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ブログ-施設長の部屋

2012/6/14
施設内研修の目的と意義

今日は太陽の家デイサービスセンターでは、施設内研修が実施された。職員の手作り研修である。テーマは「デイサービスにおけるレクリエーション」である。所要時間は一時間。恐らく、講師を担当した職員はいろいろと頭を悩ませて、胃が痛くなる思い出今日のこの日に臨んだことと想像する。ついでに、僕も傍聴させてもらった。(傍聴と言うよりは、かなり意見を言った方だが・・・)

とにかく、研修と言いながらも、白熱した討論の場となった。それが良い、悪いはさておき、僕は、みんなが一つのテーマについて、意見を出し合う姿は、決して悪いことではないと思っている。むしろ、この結果、皆がレクリエーションとリハビリテーションについて真剣に考えることができた。と言う意味においては有意義な時間であったと思う。

 ただ、テーマがテーマなだけに的を絞りこむのに時間がかかった。あまりに門戸を広く取りすぎたために、何について話をしているのか、何を改善することを目的としているのか?がボヤケテしまいそうになった。問題は、担当する職員が提示するのは、今の太陽の家のレクリエーションがマンネリ化してるのではないか?という点であった。確かにマンネリ化しているかもしれない。その大きな原因ってのは何か?を議論した。つまりは、個人個人の職員が、自分のやるべきこと、ほかの職員にやってもらいたいことの両面で、遠慮やまかせっきり(まったく相反する原因ではあるが・・・)、職員同士の連携や意志の疎通が取れてない。言ってみれば、利用者をその時ばったりの安易なごまかしが蔓延しているということであった。

職員とすれば、そのような誤魔化しと言う認識は持っていない。そればかりか、一日の作業量に振り回され、業務多忙によって、本来自分がやらなければいけないことに支障をきたしている。しかし、よくよく考えてみれば、業務としての記録もそうだが、業務の一環のトイレ介助や家族との連携の部分が、職員の思いを達成させるには足枷となっているようなのだ。しかし、もう一度、よく考えてもらえれば、職員も理解できるのだが、そこに介護職員の癖と言うか、何というか、「介護」と言う視点を固定してしまいがち、強いて言えば、頭が固い。固定観念で、決めつけで、それらにとらわれすぎているがあまり、行動が縛られているのではないか?という結論に達した。

まあ、職員としては、楽しんでもらいたい、何かの役に立てるようなレクであり、リハビリを兼ねたものであった方が良い!これらすべてが逆に視野を狭めたり、選択肢を狭めたりするブレーキとなってはいないのか?と言う点が大きな問題であると・・・

次月は主任ケアワーカーの妻鹿が講師役を担当して「チームワーク、チームケア」と言うテーマで研修を実施してくれることとなった。

施設長として、職員全員の成長を期待するあまり、過剰な負荷をかけているような気がしないでもない。しかし、自分自身の経験や性格から考えてみると、ある程度の負荷は、成長には不可欠であり、これらの負荷はストレスであっても、良質のストレッサーであると信じている。仕事は家族を養うために金銭を得る手段としてある。しかし、私たちの行っている業務も、美味いラーメンを提供して客の満足を得られるラーメン屋も同じである。相手が満足して、喜んでもらってナンボの世界である。顧客満足をCSと称して、今や全世界の企業がやっきになっている。福祉の世界ではCSが必要ないとは言いきれないし、そうあってはいけない。

この世界で金をもらって働く以上、単なる排せつ介助、食事介助、入浴介助だけをやるだけの福祉では、その辺に万とある一般的なレストランやラーメン屋ではなく、ここだけに存在する唯一を目指さなければ、俺たちに明日はない!という気概で頑張っていきたい。

2012/6/12
最近読んで面白かった本。

榎本博明著「すみません」の国と言う本。これは面白かった。心理学者の視点から日本人の本音とたてまえを細かく分析、欧米人気質との比較から、日本人の良さを抽出している本である。諸外国から見ると正体不明、何を考えているかわかりにくい日本人の思考回路、ともすれば欧米化の波にのまれ、日本人固有の文化や思考をかなぐり捨てて、すべてが欧米マインドに同化してしまいそうな今の時代に、逆に警鐘を鳴らす本であった。僕自身、かなりの点で欧米風思考の持ち主であり、人に言わせれば本音の直球を投げまくる! 好き嫌いの格差が激しく、言ってみれば分かりやすい。しかし、単純で単細胞な厄介な日本人と言う評価がなされている人物である。この本を読んで、少しは日本人のワビサビを理解し、世の中に順応していけそうか・・・?と

