太陽の家

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ブログ-施設長の部屋

2012/3/15
参考までに・・・僕が気持ち良いと思うこと

デイサービスにしろ、グループホームにしろ、最近の高齢者介護の中心は、その人を中心においた介護(Person centered care)である。そろそろ、爺になりつつある自分を例に、僕が気持ち良いと感じる時についてお話ししよう!

 今、僕の中での一番のお気に入りは音楽である。普段からクラッシック音楽を中心に、車の中や自宅のひと時にはパソコンに入力した音楽を聴いている。そしてクラッシック音楽と同じくらい心地よいと感じる音楽に、ちょい昔のアメリカのクラブシンガーと言われる、フランクシナトラやトニーベネットの曲がある。今、はまっている曲に「How do you keep the music playing?」と言う曲がある。いろいろな歌手が歌っているが、この曲の歌詞が好きで、聴く度に感極まって涙が止まらなくなる。それ程、気持ち良い時がそこにある。

 デイサービスでは、どんな人にも同じように古ければ良いと言わんばかりに、懐メロと言われる歌を歌わされている。愛染かつら、銀座のカンカン娘などの戦前戦後の流行り歌である。ここに義務として参加して(本当は、もっと他の要望があるかもしれないが・・・)昔懐かしいとされるそれらの歌を 利用者全員が同じように歌わされる。そこでは、僕は、その歌、嫌いです!なんて言うことも出来ない。みんなが声をそろえて歌ってるのだから一緒に歌ってください!の一言で参加させられる。僕は、そのような施設は利用したくない。ましてや、決して上手とは言えない音程の外れたスットコドッコイが音頭を取っているような、そんな場所に居ること自体が苦痛以外の何物でもない。

 トニーベネットを聴いて、物思いにふける人なんて、この鈴鹿には居ないのかもしれない。でも、少なからずも僕は、そんな一人の人間である。もしも、自分が隠居を通り越して、ボケボケ爺さんになってしまったら、耳にイヤホンを突っ込んで、これらのCDを聴かせておけば、一日中ご機嫌さんでいられると思う。

 人によって生活歴や習慣や好みが違う。その人の細かな気持ち良い事まで気にする事は無いのかもしれない。でも、年老いて残りの人生がみえてきた時点で、僕は、自分の好きなように過ごしていきたいと願っている。無理やりに筋トレすることも嫌。不慣れな日本の音楽を聴かされ、歌わされる毎日が続くくらいなら一人で静かに垂れ流しでも良いから部屋にこもっていたい。今更、男気を出して女性を口説く気にもなれない。ましてや、そんなボケボケ爺さんに真剣に寄り添ってくれる介護士の人も居ない。それなら、いっそのことソッとしといてほしい。

 デイサービスを嫌う人が居る。人と交わることが嫌い?そこの施設に相性の合わない職員が居る?いろいろな条件が合わないで利用を中止する人が居る。それはそれで、私達がその人の求めるものを探せず、その人を気持ちよく出来なかったことが大きな原因であるなら、そんな人も一緒に気持ち良くなれる場所を提供できるようにしたい。まだまだ、僕たちの太陽の家は未完成である。そして、僕にとって気持ち良い場所であると同時に、他の利用者にとっても気持ち良い場所となりえるように、今もまだ模索している。

2012/3/15
レストランのドレスコードについて

高齢者介護とは、全くかけ離れた話題をひとつ。今日は、レストランにおけるドレスコードの是非について書いてみたい。

ドレスコードとは、そのお店が自らが店の雰囲気を重視し、来客には服装の下限を定めていることを指します。服装の下限と言っても、人によって評価に格差があります。例えばジャージでも高級ブランドの販売する一着上下のジャージ数十万円であっても、ジャージはジャージです。値段ではなく、その服装がフォーマルか?カジュアルか?である一線を引いているのですが、僕は、このドレスコードに大賛成です。言ってみれば、店側が自分の判断で店の挌を決めて、ある意味で客を選んでいる。人によっては、店側が客を選ぶとは遺憾である!と反論もある事と思う。この鈴鹿の田舎には、ドレスコードを指定するレストランは見当たらない。恐らく有ったとしても、鈴鹿二十万年の中のレストランに数件ではないだろうか?その理由は、客を選ぶことが客の減少に直結して、売り上げに大きな打撃を与えるからである。

