人は誰しも必ず一生を終える。
認知症の人とて同じである。
うちのグループホームで、残念ながら最後のひと時を迎えようとされる方がみえる。
お預かりしている人が、一生を終えようとする瞬間は私にとっても非常に苦しい、悲しい時である。
そして、エンドステージを無火曜とする方のご家族の精神的フォローも大切な仕事である。
その説明の中でいつもお話しするのは、終末期における人は、「食べないので死ぬのではなく」
「死ぬから食べない」のであり、自然飲死ぬために(と言うと語弊があるが・・・)食べることを止める。
体の組織自体が自然に苦痛なく死ぬ態勢に入るとき、食事は不要となる。
そして、これも主治医からいつも聞かされていることでもあるが
自然に死を迎える時は、脳内にモルヒネ様物質が分泌され苦痛、不安の類は感じなくなる。
意識レベルも低下し、死の瀬戸際の恐怖すら感じなくなる。
しかし、ベッドの脇で看取りをする家族にとってすれば、肩で息をする家族の姿は
苦痛に耐えかねているように映る。
僕が一度、心拍停止の状態に陥り、総合病院の救急外来のベッドで激しい痙攣をおこしたとき
自分の意識の中では、何も記憶に残っていない。側にいた医師や看護師の方が驚き,慌てたそうだが
自分のなかでは、普段通りの眠っている状態と変わらなかった。
その経験からも、家族がみる終末期の患者の姿は、本人の感覚とは違ったモノであろうと想像される。
僕も心拍停止となったのが病院の救急対応のベッド上であったために、何とか蘇生しこの世に戻ってきた。
あの時に逝っていれば、今のこの現実の諸問題に苦しまずに済んだのに・・・と無責任なことを言っていれる状態に戻してもらった。
しかし、僕の場合は、いたって普通の状態に戻してもらえたので喜んでいられるが
今、人工呼吸器を付けられ、胃瘻を増設されてチューブを通して液体食を流し入れられているとするなら、
決して喜ばしい姿ではない。
認知症のあるなしに関わらず、人が自然に死ぬ姿って、もう少し私たちは前向きに考えておく必要がある。