 まあ、人間、育った環境や人生で培った経験をもとに、後々のものの考え方に大きな影響を及ぼす。それを「良し」とするか「否」とするかは、その人の考え方によるところが多い。僕も学んでいない!と言えないこともない、頑固者のオヤジ世代となり、今後、どのように社会に順応していけるのかで、老後の人生が決まってしまう。人の言うことを聞かず、我が道を行く要介護者は介護職員から敬遠される。敬遠されるどころか虐待の憂き目にあうかもしれない。それも、人のいないところで陰湿な苛めにあうかもしれない。その時になっても欧米人は、自分自身の権利を主張し、徹底的に自分自身を援護しようとする。わが身を振り返らず、主張ばかりは一人前。そんな人物が今後、増えてくるとしたら、それこそ介護の世界にも欧米的思考回路を研究し、理解しなければいけない時代が到来するのかもしれない。

 何も、さしあたって大きな問題ではないが、これからの要介護者の多様化は、以上に述べたような思想にまで言及した対人援助技法が求められることは確かである。今でも四苦八苦の連続の介護職諸兄、さらなる努力と学びが不可欠となりつつある。

2012/6/11
時代の変貌。

認知症介護や高齢者福祉の世界では、今の時代背景が介護に大きな影を落としているといわれている。核家族化、少子高齢社会や限界集落などがそれだ。 人口の過密は都市部に集中していることは、誰しも知っている通り、東京に限らず、この三重県に於いても、都市部(って、言葉が恥ずかしいけど)・鈴鹿、四日市、津などの中心部に人が集まり、山間部では人口の減少とともに老人世帯の増加が問題となっている。さて、なぜ問題化と言う点について、この私の家を例に話せば、私の家庭では両親ともに健在ではあるが、老人二人だけの世帯と、離れた場所に我々子供世帯が生活をしている。

 年々、両親だけではなく我々子供世帯も歳を重ね、老人世帯は年金を中心に生計を維持している。そして我々世帯は、夫婦共に高齢者介護を主体として生計を立てている。夫婦共に施設の長として忙しく、自由になる時間は限られている現状である。オヤジ夫婦は、健在と言うものの、御多分にもれずに母親は膝関節の障害で歩行が困難で、親父が主介護者として母親の介護を行いながら、何とか日々の生活を維持できている。御蔭様で認知症の方は、かろうじて問題にはなっていないが、それもいつまで行けるのか・・・?!と不安材料は多い。 これは、言ってみれば今問題となっている「老老介護」と言われる現状であり、夫婦の何れかが倒れれば、その時点で生活のバランスは崩れて、何かしらの生活支援を必要とするわけである。

 私が子供のころは、オヤジ夫婦と私たち子供と祖父母が同じ屋根の下で生活をしていた時代である。それぞれが家事を負担し合い、協力しながら毎日の生活をおくっていた。時の流れとともに、祖母が脳血栓で倒れ要介護状態となった時も、家族全員(僕は子供すぎて役には立っていなかったが)が協力し合って、在宅介護を継続した。だから、ばあ様は自宅で亡くなった。次にじい様が認知症となった。その時は、親族の感情的な反対に合いながらも、地域に芽生え始めた老人介護施設で介護をお願いした。この時のオヤジの年齢が今の私の年齢である。 家には私や妹が一緒に暮し、じい様の面会や必要な用品の交換や届け物などを分担しながら家族で補った。

 そして今の時代である。自分自身も年老いていく中、おやじ夫婦の生活は長男である自分が背負うこととなるが、先にも述べたように今、夫婦のうちのどちらかが潰れると、途端に困ってしまうが、その困難さは以前の比ではない。夫婦共働きで、それぞれに責任がある毎日を過ごすものとして、いちいち両親の生活を支援するだけの余力がないのである。介護保険に頼り、フルで施設のお世話にならなければ、介護者の生活まで壊れてしまいかねない厳しい現実が存在するのである。

