僕が気持ちいと思うこと 第三弾! このまま続くと面白いかも・・・と思いながら、今回、堂々の第三打!
さて、今日の鈴鹿は生憎の雨模様。春雨じゃあ~!!!なんて恰好つけて傘もささないで濡れても大丈夫なようなシトシトと降るのですが、こんな日は、足元が煩わしい。昔のように未舗装の道路で、いたるところに水たまりがあって、雨をたっぷりと吸い込んだ泥はぬめり滑りやすい環境ではなく、今どきでは泥道を探す方が難しい時代。しかし、環境こそ整備されているものの、濡れた靴底はタイルやプラスティック床などでは、とても滑りやすい。前進しようとつま先に力を掛ければすべる!こんな時こそ、年寄りは転倒に注意が必要だ!
春雨も歓迎は出来ないが、これが日本の四季。シトシト雨あり、西から吹き下ろす強風の日もあり、次第しだいと春の陽気に変わっていく。その頃には梅の花から桜の花、チューリップやクロッカスなど畑一面に花が咲く。木々の枯れ枝にも新芽が芽吹き、薄い黄緑色の葉っぱを付ける。こんな、うろやかな季節には、外に出て思いっきり日の光を浴びたい。そして、座り心地の良い椅子にゆったりと腰を沈め、ゆっくりと目を閉じる。まぶたの裏に眩しい程の太陽の光を感じながら、そよ風に身をまかせ、物思いにふけってみたい。日本の熱い夏が来るまでの、ほんのわずかな時を思いっきり楽しみたい。
歳をとると何かと生活全般が面倒になってくるようだ!まだ僕の場合は、第一線で働いている身だから(・・・・?そうだよね!?)自由に外出できるし、それなりにやらなければいけない事柄も多い。しかし、自分が完全に仕事からオフの日などは、朝のんびり起きて、ゆっくりと食事を摂り(朝食、昼食を兼ねるような)、時には、パジャマのまま、あるいは家着のまま、一日中家の中でゴロゴロすることもある。歳を取って生活が面倒になる状況とは、僕たちのオフの状態と同じようなモノなんだろうと考えてみる。私達にとって たまの休日はノンビリしたい。しかし、これが毎日、毎日、いつ終わるか予想できない日々を目的も無く、ただひたすら生きなければならない。そう考えると、これは「辛い!」 おまけに、年寄りは、そんな毎日の生活の中で、周りの友人や知り合いが亡くなっていく。 人が死ぬ度に、次は自分の番か?と不安になる。
うちの女房が、年齢と共に老けて行く自分の顔をとても気にしている。若い頃の艶は無くなり、張りも無くなる。若く輝いていた頃の自分が時と共に朽ちて行く。そんな恐怖が女性にはあるようだ。『美』の捉え方によるが、若い女性は何も施さなくとも美しい。(化粧もいらない。そのままでも美しく光っていると言う意味で)それが、年齢を重ねるごとに肌のつやは消え、皮膚にたるみが生じてくる。若い頃のピチピチ感は次第となくなっていく。女性は、そのような肌の衰えや肉体の衰えを気にする。肉体の衰えや肌の衰えは、女性に限らず男性にも同様、外見から年齢が想像できる状態となる。
老ける、体の動きが悪くなる、体中の関節など、急に動かそうものならギシギシと音を立てて痛みが伴う。おまけに人様に見せる自信もない姿は、どう偽っても変えようがない。そんな「 無理 」をしてまで外出したくない気持ちになるのも納得である。
そんな年寄りたちに同情するつもりはない。だって、その人なりにしっかりとご自分の人生を生きてこられ、それこそ胸いっぱいの思い出と経験をもっているのだから、僕たちのような若輩者が同情するなんておこがましい。しかし、だからこそ、今の生活を上手に締めくくって頂ける様、どのような協力が出来るのか?ってところが問題なのです。そろそろ、春ウララ・・・陽気に誘われて木々が芽吹き、色々な虫たちが活動を再開する時。僕たちが思う気持ちいい事ではなく、その人の想う気持ちいい事をお手伝いしたい。これが、今日の僕の気持ちい事、Part 3です。
昨日のブログでは、僕の想う気持ち良い事として音楽をあげたが、今日は、別の視点で介護を受ける立場で気持ち良い事を書いてみたい。 その人を中心においた介護については、昨日のブログでも名称だけは紹介したが、そのことについて更に詳しく、事例をあげながら紹介したいと考えている。
