最近、普通の時の職員さんのスナップ写真を撮るために
前触れなくシャッターを切っている。
突然のカメラに驚いて顔を隠す者、
全く気付かない者も含め
撮影する側もピンと合わせが難しい。
時には手振れをおこし
ピントがずれる時もある。
それでも、普通の時の職員の雰囲気が伝わればいい!と
今回も飽きずにHPにアップさせてもらいます!!
見てやってください!
表題のとおり、認知症の当事者が語る会が開催されます。
開催日 : 2017年4月30日(日)午後一時より(開場0時30分)
開催場所:大阪ビジネスパーク円形ホール
大阪市中央区城見2-1-61
定員 : 500名 参加無料(事前の申し込みが必要です)
第一部 クリスティーン・ブライデン講演
第二部 パネルディスカッション「当事者と創るこれからの社会」
出演:クリスティーン・ブライデン、ジェームス・マキロップ、ケイト・スワファー、丹野智文、永田久美子、栗田主一
詳しくは下記アドレスにアクセス願います。
先日、交流のある認知症専門医の勉強会に参加した。
認知症と薬をテーマにお話を聞いた。
その中で、認知症の一番大きな原因は長寿であり
80や90の年齢に伴い、大半の人が認知症となると言う。
90歳を越えれば、認知症でない方がマイノリティである。の言葉に
会場全体で大ウケ!
若い時には、認知症など気にも留めない。
自分には縁遠い病としか受け止めてない時代から
年齢を重ねるごとに、次第に認知症を気にし始める。
ちょうど年齢が初老に近くなると
いよいよ認知症が現実味を帯び、ふと不安な思いが心をよぎる時が出てくる。
単なる物忘れが、それまでの認識にある物忘れで無く
病的な物忘れと思いってしまいがちとなる。
昔の癌ノイローゼの様な不安な思いである。
そりゃ、たまの物忘れは若い頃でも起こり得る。
しかし、これが歳を重ね、会話の中に指示語が増え始め
「アレ」「それ」と思う単語や名称が出てこなくなる
だから指示語で相手に察してもらおうと期待しながら会話を続ける。
話を聞いている方は、指示語から言わんとする内容を想像出来ない。
こんな状況が続くと、まずは冗談めかしてボケた振りをする。
多少、指示語が増えても他人は気にしていない。
しかし、自分自身はごまかしが付けられない。
つまり
密かに不安な思いを抱き続けていく。
認知症の人は、自分の変化に敏感である。
自分が何年生きれるかは分からないが
見た目より遥かに認知症は進んできている様な気がする。
これはヤバイヨ !!
金曜夜から昨日にかけ鮮血が確認される。
上部消化器官からの出血から下部消化器官に悪化してきたようだ。
今朝、動物病院を再受診視点的に止血剤を加えてもらった。
ラッキーにも止血剤が功を発し出血が和らいだ。
日中に少し下血はみられたが、以降深夜までに出血はない。
ショコラも少しばかり、ゆっくりと眠れているように思える。
彼女は自分のハウスの中におもらしをしない。
足腰がふらふらにも拘らず、何とかしてでもハウスの外に這い出てトイレマットの上で
排泄しようとするような子だ。
そんなショコラがハウスの中で静かに過ごしている。
このまま良くなってくれることを祈っているが
例え状態に変わりがなくとも、苦しみや痛みが和らいでくれているならうれしい。
毎日、朝起きてショコラのハウスの中を覗き込んで
「あ~ッ、まだ息をしている…….良かった!」と感謝する日々である。
どこまで命が続くか分からないけど、
今年の4月で丸16年。犬からすればとても長生きと言えるかもしれない。
ここで旅立っても「大往生」と言えるかもしれないが
なかなか今なお、撲自身の気持ちの整理がついていないのが現状である。
太陽の家のセラピスト犬「ショコラ」がエンディングステージにいる。
今年の一月中旬から体調を崩し
点滴と薬による治療を継続してきた。
一時、薬の効果によって元気を回復していたものの
今月に入って再度、様態が悪化。
下血と嘔吐があり食事と水分が摂れない状態となっている。な
一日置きの点滴でようやく命をつないでいるものの
相変わらず下血は止まらない。
多臓器不全と言う状態なのだろう…….
まったく体調に改善の兆しが見えない中
いつまで点滴を続けていくのか、自分自身でも迷いが出始めた。
費用の問題ではなく、本当にこの点滴を彼女は望んでいるのか?
と言う疑問である。逆に撲自身の勝手な要望として
彼女に必要以上の苦痛を与えているのではないか?という疑問。
前回の受診時に 、主治医に相談してみた。すると、
主治医は点滴も下血も、それ程の苦痛は感じていないはずだ!と言う。
それよりも点滴を受ける時に抵抗するだけの気力がある以上は
今すぐに幕引きをすることは如何なものか?!と逆に問われた。
彼女は人間の言葉を話さない。必然的に僕には彼女の本心は読めない。
また、人間と違って顔色も見えない。
まるっきり重度認知症の人の終末期の治療と同じなのである。
点滴を止める決断は、そのまま自然の衰弱死を意味し
僕にはその決断が出来なくて迷っている。
先ほどの獣医師の言葉が少しは僕の気持ちを支えてくれた。
しかし、毎日、下血を繰り返す彼女を見守ることは辛い。
何もしてあげられない無力感と絶望感。
普段から認知症の人の最後を、家族さんに限らずあらゆる研修の中で
人々に説いてきた自分であるが、人間ではないペットごときの最終ステージで
これほどまで小心者の自分が存在する。
生きること、死ぬこと。この世に生をもって誕生した時から
必ずいつか死に向き合わなくてはならない。
自分自身も同じくであるが、自分自身の意思を伝えることのできない状況下において
身内や保護責任者が決めていかなければならない決別の時は
あまりにも重く、苦しい決断である。