 先に書いたように、老老介護の果ては核家族社会のデメリットが、生活を困難にさせていくマイナス・スパイラルが発生するのである。生活相談員をしていると、このような困難なケースは、いくらでも遭遇する。地域社会の到る所に、これと同様の問題は転がっている。老人同士の介護を余儀なくされ、介護負担は一人の肩に重くのしかかる現実がある。精神的にも肉体的にも、歳をとってからの介護や看病は難しい。特に夜間のケアは、年寄りにはきつい。だから、今、政府が24時間のケアを模索しているのである。24時間体制で老人を見守っていく体制づくり。それも、介護保険の契約の枠を超えて、柔軟な対応を可能とするシステムが求められている。

 介護保険の将来は、この問題をクリアーにしていくことから始めなければ、介護保険料の値上げばかりでは国民の負担ばかりを増やして、有益なシステムの無い社会保障制度では、要介護者の増加する一方の日本の社会は破たんする。

2012/6/8
介護職員と仲良くする方法!

唐突ながら、まず大盤振る舞い!けち臭いことは言わない。何でも好きにさせる!すべて自由!束縛を一切しない。規制もしない、休みたい!と申し出たら、どんどん休みをやる!西に同じことを繰り返し言う利用者にヒステリックになった職員が居れば、その職員をかばい、東に介護疲れの職員が居たら変わってあげ、子供が熱を出したと保育園から連絡を受ければ、即座に職員を早退させ子供を看病させ、北に腰痛に悩む職員が居れば、腰痛予防の福祉器具を購入し、南に送迎車をコンクリートブロックにぶち当てた送迎担当者がいれば、黙って黙々と事故処理を行い、保険会社と折衝をおこなう。

 こんな管理者や施設長は、絶対に職員と仲良くなれる!(・・・よな!!!????)これでも、管理者なんて、大っ嫌い!なんていう職員は、ハッキリ言って、罰当たり! まあ、こんな管理者や経営者は、どこを探しても居ないはずだ。僕からすれば、情けない!の一言に尽きる。その理由は、上に書いたような振る舞いって、基本的に芯が通っていない。何がしたいのか?何を追及してるのか?分からない。 職員は、確かにより多くの給料を求めて、常によりベストな働き場所を求めている。これが、立場を変えて自分が介護職員なら、当然のごとく常によりベストを求めるはずだ! 自分の生活を、より理想に近づけるため、高額な報酬を求め、より高い評価をしてくれる職場に魅力を求めている。誰しも、職場内で糞ミソ扱いで、いつも顔を見れば「馬鹿!だの、脳タリン!」などと呼ばれ続ける職場に、安らぎを感じないはずだ。職員だって人間だ、いつもありがとうね! よくできたね! 助かってるよ!と言われる方が気持ちいいに決まってる。

 そう、職員はアホで脳タリンかもしれない。管理者や経営者は、それなりに多額の借金抱えて大博打をしてる連中だ!職員のようにアホではばくちは出来ない。しかし、よくよく考えてみれば、こんな儲からない事業に多額の借金をつぎ込むのって、アホな職員以上に大ばか者しかできない技ではないのか?とその頭脳を疑いたくなる。儲からないから、それを職員のせいにする。動かない職員ではなく、動かせない管理者は己を戒めることも忘れ、すべてを他人のせいにする。本当に、どちらが足らないのか、わかってない現実に職員の疲弊する。

 介護の現場では、すべての作業が見よう見まね、猿まね合戦の連続である。職員も管理者もてっとり早く、「HOW TO?」を求め、こんな時は、こうするの!式介護術にはまり、実際の状況判断を誤り続けている。職員も管理者も、不必要なプライドばかりに左右され、人の言うことを聞かない。また、同時に学ぼうとしない。そりゃ、いつまでたっても介護の質はよくはならない。

 遊ぶこと(レクリエーション)のことは成立するに時間は必要ない。ほんの数時間で決定し、それに向けて皆が一丸となり努力する。しかし、これが機能訓練ともなると、専門外と言うこともあってか、一か月が経過しても何も進まない。おまけに、遣ってることは数か月前と何も変わらない。これでは、何を目標に仕事してるのか分からない。しかし、そんなコタア、どうでもいいんだ!職員と仲良くできれば!