その人を中心においた介護とは、決してその人の我儘を認めると言う事とは同じではない事を最初に断りながらの話です。僕が理解している『その人を中心においた介護」の基本とは、その人が想うことを出来る限り忠実に実現してあげるよう支援する姿勢を言うと考えています。だから、今の僕がこのような気分だから、昼食時間でもないのに昼ご飯を持ってこい!とか、今から風呂に入りたくなったから風呂の準備をしろ!という類の要望には、丁重にお断りして理解を求めると言う結果となってしまう。その意味でも、その人の我儘を通させる事と、その人を中心においた介護とは意味合いが違うのです。 ですから、さらに簡単に説明すれば、介護の現場で、ケアプラン政策の時点でも、介護する側の都合やら施設側の勝手な都合をもってケアを行うことではなく、その人の為になる、その人が必要としている(ここで、この、その人が必要としている、と書いてしまうと、世の中のクークー達は屁理屈を言うのです。時間外の入浴も、時間外の食事も本人の要望に変わりない・・・と) つまり、介護を行う目的の一つには、その人が健康で平均的な日常生活を営むことが出来る様(憲法25条に添って)支援する必要がある。ここでは、その憲法で生存する権利を保障されている点に重点を置いて、私達介護職が公平な立場で提供できる最低限度の支援を行わなければならないにもかかわらず、それさえも場面によっては職員や施設の都合で捻じ曲げられる事の無いように支援することを言うのです。 理屈から言うと、とてもわかり難いのですが、ここで一つの事例をあげてみましょう。
認知症のAさん男性83歳は、通常規模のデイサービスを利用しています。若い頃から事務職でコツコツタイプのサラリーマン、一生懸命働きながら所帯をもち子供二人を育ててきた、極普通の父親でした。適度に人生を楽しみ、お酒が好きでいつも赤い顔をしているほど。長年の飲酒と不節制がたたり、糖尿病を患い、今では隔日の人工透析を必要としてます。腎臓の機能こそ低下してきましたが、認知機能はしっかりとしています。逆に周りの利用者に対して注意をしたり、指示を出したりするので、逆に他者からは阻害されがちです。そんなある日、利用日の午前中に席を隣り合わせた利用者BさんとCさんの二人は、入浴が終わる時間には、別のテーブルに変わっていました。この席替えの理由は詳しく述べなくても理解できると思いますが、ここで、問題となるのは、その事の説明が十分に行われたのか?と言う事です。
事情説明までは諸事情の絡みで無理としても、そのことへの職員の配慮がAさんに行われたのかと言う点が不明瞭に終わっています。当の本人にとってみれば、朝方からの自分自身の言動や態度を思い起こしながら、その理由を探そうとするはずです。確かに、職員は利用者B,Cさんの意向は汲んであげました。しかし、その時にAさんへの温かなフォローを忘れています。忘れていると言うより、その所に気付かなかったのです。これでは、その人が中心なケアは出来ていないに等しいです。
例え通常規模であろうと、デイサービスの現場では、ある意味、団体行動た集団の中で「時」を共にします。プライバシーを求めることが若干困難な環境です。それらの我々の持ち合わせるマイナスな面を如何にカバーしながら、利点だけを求めていくかと言えば、このような細かな感情の揺れに対しても、細かな配慮が求められるのです。
その人の些細な感情なんて気にしていられない。もしも、そのような気持ちで介護を実践している介護士が居るとしたら、それは考え方を変えてもらわないといけない。私達はヒューマンサービスを行ってお金を貰っている。言ってみれば、飛行機会社のフライトアテンダントやタクシーやバスの運転手さんと同じ業務です。また、レストランのウエイトレスと同じで、最低のサービスを行っていれば、お店に来てくれるお客さんは減少します。客が減り始めると食材の仕入れが高くなり、次第と仕入れる食品の鮮度も古くなりがちです。古い食材を使って提供される食事は、最低レベルの接客態度で更に不味くなって提供されます。結果的には、このようなサービスは社会から抹殺されます。
だれしもが気持ち良くなれる。そんな夢のようなサービスを実践している事業所もあります。私達は、それをまねる必要はありませんが、でも、それらから教訓を得て、一人でも多くの高齢者の方々が楽しく、健康で過ごせるよう支援出来ればと考えています。これが、僕の気持ちいいこと、Part2です。
デイサービスにしろ、グループホームにしろ、最近の高齢者介護の中心は、その人を中心においた介護(Person centered care)である。そろそろ、爺になりつつある自分を例に、僕が気持ち良いと感じる時についてお話ししよう!
