ブログを更新することって、意外と忍耐を必要とするものなのです。耐え忍ぶと言っても、苦痛に耐え忍ぶことではなく、夜になってブログ更新の時間が近くなると睡魔に襲われる。そんな睡魔と戦うことからブログ更新はスタートするのですが、ここ数日、そんな睡魔に完敗状態となり、更新がままならなかったのです。
さて、今日、職員と会話する中で、タンス預金の話題があった。へそ食ったお金の在り処と行為自体を忘れてしまい、どこに幾らのヘソクリが存在するのか、すべては望郷の彼方!と化してしまうのです。認知症のじいさん、ばあさんでなくとも、自分がちょっとした思い付きで、少額紙幣をタンスの隅にでも押し込んでしまおうものなら、それこそ、そんなはした金の所在が分からなくなるのは当然の話である。
しかし、突然、何の気なしにタンスの奥から引っ張り出したジャケットのポケットから一万円札が出てきたら・・・大掃除をしている最中に台所の米櫃の下から数万円入りの紙袋が出てきたら・・・そりゃあ嬉しい! 嬉しいどころか、何だか得したような気分になるのは、みなさん同じなようですね。それが、もともと自分の懐から出ているにも拘らず、とても得した気分。これって可笑しいですね。
この隠し資金ですが、家の中を丹念に掃除してみれば、意外とたくさんの埋蔵金が残されているのかもしれません。一頃の政界ニュースでもありました埋蔵金。何も気づかずゴミとして処分されてしまうかもしれないのですが、処分したとしても気づかないモノですから、物を処分するには十分な確認が必要ですね。ひょっとすると、あなたのお家にも、誰も気づかない場所にどっさりと埋蔵金が埋もれているのかもしれませんよ!
要介護高齢者のお世話ってのは、本当にしんどい。こんな本音を介護を生業とする者は言ってはいけないが、ここでは敢えて話題として取り上げたい。
今日のデイサービス、朝の送迎が終了し、サービス提供開始時間頃には、ぞくぞくと利用者が入ってきた。元気な声で朝のご挨拶を掛け合いながら、利用者のみなさんを迎え入れる。車いす、歩行器、シルバーカーや杖など、いろいろな補助具を使ってやってくる利用者達。朝の様子もマチマチである。元気いっぱいの方もいれば、何だか朝から不機嫌な方、黙って職員のご挨拶を無視する方など、本当に様々な人間模様が見受けられる。そして、利用者の皆さんは、それぞれ予定された席に着き、個別に馴染みの利用者同士に世間話の花が咲く。
大体が、毎日、このような雰囲気で一日のスタートを迎えることとなるが、中で必ず一人、二人の利用者が大声で叫ぶ。ちょっとした誤解か気に障ることが原因で、瞬間的に激昂してしまうのである。利用者達は慣れっこになっているのか、そんな大声でわめき散らす人を横目に苦笑する。と言った状況である。職員も慣れたもので、そんな恫喝にちかい大声にも、ビクともせずに相手の気分を逆撫でしないようにしている。
暴言には、それなりの理由があると認知症介護の研修で教わった職員たちは、この様な状況の時には、一生懸命考えようとする。まず、自分が何か気に入らない種をまいたのか?周りの人たちの何かが影響を及ぼしているのか?はたまた、何か体調に異変があるのか…?などである。結局、それらの大半は、本人の[ 理由ある訴え ]という結論に達する場面が多いわけだが、これら「訴え」ってのは、老人に多く見られる。孤立感から、身体の自由が阻害される苛立ち、大半は物事が自分の思うように進まない苛立ちを原因として、比較的頻繁に起こっているのが現状であり、男性には「怒鳴りつける」や「手をあげる」など。この要介護者の苛立ちの原因究明に、介護職員は思考回路をフル稼働してしまうことになる。「多面的に考えろ!」と教育されているから、いろいろな角度から原因究明を行う。考えを巡らすことは、結構疲れる。ましてや、その人の生活歴や性格、好みまで熟知してなければならない。ここに至るには、十分な基礎的な情報を予習しておかねばならない。これらが職員のストレスとなる。
職員のストレスの要因となるもう一つの理由がある。それは、朝から不穏な精神状態の利用者、家を出るときに家人と何かの行き違いがあった可能性は捨てきれなくとも、このデイサービス施設に来ることを楽しみにしている利用者ならば、それほどのご機嫌斜め状態にはならない。と言う理論が成り立ち、デイサービスを楽しいものにしなければ!と言う強制観念に襲われる。
いずれにせよ、介護施設の職員ってのは、すべてに関して受け身である。飛行機会社のフライトアテンダントにしろ、高級リゾートホテルのスタッフにしろ、はたまたタクシーの運転手さんにしろお客に対しては、完全に受け身である。これらの職業の人たちは、お客に非があっても叱りつけるようなことはしない。怒り散らし、文句を言うのは客の方であって、受け手側の我々から利用者(つまりはお客様)に向かって文句は言わない。そこには、プロとしてのプライドがあるからである。
