家族が神社仏閣を訪れるたびにお守りを買ってきてくれる。
日本人は、本当に神頼みに頼る気質の国民らしい。
かく言う自分も同じく、年明けには初詣に必ず出かける。
そして、そこでまた、残してきた家族のためにお守りを買い求める。
罰が当たる言い方かもしれないけど、お守りを買ったから病気にならない保証はない。
鎌倉の銭洗い弁天の泉でお金を洗って財布に入れていたけど
税金も払えないほど苦労した時代もあった。(今も同じく)
無病息災の札を持ちながらも大病を患った。一年間、非常に苦しい辛い思いをした。
僕の人生、全て順風満帆ではなかった。山あり谷あり、谷ばかりの人生だったようにも思える。
でも、まだ生かしてもらえている。
こうやって働かせてもらえている。
時々、好きなイタリアンを食べて、好きな音楽を聴いていられる。
これはきっとお守りのお蔭なのか・・・・
お守りには、そのお守り袋を見る度に、粗末にできないと言う意識が働く。
先にも書いたようにお守りそのものの効果を信じていないわりには
『罰が当たるかもしれない・・・・』と注釈をつけるくらいの何かが存在する。
粗末に扱うことをためらう力が存在する。
この細やかながらも、信仰心の片鱗のようなものが
結果的に僕の人生を無難にコントロールしてくれているように思う。
※僕の娘のような存在の姪っ子が買ってきてくれた「お守り」をみて、このブログを思いついた。
元号が令和に変わってまだまだ馴染みが薄い2019年だけど
明日から10月の第一日目。あと3か月もすれば2020年の新しい年を迎えることとなる。
少し気が早い話題だけど、まあ本当に月日の経つのが早い。
経験をたくさん積むにつれ日々の生活に刺激が薄くなり、特に目新しい目標も無くなりつつある年齢ともなると
興奮も期待で胸を吹くラマ焦ることなく、ただ淡々と時間が過ぎていく。
この淡々と過ぎ去る時間は、待ち遠しいわけでもなく、公平に時を刻んでいく。
この状態が年寄りに、逆に時間の流れを早く感じさせてしまっている。
僕もそのうちの一人で、毎日が淡々と粛々と過ぎ去っていく。
ただ一日が無意味に過ぎ去っていくような気もする。
介護を仕事とする立場の自分が、年寄りに(自分も同じく年寄りだけど・・・笑)むかって
何か目標を持ちましょう!!と格好よく号令をかけるが
実際に自分の人生において、何か目標を抱いているか?と言えば嘘になる。
ただ、まだやりたいこと、行きたい場所をもっている点だけ唯一救われる。
実を言うと、あと数時間で僕の誕生日がやってくる。
自分の人生を振り返ってみて、最後に悔やむことの内容
思いっきり暴れて人生を楽しみたい。
認知症の人の『帰る!』の繰り返しの訴えに対して、どのような支援を行うべきか・・・
まず「帰る!」と言う訴えに対して、本人の立場に立ってみれば当然のことと理解することから始めたい。
認知症でなくったって、初めてのホテルでも旅館でもない、普通の大きめの民家に
突然連れてこられて、ここがあなたの部屋よ!って言われて、ハイ!そうですか!と誰が言えるか・・・!を理解する。
周りにいる人間は、今まで係わったことの無い見ず知らずの者達に、朝昼晩と代わる代わる話しかけられ
あーしろ!こーしろ!と言われて、おまけに風呂に入りたくなくても「お風呂入って!」と言われることは
本人にとって無茶苦茶、不自然極まりない状況だ。
こんなの絶対に納得いくわけない。と本人は思い続け、なんで? どうしよう・・・? って気持ちになるに決まっている。
人は、大の大人が少しでもボケてくると、「何も一人じゃ出来ないんだから、黙って言うことを気いてりゃいいの!」と考える。
そんな思いが介護職の中に存在することは考え方を改めてもらいたい。
なぜ帰りたい?と言う理由は一目瞭然、自分御家ではないから帰りたくなる。
それでは、グループホームの存在意義がなくなる。だから、我々は専門職として
こんな爺さん、婆さんたちには、出来る限り早いうちに「諦め」てもらえるように努力をしなければならない。
何を諦めてもらうのか?と言えば、以前の家より今の生活の方が良いんだよ!と思ってもらうと言うこと。
日中、夜間、そこかしこに自宅では味わえないモノが、グループホームには存在するはず。
ここでしか味わえない生活を作り上げることが、我々専門職の役割であり、専門性なんだと考えている。
『ここでしか味わえないモノ』ってのが、その施設の特色であり、そこに働く職員達の熱意である。
例えばカラオケ、ドライブ、お散歩、おやつ作り、趣味の活動、映画鑑賞や音楽会。
考えれば考えるだけの手法ってのは存在する。
考えることを辞めてしまうから、入居者の爺さんや婆さんは自宅の方が良い!と言う結論で
声を大に訴え始める。
この人たちは、何をしたいのか?何に興味を持ってもらえるのか?
