太陽の家

  • ホーム
  • 太陽の家とは
  • 施設のご案内
  • サービスのご案内
  • ブログ-施設長の部屋

ブログ-施設長の部屋

2013/7/2
ちょっと文句書いていい・・??

緊急雇用プログラムに関しての文句です。非常に腹が立っています。

僕は、高齢者福祉の重要性を常に訴えています。生産性のない仕事だ!と判断する人も中には居ます。砂漠に水を撒くようなものだと揶揄されます。確かに人生を終えようとする人々に、税金を使って筋肉トレーニングの実施は無意味のようにも感じます。対人援助も言い換えれば「余計なお世話」かもしれません。しかし、だからと言って人生の終盤が「何の尊厳もなく、無益な存在」と扱われて良いのでしょうか? そのような終盤が見えているのに人は一生懸命働き家族を養っていくだけの気力を保ち続けることができるのでしょうか?

老後は子供たちの世話に成らずとも、ゆったりと安心した生活が保障されるから生き続けるのでしょう!?この約束が消滅してしまえばどうなるの?という点で、僕は社会保障の重要性を強く皆さんに訴えたい。

そんな重要な役割を担っている介護職は、過去も現在も人材不足が顕在化しています。人材は常に不足しているのが介護の現場であり、三重県の平均求人倍率の変化に関係なく、何処の施設でも人材が足らない。それも優秀な人材が不足している。この「優秀」な人材と言うポイントが特に重要で、利用者や家族は、万全なるホスピタリティと豊富なスキルを介護に求めようとする。しかし、支給される給与は日雇い労務者より低い賃金で、日本の最低賃金を少しばかり超えた程度の賃金しか払えない現状を考えると、この賃金でハイスキルの優秀な人材は期待できないわな!と言う結論に達してしまう。

超高級な五つ星ホテルのスタッフや世界を相手にする航空会社のフライトアテンダント(スチュワーデス)を介護の現場に求めても、そりゃ無理だろう!という結果と同じである。しかし、そこまでは求めないにしても、この現状を何とかしなければいけない。この緊急雇用プログラムってのは、先の東日本大震災以降の職を失った人々(本来ならば震災の影響を受けて失職した人が対象ではあるのだろう・・・)が介護を希望した場合、その人が介護職員初任者研修資格(旧ヘルパー2級)を取得する経費を税金で負担し、同時に資格取得いたるまでの雇用賃金のすべてを行政が負担するという制度です。

要するに働きながら資格取得を行える。そしてその間の給与、保険、資格取得費用のすべてが税金で賄われる。三重苦が叫ばれる介護の現場に、公費を使ってお試し期間を設け、おまけにタダで資格取得ができる。できれば、そのまま介護を目指して働いてほしい!と言う微かな期待をもって行われているのであるが、ここにきて不発に終わるケースが非常に多いって問題が出てきているようである。

資格取得まで至らずに、志半ばにギブアップする輩が多い。人それぞれ考え方も人生経験も違うから控えめに考えても、最初の心意気の持ち方に疑問を感じてしまう。途中で投げ出すことに対し、何の恥じらいもない点(この考え方は古い考え方であることも承知の上でいうなら・・・です)現代人の就労に対する意欲と意義ってのが軽すぎる!と憤りを感じているのは僕だけでしょうか・・・?

政府も、こんなところに税金を投入するくらいなら、なんで現状の介護職員に対してもう少し手厚くできないのか?と感じてしまう。鶏と卵の論争になってしまいがちな課題山積の介護の現場。今後の高齢者介護だけに留まらず社会保障全般に対する理論を日本としてもっともっと話し合わなければいけないと考えている。

2013/6/28
理想的な『死』とは。

image9.jpg

人間は誰しもが死ぬ。かく言う自分自身も「死」を覚悟する時期が来る。高齢者介護の現場は常に、利用者の死と向かい合う業務である事が多い。事業所によっては、利用者の最後を病院にお任せする所も存在するようではあるが、大半の事業所では、如何にして利用者自身の死への恐怖を和らげ、可能であるなら苦痛の無い最期を迎えることができるように常に話し合っている。そのために常に家族、現場と医療が連動しながら見守りを行うことが求められている。グループホームにおけるターミナル期には、この三者の何れが欠けても理想とする死を迎えることは出来ない!とは言い過ぎだろうか?

