インターネットの技術革新が進み、テレビや新聞などの報道の拡散スピードや範囲の拡大は、目覚ましい発展を遂げている。一般人の我々には見えない部分も見えるような世の中となり、聞こえなくても良いシークレットな情報まで簡単に入手できる世の中は、一見便利な様でいて、知らずに済む事まで、公開されてしまう今の社会。ある面、腹立たしいケースも見なければならなくなる。
日本の元総理大臣の鳩さんがイランを訪問し、逆にイラン流のプロパガンダに利用されてしまったと言う報道。ニュースソースとしては、そんな我々の生活に関係がない(厳密には石油価格の上昇と言う大きな問題ではあるが)イラン情勢に不用意にも首を突っ込み、その行為を利用されて、言ってもいない言葉を悪用されたと言う、アホ丸出しの報道がなされた。本当に格好悪い、単純で軽率な思い込みだけの、最低の行動。自分の力を過大評価し、あたかもアメリカ合衆国の元大統領と同じように自分を誤解したミステイク。これも、報道が自由になんの規制も無く瞬時に拡散する今の時代が生んだ負の影響が感じられる。鳩さんは、そんな現代社会の犠牲者とも言えるかもしれないが、其れでも、格好だけのスタンドプレー的思い上がりに、本人は元より一般国民にしても、そんなアホらしい報道に付き合わなければいけない訳で、甚だ気の毒としか言いようがない現実に、鳩さんには同情する。
しかし、これってどうなの?日本のトップの浅はかな行為。こんな人に日本の舵取りを任せていた有権者もアホ丸出しだったのかもしれない。
今年はロンドンオリンピックの年。今は、オリンピック出場を賭けた選考試合がめじろ押し。四年に一度、正確にいえば二年に一度、無国籍の日本人も日の丸を応援する、にわか仕立ての国粋主義者に大変身!!どこかの市長さんは、君が代を歌う時の姿勢について、厳しく規定している。僕自身、其れ程の国粋主義では無いものの、君が代を日本の国歌と考え、国歌に対する尊敬の念は、市長と同じくらい厳格に思っている。その一番の理由に、この国が自分の生まれ故郷であり、自分の育った国だからだ。僕は思春期をアメリカ合衆国で過ごした経験を持っているが、海外で居住した事があるだけで、アメリカが自分の国とは考えてはいない。アメリカの良い面も知っている。同時に日本の悪い面も知っている。其れでも、やっぱり日本がいい。 年齢を重ねる度に日本を大切に思うようになってきた。
しかし、この国は変わらない!政治を担う党派は変わったが、やってる事は同じだ!高齢者福祉の行き着く先は政府が変わっても、なんら変わりはない。原子力発電の問題に際しても、これだけ原発事故の後遺症に苦しんでいるにも関わらず、とても安易な方向へ突き進んでいる。これだけ日本全体が疲弊しているにも関わらず、政治のトップは、自分たちのポジション争いに満身創痍の思い。党派をこえて国民の生活と経済の発展のための論議は行われず、主権争いに興じる。
この国を想う人材は居ないのか?と思えてしまう程、自分の事だけを執拗に追い求める人達。
日本を背負って世界と戦うアスリート達も、モチベーションは下がりっぱなしじゃね。
桜の花が満開に近く、今日の良い天気の一日、我がデイサービスでもお花見ツアーを開催。利用者全員を引き連れて、近所の公園までお花見に行ってきました。屋外活動を実施して驚く事は、利用者である高齢者の方々の身体機能の低下を、改めて感じる事です。室内と屋外とでは、これ程にも歩行に違いがあるのか?!と言う点である。バリアフリー住宅のフラットで手すりも完備された環境と細かな砂混じりの地面と掴まる手すりも無い広い空間を歩くのとでは、歩行困難な状況がある事は理解できているが、やはり!と言うか、残念と言うか、施設のなか程、自由に安全に歩き回る事のできない利用者を見て、やはり額然としてしまいましたよ。
歳を重ねると言う意味を改めて認識させられる結果として、自分たちの提供している機能訓練を考え直さなければいけないと感じてしまいました。つまり、個別機能訓練の個別と言う意味に、年齢を加えた訓練方法の改善を加えていかないと、片手落ちでは無いか?! 転倒予防を中心軸に訓練メニューを構成してきたが、屋外で歩行するには、足の上げ下げはもちろんの事ながら、くるぶしの回転と関節の稼働域の改善が絶対に不可欠であると言う点を認識したワケです。今更、なんですが。ROM訓練の重要性を感じています。
次に、屋外活動に同行する職員として、先々に起こるかもしれない課題、問題、危険性やニーズを察するアンテナを構築する必要性です。歩道を歩いていても、歩く距離もそうですが、車道を横断する場面、交差点の小さな段差こえや行き交う歩行者や自転車への対応。団体行動出来ない身勝手な利用者の単独行動への注意力など、屋外活動には、室内とは違った危険予知が必要となるのです。
屋外では、一人の職員が一人分以上の力を発揮しないと事故の危険性が倍増するだけで無く、全職員がお互いを思いやる行動をとらないと、他の職員に作業やリスクが偏るのです。安全に、楽しく屋外活動に興じる為に、皆が最上級の多いやりとリスクマネージメントを達成して欲しいと願うものです。
たまに屋外活動を行う事は、色んな意味でも新たな発見があります。明日も、もう一度、お花見を実施します。適切な支援を実施し、ぜひお花見の目的を達成してもらいたいものです。
いったい誰が言い始めた言葉なのか・・・「それ以上でも、それ以下でもない」という言葉。僕が最近気になり始めたこの言葉は、ある国会議員の答弁の中で耳にする機会が多い記憶がある。そんな言葉であるが、昨日の巨人・阪神戦の結果をうけて、スポーツ新聞の記事の中でも発見した。開幕7戦にして、4回目の零敗を記した巨人軍のバッティングコーチの言葉か、記者の言葉かは分からないが、僕はこの言葉は適切ではないと感じている。適切ではない以上、腹が立つ。
それ以上でもそれ以下でもない。英語で言うなら more or less となるのだろうが、論点がぼけてしまう。もちろん発信者は、論点をぼかすことを目的として使用するのだろうが、特に広く国民全体に説明する責任を持つ政治家や日本にたくさんいる野球ファンへの釈明責任を持つ(釈明する責任までは言い過ぎかもしれないが)野球のプロの言葉ではない。最近ただでさえ、政治家の言葉が軽く感じられるにもかかわらず、このような言葉を聞くと落胆を超えて失望してしまうのは僕だけか・・・?!
日本人は物事をはっきりと言い切る人種ではないことは、世界的にも有名ではあるが、そのような国民性にも増して、コンプライアンスや守秘義務などの過剰なほどの防御本能からか、ことさらに本質をぼかす帰来が見受けられる。世間の目にさらされる立場から発言も用心に用心を重ねなければならない部分は理解できる。世の中には、言葉の端々を取沙汰に揚げ足取りの特異な吾人がワンサカわんさか居る。しかし、それだけに人をリードする立場の人達だけに、誹謗中傷も恐れず、もっと信念を持った運営、広報活動を行えないものか・・・と思ってしまう。