昨年末に東京ドームで、昔、昔の私たちの年代が青春と言われる頃に憧れていたグループサウンズと言われるミュージシャンのコンサートがあったらしい。そのコンサートの録画がNHK・BSで再放送されていた。その当時、日本の若い女性の一番人気を誇っていたのが、このグループではなかろうか・・・。
私がまだ中学生の時代。社会的に問題となった長髪で、サイケデリックな服装やら、分けの解らない 新しい音楽を持ち込んだのが、グループサウンズであり、コンサートの会場では、あまりの興奮に気絶する女性がたくさんいたのが特徴である。
この放送を聴きながら、昔よく聞いた曲だけに、この歳になっても歌詞が出てくるのが不思議で、聴きながら昔の情景が鮮明に浮かんできた。
しかし、テレビの画面に映し出されるバンドメンバーの 変貌はすさまじく、もしも仮に街中ですれ違ったとしても、あの有名なグループメンバーだとは気付かない程、みんなが歳を隠せない年齢に、自分自身の歳を思い知らされるような恐怖をもって見入ってしまっていた。
音楽に合わせて、横へ飛んだり、足を上げたり・・・しかし、その姿はそのままうちのデイサービスに通ってくる爺さんたちそのもの。
一曲歌い終わると同時に息が上がっている。声の広がりが昔のように、大空に抜けていくような透明感がないためにビブラートで補っている。そのビブラートがやたらに多い。
そして、バンドメンバーも老けたが、時折、テレビカメラが観客方向にふられ、聴衆の顔や姿が映し出されると、そこには、人生の甘いも酸っぱいも知り尽くした年代の婆さん、爺さんがいる。そして、その聴衆は、 メインボーカルの指さし歌う姿に、今となっては絶叫のような叫びではなく、年老いた牛がほえるような声で応えていた。おそらく失神する者はひとりもいなかったであろう・・・。
音楽は時代を表し、その時代を象徴しながら、年月の経過とそもに思い出と結びつき、その人それぞれの人生が描かれる。僕も、このグループサウンズを聴きながら、その当時の自分を、そしていろいろな出来事を思い出していた。
しかし、思い出は思い出として、心の隅の置いておく方が良いのかもしれない。今の年齢となり、その当時に無理やり戻そうにも無理があるし、逆に時運の年齢を寂しく再認識してしまうだけで終わるかもしれない。
今日の屋外は意外と肌寒い一日で、風が冷たい! でも、初老のオッサンは風の子、元気いっぱい自転車乗って鈴鹿市の山の手へ向かって、向かい風おまけに上り坂を必死に走っていく。
今まで走ったことのない道を選んで走っている内に、この写真のようなレース場を見つけた。最初は何気なく通り過ぎたが、こんな田舎に、なんと贅沢なラジコン用レース場が作られている情景を写真に収めたくって引き返した。
写真の順番が狂ってしまったけど、ここに紹介する池は、鈴鹿市のインター近くにある竜が池って名称の貯水池で、僕が聞きかじった程度の説明させてもらうと、昔、この池が良く氾濫をおこして近隣の田畑に被害が出ることが多かったらしい。そこで、お竜さんと言う地元の若い女性が人身御供となって堤防に生き埋めにされたとか。それ以降、池の氾濫は収まり近隣住民は安心して暮らすことができた。という伝説が存在する。
でもこの写真からは、そんな凶暴な池には見えないほど、静かでおとなしい池のように思える。その竜が池でのスナップとバイクを撮影した。
『がんの征圧は間近か!? - 鳥取大、悪性度の高い未分化がんを正常細胞に転換』
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140128-00000069-mycomj-sci
1月28日のネットニュースに掲げられた見出しは衝撃的なニュースであった。鳥取大学医学部が未分化の癌細胞を正常細胞に転換できる方法を発見したというニュースである。医学的知識の乏しい私には、単純に喜ばしいニュースとして、近い将来に癌患者にとって素晴らしい発見であると同時に、人間の死に至る第一要因ともいえる癌が根絶されたら、人はどのようにして死んでいくのか?を思った。