如何なる要望にも、適切にお応えする力を持ち合わせていなければいけない職業が、これらのヒューマンサービスと言われる職種である。私たちはプロとして、顧客満足(CS)を最大の目標として、日々研鑽に努めなければいけないわけで、そのためにキャリアパスと呼ばれる、自己研鑽と自己実現に向けてのステップアップ指標をこなしていかなければいけない。ヒューマンサービスってのは、それこそストレスとの戦いのような職種であって、決して生易しい、気楽な業務ではない。職がないから介護の世界に首を突っ込んで見たと面接の場で言われることがある。しかし、それまで機械相手の業務に就いていた人々が、何の経験もなくヒューマンサービスの世界に対応できるはずがない。機械相手の仕事に思いやりが不必要とは言わない、そこには、エンドユーザーの使い勝手を考えながら作業する人も居るはずだ。しかし、我々の実践しているケアの世界には、常に考えながらの作業の連続であり、時間まで決められた作業をこなせば終了と言う世界ではないことが大きな違いである。相手は、人間であり、いく万通りもの要望や欲求を抱えて、それらのすべてを満たしていかなければならない。そんな業務である。
要介護者には、残された時間に限りがある。ある程度、自身でも余生の時間を認識している毎日であろう。だからこそ、日々に苦しみや悲しみ・痛みの無い時を過ごしたいのであろう。僕自身も58歳となって、残りの時間を考えるときがある。今まで過ぎてきた時間の倍は無理だろう!と考える。すると20年?はたまた10年?と考えてしまう。何れにせよ、残された時間に限りがある以上、今の時を大切にしたい。この時間に対する認識の違いが介護職と要介護者の感情の食い違いを生み出す要因となっている。しかし、これとて、すべての人間が通る道。他人の余生なんて関係ないさ!となりがちである。実際、年寄りの愚痴なんて誰も聞きたくはない。しかし、ここで私たちが仕事を放棄したら、聴く義務を放棄したら・・・誰が私たちが年老いて認知症となった時に訴えを聞いてくれるのだろうか? 子供は親の背を見て育つという。私たち介護を担う者たちが責任を全うできず、義務を放棄したときに、社会は崩壊する。単純なことである。社会保障の崩壊した国に誰しも暮らしたくはない。
高齢者介護や障碍者福祉の業務を生産性のない仕事と言う輩がいる。確かに生産性と言う点から見れば正しい。高齢者にしろ障碍者から、世界の先端を行く技術やモノは生まれてこない。ましてや作業にも役立たない。しかし、こんな世界だが、人生の最終ステージとすれば、切り捨てることは出来ない。もう少しわかりやすく考えるならば、若いうちは病気知らずである。何を食っても食わなくても健康な連中は健康であり、病院なんて関わることなく過ごすことができる。しかし、中には運悪く、病院のお世話にならざるを得ない境遇だって存在する。また中年となり、それまでの不摂生が祟って病院のお世話になるものが出始める。そして、いよいよ人生の最終ステージの年齢となると、人は次第に壊れ始める。体が壊れる、頭が壊れる、心が壊れる。その結果、壊れたまま普段の生活を維持できにくくなり、我々のような専門職のいる施設の支援を受けることとなる。自分で自分の命をコントロールできない以上、命運尽きるまでは天のみぞ知る!である。 生産性がないという理由だけで切り取られてしまう人生だとすれば、使い捨てのような人生を誰しも送りたいとは思わない。そんな社会があるとすれば、悲惨である。働かせるだけ働かせて、不都合が出た時点で摘み取られるように処分される。そんな冷たい処に住みたくはない。だから、私たちの介護の仕事って重要であり、とても誇らしい仕事であると思っている。
しんどい!汚い!臭い!キツイ!この仕事って、この言葉が勝手に独り歩きしている。ここにしかない喜びや達成感はどこに行ったやら。達成感が紛失した理由は事業所側の考え方に由来する。これについて書き始めると切がない。次の機会として、介護の現場はしんどい。そんなしんどい介護を毎日実践してくれている職員が居る。それを要介護者も家族も施設経営者も分からなくてはいけない。
大事にしていた僕専用のマグカップにヒビが入った。ちょうど10年ほど愛用したアメリカ製のマグカップである。タイトルにも書いたように、マグの側面には「Me Boss.You Not」と書き込まれている。日本語に訳してみれば「俺、ボス! 君、違う」ってことかな・・・ 変に視点を変えれば、マグカップこそボスで、そのマグを使う僕はボスではない!とも理解できるねえ・・・何を起点としてモノを見るかによって、こんなにも捉え方は変わってしまうのですね。
