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ブログ-施設長の部屋

2012/6/16
認知症のジイ様、バア様との接し方。

認知症のじいちゃん、ばあちゃんは可愛い!!と、若い介護職員が言ってます。うちの職員ではありませんが、よその事業所の若い職員さんの中には、このような表現をする人がいます。言葉としては、決して間違ってはいないように感じるのですが、よくよく考えてみれば、この言葉って?どうなの???といつも考えこんでしまいます。

 確かに、認知症の高齢者って(認知症に限らず,高齢者すべてにおいて)時として、仕草が子供っぽく可愛らしい時がある。しかし、これは、普段加齢臭をプンプン漂わすオッサンにも言えることで、誰にだって仕草が幼く、可愛いと思えるときはある。それで、若い女の子たちって、加齢臭プンプンのオッサンに向かって、「きゃわい~イ!」って言うか???言わないよなア!!

 爺さん、婆さんには可愛い!と言って、オッサンには言わない。この端的な理由は、オッサンは加齢臭が漂っていようがいまいが、オッサンであり、ひょっとすると危害を加えそうな(要するにセクハラもどきの)雰囲気とイメージが伴っているからだ。逆に爺さん、婆さんって、無害!と言えば無害。無害と言うことは、自分より立場を下に見ている。例え怒らせたとしても体力、腕力ともに勝てるし、最悪、無視すればよい!と見ているのではないか?!と 

 まあ、そこまで酷くなくても、相手を子供的な感覚で捉えている又は相手を自分と同等のレベルと錯覚している。根本に相手の人格や人生経験等の功績を見ていない。過去を無視して、そこにいる老いぶれた男と女をみてるだけなのではないのか?と思ってしまうのです。だから、軽はずみにも爺さん、婆さんを捕まえて「きゃわい~イ!!」と黄色い声で騒ぐのです。

 さて、認知症の!というまえがきをしている以上、本題に入りましょう。認知症のじいさん、ばあさんって、時々ですが、あらゆる物を取り込んで隠してしまいます。昔は物が不足する時代に生きた証拠なのでしょうが、介護する側にしてみれば、とても困った状況があります。たとえば、トイレットペーパーの補充が追い付かない。入れても入れても無くなる。そして、思わぬ場所に、こっそりと仕舞い込まれたペーパーの山を見て、唖然とする! または、他人の物まで取り込んでしまうケースもある。デイサービスの利用者同士でも、勝手に物を持ち帰ってしまう。翌日、家族からは婆さんの〇〇がない!とお叱りの電話をもらうこととなるのです。それと、オシッコの問題でリハビリパンツをはいてる婆さん。家に帰って、リハビリパンツを自分で洗って、こっそりと干してる時もある。リハビリパンツやパットと呼ばれる紙製品には、特殊な吸水剤が入っていて、そんなのを洗ってしまうと、異常に膨らみ、しかも重くなって、紙の部分こそ乾くものの、肝心要の部位は乾かないのです。認知症のばあさん、そんなことはお構いなし。せっせと自分が汚したリハパンを洗濯するのです。

 さて、このような事象は、在宅介護の中で、一番困る行為です。なんせ、小言でも言おうものなら自分の潔癖さを声を大にして強調する。おまけに、それで嫁と姑の争いが開始され、当分の間、ばあさんはへそを曲げて、食事にすら顔を見せない。流石に嫁さんも困りはて、結果、担当のケアマネジャーに泣きつくこととなるのです。では、このような問題には、どういう風に対応するのか?まず、リハパンってものは、リハビリのために穿くパンツであることを再認識する。リハパンは簡易な使い捨てパンツと同様なイメージである現実の意識を払しょくする。できれば布パンツに戻して、排尿周期をみてトイレ誘導を行う。もちろん、成功するときも失敗するときもある。大半は失敗することの方が多く、大概の家族はこの時点で諦める。介護職員も同じく、数回トイレ誘導に失敗すると、それ以降は再びリハパンに頼ろうとする。問題はここに存在する。手間を惜しまない。汚したら変える。この繰り返しを実践することで、悪い習慣は改善されていく。一旦リハパンから卒業できれば、それ以降の恐ろしい程単純な、パンツを洗って自分で干す行為は激減する。まあ、だまされたと思ってやってみな! 結論は、遣ってみてからの話にしましょうよ!

