昨日ババ連の話を書いたが、流石にその年代の女性人たちからの苦情の嵐。女を一方的に糾弾する前に、男も同じくらいひどいものだ!と言うのが大方の言い分であった。それでは、と言う訳ではないが、今日はジジ連の暴挙なるものを書き出してみよう。
僕が感じるジジ連の暴挙。敷いては、同じ同性の立場からも恥ずかしいと思う個所を書いてみたい。
男も、それ相応の年齢に達すると扱いに困る人格に変貌する者がいる。それらの人間を総称してジジ連と命名するならば、この困ったジイジイ達に自覚と自律を促す意味においても(もっとも、反面教師として自分自身に言い聞かせる意味のほうが多い)まず、加齢臭の問題である。これから蒸し暑くなる日本の夏、おやじたちは屋外で仕事する機会増加、室内においても近年の節電ムードの中での冷房を控えめに設定したりと、汗にまみれる毎日。よほどコマ目な手入れをしない限り、一日の勤務が終わるころには十分すぎる体臭を発散することとなる。人間だれしも無色無臭な者はいないわけで、それなりにオリジナルなニオイ(どんなニオイや???笑)を発散している。ただここで問題なのは、体臭に増して喫煙者はタバコのニオイ。そしてコーヒーを好むものはコーヒーのニオイ。もちろんキムチを好むものはニンニク臭と、いろいろなニオイが混ざってしまうことによる悪臭である。若いころ、女性を意識する時代は、ニオイに対して過敏すぎるほど神経質になっていた男も、恋愛ごっこから遠のいたジイジイ達は、よほどのことがない限りニオイにも無頓着となりがちである。満員電車に詰め込まれ、岐路を急ぐ人にとって、いろいろなニオイの混じった臭いジジ連は、御免こうむりたいものである。
さらにジジ連は、常に女性を下に見ている傾向にある。自分一人では、何もできないくせに威張りくさっている。気に入らなければ暴言、悪態、暴行を繰り返し、身体の不自由となった時ですら相手を恫喝しようとする。これは、男として醜い部分の一つである。男子たる者、弱者を守り、強きをくじく! 武士道精神がいつの間にやらねじ曲がり一部、自分にだけ都合良く封建的課長主義を前面に生きようとする。それに付け加えて、ジジ連の一部の公共道徳の低下は信じがたいものがある。特に公共の電車の車内で、マナー違反のジイジイを沢山みかける。後ろの席から、前列のシートの肘掛に足を投げ出して座る。夕暮れ時の特急電車では、必ずと言っていいほど缶ビールとおつまみを食べ始める。汗臭い上にスルメとビールのニオイが近隣界隈に漂い、タダでさえ疲れて家路を急ぐ人々を不快な気分にさせている。
さらにさらに、ジジ連は入れ歯の手入れをサボる。おかげで近くによって会話するにも口臭がたまらん。ジジ連は平気な顔して所構わず立小便を実施する。ジジ連は、やたらめったらと痰をはく。ジジ連は、か弱き老人を装いながら若い介護職員に抱き着く。おまけに抱き着いた手を緩めることなく余韻を楽しもうとする。ジジ連は、セクハラもパワハラも野原も味噌糞一緒。問い詰めれば、そんな新しい横文字は分からん!とうそぶく。
まあ、とにかく、男も女も年を重ねるにつれ人生経験が豊かになるにつれ、厚顔無着となりちょっとやそっとでは反省しない。すべてに関して我が道をゆくのである。それでいて、一人になると結構人生について反省し、自分の粗鋼に対して自戒の念に駆られる軟弱な性格も持ち合わせているのである。
上手に年を重ねる。ってのは永遠のテーマであり、難攻不落の障壁のようであり最初から諦めがちではあるが、そこのところを意地を張ってどこから見ても隙のないちょい悪オヤジを目指して、世のすべてのジイジイ達が奮闘してくれれば、この日本社会。すべからず住みよい社会へと大展開するのではないだろうか?