少なくとも一人として、野垂れ死にする現場を素通りできる精神の持ち主は居ないように、大半の人々、特に医療の現場、介護の現場で働く者にすれば、その人の身になって死を考えてあげたい。そんな暖かな気持ちでいるはずであるし、そうであることを期待したいところである。

されど、実際の現場では、個々の職域が連動しない。連動しないどころか、お互いの責任の所在が優先されるようである。責任逃れまでは言わないにしても、自分を責任ある位置に置きたがらない。入所系高齢者施設で看護も介護も、こと入居者の死に対しては、それ相応の責任は否が応でも存在する。人ひとりの命を預かるということは、それだけ重要かつ重大な責任を担うということであり、普通でない死に方に対しては、厳密な調査が行われることは当然である。人が自然に一生を全うしようとするとき、そこにどう疑っても違法性や犯罪性ってのは考えにくい。ここで問題となるのは、人の死ではなく、死に方の問題であろう。

最初にも書いたように「死」は、誰にも必ずやってくる。この問題から逃れることは出来ないのが生きているモノの宿命であり、僕はお預かりしている利用者の死そのものに責任は問われないと考えている。我々の責任は、その人の死に至るまでの過程に存在するわけで、当然、死に責任を負わせるつもりもない。そこに利用者の身体的な衰弱や障害を抱え、必死の見守りにも関わらず、些細な事がきっかけとなって死に至る場合もある。人間は思いの外頑丈にできている。と言う理論は健康な者に対して言われる理論であって、年齢や状態によっては、本当にもろく、極、些細な事でも命取りとなる場面は多い。それ程、高齢者、だけではなくターミナル期に居る人間の脆さっていうのは言うまでもない。

問題となるのは、死に至る過程において介護や看護にミスがあって死期を早めることに責任は生じる。そして同時に、そこに至る生活の質を保証するうえで介護職に責任があると考えている。私たちは医療従事者ではない以上、何の医療行為もできない。要するに医学的な見地から人の命を左右することはできない立場である。末期の癌患者にもr

死を特別視できるのも人間に限られた行為であり、動物には連れ添いの死を悲しむ種もあるようだが、多くの動物社会は弱肉強食の社会に生き、今を生きることに全精力を費やしている。他者の死を悼む気持ちは、そのまま次の自分の死に直結する危険性をはらんでいるのが野生動物の社会である。その中で、人間だけが他者の死を愛おしみ、悲しみ、嘆くことができる動物である。そこには他の動物にはない文明があり、感情があるからである。「死」をスピリチュアルなものだけでなく、科学的にも理解できるのが人間の特徴であるともいえる。

へ理屈は兎も角として、人ひとりの命の重さは、スケールで計測できるものではない。それほど重要で貴重な場面に沿って業務を行っている以上、死をどのように理解し受け入れていくのか?!を関わる者たちが常に同じ考え方でいなければいけない。そこに報連相が実践されてなければいけない。死を冷静に受け止め、適切なかかわりを持てるよう訓練も必要である。

私たちにとって、高齢者、特に施設利用者の死を如何に自然に迎えさせてあげることが可能か?そこに尽きるのではないか!そのための連携であり協働である。お互いが専門性を駆使し、一人のヒトを看取るためにいろいろな感情の織り成す芸術的ともいえるケア。どのように演出するにしても主人公は、たったひとり。この一人のために皆が同じ方向に努力することが協働と言われることばである。e0157647_2356682.jpg

2013/6/27
音楽CDをたくさん寄付いただきました。

dsc01138.JPG

太陽の家デイサービスを利用される方のご家族から写真の音楽CDをたくさん寄付いただきました。

マーラーあり、ショパンあり、ラフマニノフ等、超有名な指揮者、作曲家のクラシック音楽をいただいたのですが、僕が一番うれしかったのは、個人として欲しかったチョエロ奏者「ヨーヨーマ」の一枚が含まれていたことです。このCDはすでに廃盤となっており、入手困難な一枚。これを見つけたときには、誰にも言わずにコチョッと隠してしまおう・・・って思ったほどです。

太陽の家では、利用者の皆さんに邪魔にならない程度のBGMを流します。これら頂戴したCDも、今後、デイサービスだけではなくグループホームでも癒しの音楽として館内に流させていただきます。

2013/6/26
口は災いのもと・・・・

usa-go1.JPG

利用者同士の世間話から、ちょっとした誤解が生じいろいろな副作用的弊害がみうけられる!と連絡があった。なんのことは無い、受け手側の誤解、要するにその時の気分によって受け取り方が「逆」に作用してしまった。という事らしい。言った方は、特に悪意もなく意図するものもなく、いたって普通の会話のつもりであったろう。それが、右から左へ、左から右へと話が伝わるにつれて、元々の言葉は自然に歪められ、当初の言葉とは異なる意味合いを持ってしまっている。

さて、介護施設としてこの現象をどのように捉えるか・・・?

