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ブログ-施設長の部屋

2017/7/20
食欲は健康のバロメーター?!

良く健康のバロメーターとして食欲の有無が言われる。

今朝は、蒸し暑さにいつもより一時間早く目が覚めた。

また、昨夜は例の懇親会で、結構腹いっぱい食事したにも関わらず

今朝起きて、まだ明るくならない空を窓越しに眺めながら

さて、朝食は何を食べよう……….と考えていた。

そんな自分は健康的なのか?それとも、

どこか神経細胞が麻痺しているのか?

単に 口いやしい肥満体質なのか??

色々と考えると可笑しくなって笑える一日のスタートでした。

2017/7/19
認知症ケアは無くなる?!

今日、三重県地域密着型サービス協議会の定例研修にお招きした和田行男しを

講演会終了後に囲んで懇親会を行った。

その席で、和田さんは将来的に「認知症ケアは無くなる、少なくてもアルツハイマーの人はいなくなる」と言う発言があった。

アルツハイマー治療薬が開発された。と言う話から

そのような話に発展したのですが。

和田さんの説は、認知症が治るようになることで

今、認知症の大半を占めるアルツハイマーの患者さんがゼロになれば

非常に大きな問題となるのが介護の業界。

特に認知症グループホームにとっては、大打撃である。

入居者が極端に激減する。施設運営が困難となる。事業所が破綻する。

全国で倒産する営利法人の運営するグループホームが続出する。と言った構図である。

ただでさえ、人材難で疲弊するグループホームの事業所。

そこに入居する認知症高齢者が減少する。

全国で800万人規模に認知症高齢者の拡大予想が問題視され

介護保険の破たんを危惧することから、総合事業への シフトチェンジ等

グループホームを運営する事業者としては、はっきり言って気が気でない部分の話である。

介護報酬を元にして経営される介護事業者。

ひと昔前の、誰でも介護施設を手掛ければ、みんなが儲かる時代ではなくなった。

そしてこの上に更に介護報酬の減額が行われ続ければ

間違いなく潰れる事業所は出現する。

生半可、脅しではなく、十分に想定できる問題なだけに

今後の介護保険事業者の先行き不透明な不安感でいっぱいの話であった。

2017/7/19
施設長の部屋 ブログに関するお話

今日は、三重県地域密着型サービス協議会主催の定例研修会の日でした。

三重県総合文化センターにおいて、講師、和田行男氏をお招きして

認知症ケアについてお話を伺いました。

研修終了後に、希望者と共に懇親会を行いました。

以前には、ノミニケーションの名の元、よく懇親会が開催されていましたが

ここ近年の介護職員不足から、研修時間だけでも職員を派遣することが難しい時代となり

懇親会の時間まで職員さんたちを押しとめることが難しい時代となりました。

今回、太陽の家で働き始めて、数か月の職員さんが講演会と懇親会に参加してくれました。

慣れない土地に引っ越して、慣れない職場で彼女なりに必死なのでしょう。

彼女の中には、いろいろなハテナ(?)を抱えながらも

前向きに改善や工夫を心がけている姿を見て

非常に感心し、心強いものを感じる事が出来ました。

そして、そんな彼女も、このブログを読んでくれる一人だそうで

今朝から、僕が昨夜書いたブログを読んで涙した!と話をきいて

驚きと反省する自分がいました。

今日のブログもそうですが、最近のブログ更新が深夜帯に行われることが

その反省の大きな要因でもあります。

深夜、一人で文章を書くと、その文章は非常にセンチメンタルな文章となってしまいます。

若いころに、ラブレターを深夜に書くと、情緒的になり、詩的な文章となります。

美しく流れるような詩情は、逆に女々しさの逆作用も生みだします。

それで、若いころの僕はずいぶんと失敗を繰り返してきました。(笑)

そして、今回のブログは、ある意味、女々しいイメージが

てんこ盛りの状態であったようです。

女々しいブログに後悔しているというわけではないのですが、

彼女の意見が面白く、自分でも笑えてきました。

以前にも書いたと思うのですが、本来の自分は根暗な人間なようですね。

今、お気に入りの音楽も、根暗な音楽です。

ある映画のテーマ音楽を演奏している 「2CELLOs」と言う

二人のチェリストの音楽がお気に入りで聴いているのです。

もともとバイオリンが好きで、同じ弦楽器のチェロの音色も大好きです。

そんな暗いチェロの音色を聴きながら、ブログを一人で枕元のランプの下で

ブログを書いていると、本当に書きあがる文章自体が暗くなりがちです。

この根暗な自分が本当の自分なのか、それとも昼間、職員さんたちに発破をかけ

檄を飛ばしている冷酷な人間の僕が本当の自分なのか?