最近では、高齢者のババ様ドライバーと遭遇することが多くなってきた。先日も、ある地方で車を運転してた時に遭遇したババ様。少し狭い橋の上ですれ違わなければいけない状況にぶち当たった時のことである。運転に自信がないババ様、橋の入り口近辺でこちらの車をやり過ごそうと、自分は早々と車を停車させ待っている。おまけに、橋の出口のど真ん中。どう考えてもこちらの車の側面が橋の欄干をこすりそう。それでも、自分の車を当てては損だ!とばかりに自分は動かない。両者一歩も譲らないがっぷりよつの体制には、さすがの後続車両も堪忍袋の緒が切れる。こちらの車の後ろからぶーぶーとうるさい。仕方なしに、欄干ギリギリに寄せて車をジリジリと移動させるも、やはり後輪が欄干の基礎コンクリートに乗り上げる。嫌な音とともに、なんだがフェンダーまでこすったような感触。まあ、あとで要チェック。とりあえず、この場をそそくさと過ぎ去ろうと気持ちが逸る。まあ、偶然、フェンダーにも傷なく、タイヤの腹をこすった程度で済んでよかった。しかし、世の中、このようなババ連は大勢存在する。
このババ連、口やかましい。勝手な思い込みで突っ走ること、血気盛んな若者さえも食われてしまうがごとく。だから、人の言うことを聞かない。それほど肝が据わっている。おまけに、怖いもの知らずの年齢に達しているために、立場に見境がない。目上の物だろうとなんだろうと、旧知の友のごとく親しみをもって話しかける。当の昔に女を捨てた者たちは色気よりも食い気!食べることに貪欲である。食べてはしゃべり、食べては寝る!お蔭で、ババ連の多くの下半身は丈夫で力持ち、ちょっとやそっとの横風を食らってもビクともしない。一昔前までは、イケメン韓流スターのポスターを年甲斐もなく自宅の居間にはって、毎晩寝る前の投げキッス。車を運転させれば、相手がなんであろうとまったくわれ関せず、道のど真ん中を突っ走る。俺はベンツで相手はボロボロの軽自動車。それでも、優先権はババ連にある!
ババ連ってのは百害あっても一利なし・・・・!!???
いやいや、そうでもない。ババ連は人生経験豊富。うまく使わせてもらえば、料理や掃除洗濯まで上手にこなすスーパーウーマン。そこは、ハンドリング次第。ほら、昔の自動車教習所で仮免教習のところで習うではありませんか、アクセルはゆっくり踏み込んで、ハンドルは滑らかに!ババ連は年齢も年齢なだけに急激な変化を極端に嫌う。おまけに嫌うだけでなく、思いっきり、力の限りの文句を言ってくる。それは無言いたい放題。そんな愚かなハンドリングが災いして、反撃を食らうくらいなら、それはそのように相手のスピードに合わせて、文句をこちらから言いたい放題にすれば、これが意外と効果を発する。「オウムがえし」である。相手の攻撃に対して、あくまでも他人事のように言い分を、そのまま返してやる。すると、ババ連は黙ってしまう。相手が糠に釘なら、こちらも糠に釘。目には目を、歯には歯だ!
いずれにせよ、ババ連とうまく付き合う方法。これは、我々にとって永遠の課題であり、その課題解決できる頃には、自分自身も老いて役に立たなくなっているような、そんな根深な問題を抱えている人生である。
デイサービスの職員一人が退職することとなった。妊娠・結婚のために退職すると告げられた。今月いっぱいの期限付きである。いずれにせよ、職員が退職することは、寂しいものである。娘を取られるオヤジの気分かしら・・・?と笑えてくる。
人が生きていく中で、人ととの交わりが大きな要素として人生に影響を及ぼしてくる。今時の夫婦生活は、兎にも角にも結婚、離婚を何の躊躇いもなく繰り返すようだが、今回、太陽の家を退職する子には、そのような不幸が(本人たちは不幸とは思ってないかもしれないが)起きないことを祈っている。人は一人では生活できない。私は一人でも大丈夫!と言い切る豪傑であっても、なんらかの人と接触やかかわりを持って生きている。どんな強がりを言っても、やはり一人で生きていくことは厳しいことなんだ。特に今の若い人たちは、人との関わりを一瞬たりとて削除することができず、思いの外早い段階で相手を求めてしまう。しっかりと相手を見定めることなく、その時の雰囲気と気分で相手と交わろうとする。元来、子供のころにガキ大将の元、いじめられたり、いじめたり、子供世界のルールの中で揉まれていない今の若者たちは、人との接触方法を学んでいない人が多い。人との接触方法がわからないことは、そのまま人に対する気遣いも思いやりも少ない。楽しい時は相手と意気投合することは可能であっても、悲しい時、辛い時の接し方が極端に不安定となる。どうやって接したら良いのか分からない!分からない状態は、次第と面倒になり、そのうちにどうでもよくなってしまうようだ!