現在の人の死における第一次の原因疾患が癌であり、それ以外は心臓疾患や脳出血などの疾患が言われている。一部報道では成人の二人に一人は癌を患っていると言われ、生命保険会社もこぞって癌治療をめぐる保険を整備している。
その中で細胞の変化を正常細胞に変えることができ、癌となっても死に直結する病でなくなれば喜ばしいどころか、これほど癌患者の精神的支えになる発見は無いのではないか。しかし、こうやって不幸にも癌で死ぬことが経たれてしまう将来を考えると、逆に不安になってしまうのも事実である。
2025年には団塊の世代が軒並み75歳の後期高齢者の域に達し、ただでさえ認知症の増加が懸念される上に、医療分野の並外れた進歩は(介護の進歩が追い付いていない・・・ともいえるが)さらに、人生の幕引きの原因となる切っ掛けが無くなっていくのである。死の宣告と言われた「癌告知」でさえ恐れることはなくなれば、いったい人類は何をもって人生の締めくくりとするのだろう。もちろん、癌で死ぬことの恐怖は十分すぎる程、自分自身は理解しているが、その癌ですら完治するとなると(癌の場合は「完治」とは呼ばない)、人生はどんどん長生きすることとなり、長寿につれ認知症の発症が増加する。と言うわけである。
何にしても人は死を恐れる。かく言う私自身、死に対する恐怖は人一倍強く抱いている。体力も衰え、自分の姿かたちさえも衰えを見る年齢となって、世間に醜態をさらすことを良しとしない自分さえ、死ねる病が無くなることの方が恐ろしい気がする。ヒトは本当に都合よく作られているものだ。死を恐れ、病を憎み、病が無くなることを切望しながらも、老人として夢も希望もなく、ただダラダラと生きることにも文句を言おうとしている。
毎日、毎日、本当に何のために一生懸命動き回っているのか、時として見失ってしまうときがあります。特に何かして結果に結びつくものばかりではなく、全く何の効果も、結果も得ることにならない場面の方が多いくらいです。それでも、私たちは必死になってもがいているのですが、この「面倒くさい・・・」を全て排除したら・・・いったい自分はどんな風になってしまうのだろう??
面倒くさい事をせずに生活する。たとえば朝起きることが面倒くさい。だから寝続ける。しかし、寝続けると背中や腰が痛くなるよねえ。第一、そんないっぱい眠り続ける事も出来ないし・・・
そういえば、朝起きて歯磨きするのも面倒だ!僕の場合は朝ぶろだから、朝からお風呂に入ることも面倒くさい・・・でも、寝起きに歯磨きしないと、口の中が気持ちよくない。大体からやね、歳とってくると加齢臭なるものがあって、朝起きて服を着るにも加齢臭たっぷりに香水たっぷりは好ましくない。匂いが混ざって、それこそ全部洗い流したいくらいの気分となるだろうね。
僕は食べ物に対して貪欲だから、朝食は面倒くさくない。
しかし、仕事に行くのって面倒くさい。仕事なんてくそくらえ!って呟きながらも、デイサービスやグループホームの爺さん婆さんたちの目を気にしながら、仕事に出ずに裏庭の草むしり!なんてできっこないし。
日中は、色々なところからの電話が入るけど、これだって面倒くさいの一言に尽きる。別に話をしたくはないし。相手の都合で電話に呼び出される。これは何とかせにゃ!おまけに、もう一本ある電話も鳴りたい放題で、ジャンジャンかかってくるけど、俺は電話交換手じゃあないし!って大声で叫びたくなる。
しかし、この面倒くさい毎日が無くなってしまうと?きっと寂しいんだろうね!何もすることがない程、わが身をもてあそぶ。ただ、じっと黙って周りを眺めているだけって耐えられないよね!!
すると、やっぱ、面倒くさい≒遣り甲斐、生きがいに結び付くってわけなんだ。まだ、当分は、この僕も毎日、面倒くさい!と叫びながらも、仕事を続けているのだろうね!
幾つになっても若くいたい!
