まあ、今に始まったことではないけど、銀行やスーパーマーケットの駐車場など、特に大きなショッピングセンターなどの駐車場には、必ず身体障碍者用駐車スペースが設けられているが、その駐車枠に若い人が当然の権利として駐車する光景を目にする。空いているのだから、だれが使っても良いのであるが、車いす利用者を搬送するうえで、時として邪魔になるときがある。まあ、その配慮のなさも若さゆえと理解するとして、常に僕なりに心配になるのは、元気で若いうちから「楽」をし続けることで、年老いてからの身体機能の如実な低下を心配するわけさ!
若いうちに歩く癖をつけていかないと、それこそ年老いてから身体機能を維持することが難しくなってくるよね!と勝手に心配し、それこそ、「余計なお世話!」と言い返されかねない事なんだが・・・また、慣れた奴なんかに注意でもしようものなら、若いうちから膝を酷使した結果、膝関節が摩耗して逆に歩けなくなったら、どうしてくれるんだ?!」と反論されそうだが、しかし、膝関節の摩耗よりも、体内に蓄積されたエネルギーの消費をどう考えるか? 特に楽をする若者に限って言えば、その大半が小太り又は小太り以上。あと10年もすれば生活習慣病と診断されるような体型である。
健康意識の高まりで高い月の会費を支払いながらスポーツジムに通い、余分なエネルギーを消費する。エネルギーを消費すれば当然のごとく腹が減る。空腹感はマクドナルドで満たし、気になる太りすぎを懸念するがあまりダイエットコーラを飲み、食後は黒烏龍茶で脂分を洗い流す。それでいて、疲れるからと、ショッピングに行けば入り口にできる限り近い場所を求めて、車を無意味に走らせる。ショッピングから戻れば、疲れた体を癒すがために昼寝する。十分な昼寝が功を奏して、都合よく夕食も食事がうまい。食べれるということは健康な証拠と勝手な言い訳をつけながら、たっぷりとエネルギー補給を行う。おまけに、一日の疲れを癒すために、ほろ酔い加減よりもチョコット多い目の酒を楽しむ。あ~ア、今日も一日健康でよかった、よかった!と床に就く。
何か違う!なんだか変な世の中、間違っているとは思いませんか?
今日から三日間、愛知県のポートメッセなごや(国際展示場)にて、第15回国際福祉健康産業展が開催されている。今日の朝から、うちの職員2名を同行し、会場をぐるりと回ってきた。今回のウエルフェアには、私なりに若干の期待を持って参加したつもりだが、実際に会場に赴いてみると、その規模の小ささに落胆してしまった。
今回は、身体的機能が重度化した利用者の移動、移乗に際し、介護負担を軽減するための機具と、足こぎ式車いすの導入を考え、ぜひ実際の商品を目で確認し、操作方法を見てみたいと思っていた。しかし、移動用リフト系は一点のみ、足こぎ式車いすは狙っていた商品を見ることができたが、わざわざ名古屋まで出向いて、駐車場料金を700円も支払って参加するメリットは感じられないものだった。
私がこの事業を始めたころは、もっと多くの出展社があり、疾患別の特別食の販売やら、障碍者用のユニバーサルデザインの食器など幅広く展示されていたものだ。もちろん、出展社側も商いだから、商売につながらないと判断すれば継続的に出展は出来ない。売れないから出展しない?出展社が少ないからモノを買わない?と、これは鶏と卵と同じで、問題の解決にはならない、単なる水掛け論ではあるが、しかし、それにしても、年々、名古屋の福祉機器展を見ていると、規模の縮小が目立ってきている。
これは、すべてが主催者や出展者側の問題化と言えば、そこに集まる客側にも大きな問題が隠れているように思う。展示会に参加する者の多くは、勉強を兼ねてライ書する者が多いように見受けた。要するに冷やかし客である。何だかんだと説明を求め、サンプルを集め、試食試飲するだけの客である。そして、以前に比べると介護施設関係者が減少しているように感じた。入館時に受付で、来場者を区分けするため介護施設関係者、一般、企業と数種類に色分けされたディカールを着けさせられる。今回は、金曜日だからかもしれないが、一般の入場者が大半を占めていたように思う。同時に、福祉関係者の面々を見てても、決裁権のない一介護職員が偵察に来ているような人も多く見受けられた。
