また新たな政党の発足。それも一晩で結成され、その翌日にはつるむ同志が集まり何だか分けの解らない状況が今の日本で起こっている。長い間の一党支配から民主党が政権を奪い取り、結局破局。期待された未来は泡と化し、古い政治に戻るのか?新たな息吹を育てていくのか?と有権者を試すような開き直り政党。
僕の仕事が仕事だけに、あまり政治のことは言いたくはないが、それでも今の政治家には多少なりとも幻滅を感じてしまい、日本よいう国の将来を危ぶんでしまうのである。大阪発祥の政党にしろ、東京から出てきた政治家も含めて、どうも日本の長になることだけが目的としか感じられない政治家ばかり。または、前回の政権奪取の波に乗って政治家になった者たちの生き残りをかけて、政党を乗り換えながら代議士の椅子を守ろうとする。国民の生活を云々というより、選挙の票集めに必死で、いかにすれば国民にソッポを向かれないか?ばかりを気にする政治家しか目につかない現状。国会議員も安くなった、または重みが無くなったとしか言いようが無い。
政治って、こんなにも軽く政界を渡り歩くことができるのだろうか? 小学校の頃の仲良しグループみたいなもので、昨日まで仲良しグループの仲間だった子が、一夜明けて次の日には敵対していた別のグループに移ってしまう。強烈な意志や並外れた意識の高さを持つリーダーが居ない今、すべての政治家はドングリの背比べ的であり、それだけに日本をみる諸外国の目もB級の演劇を見てるような冷めた状況であるのも仕方ない。
大同団結と言うなら、だれが政権を握ろうとも、日本のためとなる事項を徹底的に話し合って、お互いに協力し合いながらシステムの再構築を目指すべきだろう! 原発ゼロや脱原発も大同の元ならなんだってできるはず。お互いの主張ばかりを相手の主張にかぶせて、声張り上げて言い争うだけでは何も変わらない。
それともう一つ、昔の国会議員に比べ、今のえらいさん達の字の下手くそなこと!頭脳明晰であることは確かだが、字が無茶苦茶で、決して美しい字がかけるわけでもない。幼稚な字しか書けないから人格がないわけではない、しかし国会議員となる人は、ある程度の達筆であってほしいと願うのは古臭いおやじ感情かしら?
柔道>支援組織発足へ 五輪「金」に2000万円、独自の報奨金制度
毎日新聞の記事である。日本柔道の前回オリンピックにおける金メダルの獲得につながらなかった要因を踏まえて、柔道界単独の財団を組織し、今後の柔道金メダリストには2000万円の報奨金をだすらしい。金メダルを獲得して2000万円とは、寂しい金額のように思えるが、少なくとも報奨金が出されるだけ改善されたのではないか?!と思える。
しかし、オリンピック競技自体国を背負って戦う場であり、観戦する側も選手よりも「国」を応援する場面が多いのがオリンピックであろう。オリンピックの時期ともなると、それまで日本国を馬鹿にしていた国民ですら、日本人選手を応援する。それくらい全国の一般市民の関心をひとえに集めるほど、大きな国対抗イベントがオリンピックである。猫も杓子も一挙に国粋主義に変貌し、テレビをつければオリンピック中継や録画番組のオンパレード。それこそ金メダルを獲得すれば、帰国後のモーニングショーでは、各局からの出演オファーが入り、分刻みでテレビ局での収録が始まる。
しかし、世間の熱は冷めやすく、数週間もすればテレビへの出演することもなくなり、人々の関心からは遠のいてしまう。何のために(自分のためではあるが・・・)厳しい練習を繰り返し、大いなる国民の期待を背負って、多くのプレッシャーに打ち勝ち、勝利へと突き進むことは並の人間ではできない。僕なんか、自分自身の健康維持のために太ってはいけないことと理解していながら、間食や大食いを辞めることができない。自分のためでもストイックになりきれない人間が多い中、彼らアスリートは、自分自身に厳しく、その瞬間のために努力を積み重ねているのだ。
そんな彼らの努力に対し、これは一財団の話ではなく、国家プロジェクトとして国が責任もって選手の育成から、その結果までを面倒見れるシステムの構築が求められるところではないか? 社会保障の無い国に国民は安心して生活できない。そんな国で一生懸命働く意欲すらわかない。それと同様、功績を認められる国であることが、若者に大きな夢を与えることができ、如いて言えば生活保護に依存する働ける世代の生活保護受給を減らすことができるのではないか?