このマグカップにしても年数が経てば劣化していく。人間だって同じで、年数が経てば壊れてくる部所も増える。今日、デイサービスの利用者の一人が話をしてくれた。朝起きた時に、最近は腰の部分に痛みがあって、すぐに起きられなくなってきた。と言っていた。年齢も年齢だけに、体の至る所に痛みが起きる。潤滑油もふんだんに回っている新車も、古くなるとアチコチにガタがきて乗っていても運転しづらくなってくる。それと同じことが人間にも起きている。ベッドの上で、軽く腕や足を曲げたり伸ばしたり、寝返りをうったりしながら、ゆっくりと起き上がるように体を慣らしてみると痛みが和らぐのではないですか?とアドバイスをしてみた。それと同時に、58歳の僕にしても、今や同じような症状が朝起きがけに痛みが伴っているよ!とお話をした。58歳でも同じように体が硬縮して、朝起きたばかりは、体のあちこちに痛みが伴う。同じですよ!人間ですから・・・と言うと、結構安心したような顔をして笑っていた。
年をとっても体の些細な不調も気になることは同じで、その些細な不安感情が、夜の睡眠を阻害し、昼間に眠気が襲う、昼夜逆転の始まりである。走行している間に、人間は幻覚、妄想を認識するようになり、大脳器質に巣が入り始める。認知症である。記憶も遠のき、食った昼飯も忘れ、いつの間にか食いすぎで、胃と腸は悲鳴を上げながら嘔吐へとつながっていく。
人間の体は、すべてがマインドコントロールされており、病は気から!と言われるように、こころ次第で体は動くようです。リハビリの先生が言っていた。「心が動けば、体も動く」 鬱の患者さんも主体的になることが病の改善に一番良い結果をもたらすそうだ。
何でも気持ち!考え方!それと視点!それぞれを自分なりに変えてみれば、小さな変化かもしれないが結果は大きな成功に結びつくかもしれない。
認知症のじいちゃん、ばあちゃんは可愛い!!と、若い介護職員が言ってます。うちの職員ではありませんが、よその事業所の若い職員さんの中には、このような表現をする人がいます。言葉としては、決して間違ってはいないように感じるのですが、よくよく考えてみれば、この言葉って?どうなの???といつも考えこんでしまいます。
確かに、認知症の高齢者って(認知症に限らず,高齢者すべてにおいて)時として、仕草が子供っぽく可愛らしい時がある。しかし、これは、普段加齢臭をプンプン漂わすオッサンにも言えることで、誰にだって仕草が幼く、可愛いと思えるときはある。それで、若い女の子たちって、加齢臭プンプンのオッサンに向かって、「きゃわい~イ!」って言うか???言わないよなア!!
爺さん、婆さんには可愛い!と言って、オッサンには言わない。この端的な理由は、オッサンは加齢臭が漂っていようがいまいが、オッサンであり、ひょっとすると危害を加えそうな(要するにセクハラもどきの)雰囲気とイメージが伴っているからだ。逆に爺さん、婆さんって、無害!と言えば無害。無害と言うことは、自分より立場を下に見ている。例え怒らせたとしても体力、腕力ともに勝てるし、最悪、無視すればよい!と見ているのではないか?!と
まあ、そこまで酷くなくても、相手を子供的な感覚で捉えている又は相手を自分と同等のレベルと錯覚している。根本に相手の人格や人生経験等の功績を見ていない。過去を無視して、そこにいる老いぶれた男と女をみてるだけなのではないのか?と思ってしまうのです。だから、軽はずみにも爺さん、婆さんを捕まえて「きゃわい~イ!!」と黄色い声で騒ぐのです。
さて、認知症の!というまえがきをしている以上、本題に入りましょう。認知症のじいさん、ばあさんって、時々ですが、あらゆる物を取り込んで隠してしまいます。昔は物が不足する時代に生きた証拠なのでしょうが、介護する側にしてみれば、とても困った状況があります。たとえば、トイレットペーパーの補充が追い付かない。入れても入れても無くなる。そして、思わぬ場所に、こっそりと仕舞い込まれたペーパーの山を見て、唖然とする! または、他人の物まで取り込んでしまうケースもある。デイサービスの利用者同士でも、勝手に物を持ち帰ってしまう。翌日、家族からは婆さんの〇〇がない!とお叱りの電話をもらうこととなるのです。それと、オシッコの問題でリハビリパンツをはいてる婆さん。家に帰って、リハビリパンツを自分で洗って、こっそりと干してる時もある。リハビリパンツやパットと呼ばれる紙製品には、特殊な吸水剤が入っていて、そんなのを洗ってしまうと、異常に膨らみ、しかも重くなって、紙の部分こそ乾くものの、肝心要の部位は乾かないのです。認知症のばあさん、そんなことはお構いなし。せっせと自分が汚したリハパンを洗濯するのです。