 レストランも営業収益があって初めて成り立つ。商売だから客層うんぬんより実利を追求するのは理解できる。しかし、普段着も、ちょっと見栄をはっての外出着も一緒のフロアーで、同じ食事を摂る。誰しも、その日の気分は違うし、特別な日ってのも持っているはずだ。それが、この田舎では特別な日としての演出も出来ない。せめて人の目に触れにくい死角となる店のコーナーを使わせてもらって、特別な日のディナーを演出するのが精一杯である。

 田舎だから仕方ないとは思うが、これではいつまでたっても田舎のまま。テーブルマナーに不慣れで、高級レストランに偶然行く機会があったとしても、物おじして気が引けてしまい、せっかくの美味しい料理を味わうどころか緊張の冷や汗で何を食べてたのか全く記憶にない。そんな状況に陥る田舎のオッサン、おばやんとなってしまうのである。お店を選べないことは、非常に不幸なことであり、客も育たない、同時に店も育たない。慮法の悪循環が田舎のレストランには存在する。

 東京でも、大したことない。格式高い高級ホテルのレストランと言えば、ドレスコードにフォーマルな所もあれば、スマートカジュアルとしてするレストランもあり、唯一、大物シンガーのディナーショーなどでカクテルドレスやタキシードを指定する場面がある程度。東京ではドレスコードは、そのまま代金の高さに比例するだけのドレスコードでしかない。と言うのが現実である。ところが、ヨーロッパやアメリカにおいては、それなりの格式と厳選された場所で、ごく一般の客が、特別な日を簡単に演出できる場が用意されている。日本の食文化との違いであろうか・・・もちろん、日本には割烹料亭なるレストランが存在する。しかし、それとて、我々一般小市民が行ける場所かと言えば、決してそうではない。日本式割烹とは、選ばれたセレブだけの楽しめる、敷居の高いレストランであり、それこそ限られた人だけの場所として、一般市民でも利用できるドレスコード云々とは少し意味が違うので、その点に誤解のないように。

 まあ、何を言っているのか、甚だ分かりずらい、的を得ていない文面となってしまったが、つまりは、日によって変わる気分を、食文化も含めて、日本人ってのは楽しむことに疎い!と言うことが言いたいのである。食事をすれば早飯! 予約を入れてまで食事を楽しむ事を嫌い、味覚、視覚、演出より値段とスピード、尚の事、量さえ満たされれば、それでOKという食文化が重宝がられる日本の文化では、介護の世界も手短なニーズさえ満たせば万事がOKとなりがちなのは、それこそ国民性か・・・?!

2012/3/14
携帯電話をかける

駅で電車を待つプラットホーム。田舎の駅には、通勤通学時間以外は閑散とした静けさが漂うプラットホームがある。一人、電車を待つ反対側のホームでは、電車待ちの男性が、携帯電話を使って話しをしている。携帯を持つ手を耳に、もう一方の手をズボンのポケットへ。そして、会話しながら、ウロウロと移動する。靴のつま先で、ホームのコンクリートをイジイジと、こすりつけながら、方向を変えながら動き回る。

こんな行動パターンは駅のホームだけに限らず、色々な場面で目にする。人間はなぜ、携帯電話で話すとき一箇所に留まって話をしないんだろう?想像するところ、何か話しの内容に罰の悪さを感じているからか?それとも、会話の内容があまりにも馬鹿っぽいので、他人に聞かれる事に恥ずかしさを覚えるのか?よくわからないが、人が公共の場で携帯電話を使って誰かと話しをする時、チョット注意深く観察してみると面白いかも。

2012/3/9
石切剣箭神社へのお参り

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東大阪の石切さんと親しまれる石切剣箭神社へ行ってきました。それこそ一人旅。一人旅と言っても、他の用事で大阪へ行ったついで・・・と言ってしまえば罰あたりな話ではあるが、昨年、病気した時のお札をお返しに行ったのですが、日本人の信仰心に触れて、また、門前町のお店を散策しながらひと時の安らぎを感じてきました。石切さんは、思いの外小さく、伊勢神宮のような山懐深くでなく、生駒山のふもとではありますが、住宅街のど真ん中にあって、街並みからも庶民的なイメージを感じました。恐らく、その場所に建立された当時は、静寂な生駒山の山裾に、遠くに大阪城を眺める高台に開かれたお寺さんのようですが、近頃の爆発的な人口の増加に、一気に社を囲むように、民家が密集したようですね。