そんな否定的なことばかり書いていると縁起でもないので邪推はこれくらいにして、結婚を控えて辞めていく彼女には、心からのエールを送って差し上げたい。人間は考える葦なんだ!とかの人が言った。学びながら成長していくんだよ!一度失敗したら、そこに学び、同じ失敗を繰り返さない。同時に失敗しても悔やまない。悔やまないということは、「まあ、ええやん!」で終わらすことではないんで、そこで考えることが必要となる。でも、そう言いつつも、失敗を繰り返したら心がパンク(破壊)される前に、やはり自分が大切だから、まあええやん!と終わらした方がよいのか??? 若者は若者に都合の良い風に考えるから、それこそいらぬお世話かもしれない!
さてさて、何が言いたいのか、良くわからないブログだが。今日は、この報告を聞いて、なんだかスッキリ、ハッキリしない気分だ!と・・・・・やはりオヤジの気分かしらん???!!!!
こんな話、田舎に住んでいれば日常茶飯事、何にも珍しくはない話なんだろうね!実際、うちの家だって、50メートルも歩けば田園地帯。今は田植えも終わり水が並々と張られた水田ばかりの環境に住んでいる。当然、蛇もカエルもそれを捕食する大型の鳥も生存する。
しかし。この蛇は。おそらく我が家の玄関わきの花壇に生息するのだろう。昨年も同じ場所にのたっていて、驚き、飛び跳ね、急いで場所から離れて大騒動したことを思い出した。昨年は、女房が火箸でつまんで、裏の田んぼに苦しに行く途中、火箸からすべり落として逃がしてしまった訳だが。その蛇と同じ、体長1メートルほどのシマヘビである。
今年も登場した蛇。恐ろしくって近寄ることもできず、誰かに処分してもらおうと探した結果、うちのデイサービスの主任が、蛇は怖くないと言うので火箸を渡した。そんな僕の狼狽える姿を見てたデイサービスを利用するMさん。体大きいのに、なんで怖いの?!!???と・・・・図体デカくても怖いものは怖い!俺は蛇が大の苦手なの!と弁解しつつも、遠く離れた窓越しに、蛇をつかもうと火箸を持って追いかけまわす主任の姿を見守るだけ。
俺を殺すのは簡単だ!なんせ、穴掘って、蛇を数匹放り込んだ中に突き落とせば、おそらくものの数分で精神錯乱で泡吹いて死ぬ!と思う。そういう意味では、僕はインディージョーンズにはなれない!大体からやね!ジャングルの中に入って行って、何が出てくるかもしれない場所に探検に行くなんて芸当は無理!それに、ジョーンズ先生、毎回、とても危険な目にあいながら、それに対するメリットって少なすぎるじゃない? まあ、僕の場合、いくら金を積まれたとしても、あんなところに行くのは真っ平ゴメンであるが・・・・
まあ、とにかく、この蛇と長い間格闘してた主任。苦労の甲斐なく取り逃がしてじまった。お蔭で、僕は毎日、暗くなるころに家の玄関を通るのが億劫で仕方ない。億劫というよりも恐怖で仕方ない。周りを見渡し、蛇の影、動き、気配を見定めてから、思いっきり飛び跳ねるようにして素早く家の中に入ることにしている。
小学校のころは、生まれたての蛇を学校に持っていき、授業中は僕の上着のポケットに入れて遊んでいたのに、どこからこれほどまで蛇を怖がるようになったのか分からない。そういえば、僕も蛇年生まれ。暑い夏は、これが一番気がかり。早く冬になってもらいたい、夏が大っ嫌いな理由は蛇の存在にも関係するのかもしれない。だけど言っておくからね、僕の蛇恐怖症を逆手にとって、給料のベースアップ交渉に蛇を持ち出そうと考えたら遺憾よ!その時点でベースアップどころか、クビだからね!(笑)