民主党政権となって3年半、社会がどのように変わったかと項目別に指数で先日の中日新聞が報道していた。改善された点、悪化した点などさまざまであった。この国に生まれ育って、ここにしか暮らすことができない国民に、将来的な夢を抱かせてくれる政治がほしい。衆議院選挙をにらみながら、いろいろな政党、派閥が出来上がり、それぞれに好き勝手なことを言っている。すべてそれらしく聞こえる点では、さすがに手慣れた政治家の皆さん。もっともらしく発言するし、納得させられる。しかし、毎日毎日の報道・・・・聞いてても記憶に残らないのだけど・・・・どうなん???
先日のブログでも少し書いたと思うが、最近の爺さん婆さんは孫を叱ることができない。叱るってのは、人前で孫の人格を無視して、叱りつけるという意味ではない。先日、近場のスーパーで買い物中の出来事を紹介しておこう。スーパーという場所には、幼子を連れて買い物に来る母親のために、子供が喜ぶようなショッピングカートを用意しているが、このスーパーも同様、子供を乗せて買い物するに都合よくあつらえられたモノがあって、その子もベビーカート様モノに座り、爺さん婆さんに押されてお買い物を楽しんでいたはずである。が・・・何を血迷ったのか、突然カートの中で暴れだすわ、奇声を上げるは、それはそれは流石の僕も耳を覆いたくなるほどの金切り声で泣き叫び始めたのです。普通、こんな子供の興奮状態に家族はどのように対応するんだろう・・・
まあ、先日の女流漫画家の飛行機の中で泣き叫ぶ乳児に対し怒りのブログが物議を読んでいると言う話もあるくらいだから、乳児、幼児の「ぐずり」ってのは、ある意味自然の摂理みたいなもので、子供は泣き叫ぶものと思えばそれだけの問題である。しかし、僕が問題だと感じるのは、そんなときの爺さん婆さんの対応の仕方である。
またある時は、孫を連れて買い物に来ている爺さん婆さんも同様、奇声をあげて走り回る子供を尻目に、子供を規制するでもなく、しつけるわけでもなく、自由奔放に野放し状態で見てるだけであった。電車にのっても同様の話は多くある。子供が靴を履いたまま、座席に立ち上がり窓から外を眺める、座面のクッションで飛び跳ねる(それも靴履いたまま)等の我々の常識は、すでに過去の遺物となってきたように、何も注意すら与えようとしない。
爺さん婆さんは若嫁に気を遣い、孫の心情を傷つけまいと苦労する。どうせ歳とりゃ捨てられる身にも関わらず次世代にへつらう爺さん婆さん。日本人の老後が長くなるにつれ、歳を取るにつれ世の中にへつらい、人生を悟ったように大人しく自分を殺して生きていかなければいけない年寄たち。
この世の中、本当におかしい! 弱者救済どころか、一昔前の封建制度のもとで権力者に搾取されて生きてきた時代と何ら変わらないではないか!!少子高齢社会となって、大人よりも権力を握った子供たち! 恐ろしい世の中になりました。
いじめ問題を精査していくと、全国で144000件のいじめ予知が明るみに出たという報道である。テレビのニュースでその実態を知って愕然としたが、同時にその検証のために実施されたアンケートの設問をみて更に驚いてしまった。アンケートの設問には、周りの者から無視されたことがある。意味なく肩をつつかれた、叩かれたことがある。などの内容も含まれており、子供社会で起こりえる悪ふざけの類も含めて「いじめ」の予兆として、取り扱われることに愕然としてしまうのは僕だけだろうか??
