第十九話でも記載したように、認知症も重度となると自分の意思表示が出来にくくなるのです。
重度の認知障害を持つ人と会話していて、一番苦労するのが「本人の意思確認」です。
うちのグループホームでは、設立当初よりグループホームの入居者の方々の自治会を作っていました。
そして、自分たちの食べたい食事や、レクリエーションや外出先やイベントの話し合いを定期的に行っていました。
まあなかなか発言は少なかったし、毎回同じ回答を聞くこととなるのですが
それでも、皆さんの思いを想像し、協調しておやつの献立を作ったり
外出先を決めたりしていました。
しかし、入居から10年の歳月が経過し、それぞれの認知症も進行し
今では、自治会の運営もままならない程、皆さんの気質変化は激しく
意思確認が困難となってきました。
さて、このような障害は、今後、身体的に老化も合わさり
次第に内臓疾患や循環器の疾患等の医療的処置を必要とするステージとなって
どこまでの延命を望まれるのか?と言う意思表示が重要となってきます
また、ひょっとして合併症により命の危機となる場面も出現してきます。
人は自分で、自分悪氏をチョイスすることはできません。
全ては天が定めることで、自分の手で自分の命を終えることはできません。
そんな時を想定し、自分の最終エンドステージに、どのような医療を、どのような介護を
望むのか?!を、認識あるうちに記録しておくこと。これがエンディングノートです
僕も自分悪エンディングノートを書きました。
認知症となった時用、重篤な病状となった時用、死んでしまって葬儀に関する要望や
自分自身の過去の思い出などを記しています。
そして、今現在持っているクレジットカードの情報やネット契約している定期契約のパスワードやID
友人リスト(僕が死んだときに知らせてほしい人の連絡先とその氏名)
これらの記載された情報は、もしも僕が自分自身の意思表示が出来なくなったときに
残された家族や社員が、僕の要望に従って全ての処理をしやすくするためのもの。
残された者が悩み、争うことなく、僕の描いた最終ステージを演出してくれるのです。
エンディングノートは、一回きりではありません。
生きている限り、書き直したり、削除したり、追記したりすることは可能です。
ただ、一番重要なことは、最終ステージにおける医療的処置の考え方をしっかりと書いておくこと。
ぼくは、自分の延命処置について、どこまで望んでいるのかをしっかりと記載しました。
そして、最後に署名押印しています。
生前のイベントプロデューサーとしての自負心もあります。
死んだ自分の葬式を自分でプロヂュースするのです。
格好良いではありませんか!!
皆さんも、若くても結構、もしも自分が死んだら…を前提に
一度エンディングノートを作ってみたら・・・?
書字障害とは・・・文字を書いているつもりが文字とならない脳の気質変化を言います。
アルツハイマー型認知症のような脳の萎縮によって字が形を形成できないもありますが
多くは前頭側頭型認知症の方に多く見受けられる症状の一つです。
大脳の前頭部、側頭部に気質変化が生じることから
言葉を話したり、文字を書いたりすることが出来にくくなる障害を受けることです。
よく、丸時計を書いて、何時何分と時間を長針と短針を書いて表現してください。と言った問題に際し
的確に時刻を表示できないことがあります。また、屋根付きの家を、描いてください。と言った
設問に対して、的確に写生することが出来ないたって普通の人として、
このような書字障害を生じるような状態となった方々は
非常に残念ながら認知症の進行は、かなり進んでいると言わざるを得ない状態と思われます。
モノを見て認識できない。言葉をしっかりと認識して話すことが出来にくい。
そして、次に来るステージとしては、自分の姿の写る鏡に向かって、赤の他人に話しかけるように話をし始めます。
非常に悲しい姿かもしれませんが、ここまで認知症が進んでくると、逆に認知症に対する恐怖や
生きていく上においての不安感は縮小していきます。
私たちが、その様な認知症の人に支援できることは、字が書けないことを不自由に思わないで済むよう
会話が成り立たなくとも、お互いの意思の疎通ができるような気づかいさえあれば
その時々を何の不安も感じることなく過ごすことが可能です。
私たち、介護するものがやらなければならない事。
それは、その人の心に私たちの心を添えることしかないと思います。
決してバカにしたり、恥ずかしがらせることなく
いたって普通の人として、 一緒に時を過ごしてみることが重要です。
認知症と言っても、色々な段階があるのですね。
世間では、認知症となると直ぐに会話も出来ない、人間ではなくなる!等のイメージが強いようですが
そのような極端な認知症状の変化はありません!!
