認知症の人の介護に心を添えるってお話を約2か月前の(笑)ブログで書きましたね!(大笑・・・ひんしゅく!)
さて、今日は、その心を添えると言うことについて、介護職として実践して欲しい事を書きます。
先日、ホワイト介護主催のスキルアップ研修にて講師をさせて頂いたのですが
その研修の場でもふれた内容について、若干の補足説明を付けて『心を添える』と言う内容を説明したいと思います。
認知症介護の中で、我々介護に携わる者として、全ての介護には目的と根拠があるのです。
分かりやすく言えば、認知症の人にお付き合いして買い物に一緒に出掛ける。
この目的は、単純に食材を買い求める目的がありますが、ここ問題となるのが
どの様に買い物に出かけたか?です。車で出かけ、ショッピングカートを押してもらい、会計もご自身で完結してもらうのか?
それとも、ただ単に買い物に同行してもらうだけなのか?そのやり方は様々です。
ここで、一番重要なことが、何のために買い物に行ってもらうのか?が重要な要となり
最近、日中でも一人で臥せっている状態の多い、入居者さんとすれば
当然のことながら、目的は気分転換となります。
または、最近下肢筋力の低下が著しく、このままでは近い将来には更に歩行不安定が想定される場合には
下肢筋力の向上を目指して、お買い物に乗じて歩行訓練を行いながら下肢筋力の向上を目指すこと。となります。
この目指す点が介護の目標です。そして、この二つのケースの介護の根拠とは
その人が今までよりも元気よくハリのある生活をしていた時代を取り戻すこと。または、その時代を思い起こせること。が
介護の根拠として存在するのではないでしょうか?そして、その根拠がすなわち、心を添えるという意味であると考えています。
認知症ケアの中で、よく言われるスキルの一つとして
「心を添える」があります。
さて、この「心を添える」とは?どう言うことを言うのでしょうか?
随分以前にリッツカールトン日本支社長として、日本に初めて
リッツカールトンなる5星ホテルを立ち上げた高野登氏の著書を読ませて頂いたのですが
その著書の中で、高野氏はリッツカールトンのサービスの主軸に
お客様サービスにスタッフの心を添えたサービスを言われていました。
同じように、認知症ケアの主流となっている [パーソン・センタード・ケア」でも言われています。
さてさて、前置きが長くなりましたが、この言葉の意味はと言いますと、
私たちケアする側にすると、介護って結構重労働になりがちで
身体的にも、精神的にも負担は大きくなりがちです。
これは対人援助と言われる業務全てにおいて言えることで
だから、ホテルでのお仕事においても顧客満足を求める事業には
常に働き手の心と肉体に係る負荷が大きな問題となります。
人間だれしも、疲れてくると他人を思うことが希薄になりがちで
どうしても保身に走ってしまいます。
しかし、だからと言って、我々介護者の目線、都合を優先してしまうことは
支援を受ける側(要するに要介護者)にとって、介護してもらう逆の負荷がかかります。
気の弱い人は、自分の要望を言い出せず黙ってしまったり、
逆に気の強い人は、要望を拡大させ喧嘩になってしまったり。と、人間関係に大きなダメージを負うこととなります。
そこで、私たちは、常日頃から、相手の思いを想像し、気持ちを汲み取り、相手の思いに添えるような支援。
そのような訓練を積んでいきます。
相手を理解するということは、相手を理解しようとする気持ちがない事にはすすみません。
はなっから相手を否定し、色眼鏡で相手を見ていては「相互理解」なんてできません。
特に認知症の人は、自分の思いを表現することが苦手です。
だからこそ、私たちが相手の心に私たちの思いを込めて、支援の手を添える。
それが「心を添える」と言う意味と理解しています。
1.高齢者になると頑固になる
2.高齢者は利己的になる
3.高齢者は愚痴っぽくなる
4.高齢者は疑い深くなる
5.高齢者はイライラしやすくなる
6.高齢者は不安を感じやすくなる
7.高齢者は疎外感を感じやすくなる
8.高齢者は無気力になりやすくなる
想像力、理解力、洞察力、判断力は保持されるけど
記銘力、想起力は低下しやすくなる。
知的能力の低下は個人差が大きい
心理的に不安、失望感、孤独感を抱きやすい。
環境の変化に対する適応力が低下する。
高齢者では、社会的役割の変化が大きな影響を及ぼす。(仕事の引退、親役割の終了、孫の誕生など)
喪失体験(親族、友人との死別等)
経済力の低下(年金生活など)
これらの要素が絡み合って、認知症と言われる色々な問題が生じてくるのです。
認知症とは、決して病気ではないのです。上記のような高齢となった人たちの
生活のリズムや 環境の変化によって、次第に生きる意味を失っていくこと。
それを含めた人間の脳細胞の器質的変化を言います。
出来れば、死ぬまで現役!
