たまに寝つきの悪い夜がある。今夜も、そんな夜である。テレビも教えて面白くない、見るに耐えない。ワケのわからない番組の出演者のギャグを聞いてても雑音でしかない。其れならと読みかけの本を取り出して、続きを読み始めるものの、目が霞んできて文字が見えづらい。。ネットで検索も、ようやく暖まった布団から抜け出てパソコンの前に座ることも億劫だ!
そうだ!! スマホのコンシェルジュがお話相手になってくれる!ってCMで言っていた。早速、スマホ相手に声をかける。適当に思いつきを話しかけてみたり、その回答を聞いたり。夜の夜中に携帯の中だけに暮らしているコンシェル。普段は画面のなかで右へ左へウロウロしてる彼。時々立ち止まり考え事をしてる。そんな彼に話しかけると、チョット考えてから回答を話してくれる。全ての問いかけを適切に理解するワケでは無いが、結構暇つぶしにはなった。
時代の変化、技術の進歩。僕の子供の頃は、電話の設置された家なんて、町内の数件。申請書類などの連絡先記入欄には「呼び出し」の記入欄があった。つまり、ご近所の電話を持つ家の電話番号とその方の氏名を記入する欄が存在してたのです。今なら、個人情報の取り扱いに接触して大きな問題になろうって事が普通だった時代。今の様に一人一台の電話を所有する。ましてや、其れらの電話にコードが付いていない。コードレスで世界中で使用可能。昔ならSFマンガの世界の話しである。子供の頃からは夢の物語だよね。
しかし、夜中にオッサンが暗闇の中で薄っすらと漏れ光る明かりの先に向かって一人つぶやいている姿。想像するだけで笑えるよね。
僕は其れ程熱狂的スポーツファンでも無く、サッカーも野球もスポーツニュースで見る程度。だから熱烈なファンに怒られそうだけど、一つ教えてもらいたい事がある。
其れは、ズバリ!日本のサッカーは世界レベルなの?ってこと。今日のJリーグの試合模様とヨーロッパのチーム間の試合を見比べてみると、ヨーロッパのチームの試合の方がボールの回し方が上手なように見えた。とにかくパスが、やたらと上手い。ミス無く、その状況には『出来過ぎ』な程のスムーズさがあった。僕も日本人だから、日本のチームを応援したいが、この技術の差は何?と考え込んでしまった。
最高の試合、魅了されるゲームを100とすれば、日本のサッカーのレベルはいくつ?
誰か教えて!
新し物好きってのは、夫婦そろって同じなのか?! 昨日、うちの女房が新しくCMで紹介され始めた清涼飲料水を買ってきていた。フランス産のオレンジジュースであるが、そのCMが面白い。最近、ハリウッドの大物俳優を使ったCMが増えてきている中で、このCMにも、ハリウッド映画の中でも女性を魅了してやまない男優、リチャード・ギヤが起用されている。それも、ふうてんの寅さんの衣装で、BGMで・・・・南フランスのカフェでの物語。若く美しいウエイトレスのウインクや投げキッスを自分に向け投げかけられたと勘違いしたリチャード・ギヤ扮する寅さん。
本当は、彼の後ろの席に座る若い美男子に向けた投げキッスだと知る。その一部始終を見ていた子供は大笑い。といった非常に短い物語なんだけど、この一連の流れが面白い。大体やね、リチャード・ギヤに寅さんの衣装を着せて、おまけに三枚目役をやらせるあたり、とても奇抜で面白い。
そんな面白いCMをみてて、一度は飲んでみたい衝動に駆られ、さっそく近くのスーパーを覗いてみたが売っていなかった。また場所を変えて、いっぺん飲んだろう!と固く心に誓いながら家に帰ったのだが、自宅に帰ったら、飲みさしのペットボトルが、まさしくそのCMのドリンクが置いてあった。