個別に対応する事が望ましいが、全てを個別には無理である。
だから、皆で楽しめること。または、順番に楽しみを分かち合えることを探してみてほしい。
僕は毎年、この10月の初旬に開催されるF-1グランプリの運営の一翼を担わせてもらっている。
僕の担当する部分は、世界グランプリ開催になくてはならないイベントの一つを仕切らせてもらっている。
担当する業務は、F-1決勝レースの直前に開催される「F-1ドライバーズパレード」であり
一日の決勝レースの中の、ほんの30分だけの時間的「尺」が持ち時間である。
この30分のために、朝の6時から準備し、本番を迎える。
この「尺」は、F-1グランプリの世界同時中継の中に割り込まれた時間枠のことで
予定時間を超えてしまうことは、放送事故として罰金ものの、非常に大事な時間枠を握らせてもらっている。
先にも書いたように、この30分のために準備時間は、何十倍もの準備時間を割き
自分なりに本番をシュミレーションし、本番を迎える。
毎年、100%の出来栄えは無い!
毎年、何かかしらの反省と後悔も感じながら
来年こそはと思い直して20数年やってきた。
僕が常に守っていることは、クライアントの主催者の意向に必ず報いる仕事をすること。
土壇場で親交の段取りを変更されても必ず対応する。
どんな厳しい注文にも応じる。
常に僕は「できない事はない!ベストを尽くす!」と言い続けて今までやってきた。
そのおかげで、この仕事だけは今の年齢になっても、誰にも引けをとらない。
60歳を超える頃から、そろそろ引退するべきか・・・?と迷いながら
今に至って続けている。
今年の決勝日にも、サーキットのメインストレート上に、ドラパレのエンターテイメントが展開される。
たった30分のプロフェッショナルな演出を・・・
https://www.msn.com/ja-jp/lifestyle/lifestyleanimals/絶妙のタイミングで撮られた動物たちのユーモア写真集/ss-AAHOAP5?ocid=spartandhp
ネットから写真を拝借しました。
先のブログに書いたように、僕はグループホームの在り方について自立支援、重度化防止の視点で
撲自身の考え方を書いた。
ついでに、すこし過激で嫌われることを書いてみようと考え「第2章」としてここに別の思いを書かせてもらう。
こんな事を書くから、敵が増えるんだわ!と思われるかもしれないが
これが僕なんで、なんとも救いようがないところでもあるのです。
あるケアマネジャーが、うちの施設に要介護5の認知症高齢者の入居申し込みをしてきた。
要介護5だからというわけではないが、その方は胃瘻を増設していると言う。
グループホームは、この業界の者ならよく知っているはずで
認知症であっても同じ障害を抱えた者が、お互いの力を出し合って
共同で生活をする場として設立されている。
要介護5の重度がいけないわけではない。
この施設で暮らすうちに重度化していくのは納得できるし、支援を継続するのは当たり前と考えている。
僕は、このグループホームを継続する中で目標としていることがある。
それは「在宅復帰」である。
認知症の行動心理症状などの一般家庭では対応のしようの無い症状が改善され
普通の生活ができるようになって、自宅の生活に戻ってもらうこと。
デイサービスなどの利用や簡単な家族支援で生活が出来るようになれば
在宅に戻ることは可能だ!
