


昨日の日曜日は、職員の結婚式に招かれてごちそうになってきました。
結婚式も様変わりし、昔のように仲人役は設定せず、参列者全員が立会人となり
式をあげるようです。披露宴自体も演出方法が変わり、以前のような急性アルコール中毒一歩手前の
状態まで酒を飲むこともなくなり、比較的都会っぽく紳士的な披露宴が行われていました。
私は一番バッターで祝辞を贈ったのですが、カラオケもなく友人たちのエールも少なく
式場の演出として、当日の参列者や当人たちの振り返りVTRなどの映像と音楽で構成されています。
僕が体験したアメリカでの結婚式の演出に近くなってきたように感じます。
ただ、アメリカの場合は生バンドが演奏する音楽に合わせて、ダンスなどの演出が殊更多く取り入れられている分
日本の結婚披露宴とは基本的に文化の違いがありそうです。
しかし、ともあれ、昨日の新郎新婦は、本当に幸せそうな笑顔で満ち溢れ、これほど幸せな時はない程、喜びにあふれていました。
お二人・・・ご結婚おめでとうございました。
太陽の家の玄関先の梅の木に一番花がつきました。
少しづつですが、寒さも緩み始めました。
毎年3月の中旬に、重いべた雪見舞われるので油断は大敵ですが
そろそろ春の足音が遠くから聞こえてきそうです。
今年の梅の木には、昨年以上のつぼみがついています。
この分でいけばたくさんの梅の身の収穫が期待できそうです。
また、今年も梅ジュースを楽しめそう・・・
その報告を兼ねて、新郎・新婦のお披露目と結婚報告会を行いました。
最初は恥ずかしがっていた新婦も、ようよう観念した様子。
同僚の職員が持ち込んだウエディングドレスを身にまとい(本番用はさすがに持ち込みは無理ですからね!)
また、職員手作りのケーキまで用意しての報告会は、利用者の皆さんも大喜び。
グループホームをもう一つの家族として、皆で結婚を祝いました。
最後に職員も一緒に用意したケーキを頬張り、喜びの話で盛り上がりました。
これは先週末の写真ではあるが、とても穏やかな一日であり自転車日和といえるナイスデイ。
毎週末には必ずサイクリングに出かけるのだが、今回は三重大学の裏・・・と言うより
海岸沿いの工事中の堤防道路で小休止し、そこからの眺めをパノラマ撮影してみた。
パノラマ撮影は景色をより幅広い視野で伝えることができる代わりに、目の前のものが歪んで撮影される。
そんなデメリットを持ち合わせているが、今、僕の中ではパノラマ撮影がブームである。
先月、沖縄のセンチュリーランに参加してから以降、向かい風の走行が苦にならなくなった。
と言うより、苦にしているようでは上達しないし、サイクリング自体の楽しみが半減することに気付いた。
だから、今は、多少風が強くても平気である。もちろん、向かい風に向かってサイクリングすることは
苦痛ではある。筋肉が痙攣しそうになる。でも、繰り返し走っているうちに、少しは筋力の強化に結び付いた!と
感じれるようになった。
来年の沖縄センチュリーランでは、吹き飛ばされるほどの強烈な風にもメゲズに走れそうな気がする。
キツイ…
12歳のわんちゃん… 開業当時に子犬で来院してくれてから長い月日が経ち…
何年か前にリンパ腫を化学療法で克服した強い子… この時には半年に渡る抗がん剤治療に見事に耐えて克服した。
しかし今回は…
乏尿性の腎不全で来院… ついこの間元気にトリミングに来てくれていたのに……
持続点滴、各種利尿剤の反応が乏しく尿が極端に少なく、高カリウム血症がコントロールできない…
尿毒症症状を発現し、朦朧と辛そうにしている日々…
この状態では透析治療も難しい…
ご家族と相談の上、治療を断念してお家へ帰ることに…
その方がいいと思った… 家族と一緒に安らかに… そう願った…
休診日の静かな病院… お父さんにお迎えに来ていただいた…
最後にお父さんは男泣きしながらおっしゃった…
「先生、12年間、本当にありがとうございました。」
泣いた… お父さんはじめ、ご家族の深い愛情に感動し、自分の無力さ、どうしようもなさに体が震えた…
虚しい…
この文章は某ペットクリニックの院長のフェイスブックのメッセージを原文のまま引用させていただいたものです。
うちには3匹のミニチュアダックスフンドが生活を共にしていたのですが、そのうちの一匹が同じように一生を終えました。
この先生にうちの愛犬は生まれた時からお世話になっていて、いつも親身になって治療を行ってもらっています。
動物であり人間であり、生を受けたものは必ず死を迎えることとなります。いつかは死ぬ。この自分だって同じように
いつかは知らないけれど、必ず死にます。ここで問題となるのがどうやって死ぬか?だと思うのです。高齢者介護に携わり
たくさんの方々の死に際に立ち会ってきました。誰にしろ死ぬことが恐ろしくない人はいないはずです。同時に
死を目前にする人を何も施さずにただ黙って看取ることも苦しく辛いものがあります。認知症グループホームで働く者にとって
施設利用者の臨終の時が不安だという話をよく聞きます。十分理解できる感覚ではあります。しかし、私たちはプロの
介護士です。人間の一生を終える現場の苦しく重い雰囲気に絶えて初めて業務の貫徹が成し得ると思っています。
死ぬときは誰でも一人で旅立ちます。その旅立ちに際し、私たちにできることは傍にいてあげて見守ってあげることくらいしか
できませんが、僕はそれでよいのだと思っています。人によって死生観は格差があり、可能な限りの医療を用いて延命を希望する
人もいます。しかし、本当にそれでよいのでしょうか?
体の自由も意思の疎通も奪われ、ただ機械的に生かされている状態を、僕は生きているとは言えないと思うのです。
理屈が合わないかもしれませんが、一般的な医療処置を持って救えない命は、それが最終の合図として、その人が一番
安心する場で最期を看取ってあげる。僕は、これこそが医療、家庭、介護施設の連携力だと思うのです。