し生活用水として再利用するレベルである。衛生管理の行き届いた日本の社会で慣れきった我々のような人間が生活するには、毎日が下痢と嘔吐の連続であろう。それよりも何よりも、廃棄処分された残飯をより分け、熱も加えず、そのまま残飯を頬張る若者の映像には、強いショックを感じた。私達の社会は、なんと裕福で豊かな生活なんだろう!と・・・
時折、ユニセフから寄付を募る手紙が送られてくる。僕は、今までそのような郵便物を信用していなかった。寄付したところで、それらのお金は直接必要としている子供達には届かないような気がするからだ。ハイチに限らず、上で苦しむ人々に救援物資を届ける映像は良く見かける。しかし、どの映像も、救援物資が公平に分配されているわけではない。ここでも弱肉強食の社会が存在し、力の強い者が奪い取り、弱者には何も残らない。そんな映像が紹介されることからも、寄付する意味が見出せないで居る。しかし、今回のハイチのストリート・チュルドレンの情景を垣間見て、充分すぎるほど栄養過多の自分の食事代の一回を抜いてでも寄付すべきかもしれないと感じた。
肌の色が黒いという意味は、日本のような平和社会にとっぷりと浸りきった国民には理解できない辛い、厳しい、超えられないジレンマが存在するのだろう。この自然界で一番残虐な動物は人間であるといわれる。其の言葉の通り、同じ人間同士が、権力と富を求めて殺しあい、肌の色や種族によって差別しあう。本当に心をもった動物とは思えない社会が人間社会のようである。
流石に、今日のブログは内容が重かったようである。しかし、時にはまじめに人間を考える場も無ければ・・・それでだって単純で安っぽい同情心で物事を一方向でしか見れないのだから・・・・
最近また迷惑メールであり、いかがわしい悪徳な商売としてのおびき出し又は地雷メールの類が沢山送られてくる。最近は、やたらとゴールド、プラチナ会員へ昇格した祝い金を数百万円送金したいので、送金先を連絡しろ!とか、何とかの秘書からのメールでは三千万円還付したい。などのメールが多く送られてきます。この手のメールを全て無視していたら、とうとう僕の銀行口座番号を取得したが、その番号に送金したら良いのか確認してほしい!と言っています。
本当にあの手この手で、折り返しのアクセスを求めている点が共通している部分です。結局、これらのメールに、こちらからアプローチをかけた時点で何がしかの支払い義務が、僕の方に発生してくるのでしょう。Hな路線で出会い系ともとれるような、お誘いメールが送られていたと思っていたら、今度は経済的に余裕があるから寄付したい。とか、会員のランクアップが達成されたので、その報奨金を受け取ってほしい!等のメールへ。次は、何のいわれもないのに何千万円もくれるという大盤振る舞い。
それも、一日に数十件も連続的に送られてくるのです。商売熱心と言うか、撃てば響く業界なのでしょうか?世間には僕と同じようなメール攻撃を受けている御仁も多かろうと思いますが、すでにこれらの悪徳な連中の罠にはまった人も多いのでしょうか?反社会的な商売に手を染めて、一攫千金を狙っての商売かもしれませんが、人生、そんなたやすく金儲けは出来ません。また、小額の補助金ひとつ貰うにも、複雑な書類を整え、それら必要とされる条件を満たして初めて受け取る事が出来るのですよ!メールの一本で、特に何も申請もしていない、それらの協会やら会にも所属していない、言ってみれば赤の他人になんで何千万円ものお金をくれると言うのでしょう・・・?