この私にしても、そんなことを思う歳となって、そう考える自分にあきれ返っている始末である。しかし、さりとて、このまま黙って自分を老いに任せる事だけはしたくない。これを悪あがきと言うか、年寄りの冷や水と言うのか・・・ここ数か月、毎夜毎夜、ダンベルを使って密かに筋トレを行っている。一個3Kgのダンベルを上腕筋を鍛えるために、400回の上下運動を行っている。それと、十字の位置に持ち上げ静止を1分間を3セット。背中から頭上に持ち上げを100回。これを毎日繰り返すことで、結構、力こぶはたくましくなった。
一個3Kgを両手にもって計6Kgのダンベルにも慣れが生じてきたので、今日は一気に重量を5Kgにしてみた。何とか150回はこなせたが、腕がだるい。
筋肉を鍛えて何となるわけではなく、それで女子にもてるわけでもない。僕の場合は、綺麗に格好よく洋服を着たい一心である。定期的に読んでいるレオンなる雑誌に登場するモデル男性の胸の厚み、程よい腹のでっぱりが、いたって格好良い!僕もちょい悪イタリアンな親父を気取っている以上、それなりの姿にならないと話にはならない。きっかけは、この単純でいて無謀と言うかバカげた発想がもとで、このダンベル運動を始めたのである。
これから薄着になる季節。イタリアンな親父は、こぞって薄黒く日焼けした肌を惜しげもなく露出し(考えてみれば、いい歳こいたオッサンが気持ち悪い!)、どうだ!格好いいだろう!と言わんばかりな態度。まあ、クレイジーな世代の代名詞かもしれない。
さて、このオッサン気質。この色気が無くなるとボケる?! 僕はその通りだと考えている。ボケてしまうことに恐怖はないと言えばうそになるが、人生長生きになって、他に命を奪う病が無くなりつつある今の医学。長寿になればなるほど、頭の老化は大きな課題となって高齢者に残されていく。いつまでも色気を失わずと願い続けて、結果的に色ボケした認知症の親父になってしまっても困る。だから言い訳にしか聞こえないかもしれないが、僕はあくまでも洋服を格好良く着こなしたい!それだけの望みなんで、その点誤解の無いように!
「新幹線から見る富士山」
悩み多き人生。何かと心配事があるのか、疲れていても眠りが浅い。そして、何度も何度も夜中に目覚めてしまう。
暗闇の中に浮かぶデジタル時計の数字をみて、まだ起きるには早すぎる。そう自分に言い聞かせて目を閉じる。体の向きを替え、枕の膨らみを戻したり、めくれ上がったパジャマの裾を直したり・・・やってはみるものの一度目覚めた頭は、それ以降星空のもとに飛んで行こうとはしない。
暗闇の中で思うことは、今のこの時間に眠れない不安な思いで布団にくるまっているのは自分だけだという思い。
そして明日もしれない不安な感情に震えおののいているのも自分だけだという思い。
この先に夢を描けない、絶望の淵に立たされているのも自分だけだという思い。
深夜に目覚めて、眠らなければ!と言う焦りを感じ、このままでは明日の仕事に差し障りがあるという思い。
こんなにも家の中は静まり返っているのに、眠れない自分がいる。ほかの家族を自分のために巻き沿いにしたくはない思い。
眠れない夜を過ごす人は、皆同じようなことを考え、感じながら、床の中で悶えている。
そんな人たちに告ぐ。
無理して寝なくても良い!と僕は思う。人間の体は上手くできているもので、多少眠らなくても死にはしないように作られている。眠いけど眠れなくても心配はいらない。無理して寝なくていいよ!と自分に教えてあげればいい。そして、窓の外は暗くて町全体が眠っているように思うかもしれないけど、この時間にも働いている人はいるし、同じようにベッドの中でまんじりと朝を迎える人もいる。そして何よりも、自分は一人ではないことを信じる。
僕だって眠れない夜は多い。仕事や将来に対する不安な思いから深夜に目覚めることも多い。そんな時は、自分の好きな音楽を聴く。テレビの音量を絞って画像だけをみる。頭に思い浮かぶ事柄を日記に文字として残す。僕の場合はパソコンをひろげ、パソコンに思いをつづってみる。本を読む。そうやって、眠らなければモードのスイッチを一旦切るようにしている。そして、眠る行為とは真逆の行為をし始めることで、知らず知らずのうちに眠ってしまう。でも、迎える朝に仕事が入っている夜に眠れないときは、そのまま眠りに入らう、起きて過ごす時もある。
無理はしない。なるようにしかならない!そう言い聞かせて自分の心を落ち着かせようとしなければ、時が来れば寝入ってしまうものだ。
眠れないときに僕は睡眠導入剤を使わない。以前、ドクターから安定剤や睡眠導入剤をたんまり処方してもらったが、僕は逆にそのまま朝になっても起きないかもしれない恐怖から、自分から進んで服用しようとは思わない。それが逆に、開き直りと言うか、放っておけばいつしか眠れる!と言う図太さに変わった。
人の精神は緻密ではあるものの、逆に緻密すぎて一旦、どこかで断線してしまうことで回復方向に進み始めるものである。いずれにせよ、苦になるものを見つめすぎず、かといって逃げない。今の現状をしっかりと認識して、そこに多くを求めないこと。今、生きてることが一番重要で幸せなことと思えば、これ以上の何が不安になろう・・・
余りにも極端でしょう!!雪です!