確かに「いじめ」は、当事者にとって非常に深刻な問題であり、況してや自殺にまで発展してしまいかねないケースは考えなければいけない問題であると思う。しかし、すべてに際し子供たちの交わり方に深く大人や司法が介入していくことは、子供の自主性はもちろん成長指定行く中の経験から学ぶ場面を取り上げていくことにならないのだろうか?僕は以前から、いじめに対してはいじめに合う当事者の受け止め方にも課題はあると考えている。いじめを受ける精神的なストレスを如何に取り入れ、如何に対処していくかを学ぶ必要性もあると思っている。人間社会に生きる事って、とても厳しい。子供時代に全ての危害から保護し、大人が先に先にと擁護するなかで育った子供が、成人して以降に一人で力強く生きていけるのかが疑問である。
いじめを行うも、受けるも同様、人間が生きていくうえで通り過ぎなければいけない儀式であるかもしれない。たくましく生き残るのは、どうすれば良いのか?それを学ぶことが優先され、子供たちを必要以上に守るだけの法則は不要ではないかと考えている。傷ついた我が子をダシに学校や社会を相手に苦情を申し立てるクレイマーの増加する中、社会全体が保身に回ってしまうことは、さらなる人間関係の希薄につながり、相互理解や協力のもとで生活を継続することは出来なくなってしまう。
高齢者介護の実践現場では、年老いて不要となった者に対する社会は、昔に比べると扶養の意識も変わり、地域密着と叫ばれながらも地域社会とのかかわりは更に疎遠となり、昔のような社会資源を利用して生活を維持することが困難な時代。僕は、今政府の目標とする社会保障の充実には、日本人の社会に対する考え方の根本を改めることも必要であると思っている。社会を混乱させ、自分勝手な理論がまかり通る間違った権利意識を何とかせにゃならんのではないか?!
京都大霊長類研究所の松沢哲郎教授らのグループは19日、「類人猿にも中年の危機」とする論文を米国科学アカデミー紀要に発表した。日本を始めとする各国のチンパンジーなどの類人猿を調べた結果、「中年」にあたる年齢で最も幸福度が下がっているとするデータが得られたといい、グループは「中年で幸福度が下がるのはヒト科共通なのではないか」としている。(産経新聞)
この記事は今日の産経新聞に掲載されたニュースということでネットで紹介されている。チンパンジーも中年ともなると薄幸になるという説である。人間同様ということは、今まで意識したことはないが、中年のおやじってのは、幸せからどんどんと遠のいていく存在なんだ!と改めて認識してしまった。まあ、僕の場合、中年と言うよりは初老に近くなってきているので、薄幸もさらに薄く、細くなりつつあるんだろう・・・このような言葉を聞くと、本当に心さびしい、わびしい気持ちになるもんだ!
さてさて、中年となると何が薄幸か?自分自身に照らして解説してみようと思う。まず、肉体がたれる。下っ腹に脂肪がまき、ぽっちゃりとしたお腹が目立つようになる。これがなかなか改善されない。燃焼効率が低下するからか知らないが、ちょっとやそっとの運動では脂肪が念そうされない。だから下半身デブとなりやすい。下半身同様、顔の皮膚にもたるみが出る。この現象を如実に物語るのが毎朝行う髭剃りのときに、つくづく実感として感じる。昔は髭剃りのレザーも数回往復するだけで、とても滑らかな剃り具合が感じられた。それが、年齢と共に何度も何度も剃っても滑らか肌が戻ってこないのである。
加齢臭の問題。夏場は特に厳しい!自分でも綺麗に念を入れて洗っているつもりでも時間の経過とともに何処からともなくにおい始める。あゝ、それと風呂の湯船に浸かって感じる皮膚の水キレの悪さ・・・・とかなんとか、全体的に肌の衰えは信じがたいほど如実に加齢を物語る。
見た目の衰えは、そのまま社会的にも見劣りがする。若いピチピチボーイと比較すると、それはそれは、大そうな見劣り度合。若い女性だけでなく、すべての女性には見向きもされなくなる。これは、はっきり言って寂しい。寂しいから自分から中に入っていこうと努力する。(この図々しさも加齢のなせる業とは自分は気づいていない。そこが問題だ!)努力すれども、総スカンを食らう。そりゃ、誰だって若い子の方がいいに決まってる。
会社に行けば、中年特有の豊富な経験と慣れが仕事の行方を阻む。豊富な経験は貴重である。しかし、若者からすれば、ちょっとくらいの経験値で大きな面するなと敬遠され、慣れは意外なところに落とし穴が沢山あいているのである。時には地雷として、ついつい自分で踏んでしまって大失敗と言う場面も存在する。中年となってトップには届かない中間管理職。上からは押さえつけられ、下からは煽られ・・・やれやれ、俺はいったいどうすれば・・・・
恋愛からも遠ざかり、人生も半分以上を通り越し折り返し点を通過した者、残っているのはシガナイ老後の生活??これでは、チンパンジーにも負けてしまう人間の中年。薄幸の論証にまけず、これから一花、二花と言わず、若者に負けないカッコいいおっさんを目指そうではないか! しかし、ねえ・・・・つらいね!
