太陽の家 玄関先にある一本の梅の木。今年は例年にも増してたくさんの花が咲きました。梅の花が咲く時期となると、そろそろカンパも緩み始めるころ。同時に花粉と黄砂が大量に舞い始めるころ。今日のように青空が広がる天候は、逆に珍しいです。今日は、西風が強く、若干肌寒さを感じる気候ですが、それよりもなによりも太陽の家の社用車は、黄砂と花粉で真っ黄色に染まっています。朝から、運転手さんを交え、洗車に明け暮れている今日一日でした。
以前から何度もブログに書いている、僕のお気に入りテレビ番組の一つ。BS日テレで放送している「小さな村の物語イタリア」。毎週土曜夜、日曜朝に放送している人気番組である。イタリアの田舎の町を紹介している。単なる観光旅行の紀行版ではなく、小さな村に暮らす人に焦点を当てて、その人の暮らしを紹介しながら、イタリアの風土、気質を紹介している点で、他の番組との差別化を図っている。
まあ、きょうは、この番組の評価をする目的ではなく、この番組のスポンサーである東芝のCMの一つが好きで、見るたびにほんわりと温かなものを感じるCMの紹介をしたい。これは、東芝のLED ライトのコマーシャルである。光と影を使って、一つの家庭が築かれていく様子と、家族の中に生まれる喜怒哀楽をLEDの寿命と言われる10年を表現している。登場人物や情景はすべてが「影」であり、場所を一件の家の窓だけにフレームされて描かれている。
人間が恋愛して、結婚して、子供が誕生し、生活を継続する中でいろいろな経験を積みながら、時には喜び、時には悲しみ、怒る。10年ひと昔と言うが、10年の間には本当にいろいろなことが起こる。そんな人生劇を影絵で表現したこのCMを考えた代理店はすごい!と思う。単純な話で、特に何も珍しい情景も人物も登場しない、いたって普通の家庭を表しながら、ここまで見るものに感動を与えることができるってのは、ある意味、CM業界の中でも目からうろこの状況があるのではないかと思えるほど。
このCMは、一度見るに値する。ぜひ、機会あればじっくりとみてもらえれば、何かそれなりに感じるものがあるような気がする。
介護の現場に働く人々の年齢は、数世代にわたる幅の広さが特徴のようである。義務教育を修了したての者から、定年を過ぎ再雇用となった高齢の者まで。本当に年齢差の大きな職場と言えるだろう。時としてひ孫とばあ様が同じ施設で介護職員として働くケースもあるようだ。
年齢の格差は、そのまま、考え方の違いとして現われ、考え方の違いは介護理念の理解の違いや、文化の違いとして現場に大きな壁を作ることも少なくはない。最近では、この年代の格差に加え、国籍の違い、言葉だけでなく生活自体が全く異なる文化を持つ者たちの集合体となりつつある。
介護職の定義は?
今の高齢者介護の現場は、特養も小規模事業所も関係なく、そこを利用する高齢者の大半は認知症を患っている。今回の高齢者介護の五か年計画でも認知症に対する政府施策は、認知症高齢者だけでなく若年性認知症に対しても社会的理解を広く求め、地域介護の必要性を主体とした施策に仕上げている。増加する高齢者に伴い、認知症を患う高齢者が増え続け、施設介護だけではまかないきれない現状に危機感を持っているのである。今後の高齢者介護は、地域のインフォーマルな支援を含め、地域の余力を活用しながら点の支援ではなく線または面の支援を伴走的に実施していくことを目論んでいる。このような時代の変化に対して介護職員の定義は、どのように変化していくのか?
当然、介護職の専門性は今以上に求められることとなり、そこで行われていた三大介護(食・排・浴)だけの支援では押し留まらない、介護職員にとっては厳しいキャリア目標を設定されてしまった感は否めない。この課題に関しては、数年前から懸念されていた課題ではあるが、現場職員からすれば、とてつもなく急激な変化を求められている状況であろう。職場の急激な方針転換は、介護職員にとっては殊更辛い。変更に際し今まで以上の労力を求められるからである。まずは新しいシステムに慣れるためにハッスルしなければならない。極端な場合、言葉遣いから変えなければいけない場合、自分自身の言動まで見直しを迫られる。
窮屈な職場となることは当然である。間違いなく職員のモチベーションは低下する。慣れ親しんだルーティーンワーク(通常業務)からの脱却にはエネルギーが必要となってしまうのである。
さて、そんな介護職員の仕事に対する意欲向上に、我々上司と言われる者たちが何をしなければいけないか? それは、伴に歩む姿勢が最低限必要である。上司として部下を導いてやらなければならない。介護の現場を手伝え!とは言わない。しかし、考え方、理念、そしてストレスコントロールくらいには十分配慮して、職員を支えてあげることが求められる。介護の現場で働く職員は、何を頼りに仕事するか考えてみれば、我々のとるべき行動は見えてくる。管理者が自分の言葉で、これからの介護を語り、自分の施設の方向性を語る。職員を統率するのではない。職員とともに歩む。これが基本ではないか?