さて、このような事象は、在宅介護の中で、一番困る行為です。なんせ、小言でも言おうものなら自分の潔癖さを声を大にして強調する。おまけに、それで嫁と姑の争いが開始され、当分の間、ばあさんはへそを曲げて、食事にすら顔を見せない。流石に嫁さんも困りはて、結果、担当のケアマネジャーに泣きつくこととなるのです。では、このような問題には、どういう風に対応するのか?まず、リハパンってものは、リハビリのために穿くパンツであることを再認識する。リハパンは簡易な使い捨てパンツと同様なイメージである現実の意識を払しょくする。できれば布パンツに戻して、排尿周期をみてトイレ誘導を行う。もちろん、成功するときも失敗するときもある。大半は失敗することの方が多く、大概の家族はこの時点で諦める。介護職員も同じく、数回トイレ誘導に失敗すると、それ以降は再びリハパンに頼ろうとする。問題はここに存在する。手間を惜しまない。汚したら変える。この繰り返しを実践することで、悪い習慣は改善されていく。一旦リハパンから卒業できれば、それ以降の恐ろしい程単純な、パンツを洗って自分で干す行為は激減する。まあ、だまされたと思ってやってみな! 結論は、遣ってみてからの話にしましょうよ!
まあ、と言いながらも、認知症の人の介護は忍耐との勝負って感じである。相手との根競べ! それほど執拗な人間本来の欲求が根底に潜んでいるのです。マズローの自己実現。人間って、本来はクドイ動物なんです。決して、きゃわいい~動物ではないのですよ。
先日の研修終了後、次の研修テーマを職員に尋ねてみた。いったいどのような研修を望んでいるのか・・・?である。
考え抜いて出した結論が、認知症の高齢者への対応方法が知りたい!と言う。確かにうちのデイサービスでも認知症を患う利用者の数は多い。そのレベルもマチマチであって、重度の精神的障害を抱える人、重度の身体的障害を抱える人、また認知症諸症状はかなり激しく表面化しながらも身体の不自由を持たない人、と様々な認知症高齢者が利用する。また、僕も認知症を専門にする施設群である三重県の協議会で研修の企画を行っているが、実際問題として、認知症と言えど、あまりに多面的諸症状がありすぎて、対処法なんてのが存在しないのが現実である。それに、元来のHOW TOものと言われる研修の無意味さについても重々承知している。相手は人間である以上、マニュアルに書かれた通りの対応を行って、反応が同じはずがない。これは、自分自身に置き換えて考えてみれば、一目瞭然、そんな介護なんて有りえない!わけである。
しかし、だからと言って、認知症高齢者の介護拒否に際して、何も打つ手がない!と言い切るには、担当する職員だって路頭に迷うだろう。だから、少しだけ認知症について解説をしてみたい。
認知症のジイさん、バアさんってのは、それぞれの人にしてみれば自分自身が認知症を患っていると思っていない事が多い。至って普通であり、何も以前と変わりない一人間であると思っている。しかし、職員から見れば、このジイさん、バアさん、どっかおかしいぞ!?と感じている。このギャップが、まずは介護を難しくしている。つまり、介護する側は相手を認知症と決めつけ、何を言っても聞き分けのない人物である!と決め打ちして接することになっていないか?そして、相手も相手で、自分のことを子ども扱いしおって、わけのわからない事ばかり言いよる!と憤っている。意思の疎通を図ろうにも、相手も相手、こちらもこちらでは、お互いが納得できる訳がない。常に、僕は認知症のジイさんやバアさんには、しっかりとした説明を行うようにしている。ゆっくりと、分からなければ何度も繰り返し、相手の気持ちも考えて話し込む。すると全員とまではいかなくとも、ある程度の認知症のジイさん、バアさんたちは、こちらの言い分を聞いてくれて納得してくれる。この話しかけが重要である。
