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ブログ-施設長の部屋

2013/2/4
今朝はデニーズで。

大府での認知症指導者養成研修も最終週となった。長かった9週間の研修もこの週で終了する。今日から授業設計を一週間かけて完成させる。実際の講義をゼロから組み立て、講義を実施するまでの工程をグループで完成させる。一時間半の講義をスクラッチから二日間で組み立てる。そして、二日間をかけて全員が発表を行うわけで、これが一番ハードな科目となる。今日から二日間で講義資料の完成にむけて、夜も遅くまでもがくのである。

さて、そんな最終週の幕開けは、大府の研修センター近くのデニーズからのスタートである。朝7時に入った店の中には学生がいっぱい。大学生風の若者が軽食を囲みながら談笑している。時より耳にする会話はバイトの話や睡眠時間の話である。彼らは夜を徹してバイトして、ここに集っているような会話が聞こえる。

昔の自分を思い出すような会話に、思わず笑いがこみ上げてきた。僕も学生時代に場所こそ違うものの、似たようなファミレスで、早朝からコーヒーを飲みつつ、バイトと夜遊びに疲れはてた体を引きずりながら、だべっていたものだ。

早朝のファミレスってのは、昼間のそれとは違った雰囲気を持っている。全体的に食事を目的に訪れるだけではなく、ひと時の気分転換を目的に来店する客が多い。そして、昼間に比べると静かだ。店内に響くのは、食器の音とひそかに聞こえてくる会話の一部が、結構耳に心地よい。こんな時のベンチシートも、ゆとりがあっていい。静寂な喫茶店もよいのだが、隣の客とのスペースが大きな問題と思っている。朝のひと時くらい、隣に人を身近に感じることがない方が良い。だれにも遠慮することなく、自分の空間を過ごせる。そんなファミレスがお気に入りだ。

電車を使って通学していた時には感じられない、微かなゆとりさえ感じ、ぜいたくな時間を過ごしている気分だ。そんな時間もたつのも早い。薄らと明け始めた空も、すっかりと明るくなってしまった。こうやってブログを書き連ね、過ごした時間も終わり、いよいよ激戦の時間に突入していく。

さあ、今日も頑張ろう!

2013/2/1
ぐうたら生徒のすすめ!

言い忘れたけど、僕は、今回の大府における認知症介護指導者養成研修生の中で一番のぐうたら生徒だと思っている。思っているどころか、実際に一番出来の悪い生徒ではないか・・・と自負している。ぐうたらで出来の悪い生徒は馬鹿にされる。それは当然である。誰しも出来の悪い奴より、良い奴の方が安心できるからだ!おまけに、出来の悪い僕は、唯一通いの生徒でもあって、通学時間分だけは、他の生徒よりも無駄な時間を使っているのである。これは、許せん! 認知症を学ぼうとしてる者が、学ぶ意識もなくグウタラしているってのは、時間ばかりではなく労力の無駄でもある。

先日、喫煙室でいつもの仲間と話をしてる時に、そのような話をしたことがある。彼は、特に否定するわけでもなく、笑いながら冗談っぽく「そんなもんですよ!」と言ってくれた。僕自身が、生徒の中でも最高齢者と言うこともあっての気遣いとは思うのだが、本当に、そんなもので良いのだと考えている。

学びってのは、基本的に自分自身のプライベートな課題であり、他人にどうこう言われる筋合いのものではない。ましてや、僕の成績が悪いからと言って、メンバーに迷惑をかけているわけでもない・・・(・・・?)いや、違った!グループワークの場では、メンバーの足を引っ張っているのかもしれないが。

今回の指導者養成研修を修了した者は、認知症に関する指導的立場の人間となる。認知症症の人を理解する手助けをする。認知症を人を支えるネットワーク作りに努力する等、認知症の人に関わるうえでの重要なポジションを担う者となることが求められている要素だと理解している。

では、なぜ?それほどまでにグウタラで良いのか?と言う理由は、相手が認知症の人であり、それを取り囲む人との意識の格差があることが問題を更に難しくしている。認知症の人に限らず、人との関係性の中には、非常に大きなストレスを生むこととなるわけで、このストレスを消化しきれない状況が存在するのである。言ってみれば、高齢者福祉の現場はストレスの塊のような、非常に大きな問題を持ち合わせている。以前、認知症に関する研修の中で、認知症介護は砂漠の中に井戸を掘るようなものだ!と言った者が居た。掘っても掘っても砂ばかり。求める水は、一向に出てこない。そんな現場で必要なものはなんだろう!?

そうなんです!鈍感な力、ぐうたらな意識。いや!決して中途半端で良いと言っているのではない。あまりに熱くなりすぎることで、相手に対する感情が前に出すぎてしまうことはないのだろうか?それによって、相手に自分の思いを押し付けていることはないのだろうか?と思ってしまうのである。そう考えると、熱からず寒からず!ってところで、一歩引いて、じっくりと相手を観察しながらスローな支え方ではだめなんだろうか?

僕は、高齢者を支えていくうえで一番重要なことは、その人自身のエンパワーメントを大切に支援することだと思っている。決して、我々の思いを強く、磨き上げる必要性ってのはないのではないだろうか?

2013/2/1
財布を忘れた!

今日は、もう2月の1日目。月始めの金曜と言うわけか、妙に車が多い。心なし全体の流れがいつも以上に早い。セカセカと車は走る。僕もつい調子に乗って、いつもより走行スピードは速い目! 順調に今朝も大府に到着!

