今月の20日は、うちのデイサービスの職員を対象に「認知症の人に対する接遇」をテーマに研修を行う予定である。太陽の家デイサービスセンターでは、今後月一回のカンファレンスと同様、職員研修を復活させようという機運が高まり、今回のテーマは認知症の人に対する接遇を求めてきた。
職員側からすれば、認知症の人に対し、どのように接し、どのように理解していけば良いか、事例を挙げて個々のケースに回答を求めているのだろうが、認知症の人ってのは、それぞれに状態が全部違う。その人の認知症の原因疾患によっても、その人の人格、生活歴、性格や環境によっても、極端な話、その時の体調によっても出現する課題ってのはバラバラである。
そんな種々雑多なケースを網羅しようものなら、それこそ一日中、色々なケースを取り上げて説明を加えていかなければいけない。それより、職員の持つスキルや知識に応じて、認知症の人について考え方の基本を学んでもらった方が、より研修の効果が期待できる。
昨日の日曜日、僕は午後の一時を事務所で気になる仕事を片付けるためデスクに着いた。日曜日、だれも居ない事務所のデスクに着き、パソコンのスイッチを入れた途端にGHの入居者の一人と遭遇した。彼女はピンク電話を使って外部に電話しようと、自分のオンバ(手押し歩行器みたいなもの)に腰掛けて、一人ぶつくさ呟きながら電話の受話器を手に悪戦苦闘していた。どうも電話がつながらないようである。(電話代を払ってないからではない! 電話の仕方に問題があるようだ。
彼女は、僕の姿を見かけると即、電話がかからないと訴え、そこから普段から鬱積している愚痴が止めどもなく始まってしまった。彼女にとっては、とても悔しい昔の話である。大半は、兄弟、親戚、交友関係の人たちに対する不満である。今回は実の姉の悪口である。その話の中では、彼女はいつも善人であり、悪者はすべてにおいて他者である。「こうすればよかったのに・・・」から始まり、「あかんわな!」で続き、「いつも父親が言っていたけど・・・」とつながっていく。
最近の太陽の家のグループホームは、入居者が世代交代し入居者が若返った。そして、その大半は日常の生活は自立している人ばかりである。要するに身体介護が減少し、精神的な寄り添いを強く求められる自立組が増えてきたのである。この意味は、同じ業界で仕事する人には理解してもらいやすいと思う。要するに、介護職員の疲労の原因が肉体的な労働から、精神的ストレスによる疲労に変わってきたということである。
職員だって人間である。他人の感じる重い部分は、救おうにも救いにくい同時に身体介護よりも重い気分となるのが、これら精神的に鬱積したものへの対応である。同情しても解決には結びつかない。その場しのぎであり、それ以降に何度も、何度も同じ訴えを聞かなければならない。それで、僕はどのように対応したかである。
僕は、認知症の人を小手先で騙してあふれ出る鬱憤をせき止めることはしない。本人がある程度言いたい分は、すべて言い放ってもらう。そして、否定ではなく、自分が考える道義的な視点を含めて、訴えている内容に答えていく。
つまり、この方の場合、大好きで心配で仕方ない姉妹間の行き違いが大半を占めてる苦情が多い。姉妹に対する愛情は、他の誰よりも強い持ち主である。だから、僕は、その点を強く強調して、相手を悪く言うことをやめてもらうようお願いする。この苛々さえなくなれば、いたって普通の善良な婆さんなのに・・・もったいない!とお話しする。言えばいうほど、自分の想いの中に逆作用が働き、文句を言っている自分がみじめな気持ちになるでしょう!とお話しする。そして、それよりも、もっと楽しいことを考えてみませんかと話題を提供する。
もちろん、毎回成功するわけではないが、少なくてもその人の抱える頭痛くなる悲しさは気分転換する方向に向けることができる。僕はこれを「受容」と考えている。受容とは相手の言い分を何が何でも受け入れるんではなく、鬱憤に押しつぶされそうな婆さんであり、なんとか憂さを晴らして身軽になりたいと願っている人として取り入れる。これが受容である。その人のすべてを取り込んでしまうと、そこに人間同士の信頼関係は築かれない。
受容の姿勢は言ってみれば、その人を真剣に理解しようとしていると相手に分かってもらえる、信頼関係構築のための近道である。なんでもいうことを黙って聞いてくれる姿勢ってのは、一見優しい気持ちのように思われがちだが、その実、そうではない。ただ単にクドクドと話しこまれまいとする自己防衛策であることが相手には丸わかりとなってしまう。そんな関係に信頼ってのは生まれない。
相手の言葉を真剣に受けとめ、自分なりの心を添える。例え考え方は完全に違っていたとしても、相手に寄り添う気持ちさえあれば、そこに信頼関係は作られる。僕は、認知症ケアの中で、この点が若い職員さんたちは苦手と思っているように思う。
当然のこと。なんでも転ぶと、体のあちこちの打ち身が痛む。昨日、自転車で転んで打った箇所が痛む。おまけに頭をとっさに保護しようと、無意識に首と肩に力が入ったせいか、今日は右首筋が痛む。
なんでこけるか?それは、僕が自転車に不慣れだということ!自転車に初めて乗ったのは、幼稚園の頃だったと思うが、後輪の両脇に補助輪をつけて練習し、慣れるにつれ片方だけの補助輪に、最終的には補助輪なしで走り始めた。
今、乗ってる自転車は、そんな頃の自転車ではなく、極極細いタイヤを履いて、フレーム自体もフルカーボン製で軽い。ちょっとした凸凹にも、反応が厳しい。自分では大丈夫と思っていても、色んな場面で想像とは違った反応がある。よく言う「想定外」って奴だ!