次に、認知症の人たちは、今の状況に不安感を抱いている。自分がどこで、何をしているのか、さっぱりと理解できない。周りには知らない輩がウジャウジャ居て、何か分からないけど、何かをやれ!と言っている。自分は今は、その気分でもないし、そんなことをやる必要性も感じていない。そんな自分の気分を度外視して、この者は、やたらと命令口調で自分を説き伏せようとしている・・・・。こんな状況が、認知症の人の周りでは、ごく自然に見受けられる。職員側からみれば、今は風呂に入る時間、ご飯を食べる時間、便所でウンコする時間なわけで、これを職員の都合による介護と呼んでいる。職員の都合は、あくまでも事業所の提供するサービスの枠に、利用者をはめてしまいたい。職員や事業所の意向である。しかし、相手側である要介護者は、そんなことは無視。まったく関係ない。そりゃ当然、その理屈は成立するのである。だって、認知症のじいさん、バアさんは、そのようなことを何も望んでいないからである。しかし、職員としては、家族の手前、何も変化なく、来所の時のままの服装で風呂にも入らず、排せつ業務もこなせてなければ、それこそ詐欺呼ばわりされるのが怖い。何とかして、専門職としての意地もあり、メンツを保ちたい。そう考えても不思議ではない。さて、こんな場合はどうするのか? 結論から言えば、動作を急がない。気分が乗るまで気長に待ってみる。そして、その結果が報いられなくても家族との連絡をしっかりと行い、家族には無理強いしなかったことを理解いただく。何が一番優先されるのか?を考える力。そして、その優先順位に従い、適切な介護ができるように職員が成長しなければ、家族も納得できないだろう。そのために連絡帳や家族との連携をしっかりと構築する努力が必要となってくる。
要するに、認知症介護は、じいさん、ばあさんと言いつつ、直接本人ではなく、家族と一丸となって支える連携力を構築することが最大の課題であると思っている。我々介護する側だけの独りよがりでもダメ!家族の一方的な要望をかなえるだけでもダメ。地域密着とあるように、地域全体で認知症のじいさん、ばあさんを支える姿勢がとても重要である。
って、職員の疑問にたいして答えになってるかなあ~疑問!
今日は太陽の家デイサービスセンターでは、施設内研修が実施された。職員の手作り研修である。テーマは「デイサービスにおけるレクリエーション」である。所要時間は一時間。恐らく、講師を担当した職員はいろいろと頭を悩ませて、胃が痛くなる思い出今日のこの日に臨んだことと想像する。ついでに、僕も傍聴させてもらった。(傍聴と言うよりは、かなり意見を言った方だが・・・)
とにかく、研修と言いながらも、白熱した討論の場となった。それが良い、悪いはさておき、僕は、みんなが一つのテーマについて、意見を出し合う姿は、決して悪いことではないと思っている。むしろ、この結果、皆がレクリエーションとリハビリテーションについて真剣に考えることができた。と言う意味においては有意義な時間であったと思う。
ただ、テーマがテーマなだけに的を絞りこむのに時間がかかった。あまりに門戸を広く取りすぎたために、何について話をしているのか、何を改善することを目的としているのか?がボヤケテしまいそうになった。問題は、担当する職員が提示するのは、今の太陽の家のレクリエーションがマンネリ化してるのではないか?という点であった。確かにマンネリ化しているかもしれない。その大きな原因ってのは何か?を議論した。つまりは、個人個人の職員が、自分のやるべきこと、ほかの職員にやってもらいたいことの両面で、遠慮やまかせっきり(まったく相反する原因ではあるが・・・)、職員同士の連携や意志の疎通が取れてない。言ってみれば、利用者をその時ばったりの安易なごまかしが蔓延しているということであった。
職員とすれば、そのような誤魔化しと言う認識は持っていない。そればかりか、一日の作業量に振り回され、業務多忙によって、本来自分がやらなければいけないことに支障をきたしている。しかし、よくよく考えてみれば、業務としての記録もそうだが、業務の一環のトイレ介助や家族との連携の部分が、職員の思いを達成させるには足枷となっているようなのだ。しかし、もう一度、よく考えてもらえれば、職員も理解できるのだが、そこに介護職員の癖と言うか、何というか、「介護」と言う視点を固定してしまいがち、強いて言えば、頭が固い。固定観念で、決めつけで、それらにとらわれすぎているがあまり、行動が縛られているのではないか?という結論に達した。
まあ、職員としては、楽しんでもらいたい、何かの役に立てるようなレクであり、リハビリを兼ねたものであった方が良い!これらすべてが逆に視野を狭めたり、選択肢を狭めたりするブレーキとなってはいないのか?と言う点が大きな問題であると・・・
次月は主任ケアワーカーの妻鹿が講師役を担当して「チームワーク、チームケア」と言うテーマで研修を実施してくれることとなった。