在宅復帰が目標だから、この施設では看取りを行わないのか?と思われる方もいるかもしれない
この施設で看取りも行うし、看取りを承知で受け入れも行う。
でも僕の言う看取りとは、ここでの生活を充実させた結果の看取りのことであり、
言うなれば、僕たちは「その人」の第二の人生における家族だという認識のもとの看取りである。
だから、他の施設で受け入れできないからと言う理由で
此処の施設を選んでもらっては困る。
ケアマネジャーや家族からすれば、どこが違うの??と訝しく思われるかもしれないが
全く持って趣旨が違う。
僕の施設では、ここが「その人」にとって束の間であっても「安住の地」であってほしいと願っている。
一緒に活動し、同じ釜の飯を食い、共に泣き、共に笑い、共に高めあう場でありたいと願っている。
現に、太陽の家の理念が、苦しみ、悲しみを含め喜びや楽しみを分かち合う。そんな共同体を作りたいからである。
そのような意味で言えば、重度要介護者を対象とした介護医療院の設置が望まれる。
医療が関わる頻度は高くなり、医療職でない限り設立は難しい施設ではあるが。
日本に今欠けているのは、この医療と介護が両立している施設が不足している。
ホスピスでもない、病院でもない、単なる介護施設でもない
安楽に苦痛もなく最後の人生に心を添えてくれる場として
こんな施設があれば、今回のケースのような場合は最高に安心して任せられると思うのです。
このタイトルでブログを書くのは二回目かな・・・?
今日、虹の丘グループホームを覗いてみた。
太陽の家でもおなじだけど、入居者の声が聞こえてこない・・・
自立支援とは?重度化防止とは?
入居者が人生をストップモーションのような静止画像の中で暮らしている。
太陽の家は、入居者が重度化している現状では、なかなか活発な活動は難しい
でも、虹の丘の入居者はまだまだお元気さんが多い。
いつかは誰しもが動けなくなってしまう。
動けなくなるまでは、その活動を止めない!そんな支援が欲しい。
ただ、太陽の家と虹の丘が他の事業所より優れている点は
施錠していないい。全てに制限を加えていない。つまり拘束していない。
利用者の自由意思に任せている点は、僕は自慢できると思っている。
自由意思に任せると、活動は低下してしまう。
この点をどのように促していくのか?が問われているのだっと考えている。
僕の父は、母が亡くなってから急激に認知症がすすんでしまった。
認知症の進行と共に活動も減っていった。つまり日中の傾眠状態が増加した。
今や日中に目を開けている姿を見ることの方が少なくなってきている。
親父の息子として、こんな姿を見るのは忍びない。
転倒してもよいから、いつまでも「浩一!」と声をかけてくれる凛々しい姿でいてほしい。
そんなことを密かに思いながら父の疲れきった姿を眺めて寂しく思っている。
虹の丘のスタッフには、声を大にして言いたい。
断られても、断られても、何度でも散歩や活動を薦めてほしい!