見本市には、企業側はそれなりに出展経費をかけ、人件費など多額の費用を負担しながらの参加を行っているわけで、それこそ死にもの狂い。そんな場所だからこそ、見る側も死にもの狂いで徹底的に聞いて、見て、確認する行為が求められるのではないか?入場者側にも、お祭りに参加し、タダで試食してくるデパ地下で腹を満たすおばちゃん族のノリで参加するのでは、それこそ、見本市自体が縮小傾向になってしまっても文句は言えないところである。
まあ、こんな状況であるから、来年は名古屋には参加せず、東京か大阪の見本市に参加して、この太陽の家にフィードバックできる新たなアイデアや機材を探しに行こうと考えている。
僕は怒っている! 何に対してかと言えば、子供のしつけに関する今どきの親に対してである。
最近、常に感じることだが、今どきの親は子供を叱らなくなった。そして、自由奔放、何の制約もないのびのびした環境で子育てを希望する夫婦が多いようだ。今日の近所のスーパーマーケットでも、子供が走り回り、商品陳列棚の間でかくれんぼをしている。また、幼児が用事を乗せたベビーカートを母親から離れた場所で、それも単独で押している。狭い通路をやみくもにカートを押して歩く状況は、献立に迷いながら品定めをして買い物してるオッサン、オバサンには危険である。
どちらの方向に行きたいのかわからず、こちらの方が自分の思う方向を譲らなければいけない状況があった。まあ、100歩譲って、相手は幼い子供のやること。そんなに目くじら立てて憤慨する必要もないわけだが、それでも、親は何も言わない。こちらの方がハラハラ・ドキドキする状態である。
今どきの親の考え方はともかく、夕暮れ時のスーパーは、夕ご飯の材料を調達して、速やかに夕食の調理にかからなければいけない者ばかり。みんな結構、先を急ぐ者が多い中、子ずれの客にも同様の権利があるといわんばかり、または、公共の公園で子供を放つ親のように、本当に子供は自由に、思うまま走り回る。これは、はっきり言って「暴力」である。あなた方以上に、私にも安全に、そして速やかに買い物ができる権利がある。相手が無邪気な子供だから責任はないにしろ、それらのガキを管理する義務は親は持ち合わせているはずだ。これらの無頓着な(横着な?)親に声を大にして言いたい。
「あなた方の勝手な理論を掲げて、子供を放し飼いにするな!」と。
デイサービスにしろ、入所系施設利用者にせよ、今の介護保険利用者とサービス提供者との感情的もつれ。ってのはどこからも聞こえてくる悩みのようである。苦情と言うレベルではなく、個人的な感情のもつれもあるし、肌が合わないといった些細な理由で特定の介護者を無視したり、避けたりする利用者感情が存在するということである。我々、介護する側には、公平性や平等なサービスの提供を義務づけられている以上、利用者を差別することは出来ない。元より、バイスティックの7原則の中には、平等の前に、非審判的態度を求める項目がある。如何なる状況であっても、利用者を評価、判定することはしてはいけないのである。
理論上は、利用者のすべてに対して平等で公平な安定したサービスの提供が行われるべく、介護者自身が自分自身を律して業務にあたっているはずであるが、そこに、少なからず感情の因子がからんでくるのである。これは人間である限り、当然と言えば当然の姿であるが、そこをもう一度考えるべき職業が介護職員であり、直接処遇者と言われる職種である。
しかし介護職員だから、専門職だからと言って、文句は言うな!と切り捨てることは、介護職員の負うこととなるストレスの観点から適切な処置とは言えない。すべての介護職員が修行僧のように厳格な規律を守って厳しい修行を積んできた者でない以上、すべてを理解して相手に対して公平な感情を維持しろと言う方が無茶苦茶な説法である。