実際問題、自分でもわからないところが笑えませんか?!

今日、彼女と話をする機会があったこと。

そして、別の気づきがあったこと。

非常に面白い一日でした。

最後に、今日の講演の中で和田さんが話をしていました。

長生きするから認知症になるんだ!

認知症になろうと思っても、認知症になることは難しい。

この言葉に共感しました!

一応、研修に参加して学ぶこともあったことを書いておかないと

研修に参加できなかった職員さんたちに申し訳ないですからね……..

2017/7/18
認知症の父ちゃん

僕の父は厳格な人でした。

祖母の家系が厳格で、厳しい血筋だったので

それをそのまま受け継いだのが、私の父でした。

祖父はとても温厚な人で、どちらかと言えばお人よしの人でした。

この家の長男として生まれた僕には、4歳年下の妹が居ます。

子供二人に両親と祖父母の6人が一つ屋根の下に暮らしていました。

僕が生まれる頃に、祖母は今でいう脳梗塞を患い片麻痺 となり

リハビリを兼ねて菰野町にある観音さんに僕を連れてお参りによく行ってました。

その当時のことは、少しですが僕の記憶の中に残っています。

観音さんが、どんなところで、なぜ行くのかは理解できていませんでしたが

それでも近鉄に乗って、湯の山方面に祖母のお供をしたことと

そして、色々な物を買ってもらったことが思い起こされます。

また、父は家族を連れて日帰り旅行にも連れて行ってくれていました。

一番よく覚えているのは、琵琶湖で遊覧船に乗った時のことです。

妹二人で船のデッキで、湖を見ながらサンドイッチを食べたことを覚えています。

子供の時代の父と母、

小学校から中学校に入る頃の父と母。

高校から大学に入る頃の父と母。

僕も歳を重ねていき、それに重ねるように年齢を重ねていく両親に

その当時は、「認知症」なんて、想像もできなかったです。

僕が自立して、結婚して、両親と生活を別にし始めてから

父と母が次第に老けていくのを感じました。

それまで何かにつけ両親に頼っていた自分が

逆に両親が自分に頼ってくる重みを感じ始めていました。

それは、大人に成長しつつある自分自身の自信につながり

そう悪い気分ではありませんでした。

この業界に入ったころには、立場は完全に逆転し

僕の方が両親に意見したり、指示を入れたりし始めていました。

このあたりで、少しずつですが、自分が面倒を見ることを意識し始め

実感として「世話を焼く」必要性を認識し始めました。

僕には子供が居ないので、比較的、高齢になっても老けにくい環境ではあったようです。

もちろん、その当時にすでに妹夫婦に子供が授かり

外孫は体験しています。

両親が昔の威厳を失い、弱弱しく変化していったのはひ孫を見る頃です。

成長した孫に子供ができる頃には、父は若いころの怖いおやじではなく

物腰柔らかな大人しい爺さんに変わっていました。

悪いことを僕がすると拳骨で顔を殴った怖い父の姿は全く見ることができなくなりました。

今、グループホームの一室に暮らしながら日々痩せていく父の姿を

僕は、その施設の施設長の立場で父を見ています。

年齢も年齢ですから……食事が細くなり、次第に衰弱していくと

主治医に診断を受け、何もできないまま、ただ見守るだけ。

そんな時が来てしまいました。

人間、生きている以上、雑賀は全員に訪れます。

僕の父も人生の終焉を迎える時が近づいています。

認知症で、毎日、色々な思いが走馬灯のように

父の脳裏を回り続けているのでしょうか、

僕の顔を見るたびに、懐かしそうに話しかけてきます。

こんな父を見ていると、もっと親孝行してあげてればよかった!と

今さらながら思うのです。

人生、90年を生き、働いてきた父をみていると

自分の将来を見ているようで仕方ないのです。

そして、そんな時が僕に来るのでしょうね。(笑)

2017/7/15
さらに時代はさかのぼって….