死のお迎えのくるまで出しゃばっていること!
生きる限り、ずうずうしく振舞ってやる!と、考えています。
急に暑くなってしまって、正直、面食らっているのは私だけでなく
日本に暮らす全ての人の思いでしょう・・・
毎日、熱中症で救急搬送されたニュース。
高齢者には命に係わる重大な問題です。
また、認知症の人にとっては、この熱中症は更に深刻な問題なのです。
認知症の人が熱中症にかかると、そうでない人に比べて重篤になるというお話ではありません。
ここでお話したいのは、なぜ、認知症の人は熱中症になりやすいのか?についてお話しします。
高齢となると色々な身体機能が低下することは、何度もお伝えしました。
そして、特に身体中に張り巡らされた検知機能が年齢と共に衰えてきます。
つまり、寒さ、暑さを感じるセンサーが本来の機能を発揮できなくなるのです。
お年寄りが夏でも長袖、厚手の衣類を着たり、真冬の湯たんぽによって火傷しても気づかない。
そのような熱感知システムの不具合が出現します。
加えて、認知症となると「見当識の障害」の出現が言われています。
時間、場所、季節等の認識が取れなくなること。これが見当識障害です。
熱波を認識できない温度センサーに加え、真夏の熱波を認識できなければ
当然のごとく水分の補給を自発的に行うことも難しくなります。
そして、水分補給も、排尿トラブルや排尿に関わる身体機能の低下によって、煩わしく感じたり
トイレに行くことだけでなく、尿漏れを殊更心配視るあまりに、水を飲まない!
そのような複数の要素が重なり、年寄りは 水を飲まなくなる。
結果的に汗もかかない、体内に熱がこもり、熱中症となってしまう。
熱中症予防のためにお酒を飲むから平気!ってのはダメなんですね!
お酒やカフェインは、利尿作用があることから体内の水分を排出する働きが多く
水分補給とはならないからです。
まあ、認知症の人でお酒を浴びるほど飲まれる方は少ないでしょうが、
若い方にしても、誤解の無いよう。くれぐれもご注意ください!
第十九話でも記載したように、認知症も重度となると自分の意思表示が出来にくくなるのです。
重度の認知障害を持つ人と会話していて、一番苦労するのが「本人の意思確認」です。
うちのグループホームでは、設立当初よりグループホームの入居者の方々の自治会を作っていました。
そして、自分たちの食べたい食事や、レクリエーションや外出先やイベントの話し合いを定期的に行っていました。
まあなかなか発言は少なかったし、毎回同じ回答を聞くこととなるのですが
それでも、皆さんの思いを想像し、協調しておやつの献立を作ったり
外出先を決めたりしていました。
しかし、入居から10年の歳月が経過し、それぞれの認知症も進行し
今では、自治会の運営もままならない程、皆さんの気質変化は激しく
意思確認が困難となってきました。
さて、このような障害は、今後、身体的に老化も合わさり
次第に内臓疾患や循環器の疾患等の医療的処置を必要とするステージとなって
どこまでの延命を望まれるのか?と言う意思表示が重要となってきます
また、ひょっとして合併症により命の危機となる場面も出現してきます。
人は自分で、自分悪氏をチョイスすることはできません。
全ては天が定めることで、自分の手で自分の命を終えることはできません。
そんな時を想定し、自分の最終エンドステージに、どのような医療を、どのような介護を
望むのか?!を、認識あるうちに記録しておくこと。これがエンディングノートです
僕も自分悪エンディングノートを書きました。
認知症となった時用、重篤な病状となった時用、死んでしまって葬儀に関する要望や
自分自身の過去の思い出などを記しています。
そして、今現在持っているクレジットカードの情報やネット契約している定期契約のパスワードやID
友人リスト(僕が死んだときに知らせてほしい人の連絡先とその氏名)
これらの記載された情報は、もしも僕が自分自身の意思表示が出来なくなったときに
残された家族や社員が、僕の要望に従って全ての処理をしやすくするためのもの。
残された者が悩み、争うことなく、僕の描いた最終ステージを演出してくれるのです。
エンディングノートは、一回きりではありません。
生きている限り、書き直したり、削除したり、追記したりすることは可能です。
ただ、一番重要なことは、最終ステージにおける医療的処置の考え方をしっかりと書いておくこと。
ぼくは、自分の延命処置について、どこまで望んでいるのかをしっかりと記載しました。
そして、最後に署名押印しています。
生前のイベントプロデューサーとしての自負心もあります。
死んだ自分の葬式を自分でプロヂュースするのです。
格好良いではありませんか!!
皆さんも、若くても結構、もしも自分が死んだら…を前提に
一度エンディングノートを作ってみたら・・・?