最近、忙しくって自分自身に余裕がない。久しぶりのアップアップ状態。まさしく酸欠状態の金魚のようなものである。・・・と言いつつも、週末にはかっちりとバイク走行を行っている。それも、この不安定な気象条件をものともせず、雨に打たれることなく、快調に自転車をこいでいる。
写真は先週末の土曜日の画像ではあるが、少しご紹介したい。
このSLは、津市の快楽公園に展示されているものの画像だ。ペンキを何重にも重ね塗りされ細かな部分は肌荒れ(?)がおきている。この機関車の前で、愛車の記念撮影。
そして、また再びお城公園での記念撮影。自転車で遊び始めると、今まで見えなかった、行くことのなかった場所を再発見できる。この津のお城公園も、今、結構お気に入りの場所で、いろいろな面白い興味を引くものが多い。ここの池には、牛蛙がいる。がーがーと大きな声で鳴いているのが面白い。
この日は津方面へ50Km、次の日の日曜日も早朝から椿の方へ走行。椿神社を目指して、延々と上り坂行程をひた走り、帰りはその逆に下り坂行程。たっぷりのエネルギー(僕の下っ腹近辺に蓄積してるもの)を活用しながら登りは何とか苦しくても完走。下りは、何の力も必要なくただ転がり下りるだけ。って楽チンな走行を50Km程度。山方面へのツーリングは行きは苦しいが、帰りは楽。結構、楽ちんの方が勝っているかも・・・。
この両日とも、一部地域では土砂降りの雨が降っていたようだが、僕はラッキーにも雨に降られることなく帰宅することができた。しかし、タイヤが細い分、雨で路面がぬれると滑る。やはりレーサータイプの自転車は雨には弱いようだ。
余裕がないと言いつつも、好きなことはしっかりとやっている。随分と勝手な解釈である。
今日は昼の1時半から県庁を訪れる予定が入っていた。県庁に1時半と言うことは、少なくても12時50分には、施設を出発しなければ時間前に現地到着は難しい。僕は、こう言うのも何だけど、時間の読みが得意である。道路事情や距離を考え到着時間をぴったりと合わせることができる。これは、今まで自慢の一つであった。しかし、今日はちょっと油断してしまったようである。
昼ご飯を食べて、いつものように歯磨きして、アニマルセラピー犬をオシッコのために屋外に連れ出して・・・と、いつも通りの行動パターン。僕の頭の中から、県庁訪問の4文字が完全に抜け落ちてしまっていた。グループの管理者から指摘されるまで、全くの不通(普通)状態。
急いで車に飛び乗って施設を出たのが、すでに1時を10分ほど過ぎていた。こんな時は、焦る気持ちをコントロールすることばかりに気が集中する。焦るがあまり事故や交通違反を引き起こしてしまっては元も子もない。できる限り冷静に、それでいて急いで目的地に向かうこととなる。
Rapid(ラピッド)って英語があるが、どれだけ急いでみたって車の走る時間に大差はない。空を飛んで行かない限り、あるいはドラえもんの「どこでもドア」でもない限り、この遅れを取り戻すことは不可能である。
案の定、県庁到着は約束の1時半を15分遅れて到着。我ながら恥ずかしい限りである。誰のせいでもない。自分が約束自体を忘れていたことが一番の責任である。こんな時ほど、どこでもドアをほしい!と願う瞬間はない。
今日は土曜日。朝から黒い雲に覆われて、いつ雨が降ってもおかしくない天候。しかし、こんな天候でも自転車に乗りたくなる。ヘルメット、グラブ、サングラスに小銭、携帯電話(もしもの時の緊急コールのため)と水筒一杯のスポーツドリンクを持って出発。
今日は途中で実家の方に立ち寄ってからの自転車ツーリング。そのまま若松方向へ走り、若松から海岸線を堤防に沿って走行。海岸の堤防がこれほど継ぎはぎだらけってことを初めて知った。電車が線路の継ぎ目を拾ってガタンゴトンと進んでいくように、自転車のサドルを通して結構な衝撃が僕のお尻を攻撃する。
そして、もう一つ気が付いたが、日本の堤防ってのは、川や船溜まりなどによって分断されているということ。鈴鹿市の若松から津まで一つの帯ではつながらないということ。その都度、海岸線から内陸部に進路変更をし、また戻るということを繰り返すのです。このことが、台風や津波にどのような影響を及ぼすのかはわからないが、不思議な気持ち。
なんだかんだ言いながら、若松から津まで、海岸線をメインに走行して、はっと気づいた時間が昼の1時まえ。まだ昼ご飯も食べえていない。携帯電話の時刻を確認したのが、津市内の百貨店前。まだ南に進むことも可能ではあったが、そろそろ帰る方向に向かわないと、結構無理してしまいがち。その百貨店前で転回し帰路に進路変更。
ペダルをこぎながら、どこでお昼をゲットしようと、考えながら国道を鈴鹿方向へ。今日の僕の出で立ちは、しっかりとフィットした自転車用のレーシングスーツ。今まで馴染めなかった体の線がそのまま視覚化されてしまう、例の服である。それに、多少涼しくはなったものの、全身汗まみれの体でレストランや食堂なんて入れない。
そんな時にマクドナルドを発見。そっか、ドライブスルーって手があった。そのままドライブスルーのラインに混ざり、オーダーボードのマイクに向かって注文する。
