最近のテレビ報道を見ながら思ったこと。世界は広い、日本では国民同士の生命を賭けた諍いはない。日常的に殺人事件は増加傾向にはあるが、シリアやアフリカの一部の国で起こっているような国内の紛争ってのは無い。まあ、紛争も殺人事件も人の命を何らかのこじつけの理由をもって奪う行為としては同じではあるが、それでも大量に無差別に殺し合う社会は、今のところ日本には存在しない。誰ひとりとして、非人間的に扱われることのないように憲法にも生存権は認められているわけで、どのような理由でも、殺人を肯定する理由は皆無であるはずだ。
その昔、社会に平等の権利や生きる権利の認められていない時代。人は自然界に生きる動物のごとく弱肉強食の社会に暮らしていた。治安もへったくれもない、それこそ荒唐無稽で荒くれ者が闊歩する社会では、弱者は物陰に声を潜めて生活を続けるしか方法はなかったようである。喧嘩の弱い僕なんか、先頭きって出しゃばることなんて到底できなかったであろう。それこそ、格闘技の強いものが生き残る。そんな世界に、近代の人が生きることは、そう簡単ではないはずである。
そんな時代に生きた人たちの日々は、将来に対する展望も夢も希望も持てない、その日暮しに近い生活ではなかったか。当然、その日、食えれば良し!酒を飲めれば更に良し!と言った具合かな?! 酒と女とギャンブルさえあれば、それで幸せ!ってか?
しかし、そんな社会もいろいろなルールが作られ、治安が守られるようになると、人間の寿命はどんどんと延長され、昔の自給自足な世の中から比べると、倍以上の寿命延長が達成されている。人は自分や他人の暴力によって死ぬことがなくなり、唯一病死という不幸なファクターを受け入れることしか、ほかに方法がなくなってきた。自殺や事故って方法もあるが、賢明な市民はそうそうめったやたらと自殺や事故を引き起こすような行為は避けようとする。そこで私が今回のテーマに選んだ「生きる辛さ」ってのは、石器時代から有史の初期の時代の人達と比較して、今の方が死の恐怖を大きく感じながら生きているような気がしてしょうがないのである。
何も思わず、不意打ちのように、一瞬にして命を奪われる社会の方が、よっぽど気楽な社会なのかもしれない。医学の進歩は、病気と正面きって戦うことを大前提としている。そこには、負けるかもしれない恐怖と、常に耐えていかないといけない痛みの身体的、精神的両面からの苦痛に耐えることが必要である。医学の進歩は世の中から病を撲滅する。しかし、同時に別の苦しみを残してしまう。年寄りが時々、切に訴える言葉!「はやく!死にたい!」 人間として生まれ、生きる辛さを十分に分かった人たち、毎年、毎年、お迎えを待つ気分ってのは辛い以外の何もんでもない。必要以上の延命行為や過剰な介護サービスってのも、よろしかろう!と善意の押し売り、自分たちの思い込みの介護となっていないだろうか?!
なぜかしらこの言葉が心に残ったので、タイトルとして使わせてもらった。石橋をたたくと、余計に渡れなくなる。というフレーズにも妙に納得した自分である。B型人間の特徴であるのか、(僕は、あまり血液型にこだわることは無いのだが。)確かにB型人間は、大ざっぱな性格であるらしい。しかし、そう言いながらも、変なところで神経質で繊細な部分も持ち合わせている。たとえば、自分以外の者への配慮ってのが苦手である。結構言う割には、言われると弱い。要するにわがまま人間であり、臆せず前に進むことは進むが、その途中で迷いが出た時には、石橋をたたきすぎて渡れなくなってしまう。そんな自分がいるのである。
前に進む!ってことは、人間生きる中で非常に重要な行為であって、時間を追って生きている今、その場で足踏みしている事は出来ない。悩み、戸惑い、思考するだけでは、何も変わらない局面はある。ジッと耐えることも必要だが、時には超単純な思考だけで進むことも必要な場面もある。石橋をたたきすぎて渡れなければ、逆にたたかなければ渡れる。ひょっとして運悪く、渡っている途中で橋が崩れたとしても、たたかないで渡った以上、自ら納得した上の行動で、後悔することもない。足踏みだけで何も変化のない時、何でもやってみる。やるのとやらないのでは、結果、大きな違いが生じてくる。臆せず前へとは、そんな勇気をくれる言葉だった。
またまた野球に関するブログです。今年のプロ野球も終盤、優勝マジックまで点灯して、毎日の試合に息継ぎできないほどの緊張感で見守る日々です。読売ジャイアンツ、前回のブログで村田とエドガーはいらん!と書いた途端、エドガーは一軍登録から抹消、村田は今もギナギナと試合にはスタメンで登場している。しかし、打てない。守れない。
巨人ファンとすれば、今日のような大チャンスの時に村田が打ってくれない状況に、落胆どころか怒りさえ感じてしまうほどです。昨日の阪神戦では村田のエラーをきっかけに、大量得点をゆるし完封負け。今日は今日で大きなチャンスは二回作られたにもかかわらず、その都度、村田はお役に立てず。ってな調子です。村田ファンには申し訳ないのですが、今の村田から気迫は伝わってこない。目が優しすぎると思いませんか?本人自身も自信を完全に喪失しているようで、バッターボックスに立った村田自身、「また、失敗するかもしれない!」と思ってるのではないかと感じてしまうのです。
まあ、この夏前から首位を中日から奪い取った時の勢い自体が、巨人軍から失われているようで、ここのところのチームの不調の原因を村田一人に押し付けることもできない状況でもあります。首位奪還から走りすぎた。そろそろ息切れ状態かな?