施設長として、職員全員の成長を期待するあまり、過剰な負荷をかけているような気がしないでもない。しかし、自分自身の経験や性格から考えてみると、ある程度の負荷は、成長には不可欠であり、これらの負荷はストレスであっても、良質のストレッサーであると信じている。仕事は家族を養うために金銭を得る手段としてある。しかし、私たちの行っている業務も、美味いラーメンを提供して客の満足を得られるラーメン屋も同じである。相手が満足して、喜んでもらってナンボの世界である。顧客満足をCSと称して、今や全世界の企業がやっきになっている。福祉の世界ではCSが必要ないとは言いきれないし、そうあってはいけない。
この世界で金をもらって働く以上、単なる排せつ介助、食事介助、入浴介助だけをやるだけの福祉では、その辺に万とある一般的なレストランやラーメン屋ではなく、ここだけに存在する唯一を目指さなければ、俺たちに明日はない!という気概で頑張っていきたい。
榎本博明著「すみません」の国と言う本。これは面白かった。心理学者の視点から日本人の本音とたてまえを細かく分析、欧米人気質との比較から、日本人の良さを抽出している本である。諸外国から見ると正体不明、何を考えているかわかりにくい日本人の思考回路、ともすれば欧米化の波にのまれ、日本人固有の文化や思考をかなぐり捨てて、すべてが欧米マインドに同化してしまいそうな今の時代に、逆に警鐘を鳴らす本であった。僕自身、かなりの点で欧米風思考の持ち主であり、人に言わせれば本音の直球を投げまくる! 好き嫌いの格差が激しく、言ってみれば分かりやすい。しかし、単純で単細胞な厄介な日本人と言う評価がなされている人物である。この本を読んで、少しは日本人のワビサビを理解し、世の中に順応していけそうか・・・?と
まあ、人間、育った環境や人生で培った経験をもとに、後々のものの考え方に大きな影響を及ぼす。それを「良し」とするか「否」とするかは、その人の考え方によるところが多い。僕も学んでいない!と言えないこともない、頑固者のオヤジ世代となり、今後、どのように社会に順応していけるのかで、老後の人生が決まってしまう。人の言うことを聞かず、我が道を行く要介護者は介護職員から敬遠される。敬遠されるどころか虐待の憂き目にあうかもしれない。それも、人のいないところで陰湿な苛めにあうかもしれない。その時になっても欧米人は、自分自身の権利を主張し、徹底的に自分自身を援護しようとする。わが身を振り返らず、主張ばかりは一人前。そんな人物が今後、増えてくるとしたら、それこそ介護の世界にも欧米的思考回路を研究し、理解しなければいけない時代が到来するのかもしれない。
何も、さしあたって大きな問題ではないが、これからの要介護者の多様化は、以上に述べたような思想にまで言及した対人援助技法が求められることは確かである。今でも四苦八苦の連続の介護職諸兄、さらなる努力と学びが不可欠となりつつある。
認知症介護や高齢者福祉の世界では、今の時代背景が介護に大きな影を落としているといわれている。核家族化、少子高齢社会や限界集落などがそれだ。 人口の過密は都市部に集中していることは、誰しも知っている通り、東京に限らず、この三重県に於いても、都市部(って、言葉が恥ずかしいけど)・鈴鹿、四日市、津などの中心部に人が集まり、山間部では人口の減少とともに老人世帯の増加が問題となっている。さて、なぜ問題化と言う点について、この私の家を例に話せば、私の家庭では両親ともに健在ではあるが、老人二人だけの世帯と、離れた場所に我々子供世帯が生活をしている。
年々、両親だけではなく我々子供世帯も歳を重ね、老人世帯は年金を中心に生計を維持している。そして我々世帯は、夫婦共に高齢者介護を主体として生計を立てている。夫婦共に施設の長として忙しく、自由になる時間は限られている現状である。オヤジ夫婦は、健在と言うものの、御多分にもれずに母親は膝関節の障害で歩行が困難で、親父が主介護者として母親の介護を行いながら、何とか日々の生活を維持できている。御蔭様で認知症の方は、かろうじて問題にはなっていないが、それもいつまで行けるのか・・・?!と不安材料は多い。 これは、言ってみれば今問題となっている「老老介護」と言われる現状であり、夫婦の何れかが倒れれば、その時点で生活のバランスは崩れて、何かしらの生活支援を必要とするわけである。
私が子供のころは、オヤジ夫婦と私たち子供と祖父母が同じ屋根の下で生活をしていた時代である。それぞれが家事を負担し合い、協力しながら毎日の生活をおくっていた。時の流れとともに、祖母が脳血栓で倒れ要介護状態となった時も、家族全員(僕は子供すぎて役には立っていなかったが)が協力し合って、在宅介護を継続した。だから、ばあ様は自宅で亡くなった。次にじい様が認知症となった。その時は、親族の感情的な反対に合いながらも、地域に芽生え始めた老人介護施設で介護をお願いした。この時のオヤジの年齢が今の私の年齢である。 家には私や妹が一緒に暮し、じい様の面会や必要な用品の交換や届け物などを分担しながら家族で補った。