 まあ、と言いながらも、認知症の人の介護は忍耐との勝負って感じである。相手との根競べ! それほど執拗な人間本来の欲求が根底に潜んでいるのです。マズローの自己実現。人間って、本来はクドイ動物なんです。決して、きゃわいい~動物ではないのですよ。

2012/6/15
認知症高齢者へのベストな対応方法

先日の研修終了後、次の研修テーマを職員に尋ねてみた。いったいどのような研修を望んでいるのか・・・?である。

 考え抜いて出した結論が、認知症の高齢者への対応方法が知りたい!と言う。確かにうちのデイサービスでも認知症を患う利用者の数は多い。そのレベルもマチマチであって、重度の精神的障害を抱える人、重度の身体的障害を抱える人、また認知症諸症状はかなり激しく表面化しながらも身体の不自由を持たない人、と様々な認知症高齢者が利用する。また、僕も認知症を専門にする施設群である三重県の協議会で研修の企画を行っているが、実際問題として、認知症と言えど、あまりに多面的諸症状がありすぎて、対処法なんてのが存在しないのが現実である。それに、元来のHOW TOものと言われる研修の無意味さについても重々承知している。相手は人間である以上、マニュアルに書かれた通りの対応を行って、反応が同じはずがない。これは、自分自身に置き換えて考えてみれば、一目瞭然、そんな介護なんて有りえない!わけである。

 しかし、だからと言って、認知症高齢者の介護拒否に際して、何も打つ手がない!と言い切るには、担当する職員だって路頭に迷うだろう。だから、少しだけ認知症について解説をしてみたい。

 認知症のジイさん、バアさんってのは、それぞれの人にしてみれば自分自身が認知症を患っていると思っていない事が多い。至って普通であり、何も以前と変わりない一人間であると思っている。しかし、職員から見れば、このジイさん、バアさん、どっかおかしいぞ!?と感じている。このギャップが、まずは介護を難しくしている。つまり、介護する側は相手を認知症と決めつけ、何を言っても聞き分けのない人物である!と決め打ちして接することになっていないか?そして、相手も相手で、自分のことを子ども扱いしおって、わけのわからない事ばかり言いよる!と憤っている。意思の疎通を図ろうにも、相手も相手、こちらもこちらでは、お互いが納得できる訳がない。常に、僕は認知症のジイさんやバアさんには、しっかりとした説明を行うようにしている。ゆっくりと、分からなければ何度も繰り返し、相手の気持ちも考えて話し込む。すると全員とまではいかなくとも、ある程度の認知症のジイさん、バアさんたちは、こちらの言い分を聞いてくれて納得してくれる。この話しかけが重要である。

 次に、認知症の人たちは、今の状況に不安感を抱いている。自分がどこで、何をしているのか、さっぱりと理解できない。周りには知らない輩がウジャウジャ居て、何か分からないけど、何かをやれ!と言っている。自分は今は、その気分でもないし、そんなことをやる必要性も感じていない。そんな自分の気分を度外視して、この者は、やたらと命令口調で自分を説き伏せようとしている・・・・。こんな状況が、認知症の人の周りでは、ごく自然に見受けられる。職員側からみれば、今は風呂に入る時間、ご飯を食べる時間、便所でウンコする時間なわけで、これを職員の都合による介護と呼んでいる。職員の都合は、あくまでも事業所の提供するサービスの枠に、利用者をはめてしまいたい。職員や事業所の意向である。しかし、相手側である要介護者は、そんなことは無視。まったく関係ない。そりゃ当然、その理屈は成立するのである。だって、認知症のじいさん、バアさんは、そのようなことを何も望んでいないからである。しかし、職員としては、家族の手前、何も変化なく、来所の時のままの服装で風呂にも入らず、排せつ業務もこなせてなければ、それこそ詐欺呼ばわりされるのが怖い。何とかして、専門職としての意地もあり、メンツを保ちたい。そう考えても不思議ではない。さて、こんな場合はどうするのか? 結論から言えば、動作を急がない。気分が乗るまで気長に待ってみる。そして、その結果が報いられなくても家族との連絡をしっかりと行い、家族には無理強いしなかったことを理解いただく。何が一番優先されるのか?を考える力。そして、その優先順位に従い、適切な介護ができるように職員が成長しなければ、家族も納得できないだろう。そのために連絡帳や家族との連携をしっかりと構築する努力が必要となってくる。

要するに、認知症介護は、じいさん、ばあさんと言いつつ、直接本人ではなく、家族と一丸となって支える連携力を構築することが最大の課題であると思っている。我々介護する側だけの独りよがりでもダメ!家族の一方的な要望をかなえるだけでもダメ。地域密着とあるように、地域全体で認知症のじいさん、ばあさんを支える姿勢がとても重要である。

 って、職員の疑問にたいして答えになってるかなあ~疑問!

