


高齢者介護というと「傾聴」をテーマに研修が行われる程、この「傾聴」は対人援助の重要な部分でもある。傾聴とは、相手と同じ目線で、相手のお話を真摯に聞き取る行為であり、そこには相手の言葉を否定しないで聞く姿勢が、キーワードとなる言ってみればスキルの必要な技術でもある。他者の話に夢中になって聞き入ることは、実際には非常に難しい行為でもある。特に相手に対する好意も無ければ、相手に興味もなければ尚の事、真摯に聞き入る市営を維持することは難しい。各種の研修を実施する中で。受講者が講師の言葉に耳を傾けるには、それなりの興味をそそる何かが無ければ、じっと聞いて学ぼうとしてくれない。自分の学びを促進する為という目的があるにも拘らず、聞き入ってくれないのは、講師側の責任と評価されるほどであるから、自分自身が会話に興味や話し手に会話を弾ませるスキルがない限り、高齢者との会話は介護する者にとって苦痛以外何物でもないはずであろう。
高齢者介護、特に認知症高齢者の介護の現場では繰り返し、繰り返し、エンドレスに話を聞くことが求められている。普通の神経の持ち主には、この繰り返しの話題がつらいはずである。以前に何度も聞いたことのある話題を、さも初めて聞くような素振りで耳を貸す事はつらい。そこに演技することが必要となるからである。相手を傷つけたくない心理は、認知症の人との会話に際し、常に笑顔で文句なしにすべてを受容する姿勢を保ちながら聞き入れる。これも言ってみれば、介護職員の受けることとなる精神的な負荷と言っても差し障りない業務の一部である。
しかし、このような大変な業務を得意です!という頼もしい介護職員も存在する。傾聴の難しさを説明したようにベテラン職員でも、高齢者の話を上手に聞き入れることは難しいのである。しかし、新人職員や一部のベテランさんの中には、いとも簡単に傾聴をしていると言い切る猛者がいる。もちろん、中には本当に上手に耳を傾けている職員さんも存在するが、大半の職員さんの言う傾聴は本来の傾聴という意味をはき違えているケースが多い。そのような人々は、傾聴ではなく、年寄り相手に世間話に花を咲かせているだけの人が多いのである。さらには、相手にしゃべらせず一方的に自分のペースで言いたいことを話している職員も存在する。年寄りの方が職員の話に傾聴している。そんな逆パターンに、自己満足し、そんな自分を傾聴している風に誤解ばかりでなく、自画自賛する職員にあきれてしまう実態が見受けられる。
介護職員に専門性も何も見えてこない。前回のブログでも書いたように。ただ単に寄り添い甘えるだけを介護と誤解していたり、話に傾聴するのではなく相手に自分の話を押し付けて満足している低レベルな介護職員の存在にホスピタリティを教える重要性に頭が痛い。
何にしろ労働とはシンドイものだ。マネイジメントにしろ現場作業にしろ働くことの意味は同じである。職種を問わず、そこに係わりサラリーをもらう以上、責任を全うすることでは、皆同じである。マネイジメントでは、経営責任、管理責任などが求められ、現場で作業する者にとっては協働することによる役割としての責任などが存在する。経営、管理、生産、配送、営業などのいろいろなセクションで働くということは、非常にストレスのかかる行いでもある。週休2日の時代は、5日間の労働ののちに2日間の休暇が与えられる。この2つ日間ってのは、仕事を離れ、自分自身の心身のリフレッシュにつかったり、気分転換のための活動を行ったり、家業や雑務など通所の業務とは違ったやらなくいてはならない事柄を行ったりと、人によって利用の仕方はまちまちである。一週間の5日を精出して心理的なストレスに立ち向かい続け、フウ~と一息つく。そんな休日が一番望まれるわけだが、この休日の使い方が若者にとっては、今一つ検討する余地がありそうだと考える。
それは、自分の休日を自分のために使うことに何ら異論はないが、この二日間に自分自身の全エネルギーを使い果たし、週明けの出勤日は逆に疲れ切って出勤するというのは如何なものか?と思うわけである。何を主体とするかで変わる問題ではある。プライベートな時間を人生の一番重要な部分とする以上、仕事が二次的なモノになっても仕方ない。という考え方もあろう。逆に仕事が生き甲斐の者にしてみれば、休日に自宅で何もすることなく無駄に時間を過ごすことを良しとしないケースも、わずかながら存在する。この両方ともに、もう少し働くという意味について考えてもらいたいというのが、私の本音である。
何故なら、両者ともに会社または事業所にとって、長い目で見たときにプラスに作用していかないからである。プライベート重視型は、生きるための仕事という理解が欠けている点、非常にさみしい限りの思いである。また、仕事オンリーの人物の場合は、仕事に対する忠誠心には感謝はするが、そのような半拘束的思考は、今の時代の企業人としての柔軟性に欠けるのではないか?