昨日、太陽の家に先月配車した新車軽ワゴン左前輪近辺をブロック塀等でこすった痕を見つけた。樹脂製バンパーの一部であるから、凹みや錆はないが、結構深くえぐれるように横にこすっている。さっそく、運転した者に確認をするが、誰一人として記憶にないという。誰も壁をこすった記憶がない以上、駐車していた車に自然の悪戯か?それとも誰も運転しないまま車が勝手に動いてブロック塀と相撲を取ったようである。
この事を理由に職員に修理代を弁償させようという気持ちはない。ましてや、業務としてデイサービス利用者を自宅と施設の間を送迎に出てくれている以上、ある意味、不可抗力ともいえる事故であろうと考えている。
常日頃より、僕は施設の車を大切に扱ってほしい!とすべての職員にお願いしている。その理由は、もちろん不必要な経費の支払いを防ぎたい事もあるが、それよりも、社用車の姿、見た目は、そのまま第三者に太陽の家の内面の脆弱さを明かしているように思うからである。この夏祭りの時に、僕は家族の皆さんへのご挨拶に、当太陽の家の職員全員には自慢できる「こころ」がある!と言った。確かに一人として意地悪な人材はいない。みんなが明るく元気で優しい気持ちの持ち主であることは、何度でも、誰に対しても自慢できると思っている。しかし、送迎車両に限らず、建物、看板や職員の服装に至るまで、全てにおいて華美である必要はないにしても、清潔で健康であることが望まれる。ボロボロで傷だらけの送迎車両は、見えないところでの「扱いが雑」である証拠となり、ゴミや汚れで不潔な建物、要するに掃除の行き届いていない施設は、本来なされるべき事柄がお座成りにされている証でもある。
送迎車両をついつい、タイトな路地で擦ってくることは十分考えられる。ここ数回の突然の強雨などで進行方向の確認が取りにくいなどの悪条件の重なりも想定される。大切に、常に十分な注意を怠らない自家用車でも、時として不注意が重なりボディーに凹みを作ることだってあり得る。だから、送迎車両のように、毎日、何回もチョイ乗りに近い状況下で運行される車両については、小さな事故の可能性は増加する。
だからと言って誰一人として過失に気づかない状況ってのは正常ではない。この事象は、そのままケアの質に結びつく。職員の皆さんに、この話をすると、「そんな些細な傷を、なんて大袈裟な!おまけに介護の質にまで結びつけるって、無茶苦茶な話よね!」と考えるだろう。しかし、皆さんが言うように小さな傷であっても、この傷が出来た状況を考えてもらえれば、僕の言う重要性を理解してもらえることと思う。
前述の豪雨による視界不良、時間的制約の中の焦り、不慣れな新車という運転環境などから考えても、そこに運転手の注意が散漫となっている状況が浮かび上がってくる。ひょっとすると、同乗の利用者との会話に夢中になっていたかもしれないし、認知症の人が急に精神の安定を欠いた状況があったのかもしれない。それでも車は運転手が停車させない以上、移動していく。周りの風景が幅広く見えている状況から、点でしか見えてない状況に変わる瞬間、事故は起きる。瞬間の出来事は、よほどの大事故で目に見えて異変を感じることがない以上、運転手の記憶に残ることは無い。その時は、何か変な音がした!と思いつつも、時間的制約を受けている中では、そんな小さな異常は、その直後から忘れ去られる。
この事故は、きっと上記のような状況下で起こったものであり、これはたまたま車両がからむこすりキズで終わったが、実際の介護の現場でも常に職員さんは時間の制約に追われて過ごしているのであり、同じような状況が起こり得る可能性を秘めているのである。デイサービスのフロアーでも、一人の利用者の転倒を予防する為に、その人に神経を集中するあまり、その介護職員の視界から外れた場所にいる利用者の行動には、まったく関心がいかない。そして介護事故は発生する。
先日、チームケアとチームワークを施設内研修として学んだところであるが、自分一人でいくら頑張ってもできる範囲は限られてくる。限られた範囲を合わせれば、360度の範囲でもれなく利用者の行動を見守れる。職員全体が、自分のできる範囲を守りながら、共同することでできる範囲は広がる。一人で運転する送迎車両、ほかの職員の協力を得ることはできない。その分だけ一人の運転手に全責任が負いかぶさる。全部を一人で負うリスクの軽減方法は、危険を先取りする力とリスクを軽減する力が必要である。実際の車の運転で事故のリスクを下げるためには、危険箇所でのスピードダウン、繰り返しの確認しか方法はない。しかし、そこまで注意深く、精神的にも追い込まれることがなければ自動車事故は起きない。
利用者の安全、健康をまず職員が脅かさない努力。次にしなければいけない事ばかりを気にして、時間が足りないというこじ付けの言い訳を言わなくて済むよう、職員の沈着冷静な業務の遂行を望むところだ!