認知症とは、段階的に、それも非常にゆっくりと時間をかけて能力が衰えていく。
そのように考えて頂ければ良いと思います。
初期の認知症の人は、いたって普通の様に会話し、笑い、怒り、泣くこともあります。
そうなんです、『普通の人』なんです。
そして、中度の認知症となってくると、約束事を守ったり、仕事の段取りを組み込むことができなくなります 。
周りの人にとっては、首をかしげたくなるような事柄が増えてくるのですから、たまったものではありません。
特に息子や娘と言った近い存在からすれば、自分たちが子供の頃の威厳ある親のイメージから
失望感や喪失感、諦めなどが混ざって、時として腹立たしく思えることもあるようです。
これらの感情が暴力として出現するのがDV(ドメスティックバイオレンス)又は虐待と言われる社会的な問題行動となるのです。
確かに、何度言っても同じ過ちを繰り返し、同じ説明をしなければならない家族の気持ちも理解できます。
しかし、ここで短気をおこすことは認知症の人にとっても、その人との関係の上においても大問題となります。
一番のキーワードは「認知症であっても、感情は豊かに残る。です』
殴ったり、怒ったりすることは、たとえ相手が記憶に障害をもっていても、その時の心の痛みは残ります。
認知症の人の繰り返しの言動。それには、オウム返しが一番の得策課と思います。
相手の話をひてもせず、肯定もせず、それでいて無視もせず。
相手が言うように繰り返し、同調する姿勢を「オウム返し」と言います。
そうすることで、認知症の人は「この人は、私の言うことを聞いてくれる!」と思い、安心するのです。
認知症の診断を受けるということは、本人にとっては非常に寂しい、不安な気持ちとなることでしょう。
自分の脳の中で起こっている何か・・・は、実態がつかめない、解決したくともできないジレンマと恐怖の連続なのです。
そんな気持ちを理解し、相手の立場に立って共に歩む。そんな認知症ケアが理想ですね!
認知症道中膝栗毛も第17話まで続いた。(めずらしい・・・と、影の声)
さて、17話までくると、タイトルにその時のテーマでも添えたほうが活用しやすいと考え
今回から、お話のテーマを入れてみることにした。
今回は「物忘れに」についてお話ししましょう。
認知症=記憶障害と繋がるのですが、特にアルツハイマー型認知症の方にとっての
記憶という作業は、年を追うごとに厳しくなっていくものです。
物忘れする。と言うより、新しいことを覚えておくことができなくなるのです。
ですから、普通の様に会話していて、私たちからすれば、あの時言ったのに!と思いながら
相手は、聞いた事を覚えておくことができず、約束をすっぽかしたい、鍋を焦がしたり等の失敗をしてしまう。
結構、これらの失敗やら聞き損じってのは、本人のプライドに深く傷を残すこととなるわけで
ここで、周りの者の配慮が大きく影響を及ぼすこととなるのですね。
認知症の診断を受けていなくても、高齢ともなれば、若い時の様に全ての事象を覚えておくことはできなくなります。
失敗しても、お鍋を焦がしてしまっても、そんなこと気にしない。
一度失敗したら、どうすれば同じ失敗をしなくても済むのか?それを本人と一緒に考え
共に解決策を導き出すようにすると、認知症の当事者のプライドを尊重しながら
その人らしい生活を維持していける。
そんな介護が望まれます。
短気は損気!怒らない!嘆かない!笑って済ませましょう・・・・って、これが家族さんにとっては一番つらいんだけどね!
でも、大丈夫ですよ。こんな支援を続けていくと、認知症となっても穏やかな状態で過ごすこと可能となります。
認知症の方々をケアする中で、どこの職員さんも、ケアマネジャーを含めて
「傾眠」と言う用語を多用する傾向にある。
実際にネットで「傾眠」を検索してみるとよく理解できる。
傾眠とは本来、人の意識障害を表す用語として、医療現場で使われている言葉です。
意識レベルがはっきりとしている状態を「意識清明」と言い、
そのレベルから徐々に意識レベルの低下と共に言葉が変わっていきます。
「明識困難状態」から「昏蒙」→「傾眠」→「嗜眠」→「昏迷」→「昏睡」と言うように
その言葉によって、その時の意識レベルが表現されています。
認知症の方々が、昼夜逆転現象のあおりを受けて日中にウトウトされるのは
「傾眠」と記録してしまうのは、適切な言葉で表現していることとならないのです。
介護の専門職も、少なからず医療用語を活用し、情報の共有を図らなければなりません。
このように、介護職員さんも日々の介護記録作成においては
的確な言葉を使って多職種との正確な情報伝達を目指したいものです。