死ぬまで歩き続けてもらえるよう、必死で説き伏せてほしい。
これが僕たちの専門職としての役割だと考えている。
こうやってブログを書いている時、僕は常にお気に入りの音楽を聴きながらキーボードを打っている。
僕の音楽のチョイスは、今までにもブログにユーチューブのアドレスを張り付けてきているので
大体、どの様なジャンルの音楽を好むかは想像してもらえると思っている。
ずいぶん以前にも書いたことがあるけど、
人はそれぞれ、自分の人生の場面場面に、思い出の曲や思い出の音楽をもっている。
それが歌謡曲であったり、民謡であったり、演歌であるのかは
その人の生きてきた世界の違いで、人によって千差万別の固有の世界観が存在する。
そんな一つの音楽を聴くとき、人はその時代の出来事やトピックを思い出す。
悲しみも、楽しみも、音楽に合わせて自分の過去がよみがえる。
僕は、認知症の人も、高齢者も同じだと考えている。
だから、僕はデイサービスやグループホームなどの施設行事の時に
童謡や小学校唱歌を中心に聞いてもらうことに非常に強い違和感を感じている。
認知症だから・・・年寄りだから・・・と言う理由で
全員が同じジャンルの曲を聴かされるって?
小学校唱歌を懐かしいと感じるから??
もちろん、小学校唱歌を聴いて自分の幼い頃を 思い出すってこと大事かもしれない。
でも、いつも小学生に戻って、その頃の記憶を楽しむ気分に皆さんは違和感はないのでしょうか?
青春時代や、猛烈社員だった働き盛りの時代は?
結婚して初めて子供ができた時代は・・・?
色々な音楽に 触れる機会があって、色々な時代を振り返る時も大切ではないのだろうか・・・
一度、お年寄りの方々に尋ねてみたい。
皆さんは、皆さんのお葬式でどんな音楽を流してほしいでしょうか?
自分が亡くなる時、そんな自分の最後のページを演出する音楽って、どんな音楽でしょうか??
最近、また、このブログを読んで頂く方が増えている。
決していい加減な内容で書いているつもりはないが
書いたブログを読み返して、いつも思うことは
誤字、脱字、変換ミスが多く、
僕の意図する内容には程遠い時があって
その都度、修正をくわえたり、書き直したりしている。
そんな僕の稚拙な書き連ねる文章を定期的に読んで頂けることには
本当にありがたいし、正直な気持ち、うれしい!
このブログを書いている中で一番気にしていることは
出来る限り本心でブログを書くと言う点。
その時の自分の素直な気持ちを文字で表現することにしている。
だから時としてセンチな文章であったり、逆に妙に強気で、強欲な部分がでたり
その方が人間的で良いと思いながら、あえて自分に嘘をつくことはしていない。
とても我儘で鼻持ちならない人間のように思われているかもしれないが
自分はとても繊細でロマンティストな男なんだと思っている(笑い)
それを証拠に、感動する事が多く、その度に涙することが多い。
(別の意味で言いかえれば、加齢による涙もろさ・・・?!)笑
まあ、とにかく、このブログ、かなり気まぐれだけど
これからも僕が健康でいる限り、このページの更新を続けていくつもり。
(もう一つ、このホームページを管理してくれているマイドソフトさんに
管理料を支払えなくならない限りは続けていくつもりです)笑
それでは、また、次のブログで・・・
数日前にネットニュースの「老害」に関するニュースを張り付けたのだが、
僕は、この老害って言葉が非常に気に入ってしまった。
認知症グループホームの三重県の協議会で副会長兼事務局を担当する者として
県内の事業所の提供サービスの向上を目指して、どんどん老害を及ぼして行こうと決意新たに突き進もう!
ひと頃、僕も好々爺を目指さないと、
至る所敵ばかりの環境に寂しさを感じ
損な役割にヘトヘト飽きが来ていた頃もあった。
特に二世経営者には嫌われ、反感を持つものも多い。
しかし、今、もう一度、介護保険サービスの事業の継続性を考えると
死にかけのオッサンが、口うるさく老害を拡散していかないと
この事業は社会から飽きられる。または、行政から潰れても良い業種として
介護保険給付額が減額され続け、先細りの経営に終始してしまうのが落ちだ。