太陽の家で働いてくれる職員のすべてに、公平に働きかける。たった一言のあいさつから始まり、相手をねぎらうことから、一瞬でもそこに「快」が生まれる。「快」は喜びにつながり、次第にやりがいにつながっていく。僕は、職員にさらなる「快」を与え続けるために働く場を見つめていく。
今日の午後、時間を作って眼科を受診した。最近、右目が醜くなってきたのと、お風呂にメガネをかけて入ったような白濁した感と違和感を感じたからだ。ひょっとして、白内障・・・?と心配しつつ近所で評判の眼科受診。午後2時半受付開始まで30分、そんな早くから病院の待合に入ったのだが、そこには先客(先患者??)が4人も待っていた。僕は30分前に入っても5人目の患者と言うわけである。そして、僕を含め、すべての患者が高齢者・・・(僕がおそらく一番若いだろうけど)
初診だから、いろいろな検査を受けながら、眼底検査までおこなって、所要時間2時間。実質、待ち時間を入れると二時間半の病院滞在である。まあ、有名な眼科だけに仕方ないと言えば仕方ない。
診断結果はといえば、「加齢!」年齢により眼球の水晶体を引っ張る筋肉が弱くなって、パソコンなどの作業が災いして、極度な視力低下とドライアイを引き起こしているということだった。帰りに疲れ目ようの目薬を処方され、また二か月後に再受診するよう言われて帰ってきた。
まあ、特に重篤な病もなく一安心だが、やはり老化現象ってのは困ったものである。いつも私の父親が目が見にくくなってきたという訴えを聞きながら、「歳だから仕方ない!」と言い捨ててきた罰が当たったのか・・・・歳を重ねると、本当にいろいろなところが悪くなる。それもある日突然、ジワジワと痛みが広がったり、機能が低下し始める。若いころには感じたことのない、とても気色悪い感触である。
認知症が年齢とともに始まるメカニズムを学んできて、友人が次々と亡くなり、自分の役割が減少していく中、身体機能も低下していく状況は、とても寂しいものを感じる。今日は動向を開いて眼底を見てもらったので、ドクターから車の運転を避けるように言われ、うちのスタッフを煩わせて迎えに来てもらった。事務長の運転する車の助手席に座り、車の窓から見える景色がぼやけている情景を見つめながら、何とも言い難い重い気持ちになって帰ってきた。
とうとう2月も今日で終わって、明日から新しい月の始まり。こりゃ!歳とるのも無理ない!年齢を重ねるにつれ過ぎ去る月日の速さ! つい先日、元旦を迎え新しい年を迎えることとなった!と喜んでいたのも昨日のように感じる。しかし、もうすでに3月となってしまい。1年の4分の1は過ごしてしまった。この調子では、ほんのチョイっと第一号被保険者となってしまう。あ~ア、恐ろしや!
太陽の家の玄関口にある梅の木も、ボチボチと蕾が開き始めてきた。と同時に、日増しに暖かな日が順繰りにやってくる。寒くなったり、温かくなったり、この寒暖の差が、春を待つ木々や草花には良いのかもしれないが、人間には体調の管理が微妙に難しい。風邪をひきやすい。おまけに海を越えた中国から、分けの解らないケミカル粉じんが飛んでくるこの頃。常にマスク着用した方が、良いのかしらん・・・
昔、今から20数年前に、地元の商工会議所の発行する機関誌にコラムを書いた。ちょうどブラジルで自然環境の国際会議が開催され、環境汚染が地球規模で問題となると叫ばれ始めた時代である。地球温暖化が叫ばれ始めたのもこの頃である。20数年の歳月が過ぎて、地球規模の環境破壊は重度化し、人間が生きていくうえで現実的な問題が表出してきた。中国の大気汚染は、まさに深刻な問題となりつつある。人間は愚かな動物なのか?賢い動物なのか?この地球を巡って、いろいろな思想、考え方や利権が巡り巡って、一番割に合わないのは一般市民。ほんと、難しい世の中です。
さて、こんな暗い話題で2月を終えるのではなく、明るい次月に向けて第一歩を踏み出すためにも、僕なりに皆さんに渾身のエールを送りたい。じっと耐えなければならない時もある、耐えると同時に余力を蓄えて、来るチャンスに思いっきり飛び出せるように機会をうかがう。きっといつかは日の目を見る時が来る。そのために今できることを、やり残すことなくやっておこう。たとえそれが利益を産まなくても。恥を忍んで「頼みまくる!」それも何度も、何度も、繰り返し、繰り返し! お試しのチャンスをお願いする。そして、獲得したチャンスは、相手を100%満足させることに集中する。その繰り返しの中に、徐々に信頼関係は生まれる。やはり時間が必要となる。持久戦だ!あいてが折れるか、こちらが潰れるか!
さあ、明日から新しい月。心機一転、頑張って前向きに!