今日、この話題にふさわしい話が飛び込んできた。うちの介護職員の一人が片麻痺の女性利用者の入浴を介助してた時に、一番の新顔になる職員の介助を拒否したという話である。本人の口からの訴えではないので、本人が受けた感情的負のダメージに関してはよくわからない。しかし、この女性利用者は、過去にも新人イビリが目立つ利用者でもあり、新人たちは概ね最初のころに洗礼を受けているような、とても難しいタイプの人である。一歩退いてみてみると、若くして脳梗塞を発症し、左半身不随となり発語にも多少の障害が残ってしまった女性だけに、ある意味、身体は一般の高齢者に比べても若い。脳の機能も高齢者と違って若さを保っており、我々の言うことは概ね理解できる状態である。心身ともに健康で、ただ単に身体機能に不随が存在するという状況は、さぞやストレスフルでフラストレートな気分であるだろうと考えられる。自分に置き換えて考えれば、今の自分自身の行動に、物理的に制限を受けながら、毎日を暮しているとすればどうだろう・・・?!自分が思うまま行動し、必要と思った時にショッピングに出かけ、自分の欲求どおおりに活動できる我々が、活動の制限を受けるわけである。これは辛い。ただでさえ、じっと家にいることを嫌う若い世代に、そんな制限ある生活なんて出来っこないはずである。そう考えれば、ある程度、彼女のわがまま(取りあえず、わがままと表現させてもらう)には理解が伴うはずである。
さて、そこで次に、こんな差別的な介護職員が受けることに対して、もう一歩踏み込んで話を進めたい。一応、彼女を理解することは、軋轢を感じた本人が冷静な気持ちとなれば可能とする。しかし、これらの軋轢にしても数重なれば、そんな理解力もへったくれもなくなるわけで、そこに行きつくまでに介護職員として、遣らなければならないことが存在する。それは、信頼関係の構築である。ここでいう信頼関係とは、深い部分でお互いの心がつながる信頼関係ではない。「私があなたを介護しても、安心しててくださいね!」と言う信頼関係である。この関係づくりに一番効果的な行為は「会話」である。単なる日常の会話でよい。あいさつ程度から少しだけ踏み込んで、自分の好みの色やファッション、好きな事などの話から、相手との共通な話題を探す行為である。人間である以上、些細な感情のもつれも生じると同様、少しの会話を実施するだけで相手を分かったような気になるものである。お互いが通じるものがあると思わせること。この働きかけが、一番最初に実施されるべきである。
それと同じくして、やはり同僚の応援と言うのも欠かせない。自分が受けた軋轢を話すことによって、少なからず新人職員の人格を傷つけて痛手は癒すことができる。先輩職員の一言「ドンマイ!ドンマイ!」と、温かな思いやりの一言ですべては丸く収まる。介護の現場ってそんなところさ!
天候の良い一日、自宅裏庭のベランダでスイングベンチに揺られ音楽を聴くことは、僕にとって最高にリラックスする至福の時である。表通りの喧騒から離れ、裏庭には静けさが存在する。風の音とともに時折上空に飛来するジェット旅客機の音が、眠気を誘うかのごとく・・・今日、聴く音楽はやはりトニー・ベネットか?!それとも、ジェットストリームか?
それほど多くはない木々の新緑の葉っぱが風に揺れ、かすかなジャスミンの花の香りが僕の鼻をくすぐり、こうやってノートパソコンを膝に乗せて、おもいついたままブログを書き込んでいく。こんな時は頭の中も余裕がたっぷり!いろいろな思いが駆け巡っていく。同じ駆け巡っていくにも、仕事の時とOFFの今日は、随分と重みが違う。OFFの日は、面倒なことは一切考えない。夕食の献立に思いをはせ、時には流れる音楽の音色にうっとりと聴きいり、軽く目を閉じて惰眠をむさぼるのも良いかもしれない。風が少し肌寒いものの、一枚余分に着込んだ長袖のカーディガンで十分に事足りる。
その昔、僕の一番好きな場所は同じようにカリフォルニアの下宿のバックヤードだった。学校の教科書をもって、同じようにスイングチェアーに腰を下ろし、本を読むとき。それは、何とも言えない最高の気分であった。乾燥した空気とそよかな風に包まれ、均一に刈り込まれた緑やわらかい芝生とオークツリー、庭の隅には真っ赤なバラ。パターグリーンの先には、まだ時期的に誰も入らないスイミングプールは水をはったまま、全自動のプールスイーパーなるクリーニングロボットが、時折水を吐き出しながら水面のごみを集めている。
僕の家の裏庭からは、鈴鹿の総合病院の建物が見える。昨年の一時期、あの建物の中にしばらくの間お世話になっていたことを思い出す。僕は、もう、あそこに戻る必要はないが、今もあそこに世話になっている人が大勢いることを思うと少し胸が痛くなる。こうやって、自分が思うように外の空気を吸って、好きな時に音楽を聴き、好きな葉巻をくゆらせ、飽きてきたら部屋に戻る生活。健康だからできることであって、その有難さをしみじみと感じるのである。