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昨日は、20数年前のお話をしました。

今日は、その時代からさらに遡ること20年ほど前のお話。

上の写真は、その頃の自分が居た場所。

学生時代をカリフォルニアで過ごした僕は、学校に通いながら

花屋さんでアルバイトをしていた。そのバイト先の写真。

平日は学校、週末はバイトの生活は、若い自分が遊べる時間帯は

深夜にしかなかった。まあ、今思えば、夜中に遊んでないで

もっと勉強しておけばよかった!のですが………..(後の祭りですね!笑)

深夜に遊ぶ。アメリカって国は、遊ぶところが少ないのですね。

パチンコもなければ、酒は21歳を超えないと飲めない!

あの当時の僕が、一番リラックスして心休まる時ってのが

三枚目の写真。  そう!ゴールデンゲートブリッヂの夜景です。

この写真はプロの撮影したものをお借りしているのですが

ゴールデンゲートを渡り、シスコのダウンタウンの反対側の丘の上から見た景色です。

橋の向こうにサンフランシスコの街がみえます。

夜のサンフランシスコは、日本の大都市と同じ

24時間眠らない街です。お金には常に苦労していた学生時代ですが

安いコーヒーショップで何杯もコーヒーのお替りをして時間を潰していました。

アメリカのコーヒーショップは何杯でもお代わり自由です。

貧乏学生には最高です。

ダウンタウンのメインの通り沿いにある、カバのキャラクターのお店

「Hippo’s」ってのお店が行きつけの店でした。

あれから40年が過ぎているのに、この店の名前を憶えているのですね…….

認知症の人が過去の記憶が残る!ってことが理解できます!!

そして、少しお腹が空いてくると、次に行くのがチャイナタウンでラーメンです。

日本で言うラーメンとは少し違って、もう少し本場の麺に近いかもしれないのですが

これまた、安い店に行くものですから、それなりにけったいなモノが出てくる。

ある時、僕の注文したヌードル。麺を全部食べ終えて、スープを飲んでいると

どんぶりの底から見えてきたのがゴキブリ!

流石に気持ちいいものではなかったのですが

やはり若かったし、貧乏だった。

ゴキブリを箸で外に出して、残りのスープを飲んでしまったことも鮮明に覚えています。

20歳のころってのは、どんな些細なことでも楽しかった。

なんでも笑えるのです。極端な話、箸が落ちても笑えるのです。

そして、何も怖いものはなかった。

今、この歳でアメリカを旅行して、深夜のサンフランシスコの街を歩くなんて

絶対にできないですよね。その当時は、僕らみたいな貧乏人丸出しの人間は

逆に襲われなかった。言うなれば、その辺のチンピラと同じ部類なんですね、きっと!

日本の家が恋しくなっても、帰ることもできず、さて、どうする??となると

僕は必ず飛行場に行きました。サンフランシスコ空港の出発ロビーを徘徊するのです。

飛行機の離発着の案内や、ジェット機の音を聞きながら

色々な人の喜怒哀楽が交差する出発ロビーってのは

一瞬ですが、自分も今、帰国便の出発を待っているんだぞ!と言う気分に浸れるのです。

少し空しく聞こえるかもしれませんが、本来の僕は根暗人間なのかもしれません。

学生して、バイトして、深夜徘徊して、そんな青春って。意外と面白い人生です。

ただし、僕は犯罪にかかわることはなかった!

そんな勇気がないと言えば無いのですが、その時に有るものだけで十分に満足できていました

ボンビーな生活は、馴染んでしまえば、これほど気楽な生活はないのです。

しかし、そのビンボーな生活に浸り続ける気持ちもありませんでした。

だから、一応、学校には行きました。

特に自慢できるような勉強はしていませんから、その点では後悔はあります。

しかし、こんな時代を過ごせた。そんな環境に置いてくれた両親には感謝です。

そして、何よりも、こんな僕に若い時があったというのが今日のお話のポイントです。

これから先、僕が認知症となったときに、このブログをスタッフが読んでくれて

このボケ爺さんにも、素敵な若い時代があったんだ!と思ってもらうこと。

そんなことを呟きながら、今日のブログを閉じます。


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