今、僕の中での一番のお気に入りは音楽である。普段からクラッシック音楽を中心に、車の中や自宅のひと時にはパソコンに入力した音楽を聴いている。そしてクラッシック音楽と同じくらい心地よいと感じる音楽に、ちょい昔のアメリカのクラブシンガーと言われる、フランクシナトラやトニーベネットの曲がある。今、はまっている曲に「How do you keep the music playing?」と言う曲がある。いろいろな歌手が歌っているが、この曲の歌詞が好きで、聴く度に感極まって涙が止まらなくなる。それ程、気持ち良い時がそこにある。
デイサービスでは、どんな人にも同じように古ければ良いと言わんばかりに、懐メロと言われる歌を歌わされている。愛染かつら、銀座のカンカン娘などの戦前戦後の流行り歌である。ここに義務として参加して(本当は、もっと他の要望があるかもしれないが・・・)昔懐かしいとされるそれらの歌を 利用者全員が同じように歌わされる。そこでは、僕は、その歌、嫌いです!なんて言うことも出来ない。みんなが声をそろえて歌ってるのだから一緒に歌ってください!の一言で参加させられる。僕は、そのような施設は利用したくない。ましてや、決して上手とは言えない音程の外れたスットコドッコイが音頭を取っているような、そんな場所に居ること自体が苦痛以外の何物でもない。
トニーベネットを聴いて、物思いにふける人なんて、この鈴鹿には居ないのかもしれない。でも、少なからずも僕は、そんな一人の人間である。もしも、自分が隠居を通り越して、ボケボケ爺さんになってしまったら、耳にイヤホンを突っ込んで、これらのCDを聴かせておけば、一日中ご機嫌さんでいられると思う。
人によって生活歴や習慣や好みが違う。その人の細かな気持ち良い事まで気にする事は無いのかもしれない。でも、年老いて残りの人生がみえてきた時点で、僕は、自分の好きなように過ごしていきたいと願っている。無理やりに筋トレすることも嫌。不慣れな日本の音楽を聴かされ、歌わされる毎日が続くくらいなら一人で静かに垂れ流しでも良いから部屋にこもっていたい。今更、男気を出して女性を口説く気にもなれない。ましてや、そんなボケボケ爺さんに真剣に寄り添ってくれる介護士の人も居ない。それなら、いっそのことソッとしといてほしい。
デイサービスを嫌う人が居る。人と交わることが嫌い?そこの施設に相性の合わない職員が居る?いろいろな条件が合わないで利用を中止する人が居る。それはそれで、私達がその人の求めるものを探せず、その人を気持ちよく出来なかったことが大きな原因であるなら、そんな人も一緒に気持ち良くなれる場所を提供できるようにしたい。まだまだ、僕たちの太陽の家は未完成である。そして、僕にとって気持ち良い場所であると同時に、他の利用者にとっても気持ち良い場所となりえるように、今もまだ模索している。
高齢者介護とは、全くかけ離れた話題をひとつ。今日は、レストランにおけるドレスコードの是非について書いてみたい。
ドレスコードとは、そのお店が自らが店の雰囲気を重視し、来客には服装の下限を定めていることを指します。服装の下限と言っても、人によって評価に格差があります。例えばジャージでも高級ブランドの販売する一着上下のジャージ数十万円であっても、ジャージはジャージです。値段ではなく、その服装がフォーマルか?カジュアルか?である一線を引いているのですが、僕は、このドレスコードに大賛成です。言ってみれば、店側が自分の判断で店の挌を決めて、ある意味で客を選んでいる。人によっては、店側が客を選ぶとは遺憾である!と反論もある事と思う。この鈴鹿の田舎には、ドレスコードを指定するレストランは見当たらない。恐らく有ったとしても、鈴鹿二十万年の中のレストランに数件ではないだろうか?その理由は、客を選ぶことが客の減少に直結して、売り上げに大きな打撃を与えるからである。