そして今の時代である。自分自身も年老いていく中、おやじ夫婦の生活は長男である自分が背負うこととなるが、先にも述べたように今、夫婦のうちのどちらかが潰れると、途端に困ってしまうが、その困難さは以前の比ではない。夫婦共働きで、それぞれに責任がある毎日を過ごすものとして、いちいち両親の生活を支援するだけの余力がないのである。介護保険に頼り、フルで施設のお世話にならなければ、介護者の生活まで壊れてしまいかねない厳しい現実が存在するのである。
先に書いたように、老老介護の果ては核家族社会のデメリットが、生活を困難にさせていくマイナス・スパイラルが発生するのである。生活相談員をしていると、このような困難なケースは、いくらでも遭遇する。地域社会の到る所に、これと同様の問題は転がっている。老人同士の介護を余儀なくされ、介護負担は一人の肩に重くのしかかる現実がある。精神的にも肉体的にも、歳をとってからの介護や看病は難しい。特に夜間のケアは、年寄りにはきつい。だから、今、政府が24時間のケアを模索しているのである。24時間体制で老人を見守っていく体制づくり。それも、介護保険の契約の枠を超えて、柔軟な対応を可能とするシステムが求められている。
介護保険の将来は、この問題をクリアーにしていくことから始めなければ、介護保険料の値上げばかりでは国民の負担ばかりを増やして、有益なシステムの無い社会保障制度では、要介護者の増加する一方の日本の社会は破たんする。
唐突ながら、まず大盤振る舞い!けち臭いことは言わない。何でも好きにさせる!すべて自由!束縛を一切しない。規制もしない、休みたい!と申し出たら、どんどん休みをやる!西に同じことを繰り返し言う利用者にヒステリックになった職員が居れば、その職員をかばい、東に介護疲れの職員が居たら変わってあげ、子供が熱を出したと保育園から連絡を受ければ、即座に職員を早退させ子供を看病させ、北に腰痛に悩む職員が居れば、腰痛予防の福祉器具を購入し、南に送迎車をコンクリートブロックにぶち当てた送迎担当者がいれば、黙って黙々と事故処理を行い、保険会社と折衝をおこなう。
こんな管理者や施設長は、絶対に職員と仲良くなれる!(・・・よな!!!????)これでも、管理者なんて、大っ嫌い!なんていう職員は、ハッキリ言って、罰当たり! まあ、こんな管理者や経営者は、どこを探しても居ないはずだ。僕からすれば、情けない!の一言に尽きる。その理由は、上に書いたような振る舞いって、基本的に芯が通っていない。何がしたいのか?何を追及してるのか?分からない。 職員は、確かにより多くの給料を求めて、常によりベストな働き場所を求めている。これが、立場を変えて自分が介護職員なら、当然のごとく常によりベストを求めるはずだ! 自分の生活を、より理想に近づけるため、高額な報酬を求め、より高い評価をしてくれる職場に魅力を求めている。誰しも、職場内で糞ミソ扱いで、いつも顔を見れば「馬鹿!だの、脳タリン!」などと呼ばれ続ける職場に、安らぎを感じないはずだ。職員だって人間だ、いつもありがとうね! よくできたね! 助かってるよ!と言われる方が気持ちいいに決まってる。
そう、職員はアホで脳タリンかもしれない。管理者や経営者は、それなりに多額の借金抱えて大博打をしてる連中だ!職員のようにアホではばくちは出来ない。しかし、よくよく考えてみれば、こんな儲からない事業に多額の借金をつぎ込むのって、アホな職員以上に大ばか者しかできない技ではないのか?とその頭脳を疑いたくなる。儲からないから、それを職員のせいにする。動かない職員ではなく、動かせない管理者は己を戒めることも忘れ、すべてを他人のせいにする。本当に、どちらが足らないのか、わかってない現実に職員の疲弊する。
介護の現場では、すべての作業が見よう見まね、猿まね合戦の連続である。職員も管理者もてっとり早く、「HOW TO?」を求め、こんな時は、こうするの!式介護術にはまり、実際の状況判断を誤り続けている。職員も管理者も、不必要なプライドばかりに左右され、人の言うことを聞かない。また、同時に学ぼうとしない。そりゃ、いつまでたっても介護の質はよくはならない。
遊ぶこと(レクリエーション)のことは成立するに時間は必要ない。ほんの数時間で決定し、それに向けて皆が一丸となり努力する。しかし、これが機能訓練ともなると、専門外と言うこともあってか、一か月が経過しても何も進まない。おまけに、遣ってることは数か月前と何も変わらない。これでは、何を目標に仕事してるのか分からない。しかし、そんなコタア、どうでもいいんだ!職員と仲良くできれば!