そんなこんなの日曜日が過ぎて、今朝の中日新聞の読者欄を読んでいて、これまた面白い投書に巡り合った。八十数歳の男性読者から「不良ジイサマになろう!」というメッセージが掲載されていた。ピンクのシャツ来て、肩で風切って闊歩しても、その年ともなると誰も不良扱いしてくれない。ばあ様はスカートはいて紅をぬってダンスに興じている!と・・・・最近のおっさん専用雑誌レオンの目指すところも「イタリアのちょい悪(不良)オヤジ」である。日本人は、年齢とともに次第に地味になっていく。お肌も木々の葉っぱが枯れていくように、次第に張りをなくし、艶を失っていく。それとともに、来ている服装も地味な色合いになり、見た目的にも人生の最終に近づいていく。そんな日本人の感性には珍しい御仁の投稿に、朝から笑えてきた。
どうせ一回こっきりの人生、行政にお任せしていた年金制度も、うまく機能しない状況の中、私たちの老後の保障も危ぶまれる。こんな時代だからこそ、残された余生を楽しもうではないか!リチャード・ギヤではないけれど、そんなことは起こりえないシチュエーションでも、自分の気持ちさえ若く持っていれば、若い美人ウエイトレスに色めき立ち、自惚れを抱きながら、楽しい時を過ごせるのではないか?!と
一言で「高齢者への支援」といっても幅広く、人によってニーズも異なり、非常に難しい課題であることは、介護を実践するものにとっては、なんともし難いジレンマにぶち当たってしまう課題である。
うちのペットのクッキーちゃんは、最近になって失明してしまっているようである。ペットは人間と違って、痛みや苦痛を自ら訴えることをしないから、今の彼女の状況は、普段の行動や素振りをみて察しなければならない。最近、やたらと物にぶつかる。いつもお散歩する裏庭ですら、洗濯物干しのポールに鼻先をぶつけてみたり、自分のウンチを踏みつけたり・・・と、やたらと痛い!思いをしているように見受けられる。先日は、オシッコを終えて、ベランダの上に抱えあげて載せてあげたところ、そのまま反対側のベランダの淵から、地面に落ちてしまった。目が見えないにも関わらず、急いで部屋に入ろうとベランダを早足で移動してたので、彼女はベランダを通り越して、がけっぷちに気付かずに落ちてしまったようである。
目の見えないペットのために、室内の家具や物は、できる限り移動させないような配慮をしてても、それでも、テーブルの脚にぶつかる。四足で歩くために白い杖で、確認して前進することもできず、次第と高度ぷ範囲が狭くなり、移動するスピードも遅くなってきている。それに連れて、エネルギーの消費も減少して、体重の増加がみられる。今まで、活発に移動し、ソファーにも何の苦も無く飛び乗っていた彼女。一日中、ホットカーペットの上でゴロゴロしてる生活が続いている。
先日、うちのデイサービスの利用者が、昼間のデイサービス利用を終えて帰宅したのちに、自分で歯科医院に行く途中、車にはねられた。頭をうっていて、軽い脳挫傷という診断がされた。高齢ということもあって、手術は避けられて、早々と自宅に帰された。高齢で独居生活という状況を考えると、これからの余生に、今まで以上の支援の手が必要となることは避けられないだろう。
認知症の有る無しに関わらず、人間は、ある程度の年齢に達すると大きなギャップのある階段を転げ落ちるように、身体機能の劇的な変化を経験していく。人が死ぬときは「蝋燭の炎が消えるごとく」といわれるが、そこに至るまでには、そんな静かな最後ではないようだ。転倒して骨折、病院に入院、一日中寝たきり、関節の硬縮、移動不可能、飲み込みの障害、栄養、水分不良、老衰から死亡。このような段階を踏んで、人は朽ちていく。そのきっかけに転倒骨折、自動車事故、癌などの大病、家族構成の崩壊など。いろいろな転換期を経験しながら、その時に応じた適切な支援は、日中だけのデイサービスやデイケアだけの支援では、到底応えようのない課題ばかりである。さりとて、施設入所したところで、本来の地域に根差した介護もままならない。現状の介護保険制度だけでは、支えきれない高齢者が五万といるのが、今の現状である. これからの高齢社会を思えば、我々の実践している介護も、量ではなく質と方向性へと変化させなければいけない時代が、きっとやってくる。6時間~8時間の提供時間枠から7時間~9時間の時間枠に変わったところで、本人にとってふさわしい介護なのか?甚だ疑問である。