昨日、名古屋地裁において小児虐待の判決公判があった。この事件は、今年の8月初旬の夜、同居する女性の一歳になる子供の頭部を床に打ち付け、四肢まひなどの後遺症を与えた虐待で訴えられていた裁判である。原因は育児経験のない男が、犯行の二週間前に知り合いになった女性と同居することとなり、男児の夜泣きでストレスをためた結果、男児の顔を平手や拳で殴ったうえ、木製の床に投げ下して頭部を打ち付け、四肢麻痺や視野狭窄、知的障害の後遺症を伴うくも膜下血腫や頭蓋骨骨折などのけがを負わせたのである。
高齢者に与える虐待の大半は家族介護の中で行われる。統計では、要介護者となった母親に対し、その息子が虐待行為を行うことが一番多いという報告まで出ているが、今回の幼児虐待も同じで家庭内で起こった悲惨な状況と言える。虐待と言っても幅広く、今回のような身体に危害を加える虐待だけではなく、心理的、精神的苦痛の伴う場面も虐待であり、経済的苦痛を与えるものも虐待と言われる。もちろん、言葉によって相手を傷つけることは、身体的に危害を加えることと同様罪は重い。
今回の幼児に与えられた虐待は、のちの余生に大きな障害を残す残酷な虐待行為であり、これらの愚かな行為は絶対に排除されるべき行為である。視野狭窄や四肢麻痺を抱えて成長指定行く中で、どれほどの苦痛と不便を感じながら生きていかなければいけないかと考えると、その子にとっての苦痛は想像以上であるはずだ。障害を抱える本人だけでなく、その家族も同様、障害を抱える子供を不憫に思い将来にわたって不安な気持ちを抱えながら生活していかなければならない。
若いお母さんが、人恋しさのあまり出会って間もない、相手の事を十分に理解しないなかで軽はずみに招き入れた安易な気持ちのせいで、一生の禍根を持ち続けなければいけない事態。これは、悔やんでも悔やみきれない厳しい現実である。
そして、この判決公判では、加害者の男に、懲役2年8月の実刑判決が下った。虐待を受けた子供は、これから先何年の間、複数の障害を抱えながら生きていくのか考えると、加害者の三年弱で釈放される司法判断をどのように感じるのか?知識不足から、その行為の招く結果を図り知ることのできなかった加害者は、3年もたてば記憶から遠く忘れ去られ、また人生をやり直すことが可能である。その時によき理解者に巡り会えば、もう一度、結婚して家庭を持つことも可能である。
この手の事件には、やりきれない憤りが伴う。加害者の男性は論外であるが、こんな男を受け入れた母親にも大きな過失責任に近い責任があると考えられる。子供自身、親を選ぶことはできない。全ての子供が平和と幸福を約束されて生まれてくるわけではないが、しかし、少なからず生まれてくる子供のスタートは平等であるはずだ。そして親はそんな子供の将来を守っていく大きな大きな義務をもつこととなる、その意識の欠如は学校では教えてくれない。親から子へ受け継がれていくものである。
人間の子供が人間として成長していくには、親の保護なくして成し得ないのである。世の中の若いお母さんたち、子供の大切さ、その子供の人生を決定づける因子はお母さんたちも握っているのだという事を忘れないよう子育てに奮闘してもらいたいものだ。
最近のテレビ番組で、B級ニュースばかりを特集するコーナーがある。B級とは、グルメでもお馴染みの一流ではないけど、それなりに味わえる食品を指してB級グルメと言うらしいが、これと同様、ニュースネタとして特筆するモノはないが、それなりに話のネタ程度のニュースソースである場合、B級ニュースと言う。さて、そんなB級なニュースとして、今日のネットニュースでは、コンビニでパンを盗んで、店の前で食べていた男が通報されて捕まったというネタである。一か月ほど無職で腹が減っていたので、食べる事しか頭に浮かばなかったらしい。かわいそうと言えば可愛そうな男だが、無銭飲食にちかい行為に、哀れとしか言いようがないケースである。
福祉施設におけるB級ネタ・・・そんなのあるかいな???と考えてみると、それがそれが、意外とザックザックと唸るほどB級ニュースの宝庫。ちょこっとだけ、書いてみよう。
うちの施設の端っこにごみ集積所として、駐車場の隅にプレハブ小屋を置いている。その小屋に誰かが車をぶつけたらしい。と言うのも、今日、うちの職員がゴミを捨てに行って際に慌てて帰ってくるなり、僕に報告したことで事件は発覚した。彼女の説明ではブロックからごみ置き場が落ちそうです!と言うので、少し意味が分からずにさっそく現場確認を行った。すると、彼女の言うとおり、プレハブ小屋自体が土台のブロック片から大きく後ろにずれている。右端の柱の下は、ほんの少しだけブロック片に乗っているだけの状態であった。きっと、誰かが、車を駐車させる際に、後方確認せずに車の後部で小屋を押したのではないかと想像される。じんわりと力をかければ、ブロック片の上に設置してあるだけのプレハブ小屋だから、車にはダメージなく、小屋が移動する。そんな現象があったのではないかと思われる。
福祉施設では、こんなアホみたいな事件が結構頻繁に起こるのである。その理由は?あはははは・・・・わかりません!