レストランも営業収益があって初めて成り立つ。商売だから客層うんぬんより実利を追求するのは理解できる。しかし、普段着も、ちょっと見栄をはっての外出着も一緒のフロアーで、同じ食事を摂る。誰しも、その日の気分は違うし、特別な日ってのも持っているはずだ。それが、この田舎では特別な日としての演出も出来ない。せめて人の目に触れにくい死角となる店のコーナーを使わせてもらって、特別な日のディナーを演出するのが精一杯である。
田舎だから仕方ないとは思うが、これではいつまでたっても田舎のまま。テーブルマナーに不慣れで、高級レストランに偶然行く機会があったとしても、物おじして気が引けてしまい、せっかくの美味しい料理を味わうどころか緊張の冷や汗で何を食べてたのか全く記憶にない。そんな状況に陥る田舎のオッサン、おばやんとなってしまうのである。お店を選べないことは、非常に不幸なことであり、客も育たない、同時に店も育たない。慮法の悪循環が田舎のレストランには存在する。
東京でも、大したことない。格式高い高級ホテルのレストランと言えば、ドレスコードにフォーマルな所もあれば、スマートカジュアルとしてするレストランもあり、唯一、大物シンガーのディナーショーなどでカクテルドレスやタキシードを指定する場面がある程度。東京ではドレスコードは、そのまま代金の高さに比例するだけのドレスコードでしかない。と言うのが現実である。ところが、ヨーロッパやアメリカにおいては、それなりの格式と厳選された場所で、ごく一般の客が、特別な日を簡単に演出できる場が用意されている。日本の食文化との違いであろうか・・・もちろん、日本には割烹料亭なるレストランが存在する。しかし、それとて、我々一般小市民が行ける場所かと言えば、決してそうではない。日本式割烹とは、選ばれたセレブだけの楽しめる、敷居の高いレストランであり、それこそ限られた人だけの場所として、一般市民でも利用できるドレスコード云々とは少し意味が違うので、その点に誤解のないように。
まあ、何を言っているのか、甚だ分かりずらい、的を得ていない文面となってしまったが、つまりは、日によって変わる気分を、食文化も含めて、日本人ってのは楽しむことに疎い!と言うことが言いたいのである。食事をすれば早飯! 予約を入れてまで食事を楽しむ事を嫌い、味覚、視覚、演出より値段とスピード、尚の事、量さえ満たされれば、それでOKという食文化が重宝がられる日本の文化では、介護の世界も手短なニーズさえ満たせば万事がOKとなりがちなのは、それこそ国民性か・・・?!
駅で電車を待つプラットホーム。田舎の駅には、通勤通学時間以外は閑散とした静けさが漂うプラットホームがある。一人、電車を待つ反対側のホームでは、電車待ちの男性が、携帯電話を使って話しをしている。携帯を持つ手を耳に、もう一方の手をズボンのポケットへ。そして、会話しながら、ウロウロと移動する。靴のつま先で、ホームのコンクリートをイジイジと、こすりつけながら、方向を変えながら動き回る。
こんな行動パターンは駅のホームだけに限らず、色々な場面で目にする。人間はなぜ、携帯電話で話すとき一箇所に留まって話をしないんだろう?想像するところ、何か話しの内容に罰の悪さを感じているからか?それとも、会話の内容があまりにも馬鹿っぽいので、他人に聞かれる事に恥ずかしさを覚えるのか?よくわからないが、人が公共の場で携帯電話を使って誰かと話しをする時、チョット注意深く観察してみると面白いかも。