冷静に考えてみれば、これらのメールが餌であり、それに食らいつくのをひたすら待っているフィッシャーマンズなのでしょう。皆さんも、くれぐれもこの様なアホな誘いには乗らないよう、「ワンクリックが悲劇と災いを生みます」
今日は、仕事を終えてから太陽の家の忘年会を行った。今年は初めて白子地区の飲食店を利用しての忘年会である。太陽の家のような入居者を抱える老人施設は、必ず職員が職場に残ることとなり、全ての職員が総出で忘年会の一つのテーブルを囲むことは絶対にありえない。其の点では、今日の忘年会に参加できずに職場で仕事している一部の職員さんには申し訳ないと思っている。
さて、そこで忘年会と言えば必ず飲酒という行為が行われ、そこでは無礼講の名の下に、上下左右かまわず乱痴気騒ぎが相場である。しかし、太陽の家はそんな世間の通説に逆行してるのか、年々、会の場での乱痴気騒ぎが減少してきている。其の一つの理由に、僕があまり酒を飲まないことと、年齢を増すにつれ飲酒自体が苦痛に変わってきたことである。昔から地元の酒飲みのおっさん連中から「酒を飲まない奴は人生の喜びを知らない!」と散々いわれ続け、其の言葉に腹立ち、焼け野やんぱちで無謀にも酒を飲んだ時代もあった。しかし、其の度に、胃袋のひっくり返る思いをし、一晩中便器を抱えて眠るという醜態をさらしてきた。それらの苦痛に自分なりに学んできて、一応は自らの命を大切にする方向に考え方がシフトされつつある。呑み助おやじからすれば、「本当に面白くない奴!」とののしられることだろう・・・・
次に乱痴気騒ぎについて、これも年齢は関係しているが、それよりも自分自身の今の立場が大きく影響を及ぼしている。自分なりに考えてみると、何時も自分自身の感情を押し殺して仕事に精出している職員に比べると僕なんぞは、いつでも好き放題。勝手なことばかり言ってるワンマンな管理者である。われを忘れて飲み干したい気分は、私ではなく職員さんのほうであろうと!考えるのである。そして、乱痴気騒ぎでも何でも、その後に起きた事象に冷静に対処して、職員さん達に災いが起こらないように見守るのが、今の自分の立場なのか!と考えてしまうのである。今日も、ある職員が言った。「昔は酔った勢いで、みんなの前でお尻出して騒いでいた!」らしいが、自分が職員よりも酔いつぶれてしまっては元も子もない。そんな気持ちが起こってしまうのである。
まあ、そのような面白も見の無い男となりつつある私かもしれないが、今日、本当に本心から、美味しそうに料理をつまみながら談笑する職員の顔を眺めていて思っていたこと。それは、僕はこの子達のお陰で助かっているんだな~!!!と・・・・お世辞と言われるかもしれないが、実際に僕があのときに思っていた心のうちなんだ。
人間には、無い様に思えても7つの癖があると言われるが、今回は僕の行動の中で笑える行動を紹介したい。
僕は音楽CDを買い集める収集癖がある。気に入った音楽CDはやたらと買ってしまう。もちろん購入したCDは何度も聞く。最近ではIpodに入れて何時も聞いている。しかし、問題は数が増えてきたCDの影に同じCD版がちらほら散見されるのである。以前買ったCDをまた別の日に購入してしまう。つまりダブって同じCDを購入してしまうのである。僕のCDコレクションは今では1000枚を超える枚数となり、それら保有するCDを全て覚えていない点が困った問題なのである。つい先日も、某ネット販売の本屋さんの視聴コーナーで聞いていたら、とても素晴らしいジャズCDを見つけたので、早速購入手続きを。わずか数日で希望したCDは手元に配送され、そのCDを専用の棚に整理しようとした瞬間。同じCDが存在することに気づくのである。これは、笑えると言うより悲しい不注意。
僕は好物は一番最後に食べる主義である。お弁当のおかずには、特にこの癖が顕著に現れる。卵焼きが一番好きな自分は、卵焼きは何が何でも一番最後なのである。ご飯が全部無くなって、最後に卵焼きだけを充分に味わいながら堪能するのである。たまに、嫌いで残していると勘違いされて食べる前に下げられるときがあるが、そんなときは最悪である。それこそ鳶に油揚げ!の状態となってしまう。大切だから、充分に目で味わい、味を想像して楽しんで、そして最後に卵の存在を口で感じる。
次に、財布の中の紙幣はずべて方向をそろえてしまっている。時として買い物先で非常に忙しいレジでは、つり銭を受け取って整理して,財布の中に収納できない場合がある。そんなときは、一旦はポケットに無造作に放り込むが、その後、しっかりと向きをそろえてしまいなおす。財布の中で諭吉は正面を向いていないとだめなのである。それと、お札は出来る限り新札を用意している。折り目がいぱいついている古いお札は嫌なのである。昔は、お札にアイロンをかけていたほどである。(これは、本当です!)