遊びばかりではなく、遊びを仕事に生かすことのできる柔軟なものの考え方。それを無視して今の企業は成長していかない。高齢者福祉も同様である。高齢者の事ばかりに集中し、寝ても覚めても年寄りの事ばかりで、カチコチの石頭のように凝り固まった思考心理では、拡大する高齢者のニーズを充足するには不向きではないか。また逆に遊び中心では、業務で必要とされる専門性の面で、偏りが際立つ一本調子の介護になりはしないだろうか?
働くこと。そこには精神、身体ともに健康であることが一番重要であり、それに伴い新しいものの考え方、複眼的な発想、多面的な視点といった柔軟な意識が必要とされるのではないかと考えている。介護に携わる人々に、百聞は一見にしかず! Go for Broke!(当たって砕けろ!)と、声を大にして叫びたい心境となる時がある。
高齢者介護とはヒューマンサービスの一つであり、言ってみれば「客商売」とも言える。対人援助業務と言われる分野であるから、サービス業と言えるかもしれない。サービス業や客商売と何が違うかと言えば、そこで扱うモノが「命」である点が大きく違う。命というと、非常に重苦しく、厳格でスピリチュアルなイメージではあるが、私たち高齢者介護を実践するものとして、非常に重要かつ重大なモノと日々、接していることとなる。しかしながら、病院やホスピスなどのような医療機関とは違った意味の「命・生」を取り扱っている。元来デイサービスは、在宅介護の基本原則にのっとって介護を行っている。サービス提供中の突然死と言うケースもありえるが、基本、利用者は自宅ないしは病院で息を引き取ることが多い。よって、私が考えるデイサービスの目的として、命ある限り自立した生活を維持してもらうことであり、必要以上の筋力トレーニングの必要性は考えてもいない。さらに言えば、我々の役割として、この施設を利用する要介護者のそれぞれの人々の臨終の時を安らかに送れるよう支援することと思っている。
先日、協議会のターミナル研修の講師にお招きしたドクターのお言葉を借りるなら、如何にして楽に、痛みなく死ぬことができるか?という点を重要視している。高齢者の終末期は難病、事故による終末に比較すると、随分と静かなケースがほとんどであるという。もがき苦しみ、痛みに耐えながらの終末期は、診る者の心をえぐる。とても辛くて見ていられない程であろう。家族であれば尚の事、その時の悲しさ・辛さは筆舌につきる。
それでは、ホスピスでもない、医療職でもない我々、介護職の役割として、要介護者の生活という視点から何ができるのであろう?医療職は、点で高齢者と関わる。例えば末期の癌という疾病との戦いであったり、認知症という状況から心理行動障害の点をどのように改善していくか?という視点である。しかし、介護という職種は、その人の生活全体を支えていこうとする。つまり面で支えるのである。医療も介護も面の視点で支えることができれば理想的ではあるが、医療職が高齢者を面で支えるには専門職が不足している。だから、介護現場の質の向上と医療とのさらなる連携が求められているわけである。
そうなると私たち介護職には医療的な知識を含めたスキルの向上が必須となるわけだが、僕は介護と医療的知識の向上だけでは物足りないと感じている。知識やスキルで頭でっかちになった介護職員が、果たして素晴らしい接遇を行うことができるのか?という疑問である。なぜなら、接遇の良し悪しは知識の問題ではないという点であり、そこに相手に対する心からの思いやり、人としての感情を理解できるや研ぎ澄まされた感性が必要とされるからである。経験豊富な介護職員のベテランさん、業務に慣れつくし、初心者であれば狼狽える何ケースも簡単に片づけてしまえる(あえてここで、片づけると書いた)そんなベテランさん程、利用者の方々に対する対応に横柄さがあ見受けられる。相手を親しみを込めたつもりか下の名前で呼び、それだけではなく・・・ちゃん・・・づけで呼ぶ。利用者と会話するときは、すべてにおいて指導的立場から教育的視点の言葉かけが目立ったりする。まるで母親ができの悪い子供に命令しているような言葉かけである。
また、新人職員にしても、妙に爺さん、婆さんが大好きで、何でもかんでも横に寄り添い、ごろにゃんごろにゃんと高齢者に甘える一方の職員も存在する。甘えてあげることが爺さん婆さん孝行と勘違いしてるも甚だしい。
ここで一言言っておきたい。介護という重要な社会福祉事業の現場を支える職員たちは、すべての甘えを捨て、専門職として自律を行い、利用者の皆さんの不安、不都合、不潔、不衛生、不明瞭、不具合、不満、不便、不適格などの「不」を取り去るための努力を行うべきである。歳を重ねる状況をしっかりと感じ取り、そこに存在する否定的な行為のすべてにおいて肯定的に変える。そのような支援に切り替える時期に来ているのではないか・・・?これも、ホスピタリティという重要な介護理念の一つである。
この写真は、太陽の家のグループホームの新しい空間です。今までは、ちょっと幅広の縁台を置いただけのスペースだったのですが、先月末にソファーを購入してセットしたばかりの新たな癒しの空間の写真となります。写真として紹介されたソファーに腰掛ける利用者の方ですが、もちろん、個人情報保護の観点から、事前にブログ等のマスメディアに登場することを了承いただいている方々ですので、その点だけご理解いただきたいと思います。