2012/6/14
施設内研修の目的と意義

今日は太陽の家デイサービスセンターでは、施設内研修が実施された。職員の手作り研修である。テーマは「デイサービスにおけるレクリエーション」である。所要時間は一時間。恐らく、講師を担当した職員はいろいろと頭を悩ませて、胃が痛くなる思い出今日のこの日に臨んだことと想像する。ついでに、僕も傍聴させてもらった。(傍聴と言うよりは、かなり意見を言った方だが・・・)

とにかく、研修と言いながらも、白熱した討論の場となった。それが良い、悪いはさておき、僕は、みんなが一つのテーマについて、意見を出し合う姿は、決して悪いことではないと思っている。むしろ、この結果、皆がレクリエーションとリハビリテーションについて真剣に考えることができた。と言う意味においては有意義な時間であったと思う。

 ただ、テーマがテーマなだけに的を絞りこむのに時間がかかった。あまりに門戸を広く取りすぎたために、何について話をしているのか、何を改善することを目的としているのか?がボヤケテしまいそうになった。問題は、担当する職員が提示するのは、今の太陽の家のレクリエーションがマンネリ化してるのではないか?という点であった。確かにマンネリ化しているかもしれない。その大きな原因ってのは何か?を議論した。つまりは、個人個人の職員が、自分のやるべきこと、ほかの職員にやってもらいたいことの両面で、遠慮やまかせっきり(まったく相反する原因ではあるが・・・)、職員同士の連携や意志の疎通が取れてない。言ってみれば、利用者をその時ばったりの安易なごまかしが蔓延しているということであった。

職員とすれば、そのような誤魔化しと言う認識は持っていない。そればかりか、一日の作業量に振り回され、業務多忙によって、本来自分がやらなければいけないことに支障をきたしている。しかし、よくよく考えてみれば、業務としての記録もそうだが、業務の一環のトイレ介助や家族との連携の部分が、職員の思いを達成させるには足枷となっているようなのだ。しかし、もう一度、よく考えてもらえれば、職員も理解できるのだが、そこに介護職員の癖と言うか、何というか、「介護」と言う視点を固定してしまいがち、強いて言えば、頭が固い。固定観念で、決めつけで、それらにとらわれすぎているがあまり、行動が縛られているのではないか?という結論に達した。

まあ、職員としては、楽しんでもらいたい、何かの役に立てるようなレクであり、リハビリを兼ねたものであった方が良い!これらすべてが逆に視野を狭めたり、選択肢を狭めたりするブレーキとなってはいないのか?と言う点が大きな問題であると・・・

次月は主任ケアワーカーの妻鹿が講師役を担当して「チームワーク、チームケア」と言うテーマで研修を実施してくれることとなった。

施設長として、職員全員の成長を期待するあまり、過剰な負荷をかけているような気がしないでもない。しかし、自分自身の経験や性格から考えてみると、ある程度の負荷は、成長には不可欠であり、これらの負荷はストレスであっても、良質のストレッサーであると信じている。仕事は家族を養うために金銭を得る手段としてある。しかし、私たちの行っている業務も、美味いラーメンを提供して客の満足を得られるラーメン屋も同じである。相手が満足して、喜んでもらってナンボの世界である。顧客満足をCSと称して、今や全世界の企業がやっきになっている。福祉の世界ではCSが必要ないとは言いきれないし、そうあってはいけない。

この世界で金をもらって働く以上、単なる排せつ介助、食事介助、入浴介助だけをやるだけの福祉では、その辺に万とある一般的なレストランやラーメン屋ではなく、ここだけに存在する唯一を目指さなければ、俺たちに明日はない!という気概で頑張っていきたい。

2012/6/12
最近読んで面白かった本。

榎本博明著「すみません」の国と言う本。これは面白かった。心理学者の視点から日本人の本音とたてまえを細かく分析、欧米人気質との比較から、日本人の良さを抽出している本である。諸外国から見ると正体不明、何を考えているかわかりにくい日本人の思考回路、ともすれば欧米化の波にのまれ、日本人固有の文化や思考をかなぐり捨てて、すべてが欧米マインドに同化してしまいそうな今の時代に、逆に警鐘を鳴らす本であった。僕自身、かなりの点で欧米風思考の持ち主であり、人に言わせれば本音の直球を投げまくる! 好き嫌いの格差が激しく、言ってみれば分かりやすい。しかし、単純で単細胞な厄介な日本人と言う評価がなされている人物である。この本を読んで、少しは日本人のワビサビを理解し、世の中に順応していけそうか・・・?と