僕は飛行機が好きなので、上空にジェット機の音がすれば、かならず空を見上げる。(子供でも有るまいし・・・とは思うが、そこが何とも癖のようで・・・)
これでいて結構、ゲンをかつぐタイプ。試験を受けるなどの勝負事には服が決まっている。(勝負服ってのがあるわけで、今のところ、この勝負服は成功している。)
書き出したらきりが無いほど、また、トイレでの習慣など本当に沢山の異様な習慣をもっている。これもなくて七癖なのか?それとも奇天烈な習性なのか?まあ、でも笑って貰って何ぼ!ですから、これはこれで良し!とする。
毎月恒例である太陽の家職員さんの自己評価を読んでいて今日考えたことを書こう。一人の職員さんは太陽の家に就労するようになってまだ間もない新人職員さんといえる。そんな彼女が、自己評価と次月の目標に、利用者の方を介護してると周りが見えにくい。ハッと気づいて周りを見回すと危険な状況も数多く、また支援を必要とする場面も多かった。として、とても自己評価は辛口の点数がつけられていた。
彼女のそんな評価を読ませてもらってから、じっくりと彼女の介護を観察させてもらった結果、あることに気づいた。それは、彼女はとてもまじめに利用者の世話をしている。何の問題も無いような、本当に細かなところまで配慮した介護を行っている。しかし、一人の人にかかりっきりとなって、その間、他の利用者の方には目が届いていない。まったく見えていないわけではないだろうが、他に目配りするだけの余裕はないように見える。
その時、気づいたのは、彼女はあまりにも細かな点を含めて利用者のために動きすぎている点である。今日の例から言えば、大よそ10名ばかりの利用者の方々がテーブルに向かってカレンダー作りを行っている中で、まさこさんは視力に障害を抱えているために色付けがしにくい。そんな問題を抱えている。何度も何度も、自分の作っているカレンダーを目に近づけて、下絵の線を確認しようとしている。また、色鉛筆の色も見分けにくそうだ。その時、彼女は、そんなまさこさんを不憫に思ったのか、そばに寄り添い、いろいろと世話を焼き始めた。鉛筆の色と着色すべき箇所を言葉で説明しはじめたのである。
僕が傍らで見てる限り、まさこさんは苦労はしてるけど、決して作業が苦しくって助けを求めているようには見受けられない。それよりも、必死で自分の目標に向け(この場合、カレンダー作りを不自由な視力にもかかわらず一生懸命完成させようとしていること)がんばっていたのではないか・・・?と思えるのである。つまりは、お年寄りの支援をしてるつもりが、出来ることまで介護側が支援しすぎているのである。常日頃より、うちの太陽の家の介護は「出来ることはやってもらう。出来ないことだけを手伝いながら、次は自分で出来るように支援する」を目指して努力している。しかし、作品の仕上がりを気にするあまり、何のために全ての工程があるのかを見失っている。カレンダー作りの目的は、ただ単に色をつけて壁に飾れる作品を作っているわけではない。作品を作る過程に、どれほど自分自身が目標を定め、仕上がりを想像し、計画的に色をつけることができるか?が一番大きな目的である。僕は、それと同時に、自分が誰の力も借りずに完成させたカレンダーというモノが、その人にとって大きな充実感を与えることが出来るか。そんな思いで、これらの作業を計画に入れている。
僕は彼女を呼んで注意を促したのは、もう一歩、利用者から離れて見守ること。そうすることで、もっと広い視野で多くの利用者を見守り、必要なときに手を差し伸べることが可能となることを強調した。全体を見守っていると、個々の利用者の思いが徐々に伝わってくる気がする。必要としている支援が個々の利用者別に見えてくるような気がする。「そろそろ、色塗りに飽きてきたようだ」、「色鉛筆を床に落として芯が折れてしまった」「トイレに行きたくなってモジモジしてる」「周りの人の作品を気にしているから、そろそろ自分の作品は完成に近づいているな!」とか、そんな色々な事が見えてくるようになって、その可視化したニーズに対して、どのニーズを優先的に支援するか?ということを自分の中で整理して、判断していくべきではないだろうか?
新人職員さんは、自分の介護技術に地震が無いために、兎に角、利用者の方への思いやりだけでもしっかりと行いたい。と其の方向ばかりに集中的に支援しようとする。結果、周りの利用者への注意は散漫となり事故が起きてしまう。全ては、小さな範囲でしかものを見れない。その結果である。複数の状況を人間の二個の目で見るには限界がある。トンボのような複眼を持っていない人間には、それらの事柄を出来るだけ幅広く見るためには、自分が一歩も二歩も下がったところから見守っていかなければいけない。サッカーのゴールキーパーはシュートを受ける時には、出来るだけ前に出ようとする。その理由は、前に出るほど、守備エリアが小さくなるからである。シュートをキックするプレーヤーを支点とするならば、其の地点に近づけば近づくほど守る側としては有利になる。介護の場合は、其の支点が多数に散らばっているのだから、逆に支点から遠ざかれば全体が見やすくなる。この原理なのである。
ちょっと説明が分かりづらかった?まあ、一度、騙されたと思いながら、利用者から身を引いたところから見守りを実践してみれば、今までの自分自身の誤解が理解できるのではないだろうか?!