高齢者介護が措置の時代から契約の時代へと変化して13年が経過する。措置の時代の高齢者介護は、社会全体が認知症や高齢者の心理について成熟してなく、まだまだ未知の分野を暗中模索状態の中での介護を行っていた。世界でもとびぬけた長寿国として日本全体の高齢化率は上昇し、戦後第一次のベビーブームに誕生した人々の高齢に、介護の現場では戦々恐々とした不安な思いが想定されていた。そのような将来像を踏まえて、高齢者介護の質の向上をめざし、提供されるサービス如何によっては事業運営が逼迫する危機感をあおるように、高齢者介護の運営に市場原理を導入したのが介護保険である。
さて、高齢者福祉の世界に営利企業の商売人原理を導入した結果はどうなったのか? 日本中に第二種社会福祉事業や介護保険事業では多くの営利法人の参入が行われた。営利法人は、事業運営の上に利益を求め、要介護者は「客」の一人として扱われる。客として扱われること自体が悪ではなく、そこに働く専門職の考え方、強いて言えば、事業所の運営理念にホスピタリティー精神にかけている事業所の多いことが問題である。
ホスピタリティー精神とは、一般的な「サービス」を超えた「相手を思う気持ち」を言う。コンビニエンスストアーで買い物をすると、店員さんは必ず丁寧なお礼を言ってくれる。質問をすれば、マニュアル通りの回答を得ることができる。決して不満ではない。それなりに適切な回答を得、その時の自分自身のニーズは満たされる。また、ショッピングセンターで買い物をした場合も同様、言葉の受け答えは、お客様に対する敬語をふんだんに使い対応してくれる。それはそれなりに、言葉の役割を果たしているし、同時にお客様満足は得ることができる。しかし、これらの接客対応は、その販売員のこころから発せられた言葉なのか?と言えば、多少の疑問が残る。
先日、うちの施設で使うソファーを買いにある大手業販店に行った。たくさん並べられたソファーやチェアーを物色しながら、その中で価格もすわり心地も一番好適品と思われるソファーを購入することと決めた。ソファーなどの大物は、実際の展示品を持ち帰るのではなく、売り場の受付テーブルで配達処理や支払いを行うこととなっている。クレジットで支払いを行い、配達予定日も決めたとき、販売員の人がソファーの使用目的を尋ねてきた。私は何も思わず正直に施設の利用者のためのソファーである旨伝えた。すると、その使用目的は業務用の使用となり、購入後の不具合や商品の保障対象から外れるという説明があった。私は納得がいかず、グループホームという家庭の延長線上に位置する共同生活の場が、不特定多数の人が常に腰を降ろす可能性のある業務的と判断されることに合点がいかない。大体から、業務使用と家庭使用の定義があやふやではないか!
私の反論に面食らったのか、その販売員は慌てふためいて上司に連絡し、なんやら作戦会議を電話で行っている。結果、グループホームで使用することは業務使用であるという判断であり、購入後の表皮の変質などについて保障できないということであった。ここで行われた定義の説明の可否は別問題として、顧客満足を追求するお店として、この対応の仕方を皆さんはどのように評価されるだろう。まあ、大した問題ではないことは確かではあるが、ことホスピタリティーという観点から見れば、この販売員の対応の仕方は、何かが欠けているのではないか?! 間違いのないように説明するが、ホスピタリティーの基本原則に立場が存在する。つまり、提供側と受領側の立場は対等であることが基本である。逆にサービスの体系の中には、主従関係が発生し提供側の方が奴隷的立場となってしまう。だからと言って、ソファーを購入した私の方が販売員よりも偉いわけではない。ただ、この場に必要なものは、物品を購入した者に対する接遇を改善する必要性があるのではないかということである。相手の気持ちや状況を考え、マンニュアルには載っていない人間的な判断とエッセンスが求められるのではないかということである。