皆さんなら、どのように対処するだろうか?勝手に一人歩きする言葉を昆虫ネットを持って追いかけたとしても捕まるわけがない。一度、人の口を出た言葉は、もう何処にも戻らない。覆水盆に戻らず!である。それでは、どうすれば良いのか?

このようなケースでは、どのみち当事者に別室に来てもらって事情説明したところで何の解決にもならない。それにも増して、そうすることで両者間の距離を広げ、荒らし、お互いに壁を作ってしまいがちである。もうこうなると、職員は何があろうとも「無視」するのが一番である。ただ単に聞き流すのである。

介護施設にしたって、人間が集まるところであり、そこには種種雑多な考え方が存在し、色々な解釈の仕方が存在する場でもある。言ってみれば、一つの小さな社会が形成されているわけで、そのような社会には規模の大小に関係なく、常に壊れやすい人間関係が存在し、扱いに苦慮する場面は必ず存在する。

人間として生きていく上において、人とのトラブルは避けようがなく、それらのトラブルのすべてに神経を使っていては、解決できるものも余計に傷が深くなろうと言うモノ。この際、「へ~っ、そうなんや!」と聞いてあげるだけにしておけば、そのうちに消えてなくなるだろう!それよりも何よりも、僕たちがその現場に遭遇したら、解決方法を模索するより、このような複雑な人間関係に発展する以前に、利用者自身が楽しんで個人の生活を継続しながら、適度の関わることのできる場の創造に全精力を費やす方が良いのではないか・・・と考えている。

2013/6/25
おしゃれ!

dsc01137.JPG

この足元写真は、太陽の家デイサービスセンターを利用される方の写真である。ご本人にホームページ上で掲載する許可をいただいて公開させてもらっている。

以前から、僕は研修のたびに受講者の方々にお話ししていることの一つに、自分自身の着ている服に対して敬意を払うことが「気づき」につながるのです!と説いている。特に履物に関し、毎日、毎日、この僕の全体重を一手に受け止め、衝撃や危険を緩和してくれている履物に対し、愛情をこめお手入れをすることは、自分自身の感性を豊かにすると言う理屈を説明している。毎日の感謝をこめ衣服や靴に行うと、自然とほかの人の身なり、気遣い、心配りなどが気になり始める。その人が「モノ」を大切にしている姿勢や気持ちが、よく伝わってくるのである。

そんな会話をしながら二人でタバコを吸っていた訳だが、この写真の靴の持ち主は、いつもオシャレに気を配っている。この方にもほかの要介護者のように苦悩も苦痛も存在する。体調の維持も日によって困難な時もある。従ってデイサービスの利用に際しても、当日キャンセルってのもある。

この利用者は、歳を重ねたから、病気を患っているからと言った理由で薄汚れた格好に甘んじたくはない!とはっきりと言い切った。僕は、そのような気持ちってとても大切であると思っている。理由に関係なく、僕はファッションの人間に与える影響の大きさを信じている。ファッション、つまりは他人に与える見た目の印象ってのは、年齢に関係なくいくつになっても重要であり、その日の気分を左右するものと思っている。

歳を重ねることは、職業、立場、経歴、資産の額に関係なくすべての人に平等に訪れる。しかし、その人の気持ちの持ちようによって心の年齢は、全ての人によって格差が存在する。心の年齢だけではなく、その人の生きる上の気持ちにも格差が生まれるはずである。

欧米人の高齢者の方々のファッションは、年齢を重ねるにつれ派手になっていく。色使いも派手である。日本人の感性からはちゃらけて写るかもしれないが、そこには海外の気候風土や住民の気質みたいなものが関係して、ド派手なファッションでも堂々と闊歩している社会である。僕も、このデイサービスの利用者の方のように、オシャレは足元からにこだわり、これからの老後を迎えたいと願っている。


2025年 1月
   12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031    
月別表示
最近の記事

  • 太陽の家 お気軽にお問い合わせください
    〒513-0808 三重県鈴鹿市西條町495-1
    TEL:059-383-8383 FAX:059-383-7938
  • インターネットからお問い合わせ
  • お電話でのお問い合わせ
059-383-8383
受付時間/9:00~18:00
閉じる  印刷する