前日の日曜日は晴天で自転車日和と書きましたが、一日過ぎてこの有様。寒いはずです。
犬は喜び、庭駆け回る・・・はずですが、うちのお犬様は外の景色を見て、即、Uターン。そそくさと部屋の奥に逆戻り。なんせ、彼女たちは毛皮こそ身にまとっているものの、素足ですから・・・・。
三月に入って、少しづつではあるけど暖かな気候になりつつあるという時に、突然の雪が舞っています。寒い!寒い!を繰り返す老人たちですが。このケッタイな気候には、ほとほと手を焼きますね。
さて、そんな気候変動の激しい日が続く中、昨日の日曜だけは、自転車びより。颯爽と例によってミシェリンタイヤのマスコットキャラクターよろしく、肥満体型のボディーラインを臆面もなく露出しながら出発。走り出して直ぐに、思いのほか空気の冷たさに驚きUターン。部屋に戻ってもう一枚追加のウインドブレーカーを羽織りました。
真冬用のグローブをつけ鼻から口全体を覆い、空気に触れているのは目の周りだけと言ったいでたち。こんな真っ黒づくめのオッサンが近くによって来たら、不審者に間違われるでしょう!?ってな感じ。写真でも分かるように、自転車用の衣服ってのは、科学的にも優れもので、薄く軽く作られているが意外と保温効果は抜群なものが多いのです。今回の僕の着衣は、自転車用のハイネックのアンダーシャツと競技用長袖ジャージー、ウインドブレーカーの3枚。それぞれの衣服はペラペラの素材で軽い。逆に体に密着していることから寒さを感じないのかもしれません。
最近のツーリングは、堤防を走ることが多いのですが、一般車道を走行するには危険が伴うからです。自家用車の運転手からすれば、ロードバイクってのは邪魔な存在のようです。間違って接触でもすれば車の運転手に罪がかかる。かと言って自転車を追い抜き損ねれば、後続車にも迷惑をかける。そんなリスクを嫌う心理が働くのでしょうね。逆にロードバイク側からすれば、一生懸命自転車をこいでいるのですが、路側帯には砂利や溝も多く、決して最高のコンディションの中を走行できているわけでもない。以前にも説明したように、ロードバイクのような細いチューブのタイヤってのは、縦の筋に弱い。間違って筋に沿ってタイヤが進むと、その勢いで転倒する可能性があるのです。歩道側に転倒する分には、打ち身程度で済ますことができるのですが、これが車道側に転倒すると恐ろしい。後続車両に踏みつけられて死に至る大事になり兼ねないのです。
そのような環境の中、ロードバイクを走らせる者としては、出来る限り自分のペースで、安心して走行できる環境が一番リラックスし、気持ち良い環境なのですが、この日本では、そのような環境ってのが少ないのが事実です。まあ、何れにせよ、出来る限り他人に迷惑をかけないよう、最大公約数を求めて、遠慮しながらヒッソリと走行を楽しむのです。
一般的な老人デイサービスの大半は、認知症の人も含めて障害も雑多な高齢者を集めて運営が行われているはずである。認知症専門のデイサービスも存在するが、利用単価が一般のデイサービスより高い分、介護保険サービスの限度額から利用回数が若干目減りする分、一般的なデイサービスに利用者が流れているようである。実際に認知症デイを運営する事業所に聞けば、やはり小規模にしても定員を確保することが困難なようである。この問題に関しては、ただ単に月に利用できる回数の差だけではなく、認知症デイも通常のデイも、何ら大した差も無いサービスが提供されている点で、利用者サイドからすれば、認知症に特化したデイを選ぶメリットが得られない。と言う課題も存在する。
どちらのサービスを利用しても、結果は、認知症の人に変化や心の安定も期待できないのであれば、これは事業者側の問題として、今後の運営において重大な改革が求められる。さて、そのような現状の中、通常のデイサービスにおける重度の精神的障害を抱える認知症高齢者の共存について考えてみたい。