同じように、介護の現場にも同様の問題を抱えている。行政主導のもと、すべての対応にマニュアルが求められる介護の世界。相手は人間である。すべての問題や起こり得る課題は、想定内の物ばかりではない。ましてや相手が認知症高齢者ともなれば、その都度の状況はまちまちであり、一定の案件として事例対応できるものではない。その人の人生観、人格、性格、生活歴などいろいろな要素が関係し、対処を必要とする場面が形成される。主従関係でもなく、そこに専門職として対等なスタンスで冷静な判断のもと、その人の心からの満足にむけて対応する技術が求められるのではないか。私たちは福祉の専門職として、高齢者介護の中にホスピタリティー精神を織り交ぜ、対人援助の中に夢をもって支援できることが、今一番欠けているのではないだろうか。
太陽の家 玄関先にある一本の梅の木。今年は例年にも増してたくさんの花が咲きました。梅の花が咲く時期となると、そろそろカンパも緩み始めるころ。同時に花粉と黄砂が大量に舞い始めるころ。今日のように青空が広がる天候は、逆に珍しいです。今日は、西風が強く、若干肌寒さを感じる気候ですが、それよりもなによりも太陽の家の社用車は、黄砂と花粉で真っ黄色に染まっています。朝から、運転手さんを交え、洗車に明け暮れている今日一日でした。
以前から何度もブログに書いている、僕のお気に入りテレビ番組の一つ。BS日テレで放送している「小さな村の物語イタリア」。毎週土曜夜、日曜朝に放送している人気番組である。イタリアの田舎の町を紹介している。単なる観光旅行の紀行版ではなく、小さな村に暮らす人に焦点を当てて、その人の暮らしを紹介しながら、イタリアの風土、気質を紹介している点で、他の番組との差別化を図っている。
まあ、きょうは、この番組の評価をする目的ではなく、この番組のスポンサーである東芝のCMの一つが好きで、見るたびにほんわりと温かなものを感じるCMの紹介をしたい。これは、東芝のLED ライトのコマーシャルである。光と影を使って、一つの家庭が築かれていく様子と、家族の中に生まれる喜怒哀楽をLEDの寿命と言われる10年を表現している。登場人物や情景はすべてが「影」であり、場所を一件の家の窓だけにフレームされて描かれている。
人間が恋愛して、結婚して、子供が誕生し、生活を継続する中でいろいろな経験を積みながら、時には喜び、時には悲しみ、怒る。10年ひと昔と言うが、10年の間には本当にいろいろなことが起こる。そんな人生劇を影絵で表現したこのCMを考えた代理店はすごい!と思う。単純な話で、特に何も珍しい情景も人物も登場しない、いたって普通の家庭を表しながら、ここまで見るものに感動を与えることができるってのは、ある意味、CM業界の中でも目からうろこの状況があるのではないかと思えるほど。
このCMは、一度見るに値する。ぜひ、機会あればじっくりとみてもらえれば、何かそれなりに感じるものがあるような気がする。
介護の現場に働く人々の年齢は、数世代にわたる幅の広さが特徴のようである。義務教育を修了したての者から、定年を過ぎ再雇用となった高齢の者まで。本当に年齢差の大きな職場と言えるだろう。時としてひ孫とばあ様が同じ施設で介護職員として働くケースもあるようだ。
年齢の格差は、そのまま、考え方の違いとして現われ、考え方の違いは介護理念の理解の違いや、文化の違いとして現場に大きな壁を作ることも少なくはない。最近では、この年代の格差に加え、国籍の違い、言葉だけでなく生活自体が全く異なる文化を持つ者たちの集合体となりつつある。
介護職の定義は?
今の高齢者介護の現場は、特養も小規模事業所も関係なく、そこを利用する高齢者の大半は認知症を患っている。今回の高齢者介護の五か年計画でも認知症に対する政府施策は、認知症高齢者だけでなく若年性認知症に対しても社会的理解を広く求め、地域介護の必要性を主体とした施策に仕上げている。増加する高齢者に伴い、認知症を患う高齢者が増え続け、施設介護だけではまかないきれない現状に危機感を持っているのである。今後の高齢者介護は、地域のインフォーマルな支援を含め、地域の余力を活用しながら点の支援ではなく線または面の支援を伴走的に実施していくことを目論んでいる。このような時代の変化に対して介護職員の定義は、どのように変化していくのか?