しかし、帰ってきた答えは冷たいものだった。自転車の客はドライブスルーは使えないと! 自転車を自転車置き場において、店内で注文しろと言う。だからさ、その意味ではなく、店内に入るには抵抗が大いにあるの!と説明しても無駄。相手も相手でマニュアル通りの答えを繰り返すのみ。そんな気転のきかない奴と口論しても仕方ないので、「もういいです!」と言い残してマクドナルドを諦める。
次に見つけたのがコンビニ。コンビニでおにぎりと水を買って食べよう!と思い、商品を選びお金を支払う段になって待たされた。店には3人のスタッフが居るにもかかわらず、レジを担当する一人が複数の客の相手をしている。僕もその一人。それで、他の二名のスタッフは何をやっているのか?搬入された商品の検品を二人が同じ場所で実施している。客はレジを待ってるにも関わらず、検品中の二人はレジを手伝う気配なし。
コンビニで優先順位を誤解しているスタッフにがっかりし、マニュアル通りの対応しかできない面白味の欠けるマクドナルドのスタッフにガッカリ。ホスピタリティーが介護の現場で叫ばれる中、全国チェーンの大手飲食産業のスタッフに思いやりも気づきもないスタッフ。臨機応変な対応はすべて排除され、すべてにおいて公平性を求めるあまりマニュアルに従い、味気ない、人間味のない接客しか出来ない今。僕は、介護の現場に気持ちがかけていると研修の場で訴え続けてきたが、このようなマニュアルでしか対応できない外食産業のスタッフよりは、ずいぶんと介護スタッフの方が人間味あふれるのではないかと思った。
・・・そうそう、今日の走行距離。60Km。さすがに帰ってきて風呂に入ってから昼寝してしまった。
以前にも書いたと思うけど、今の僕の一番のお気に入りはJacques Loussier (ジャック・ルーシエ)トリオのバッハである。ジャック・ルーシエがピアノを演奏し、他ドラムとベースのバンドである。このトリオで結構なアルバムを作っている。僕が、このトリオに出会ったのは、今から6~7年前のトヨタのテレビCMに起用された一曲が一番最初の出会いである。ジャック・ルーシエの軽快なピアノのリズムで、バッハのフレンチ交響曲を演奏してしていた。
このCDを聴きながら車を走らせていると、ついついペダルに足がかかってしまい、思いの外スピードが制限を超えてしまうのが難点ではある。それくらい軽快なリズムでバッハを演奏されると、車の運転に限らず気分は良いものである。
今、ブランデンブルグ交響曲にはまっていて、このバッハの代表作ともいわれる交響曲をオーボエ奏者やチェロ奏者のいろいろと演奏家を変えて聴き比べてみたが、このルーシエの一枚はほかの作品から引けを取らない素晴らしい出来である。ジャズと言うと経験されるかもしれないが、クラシックをジャズ風に聴いてみると、意外とクラシックに入りやすいのかもしれない。
クラシックと聞くと、中学校時代のクラス全員が音楽教室に集められ、眠くなる音楽を聞かされ続けた退屈な一時間を想像しがちであり、僕はこの日本の音楽教育が間違っていると考えている。あの当時に、今のようにクラシックに興味を持てていれば、ひょっとすると高齢者福祉ではなく、バイオリニストになっていたかもしれない・・・と思うのである。
まあ、しかし、音楽の授業ばかりが原因ではなく、そこには資質ってのも関係してくるので一概に教育方法を議論しても始まらないけどね・・・
僕が休みの日に、デイサービスの利用者の一人がしりもちを衝いた事故があったようだ。幸い怪我もなく、笑って済ませることができるレベルだったから良かったものの、下手すりゃ圧迫骨折って場面でもあった。
さて、ここで今日問題としたいのは、その事故を受けて提出された事故報告書が意味が伝わらない。そんな問題点について話してみたい。
まず、事故報告書ってのは、それなりに役割を持ってる。第一に職員間で同じような事故を繰り返さないための情報の共有。第二に家族を含めた当事者以外からの問い合わせに対し、職員の誰もが同じように状況を説明できるよう共有する。次に今後の介護に生かせるように職員間で、事故のリスクを学ぶための教材としての役割が存在する。
しかし、職員の中には、この事故報告書を上司に叱られないよう、旨く文章を仕上げ簡単に処理してしまおうとする帰来がある。僕は、上司として、このような安直な考え方で報告書を書いてくる職員に腹が立つ。事故を起こした、または危険を回避できなかった責任を問うつもりは全くない。広いデイルームで自分の意志で動くことができる高齢者が転倒することは、いくら職員の能力が高くても回避させることはできない。例えスーパーマンでも、スパイダーマンでも不可能である。(いや?スーパーマンの俊敏な運動能力、スパイダーマンの指先から放出される収縮自在の強力な糸があれば可能かもしれない)
高齢者が動かなければ転倒は起こらない。しかし、本人の意思は、意志として尊重されたい。では、我々として何をなすべきか?注目すべき点がここにある。なぜ、その該当者は立ち上がり、歩こうとしたのか?何を目的に移動を始めたのか?そこに、その人なりの目的があり、その人の目的意識に作用した人格や性格が関係しているのではないか・・・・?!
この点を職員間で共有できれば、その人が移動しそうな場面が予測できる。予測できれば、転倒前に現場で援助の手を差し伸べることができる。
これが事故報告書の一番大きな役割ではないのか!