 偶然、車のナビゲーションを頼って行ったのですが、昔の石切さんへの旧街道を指示され坂道をゆっくりと進んで行くうちに、社のど真ん中に出てしまいました。普通では考えられない場所に忽然と車が迷い込んでくるのですから、その場所でお百度を踏んでいる方々を驚かせたのは、謂わずと知れたこと。近くにいた神社の関係者には、お詫びして、十分と安全を確認しながら車を移動させました。神社の守衛さんの指示通り、無事に駐車場に車を移動させて社の門をくぐることが出来ました。

 三重ナンバーの車でもあり、神社の守衛さんには丁重な指示をいただき、本当に恥ずかしい思いと共に心からの反省を込めてお詫びしてきました。

 病気平癒を祈願して頂戴したお札をお返しして、そのお礼の気持ちを込めて社に手を合わせてきました。古くから馴おくじ染みの神社らしく、この日も平日に関わらず沢山の方々がお百度を繰り返して見えました。そして、その門前町には色々なお店が軒を連ね、客の呼び込みに一生懸命でした。食事処、地元の名産、お菓子や衣類を売る店など、細い坂道の両側にびっしりと立ち並ぶお店は、そのまま京都の清水寺への坂道を思い出させました。

 門前町にある食事処から漂う「おでん」の香りや、漬物屋さんから漂う香りなどが入り混じって、その通りを独特の者にしています。日本の原風景ってのが、こんな身近なところにも存在してたようで、改めて日本文化の素晴らしさを感じる旅でした。

2012/3/6
高齢者に対する虐待

ここ数日、またまた高齢者への虐待の報道が多くみられる。その多くが認知症高齢者を対象とした介護する側だけの視点が原因で虐待が発生している。認知症高齢者の中には、自分の意思を上手に伝えられない問題や介護する者との意思の疎通が取れない問題を抱えている人も多い。虐待の大半は、このような問題を抱えた重度な認知症高齢者に対する精神的ストレスの発散を本人に向けてしまうことに起因している。

 高齢者に限らず我々のような介護を実践する業務は、ヒューマンサービスであり、言ってみれば「ホテルマン」や「バス・タクシーの乗務員」「飛行機の乗務員」などと同じ職業でもある。ただ違う点と言えば、相手に特定の疾患があって一般人でない点である。そして、我々はそのような特定の問題を抱える人に対するサービスの提供を行う以上は、専門職としての知識とスキルを必要とされる訳であるが、問題は、この専門職と言われる所以である専門知識の習得に有ると考えられる。

 専門知識には、認知症をしっかりと理解することだけにとどまらず、精神的な疾患に対する理解、その対応方法、自分自身の受けるストレスの解消方法などを含めた広範囲なスキルを必要としている。今の介護の問題は、その専門性を如何に習得するか?如何にしてハイレベルなスキル保持者を雇用するか?に掛ってきている。ハイレベルなスキルを持つ人を雇用するには、それなりの給料の支払いは必須である。大学卒業の学力をもって、高齢者介護を行う人材を探してもなかなか見つからない。それどころか、学歴やスキル、経験を問わないという条件で無いと必要最低限の人材確保も難しいのが現状である。

 雇い入れた人材を適切に教育し、それなりに育て上げれば、その人たちは介護の現場に留まらず次のステップへ進んで行く。誰だって介護の現場に一生を捧げるほどの体力も気力も持ち合わせていないのである。全ての人間が自己実現への欲求をもって生活している以上、ある意味自然の摂理でもある。経験を積んで、そのスキルと知識を別の形で生かしていきたいと思う気持ちは当然である。

 まあ、そんな理由は虐待を肯定できる理由にはなりえない、また虐待は、どんな理由であっても肯定してはいけない。同じ人間として、いじめや暴言、暴行を受けるゆわれは全くあり得ないのである。弱者である(この言葉自体、あまり好きではないが・・・)人達を守らなければいけない立場の介護施設として、これらの事実を恥じなければいけない。同じ職域で頑張って働いている者たちの社会的な立場を守るためにも、一部の軽率な分子による暴力行為や暴言を認めるわけにはいかない。


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