 まあ、人間、育った環境や人生で培った経験をもとに、後々のものの考え方に大きな影響を及ぼす。それを「良し」とするか「否」とするかは、その人の考え方によるところが多い。僕も学んでいない!と言えないこともない、頑固者のオヤジ世代となり、今後、どのように社会に順応していけるのかで、老後の人生が決まってしまう。人の言うことを聞かず、我が道を行く要介護者は介護職員から敬遠される。敬遠されるどころか虐待の憂き目にあうかもしれない。それも、人のいないところで陰湿な苛めにあうかもしれない。その時になっても欧米人は、自分自身の権利を主張し、徹底的に自分自身を援護しようとする。わが身を振り返らず、主張ばかりは一人前。そんな人物が今後、増えてくるとしたら、それこそ介護の世界にも欧米的思考回路を研究し、理解しなければいけない時代が到来するのかもしれない。

 何も、さしあたって大きな問題ではないが、これからの要介護者の多様化は、以上に述べたような思想にまで言及した対人援助技法が求められることは確かである。今でも四苦八苦の連続の介護職諸兄、さらなる努力と学びが不可欠となりつつある。

2012/6/11
時代の変貌。

認知症介護や高齢者福祉の世界では、今の時代背景が介護に大きな影を落としているといわれている。核家族化、少子高齢社会や限界集落などがそれだ。 人口の過密は都市部に集中していることは、誰しも知っている通り、東京に限らず、この三重県に於いても、都市部(って、言葉が恥ずかしいけど)・鈴鹿、四日市、津などの中心部に人が集まり、山間部では人口の減少とともに老人世帯の増加が問題となっている。さて、なぜ問題化と言う点について、この私の家を例に話せば、私の家庭では両親ともに健在ではあるが、老人二人だけの世帯と、離れた場所に我々子供世帯が生活をしている。

 年々、両親だけではなく我々子供世帯も歳を重ね、老人世帯は年金を中心に生計を維持している。そして我々世帯は、夫婦共に高齢者介護を主体として生計を立てている。夫婦共に施設の長として忙しく、自由になる時間は限られている現状である。オヤジ夫婦は、健在と言うものの、御多分にもれずに母親は膝関節の障害で歩行が困難で、親父が主介護者として母親の介護を行いながら、何とか日々の生活を維持できている。御蔭様で認知症の方は、かろうじて問題にはなっていないが、それもいつまで行けるのか・・・?!と不安材料は多い。 これは、言ってみれば今問題となっている「老老介護」と言われる現状であり、夫婦の何れかが倒れれば、その時点で生活のバランスは崩れて、何かしらの生活支援を必要とするわけである。

 私が子供のころは、オヤジ夫婦と私たち子供と祖父母が同じ屋根の下で生活をしていた時代である。それぞれが家事を負担し合い、協力しながら毎日の生活をおくっていた。時の流れとともに、祖母が脳血栓で倒れ要介護状態となった時も、家族全員(僕は子供すぎて役には立っていなかったが)が協力し合って、在宅介護を継続した。だから、ばあ様は自宅で亡くなった。次にじい様が認知症となった。その時は、親族の感情的な反対に合いながらも、地域に芽生え始めた老人介護施設で介護をお願いした。この時のオヤジの年齢が今の私の年齢である。 家には私や妹が一緒に暮し、じい様の面会や必要な用品の交換や届け物などを分担しながら家族で補った。

 そして今の時代である。自分自身も年老いていく中、おやじ夫婦の生活は長男である自分が背負うこととなるが、先にも述べたように今、夫婦のうちのどちらかが潰れると、途端に困ってしまうが、その困難さは以前の比ではない。夫婦共働きで、それぞれに責任がある毎日を過ごすものとして、いちいち両親の生活を支援するだけの余力がないのである。介護保険に頼り、フルで施設のお世話にならなければ、介護者の生活まで壊れてしまいかねない厳しい現実が存在するのである。

 先に書いたように、老老介護の果ては核家族社会のデメリットが、生活を困難にさせていくマイナス・スパイラルが発生するのである。生活相談員をしていると、このような困難なケースは、いくらでも遭遇する。地域社会の到る所に、これと同様の問題は転がっている。老人同士の介護を余儀なくされ、介護負担は一人の肩に重くのしかかる現実がある。精神的にも肉体的にも、歳をとってからの介護や看病は難しい。特に夜間のケアは、年寄りにはきつい。だから、今、政府が24時間のケアを模索しているのである。24時間体制で老人を見守っていく体制づくり。それも、介護保険の契約の枠を超えて、柔軟な対応を可能とするシステムが求められている。

 介護保険の将来は、この問題をクリアーにしていくことから始めなければ、介護保険料の値上げばかりでは国民の負担ばかりを増やして、有益なシステムの無い社会保障制度では、要介護者の増加する一方の日本の社会は破たんする。


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