今、私は悩んでいる。一つは激化するデイサービスの競争であり、新規利用者の獲得が困難な状況があること。第二に、ほぼ無制限に近い状況で乱立する福祉サービスの増加による人材不足の問題である。特にデイサービスに関しては、地域単位の総量規制の枠はない。誰もが人員配置基準等必要な要素を満たせば開始できる。増え続ける要介護者を当て込んで毎年、新たな施設が立ち上がってくる。もちろん乱立する施設の競争自体が、介護保険の創設と同時に市場原理の導入によるサービスの質の向上を目論んでいるわけではあるが、そこに想定したほどの市場原理が働かなかった。逆の想定外の事態が起こっているようである。
結果的に、全国のコンビニ店舗数を上回ると言われるような福祉関係施設が立ち上がってしまい、一部の事業所を除いて、大半の事業所間での客(利用者)の取り合いに結びついているようである。
さて、それ程、サービスの質に格差がないデイサービスの現状を考えると、経営者は何かしらの得意技や特質を求め始める。最近贈られてくるDMで多いのは、デイサービスの稼働率99%を実現させるための研修だとか、人が集まるレクリエーション術などである。如何にして要介護者を飽きささないで、その施設利用に興味を見出してもらうか?そんな研修会の案内や本が大量に出回っているのである。
私が次に悩むところは、そのような競争の激しい現場に、自分自身の感情コントロールもままならぬほど重度の精神的障害に発展した利用者と、他の要介護者の共存方法である。精神的障害のために、断続的に幻覚、妄想がでて声を上げ続ける人。熟練した職員が付きっ切りで話し相手になっていても、時々叫び始める。その理由として薬剤による体調の異変と苦痛、幻視などによる不安感、妄想や錯覚など。部分的には会話がつながる時もあるが、ほぼ9割は言葉ではなく叫びであり、物事の理解は不可能な要介護者がデイサーbすを利用する他者の感情に及ぼす影響を考えるとき、抗精神薬に頼らざるを得ない現状。
施設を運営する以上、その人一人を救うために他の利用者が犠牲になることは避けなければいけない。抗精神薬の使用は、その人の尊厳を奪うだけでなく、その人を薬によって行動や感情までも抑制してしまう、言ってみれば『拘束』に値する。そう考えると、薬に頼るだけではなく、他の対処方法を考えなくてはならに。今までにいろいろな対処法を考えてきた。時には有効な結果を得ることもあったが、原因がそればかりではなく、人間の感情が如何に繊細で緻密かがよく分かるほど、その不穏要因は数多く、まだまだ安定した状態を維持することに成功していない。
デイサービスを利用するすべての人が公平に、そこに提供されるサービスを成就できれば問題はない。しかし、現実は結構厳しい。静かだったデイルームに突如として奇声が発せられ、喚き散らされれば、周りの利用者には迷惑以外の何物でもない。また、不安定な感情を安定させるよう働きかける職員としても、とても大きなストレスを負うこととなる。
一人の人を救いたい。どんな難題でも解決できると伝えてきた自分としては、何としても精神的な安定を維持してあげたい。しかし、私の思いとは裏腹に、その人を見る他者の目に憎しみの色が増加し始めている事を思うと、今後の自分の考え方に迷いが生じて仕方がない。
来月には、太陽の家のホームページを新しく作り変えます。新たなシステムとしては、施設長の部屋を更にバージョンアップして、双方向からのアクセスを認めて、いろいろな意見を書き込めるようにしようと思っています。今の一方向の言いっぱなしホームページから、このHPを訪れてくれる誰しもが、色々な意見を書き込めるようなシステムにしたいと考えています。
それと、もう一つの特徴として、認知症に特化した情報共有ページを創設しようと考えています。誰でも「認知症」について気兼ねなく相談やアドバイスができるような井戸端会議のような共有スペースを設けようと思っています。
ただし、これもホームページ制作会社の見積もりによっては実現できないかもしれませんが・・・。
まあ、こうご期待!!