朝の出発時間の10分の遅れは、最終的に到着時間に大きな差を生む。その理由は、道路状況が、その10分で変わるからだが、だれにも朝の10分ってのは一時間に匹敵するほど貴重な時間。当然、無理を押しながらセカセカと家を出るのである。

車で大府に来るようになって、研修開始までの時間に余裕が生まれた。研修所で一人で同僚たちの登場を待つよりは、もう少し人のいる場所で時間をつぶすようになった。研修所近くにマックとデニーズがある。これは、とても都合よい。マックにしても、デニーズにしてもコーヒーを飲みながら時間を潰すことができる。

今日はデニーズに入った。席に着いた。メニューをみた。・・・・・カバンの中に財布がない!!

やばいよ~!!!

まあ、本当に焦った!注文止めて帰るか!?  こんな時にカバンの底を探してみると多少の小銭が入っていることがある。案の定、カバンのポケットの隅のほうに500円玉が入っていた。   助かった!

やっぱり、これからも緊急事態用のお金をどこかに隠しとかないと・・・・と改めて思ったのだ!

2013/1/31
朝もやの中。

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大府の研修後期を受講中の身の私。後期のカリキュラムは終了時間が読めないということもあって、ここ毎日、車で登校している。朝、暗闇の中の自宅出発は変わらない。ちょうど車が川越あたりに近づく頃にもなると、薄らと辺りが明るくなってくる。空が明るくなり、次第に街並みがシルエットに浮かぶようになってくる。僕は、この時間帯が好きだ。夕焼けもロマンティックで良いのだが、それよりも僕は夜が明ける時間帯の静けさに「命」を感じる。まだ街全体的に動きはないものの、個々の家庭では朝の出発準備にあわただしく動き出そうとする目に見えない力を感じる。この雰囲気は電車の中では感じないものだ。

なんだろう、このワクワクする気持ち!朝のあわただしさが、そのような気持ちにさせるのか?それとも、今日一日、楽しいことも苦しいことも辛いことも含めて何かが起こる期待感ってのか、とても気持ちがハイになっていくのを感じるのである。以前、病院に入院したことがあるが、この時も同じだった。毎日、同じ生活しかない入院生活。しかし、病室の窓に日の光が薄らと滲み始めると、妙にうれしくなってしまう。あの当時は、今日も生きている!ってことに喜びを感じていたのかもしれない。

僕が朝の光に命を感じるように、うちの認知症のばあさんたちも夜中にも関わらずカーテンを開け放ち、起床準備をはじめるのは、ひょっとして不安な夜から早く抜け出たい気持ではないの?と思えてくる。俺だって不安な気持ちで夜を過ごすんだもの、ばあさんとなって、おまけに何処に暮らしてるのか意味わからないんだもの。夜の暗闇は恐ろしいよね・・・!

もう今から、うちのスタッフに言っておこう!僕も近い将来、ボケじじいに成るから、その時にや、夜中にカーテンあけて外を眺めてても、そのまま好きにさせといてね。僕なりに朝の光を首を長くして待っていると思うんだ!

絶対に、まだ寝ててください!なんて言わないでほしいね!ましてや、無理やりカーテン占めて、電気消して、ベッドに縛り付けないでくれよ!

2013/1/30
体罰の必要性・・・を考える。

最近のニュースで取り上げられている問題に学校教育にとどまらず、スポーツ養成の中での体罰がある。今の社会的風潮をみると体罰は「悪」のイメージが強い。と言うよりもメディア先行の体罰を悪者扱いする流れができているのではないか?と感じている。もちろん、僕自身も体罰に関して、「良い」とは思っていない。

一頃、戸塚ヨットスクールにおける教育方法が司法判断に持ち込まれた時があった。今の若者は知らない時代の話かもしれない。それ程昔となってしまった事件であるが、この時に僕の印象は、戸塚さんの考え方にある面で同調する部分があった。それは、人間が必ず求める「逃避」という自己防衛機能のような「甘さ」を正すには、そこそこのスパルタンな指導も必要かもしれない。と考えたからである。もちろん、ここで問題となるのは、その対象者の人格を専門職が分析した結果、それらの外圧に耐えれるか否かの判断を受けると言う条件付きでの許容とする考えるわけだ。

さて、今日のニュースではオリンピックを目指す柔道家たちに対する体罰がパワーハラスメントに関する情報が取りざたされていたのだが、これはどうなんだろう・・・?と考えてしまう。オリンピックを目指すと言うことは、世界のトップを目指すことと同じと考える。その中で行われる肉体的、精神的な苦痛を体罰やパワハラとするのだろうか?僕は、ここには体罰として訴えられる人間関係のまずさが隠れているように思う。

今の時代の流れに従って、すべての体罰を排除し、何が残るのか?そこには、甘やかされた温室育ちの人間が大量生産され、免疫力の無い弱体化された人間しか残らないような気がする。

ずいぶん昔の話であるが、僕の事務所で働いていたスタッフを、派遣先の現場で叱ったことがある。彼女は、僕に叱られたことを気にして、涙ながらに訴えてきた。僕が彼女をしかったのは、派遣先の業務中の私語が多すぎるという理由で、派遣先に気を使った結果の教育的指導であったはずであるが、彼女は父親にも叱られたことがないと!泣き叫んだことがあった。まあ、こうやって書くと、このブログの読者には、圧倒的に怒られたことに腹を立てている彼女のほうに部が悪くなる印象を受けると思う。しかし、一歩引いて考えてみると、そこには彼女なりの生活と習慣が彼女なりの常識を作っており、僕が一方的に彼女の人格をないがしろにした。とすればどうだろう・・・・?

体罰を考えるとき、やはり両サイドから、そのものをじっくりとみる必要があるのではないか。そういう点で、僕はメディアにも、体罰の持つ意義についても論じてもらいたいと感じている。


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