高齢者の介護を行なっていると、この想定外ってのが結構多い。予想できない事象に、思わぬ事故や事件が起こることがある。この予想できない事ってのは、自分が経験したことない事が大きな要因であると思う。特に若い職員さんには危険が見えてこない。僕が、段差を乗り越えられると思いつつ転倒してしまった。その原因と同じである。
リスクマネージメントとは、根本に自分自身の想像力ってのが影響を与える。先が見える!って程大げさなものではないが、自分が経験してきた痛い事、苦しかった事、辛かった事などの肉体的、精神的苦痛を経験してきた数の問題でもある。だからと言って、僕は若い職員さんたちに、今から苦痛を体験してほしいとは思わない。しかし、いろいろな場面や状況を見て、そこから発展していきそうな未来を想像する力を養ってほしい。と思っている。
このまま行くと危険かも・・・?って予想が、事故を未然に防ぐ秘訣かもしれない。
僕も、今回の転倒でまた一つ学んだ。これ以上のダメージを受けることなく安全に自転車を楽しむには、どうすればいいか?それを考え、予想しながら、今日も自転車に乗った。自転車をこぎながら、色々なことを考えている。今は、この9月25日から始まる、認知症フォーラムのことを考えながら、自転車をこいでいる。もちろん、そうしながら、交差点のたびに十分すぎる程の注意を払っている。あとどれ位、自転車を楽しむことが可能か分からないけど、出来る限り年をとっても続けていきたい。と今は思っている。(飽き性だからな・・・少し心配)
自転車に乗り始めて数か月、初めてこけた。それも大衆の面前で、ド派手に!
今日は、前回のツーリングに味をしめて、椿神社方面から四日市の小山田、笹川、日永へとルートを決めて走っていた。四日市は三重県では大きい方の都市。遠い昔から三重県の文化の発祥の地でもあり、大きなデパートもあって、人も多い。しかし、昔からの街であるだけに、幹線道路自体が古い。自転車に乗るようになって歩道の整備など、車を運転している視点からは見えてこない細かな点が、よく見えるようになった。
四日市の何が古いかと言えば、歩道と車道のつなぎ目の段差が大きいのである。以前に一度写真入りで紹介させてもらったが、鈴鹿市の道路事情も似たところがあり、車のタイヤには影響ないレベルの段差も、自転車や車いす利用者には、とてつもなく厳しい、衝撃の大きい段差がいたるところに存在する。そんな段差が、四日市の場合、さらに大きな段差が存在する。
今日の行程の中で、笹川通りを下って国道までたどり着く途中が一番、自転車には厳しく、危険な道路であった。歩道の幅は小さく、歩行者も多く、仕方なく車道を走ることとなるのだが。問題は交差点近辺の整備が行き届いてない。車の量も多い関係から、右折車線を設けているが、これの影響で車線幅が極端に狭くなるのが交差点近辺である。当然、道行く車は、ぎりぎりの車線の中で停車するから、路肩に余分なスペースは無い。
車道を走行する自転車は、交差点で停車する車列のわきを抜けようにも狭すぎて危険。だから、僕は歩道へ入ろうとハンドルを切ったわけだが、段差がきつすぎて、このレーサータイプの細いタイヤでは、その段差を超えることもできなく、後輪が段差に沿って滑った。だから、僕はこけた。
僕の自転車のペダルはビンディングで固定されていて、とっさに足をついて転倒を防ぐことができない。自転車に両足が付いたまま横滑りし転倒!運良く歩道側に倒れたから大きな事故には至らなかったが、僕は左ひじと左太ももを擦りむいた。自転車のチェーンは外れ、周りの人たちは唖然とした顔でみてるし・・・・まあ、大事の自転車は無事だったから良かったから、まずはOK!