当然、介護職の専門性は今以上に求められることとなり、そこで行われていた三大介護(食・排・浴)だけの支援では押し留まらない、介護職員にとっては厳しいキャリア目標を設定されてしまった感は否めない。この課題に関しては、数年前から懸念されていた課題ではあるが、現場職員からすれば、とてつもなく急激な変化を求められている状況であろう。職場の急激な方針転換は、介護職員にとっては殊更辛い。変更に際し今まで以上の労力を求められるからである。まずは新しいシステムに慣れるためにハッスルしなければならない。極端な場合、言葉遣いから変えなければいけない場合、自分自身の言動まで見直しを迫られる。
窮屈な職場となることは当然である。間違いなく職員のモチベーションは低下する。慣れ親しんだルーティーンワーク(通常業務)からの脱却にはエネルギーが必要となってしまうのである。
さて、そんな介護職員の仕事に対する意欲向上に、我々上司と言われる者たちが何をしなければいけないか? それは、伴に歩む姿勢が最低限必要である。上司として部下を導いてやらなければならない。介護の現場を手伝え!とは言わない。しかし、考え方、理念、そしてストレスコントロールくらいには十分配慮して、職員を支えてあげることが求められる。介護の現場で働く職員は、何を頼りに仕事するか考えてみれば、我々のとるべき行動は見えてくる。管理者が自分の言葉で、これからの介護を語り、自分の施設の方向性を語る。職員を統率するのではない。職員とともに歩む。これが基本ではないか?
太陽の家で働いてくれる職員のすべてに、公平に働きかける。たった一言のあいさつから始まり、相手をねぎらうことから、一瞬でもそこに「快」が生まれる。「快」は喜びにつながり、次第にやりがいにつながっていく。僕は、職員にさらなる「快」を与え続けるために働く場を見つめていく。
今日の午後、時間を作って眼科を受診した。最近、右目が醜くなってきたのと、お風呂にメガネをかけて入ったような白濁した感と違和感を感じたからだ。ひょっとして、白内障・・・?と心配しつつ近所で評判の眼科受診。午後2時半受付開始まで30分、そんな早くから病院の待合に入ったのだが、そこには先客(先患者??)が4人も待っていた。僕は30分前に入っても5人目の患者と言うわけである。そして、僕を含め、すべての患者が高齢者・・・(僕がおそらく一番若いだろうけど)
初診だから、いろいろな検査を受けながら、眼底検査までおこなって、所要時間2時間。実質、待ち時間を入れると二時間半の病院滞在である。まあ、有名な眼科だけに仕方ないと言えば仕方ない。
診断結果はといえば、「加齢!」年齢により眼球の水晶体を引っ張る筋肉が弱くなって、パソコンなどの作業が災いして、極度な視力低下とドライアイを引き起こしているということだった。帰りに疲れ目ようの目薬を処方され、また二か月後に再受診するよう言われて帰ってきた。
まあ、特に重篤な病もなく一安心だが、やはり老化現象ってのは困ったものである。いつも私の父親が目が見にくくなってきたという訴えを聞きながら、「歳だから仕方ない!」と言い捨ててきた罰が当たったのか・・・・歳を重ねると、本当にいろいろなところが悪くなる。それもある日突然、ジワジワと痛みが広がったり、機能が低下し始める。若いころには感じたことのない、とても気色悪い感触である。
認知症が年齢とともに始まるメカニズムを学んできて、友人が次々と亡くなり、自分の役割が減少していく中、身体機能も低下していく状況は、とても寂しいものを感じる。今日は動向を開いて眼底を見てもらったので、ドクターから車の運転を避けるように言われ、うちのスタッフを煩わせて迎えに来てもらった。事務長の運転する車の助手席に座り、車の窓から見える景色がぼやけている情景を見つめながら、何とも言い難い重い気持ちになって帰ってきた。