介護の現場は、やる事が溢れている。やる事多すぎて、一日の就労時間内には片付かない。しゃあないので、出来なかった分は明日に持ち越し。そう自分に言い聞かせて積み重ねた宿題が昨年の末からたまりっぱなし。これに似た状況が郵便局でもあったように記憶している。配りきれなかった郵便物を、最終的にはかってに焼却してしまった局があったそうな!どうも、よく似た現象だぜ!溜まりにたまり、熟し切れない仕事は、どこかで一旦きれいに始末しようぜ!そん時は、俺にも声をかけてくれよ!手伝うからさ!と息巻く。
ああ~、今日の俺って何かあったの・・・・?と勘違いされそうなブログ。特に何事もなく平穏な一日が過ぎた。ただいつものタッチのブログにちょっと飽きた!ってのが本音。こんなブログも、時にはいいもんだ!
アメリカのジョークに面白いのがあった。最近、日本人の新進コメディアンが、このジョークをネタにしてる者がいて驚いているが、ストーリーはこうだ!
ある日、潔癖症の男がレストランに一人、メニューを眺めながら今日一番の夕食を楽しもうと品定めをしていた。十分な吟味の末、男は意を決してウエイターを呼んだ。
男の呼びかけに即座に応じたウエイター君。少し浅黒い顔、それほど身長も高くない黒人系。恐らくプエルトリコ系の黒人移民だろう。強いアクセントの言葉で注文を取りに来た。
「はい、お客さん! お待ちね! 注文、どうぞです!」 不慣れな言葉遣いに苦笑しながら、男はニューヨークカットステーキとサワークリームをたっぷりと載せたポテトを注文した。そして、ウエイターがテーブルを離れる間際に、思い出したように追加のスープを至急持ってくるように命じた。 軽く会釈して立ち去るウエイターを尻目に、男は持参した夕刊に目を通し始めた。しばらくすると、先ほどのウエイターが依頼したスープを持ってきた。
「お客さん、お待ちなさいませ! 今、スープ、持ってきてます。」 と訳のわからない言葉とともに、男の前に並々とスープが入れられたスープボールを置いた。
ところが、テーブルに置かれたスープボールには、事もあろうにウエイターの太く、黒光りする親指が浸っているではないか!そんなことは関係ないがごとく、ウエイターは、次のステーキまで、スープを楽しんで味わえとばかりの言葉を残し、立ち去ろうとするのである。男は客であり、おまけに潔癖症である。少しも不潔な状況は許せない性質である。ウエイターを呼びとめ、客が飲むべきスープの中にウエイターの指が使っていることは許せないと、憤慨して苦情を伝えた。するとウエイターは、
「お客さん、私、今日、この親指怪我したね!病院いったら冷やしたらだめだ!って言われたね。だから、スープの中でずっと温めてたね! だからちょっとスープもぬるいかもしれない!適度にひと肌! うまいよ!食べてみ!」と、全く反省する雰囲気ではない。いよいよ頭にきた男。
「そんなことは理由にならない! ましてや、俺がスープを注文しなければどうするつもりだったんだ?」と問いかけた。するとウエイターは、
「大丈夫! お客さんのスープができるまでは、自分で自分のおケツに指入れて温めてた!」
・・・・・・どうですか?面白くないですか・・・・??
ウエイターの男の言い分は、自分を中心にした視点でものを判断してる。客と自分の立場を理解しているようで、客にサービスを提供する意識が希薄である。こんな分かり切ったこと、そして、常識では考えられないことがジョークの世界では起こり得る。その現実と空想の世界のギャップに私たちは、酔いどれの世界でいろいろなジョークをつまみに酒を楽しむ。酒を楽しむジョークなら罪はないが、これと似通った行為が高齢者介護の政界では現実問題として、平然と行われているようだ。介護職員の常識は、そのまま介護を受ける側の常識とイコールではない。ましてや、望んでもいない訓練を強要され、望んでもいないにも拘らず長生きをするためと称して規律正しい生活や日光浴を求められる。誰のための人生で、我々は何のために介護を実践するのか?介護する者も一度立ち止まってよくよく考えてみる必要があるのでは???