今からちょうど30年前になる。この太陽の家の母体となる会社が設立された。僕一人のちっぽけな個人会社である。それまでの海外での生活や会社勤めの経験を生かして、第二の故郷であるアメリカから雑貨を輸入し販売する会社として始めた。その当時、地元の銀行と掛け合って1000万円の資金を借り入れ、それを元手に色々な雑貨を輸入した。30年前の鈴鹿って、どんなだったろう・・・・?自分でも不思議ながら、その当時のこの町を、あまり覚えていない。ただ、暑い夏、愛知県のとあるゴルフ場で開催されたフリーマーケットに出店し、氷で冷やしたスティックサラダを販売したら、フリーマーケットに取材に来てた東海テレビのスタッフに珍しがられ、取材を受けた記憶がある。スティックサラダなんて、アメリカでは一般的なのに・・・・と思った印象が今ものこっている。
さて、たかが30年。しかし、この30年の間にはたくさんの出来事があった。僕一人で始めた輸入業と合わせて輸入雑貨の販売から、取扱品目がアンティークに変わり、アンティーク家具やカントリー家具にまで手を伸ばし、何度もアメリカの家具工房にも足を運び、日本における代理店契約を結び、その頃に個人業者から法人格を取得。有限会社として事業拡大をすすめていた。この頃は、日本は俗にいうバブル全盛の時代。何でもかんでも売れた! それまで貧乏な夢追い人だった僕のような個人事業主も、いっぱしの企業経営者のような錯覚に陥っていた。この頃からファッションと車が好きで、道楽と言われそうだが洋服と車に金をつぎ込んだ。
そして、いつの間にかバブルははじけてしまい、一夜にして不景気になった。ほんとに、一夜でという表現が当てはまるような極端な変化があった。そう言えば、あの時に、地元のある起業家からメルセデスベンツのスポーツカーを5台。投資目的でアメリカから輸入する依頼を受けていた。あの頃は、日本全体で物がとてつもない値段で売り買いされていた時代である。一億も二億も簡単に設けることができると思い込んでいた。アメリカ国内で苦労して5台のベンツを押さえたとき。バブルがはじけた。依頼主も金の工面がつかず逃げた。僕にとって生まれて初めて味わった最低最悪の瞬間である。背筋が凍りつくような、頭の中は真っ白になって、何をどうするべきか考えることすらできない状態だった。
食うに困る時代。何も買えない。食いたくても食えない。一番つらい時代があった。年金も税金も保険さえも支払えない時代があった。今、芸人の母親が生活保護を不正受給していたと騒がれた。僕も生活保護の受給までは無理だった(親が多少なりとも資産を持っていたから)が、僕の一番貧困な時代は1万円を握りしめ一か月過ごす。そんな生活を長い間続けなければいけなかった。人を羨むことはなかったが、自分自身が恥ずかしいと思うことはあった。何とか、そんな境遇から抜け出したかった。滞納する税金を回収にくる行政担当者のさげすむ目が厳しく突き刺さった。とても悲しかった。
30年の年月は、そのまま僕の顔のしわとなり、人相として生きた証が現れる。短いようで長い期間。問題だらけ、立ち向かっても、立ち向かっても、乗り越えることができず、空すべりの連続の中。自分自身の支えとなってきたのは、唯一、プライドだけである。僕の持つプライド。それは、この58年間の生涯をかけて積み重ねてきた生活。そのものが僕の大切なプライドである。ひとには自慢できない程ちっぽけな人生ではあるが、自分が生きたきたなかに悔いはない。これから、どれほど先まで続くか見えない将来だけど、仮に僕の一生が潰えても会社は残ってほしい。いく代も重ねて少しづつでも良い、成長していってもらいたいと願っている。
今日の6月1日。アルファルファは、この鈴鹿の地に生まれました。30周年。ささやかながら、ぼくの心の中だけでお祝いをしたいと思っている。