今まで鈴鹿を起点に東西南北、いろいろな方面へ自転車を走らせたが、一番整備されて走りやすい道は津市内が、他の街より優れているかもしれない・・・まあ、文句を言えば切りがないけど、ロードサイクルやランニング愛好家のための道路整備を推進するのも、ある意味の観光誘致にもなるのね!特に産業も観光名所もないような地方都市に、訪問客を増やすにはイベントを作るだけではなく、こう云った特殊な部分で環境を整えていくことで、全国的に愛好者の集まることが期待できるわけで。これらを含めて、僕は「文化」だと思うのですが・・・
最近、忙しくって自分自身に余裕がない。久しぶりのアップアップ状態。まさしく酸欠状態の金魚のようなものである。・・・と言いつつも、週末にはかっちりとバイク走行を行っている。それも、この不安定な気象条件をものともせず、雨に打たれることなく、快調に自転車をこいでいる。
写真は先週末の土曜日の画像ではあるが、少しご紹介したい。
このSLは、津市の快楽公園に展示されているものの画像だ。ペンキを何重にも重ね塗りされ細かな部分は肌荒れ(?)がおきている。この機関車の前で、愛車の記念撮影。
そして、また再びお城公園での記念撮影。自転車で遊び始めると、今まで見えなかった、行くことのなかった場所を再発見できる。この津のお城公園も、今、結構お気に入りの場所で、いろいろな面白い興味を引くものが多い。ここの池には、牛蛙がいる。がーがーと大きな声で鳴いているのが面白い。
この日は津方面へ50Km、次の日の日曜日も早朝から椿の方へ走行。椿神社を目指して、延々と上り坂行程をひた走り、帰りはその逆に下り坂行程。たっぷりのエネルギー(僕の下っ腹近辺に蓄積してるもの)を活用しながら登りは何とか苦しくても完走。下りは、何の力も必要なくただ転がり下りるだけ。って楽チンな走行を50Km程度。山方面へのツーリングは行きは苦しいが、帰りは楽。結構、楽ちんの方が勝っているかも・・・。
この両日とも、一部地域では土砂降りの雨が降っていたようだが、僕はラッキーにも雨に降られることなく帰宅することができた。しかし、タイヤが細い分、雨で路面がぬれると滑る。やはりレーサータイプの自転車は雨には弱いようだ。
余裕がないと言いつつも、好きなことはしっかりとやっている。随分と勝手な解釈である。
今日は昼の1時半から県庁を訪れる予定が入っていた。県庁に1時半と言うことは、少なくても12時50分には、施設を出発しなければ時間前に現地到着は難しい。僕は、こう言うのも何だけど、時間の読みが得意である。道路事情や距離を考え到着時間をぴったりと合わせることができる。これは、今まで自慢の一つであった。しかし、今日はちょっと油断してしまったようである。
昼ご飯を食べて、いつものように歯磨きして、アニマルセラピー犬をオシッコのために屋外に連れ出して・・・と、いつも通りの行動パターン。僕の頭の中から、県庁訪問の4文字が完全に抜け落ちてしまっていた。グループの管理者から指摘されるまで、全くの不通(普通)状態。
急いで車に飛び乗って施設を出たのが、すでに1時を10分ほど過ぎていた。こんな時は、焦る気持ちをコントロールすることばかりに気が集中する。焦るがあまり事故や交通違反を引き起こしてしまっては元も子もない。できる限り冷静に、それでいて急いで目的地に向かうこととなる。
Rapid(ラピッド)って英語があるが、どれだけ急いでみたって車の走る時間に大差はない。空を飛んで行かない限り、あるいはドラえもんの「どこでもドア」でもない限り、この遅れを取り戻すことは不可能である。
案の定、県庁到着は約束の1時半を15分遅れて到着。我ながら恥ずかしい限りである。誰のせいでもない。自分が約束自体を忘れていたことが一番の責任である。こんな時ほど、どこでもドアをほしい!と願う瞬間はない。