でも、明日の昼間にでも、小屋を直さないと・・・・こっちの方が大変じゃ!
うちの近所のスーパーをうろついている時(不審人物ではないぞ!)陳列棚に面白いものを見つけた。それは、インスタントのピラフである。海外の食品で、食品の説明書きはすべて英語で書かれている。もちろん、日本語の簡単な説明書きも添えられており、調理方法等も分かりやすく表記されている。
それで、肝心な話、どのようなピラフかと言えば、グリーンカレー風味のピラフである。熱湯を注いで7分。それで食べられる。グリーンカレーと言えばタイ料理である。ココナッツミルクのほんのりとした甘味が、独特の香辛料の辛さを引き立たせる絶妙の旨さが、僕は大好きな一品ではあるが人によっては苦手という人も多い。まあ、騙されたと思って食してみれば、このピラフの面白さが伝わってくる。
まず、規定量のお湯を注いで待つこと7分。東南アジア特有の長いお米にグリーンカレーの風味がしみ込んでいる。おまけに米はパサパサしてお湯を入れたことが信じられないほど、ドライな感じに仕上がっている。付属のスプーンで食べるのだが、これが結構いけてる。辛すぎず臭すぎず・・・パサパサごはんさえ気にならなければ、大概の人は旨いと思ってもらえる品である。
ついでにPRしとけば、このグリーンカレー版とレッドカレー版の二種類が販売されていた。興味ある方は、一度お試しください。
最近のこと。うちの職員の中で妙に災い多い子がいる。その子が災いではなく、その子の周辺で災いとなる事象が多く、本人も非常に苦にしてる最近であった。最初は、そんなの気にするな!と一笑に付していたわけだが、どうも一向に災い風の向きが変わってくれないようで、本人も結構、真剣に悩み始めたようであった。
人間、不運ってのは重なる様で、子供が熱を出した!とか、怪我した!とかのハプニングが重なり、おまけに自分も何か知らないけど災いが降り注いだ!とかで、毎日浮かぬ顔をしてデスクに座っている。そんな彼女を眺めつつ、どう励ませばいいのか、本当に迷ってしまうのである。僕は、不幸のどん底に落ちてしまった時には、逆に思いっきり暗い音楽を聴いて、不幸の淵から這い上がろうとする。まあ、音楽程度で変わる気分であるから、本来の不幸のどん底ってのは経験してないのかもしれない。しかし、これは、結構なことに失恋の痛手(今の歳で・・・??・・・・だから!昔の話ではあるが・・・)を被った時には、本当に暗い音楽を聴いて、いっぱいの涙を流し、きれいさっぱりと忘れることとしていた。(余談ではあるが、映画音楽の中でも、シンドラーのリストのテーマ曲やディアハンターの主題歌などが最適である。最近では、韓国の時代劇「王女の男」の主題曲もなかなか、こんな時の音楽である)
まあ、余談が長くなったが、そんな訳で、今日の午前中に、地元の椿神社へ連れて行った。もちろん、お祓いを透けるためである。まあ、もう一人、職員でお祓いを受けなくてはいけない者も一緒に二人が受付をして、お祓いを受けていたようである。僕は喪に服している者として、神社への立ち入りは許されない身なので、社の外で待っていたが、その時に社の中で、どのようなお祓いが行われているのかは、十分に経験積み。神主さんが祝詞をあげて、お祓いしてくれる時、神前にうなだれて神妙な気分の時に味わう、背筋がシャンと伸びるような、一瞬電気が走るような、そんな気分でお祓いを受けているのだろう・・・と想像しながら、駐車場の紅葉狩りを楽しんでいたのである。