さて、なぜ、この場所にソファーを設置したのか?という点について、若干の説明を行います。 当グループホームは南北に通じる廊下を中心軸に両サイドに居室が設置され、南側に面するリビング、ダイニングにおいて、日常の生活の大半を過ごしてもらっています。十分ではないのですが、それなりに9名の利用者の皆さんが、くつろげるだけの広さはあるリビングですが、プライバシーや自分流の生活様式を展開するには、少し環境的に不足する部分は認めざるを得ない点、不満に思っていました。建物を設計する中で、何度も検討を繰り返し、徹底的に考え抜いて設計してもらった建物ではありますが、実際に住んでみると、いろいろな不都合が発生してきました。それが、この逃げ場のない環境というわけです。
自分自身の生活に置き換えてみれば自分の気分によって、自宅のいろいろな場所を変えて生活をしているわけです。リビングであったり、自分の部屋であったり、ベランダの一部に椅子を置いてくつろいだりと、それこそ自分の好き勝手に生活をしている。そんな生活スタイルを考えながら、グループホームの利用者を見てみると、非常に残念ながら居室とリビングのいずれかしかチョイスがないのです。一人になりたい時や、入居者同士でけんかになった時などに逃げ場がない。これは結構、生活する者にとって窮屈な、居心地の悪い生活空間だと思ったわけです。だから、ソファーを置くことで、廊下幅は狭くなるけれど、時として気分によって、くつろぐためにチョイスの幅を広げることができれば最高じゃあないですか!そう考えて、この場所にソファーを置いて、ランプシェードを設置。明かりをともしながら、くつろげる場所として職員さんの協力を得ながら雰囲気づくりをしてきました。
今、ようやく入居者の皆さんの第二のくつろぎスペースとして活用されようとしてきました。今日も、入居者の二人と対面しながら話をしてるうちに、どんどんとお仲間たちが集まり始め、座りきれない状況となってしまいました。利用者の皆さんと冗談まじりに、『ババ連』の出来上がりです!と話しながら、楽しいひと時を過ごしてきました。
介護の現場に必要な気づきは、とっても重要でありながらも、大半の事業所において当の職員まかせとなっている現状があるのではないか?気づきとは、相手に対する思いやりが基本的姿勢の中に存在する。要するにホスピタリティーの心である。ホスピタリティーの根底に流れる重要な要素として、相手への配慮とコミュニケーションにある。コミュニケーションと言っても、言葉で表現するコミュニケーションではない。相手の表情、状態、目の輝き(表情の一つでもある)や行動から察する変化とニーズを読み取ること。その人が発するニーズのサインを読み取り、その人が求めるよりも先に第三者から必要なものを提供することがホスピタリティーである。
介護職員に相手を思いやる気持ちが欠けていると言っているのではない。当然のこととして介護に携わる職員さんたちは、それぞれ必死の気持ちで介護を実践している。しかし、実践している介護の中身を考えてみれば、果たしてそれだけでよいのか?という疑問が出てくるはずだ。今の職員さんたちの考える介護は「食・排・浴」の三大介護に焦点をあてて業務を行っていないか?それ以外の時間のアプローチとして、何が提供(行われているか)されているか?一度考えてみる必要がありそうだ。
何度も僕はブログの中で訴えるように、高齢者介護と言えば、レクリエーションという御仁がいる。実際の現場では、時間を持て余す状況が頻繁に見受けられ、特にデイサービスの場合はサービス提供時間が、以前の介護保険の時間区分枠の拡大から更に長く施設にとどまる(半強制的に)状況があり、そのような現状のもとで施設を利用する要介護者たちは、以前にもまして長時間の塗り絵、計算ドリルの実施を強制されているという現実があるのではないか?
自立支援の名のもと、要介護者は放置され、見守りを強化する状態は要介護者を無秩序、無計画に見てるだけの介護となりつつある。介護する現場に気づきが存在し、要介護者の求めに応じ、適切な支援を行うためには、我々管理者は何をすべきか?・・・・研修を行って教育する? 他の事業所に見習いに出して学びを促す? いちいち細かな点を突いて、そのたびに職員の行動を監視し注意を与える?どれ一つとっても効果のありそうなものはないのが現状である。
気づきを得るには、相手をしっかりと観察することからスタートしてみるとどうか?要介護者のアセスメントをしっかりと読み解く。つまり相手を理解することから開始する。同時に相手の普段の様子をしっかりと頭にインプットする。顔色、目つき、動作、言動など外見として見える部分すべての様子っを観察することから、日々の違いが見えてくる。相手が要介護者ではなくとも、髪型の変化や服装の変化を発見しては、そこでコミュニケーションの糸口や支援方法が見つけられる。誰でも、言葉でなくいろいろな部分を使って情報や気分を発信している。それらのサインを見逃さないようにすることが「気づき」であるはずだ。
気づきを促すために、やはり職員が介護する要介護者の情報を共有化することが必要ではないか?と・・・なんだか分かったような分からないようなブログになってしまった。