 介護の現場は、やる事が溢れている。やる事多すぎて、一日の就労時間内には片付かない。しゃあないので、出来なかった分は明日に持ち越し。そう自分に言い聞かせて積み重ねた宿題が昨年の末からたまりっぱなし。これに似た状況が郵便局でもあったように記憶している。配りきれなかった郵便物を、最終的にはかってに焼却してしまった局があったそうな!どうも、よく似た現象だぜ!溜まりにたまり、熟し切れない仕事は、どこかで一旦きれいに始末しようぜ!そん時は、俺にも声をかけてくれよ!手伝うからさ!と息巻く。

 ああ~、今日の俺って何かあったの・・・・?と勘違いされそうなブログ。特に何事もなく平穏な一日が過ぎた。ただいつものタッチのブログにちょっと飽きた!ってのが本音。こんなブログも、時にはいいもんだ!

2012/6/6
ぬるめのスープに指

アメリカのジョークに面白いのがあった。最近、日本人の新進コメディアンが、このジョークをネタにしてる者がいて驚いているが、ストーリーはこうだ!

 ある日、潔癖症の男がレストランに一人、メニューを眺めながら今日一番の夕食を楽しもうと品定めをしていた。十分な吟味の末、男は意を決してウエイターを呼んだ。

 男の呼びかけに即座に応じたウエイター君。少し浅黒い顔、それほど身長も高くない黒人系。恐らくプエルトリコ系の黒人移民だろう。強いアクセントの言葉で注文を取りに来た。

 「はい、お客さん! お待ちね! 注文、どうぞです!」 不慣れな言葉遣いに苦笑しながら、男はニューヨークカットステーキとサワークリームをたっぷりと載せたポテトを注文した。そして、ウエイターがテーブルを離れる間際に、思い出したように追加のスープを至急持ってくるように命じた。 軽く会釈して立ち去るウエイターを尻目に、男は持参した夕刊に目を通し始めた。しばらくすると、先ほどのウエイターが依頼したスープを持ってきた。

 「お客さん、お待ちなさいませ! 今、スープ、持ってきてます。」 と訳のわからない言葉とともに、男の前に並々とスープが入れられたスープボールを置いた。

 ところが、テーブルに置かれたスープボールには、事もあろうにウエイターの太く、黒光りする親指が浸っているではないか!そんなことは関係ないがごとく、ウエイターは、次のステーキまで、スープを楽しんで味わえとばかりの言葉を残し、立ち去ろうとするのである。男は客であり、おまけに潔癖症である。少しも不潔な状況は許せない性質である。ウエイターを呼びとめ、客が飲むべきスープの中にウエイターの指が使っていることは許せないと、憤慨して苦情を伝えた。するとウエイターは、

 「お客さん、私、今日、この親指怪我したね!病院いったら冷やしたらだめだ!って言われたね。だから、スープの中でずっと温めてたね! だからちょっとスープもぬるいかもしれない!適度にひと肌! うまいよ!食べてみ!」と、全く反省する雰囲気ではない。いよいよ頭にきた男。

 「そんなことは理由にならない! ましてや、俺がスープを注文しなければどうするつもりだったんだ?」と問いかけた。するとウエイターは、

 「大丈夫! お客さんのスープができるまでは、自分で自分のおケツに指入れて温めてた!」

 ・・・・・・どうですか?面白くないですか・・・・??

ウエイターの男の言い分は、自分を中心にした視点でものを判断してる。客と自分の立場を理解しているようで、客にサービスを提供する意識が希薄である。こんな分かり切ったこと、そして、常識では考えられないことがジョークの世界では起こり得る。その現実と空想の世界のギャップに私たちは、酔いどれの世界でいろいろなジョークをつまみに酒を楽しむ。酒を楽しむジョークなら罪はないが、これと似通った行為が高齢者介護の政界では現実問題として、平然と行われているようだ。介護職員の常識は、そのまま介護を受ける側の常識とイコールではない。ましてや、望んでもいない訓練を強要され、望んでもいないにも拘らず長生きをするためと称して規律正しい生活や日光浴を求められる。誰のための人生で、我々は何のために介護を実践するのか?介護する者も一度立ち止まってよくよく考えてみる必要があるのでは???


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