昔、うちの女房の父親が、度重なる接触事故を苦にして、愛車のお祓いをしてもらいに来た時の事。同じように神殿の前にうなだれながらお祓いを受けて帰宅する途中、乗っていった愛車を溝に落としてしまった!と怒っていたことを思い出す。人間って、気持ちが及ぼす影響って、本当に大きいものがある。そういえば、今朝の僕の運勢をテレビで偶然みたのだが、あるテレビ局では、てんびん座は7番目に運勢が良く、もう一局の方では三番目の良運だった! 実際問題、この運勢の違いって?どうなのよ??って思いませんか? 12星座あって7番目ってことは、それほど良くはない。しかし、もう一方では、三番目! やはり、運勢ひとつとっても、気持ちの問題ってのは大きい。今日の僕の運勢、とくに悪くはなかったし、結果的に一日を振り返ってみれば、7番目でも3番目でもなく、普通の一日だったように思う。
永遠とどん底を舐めるように這いつくばって生きているとしても、真っ当に考え、行動していれば、いつかは日の当たるところに出れる。どんな辛いことも、いつかは解放されるときがある。そう信じて、毎日、普通の生活を普通のようにおくる姿勢が大事だと思う。まあ、そんなわけで、うちの職員さんたち、気にすることはない。そのうちに過去の笑い話として語れる時が必ずくる。そう信じて、今、自分に与えられたことに真摯に取り組むことを目指そうよ!
大丈夫!大丈夫!世の中には、いろんな神様がいる!一人くらい、そんな君を助けてくれる神様は必ずいる!!
団塊の世代が高齢に近づき、次第に機能低下が始まる頃。日本の高齢者介護の現場は、どのように変わっていくのか?僕の尊敬する大学の教授が講義の中で常に言い続けていた、福祉のビッグバーンは必ず近いうちに訪れる!その言葉が、妙に頭にこびりついて仕方ない。
団塊の世代から少し遅れて生まれた私自身も、そう遠くはない将来に第一号保険者となる。要介護状態となるかは分からないが、遅かれ早かれ人の手を借りなければ生きていけなくなる日は来るはずだ。その時の自分自身を考えると、今、自分たちが対応している高齢者の求めよりも遥かに多く、遥かに幅広い要望を持つことと思う。物がない時代に青春時代を過ごした人たちとは違い、物が豊富に整った時代に育ったわれわれ世代。ものの考え方一つにしても、自由奔放な考え方が許されていた時代に育ったものだから、人間性も多義にわたる。
カラオケひとつとっても、戦後の復興の中で流行した歌謡曲が唯一の音楽だったころと違って、ジャズもクラッシックもレゲーもヒップホップも、本当に幅広い音楽を吸収して育った世代が歳を重ねたとき、いったいどの音楽を聴くと心が和むのか?集団で過ごすことよりも単体で生きることに慣れた世代が大規模通所介護事業所の中で、どのように自分の居場所を確保できるのか?世界中の食文化にふれる機会をもち、いろいろな味を堪能した世代が、給食程度の食事や色気もなく生きるためだけの配食弁当を食べさせられ何を思うのか?
高齢者介護を生業にしているものが思うことではないが、自由な行動すべてに制約を加えられながら生きることって、何の意味があるのか?そこまでして生きながらえる自分は、どんな目標と生きがいを持てるのか?そう考えると、自分たちの将来に不安を感じる。
今、僕同様、社会福祉や高齢者介護を学びながら実践する者たちに将来を託さなければならない。僕が今、不安に思っている点をどのように考えているのか聞いてみたい。そして、その答えに対して、答えてくれた彼らの高齢社会に期待が持てるのか?を考えてもらいたい。
今なんとかしなければいけない。日本の今をしっかりと見つめ、今皆が学ばなければ次を育てることができない。私たちが生きる上で、チェーンのような連鎖的努力と意識の継続性がなければ、その時点で社会は崩壊する。福祉だけでなく、経済もすべてがマッドマックスの世界へと変貌する。
※ちょっと、ブログにしては重いねえ!暗いね!・・・・・いや、これくらい真剣に考えていってもらえないと、日本の将来は今以上に困窮する福祉難民が増加すると考えている。