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ブログ-施設長の部屋

2012/5/22
今どきの親は子供を放し飼いにするな!

僕は怒っている! 何に対してかと言えば、子供のしつけに関する今どきの親に対してである。

最近、常に感じることだが、今どきの親は子供を叱らなくなった。そして、自由奔放、何の制約もないのびのびした環境で子育てを希望する夫婦が多いようだ。今日の近所のスーパーマーケットでも、子供が走り回り、商品陳列棚の間でかくれんぼをしている。また、幼児が用事を乗せたベビーカートを母親から離れた場所で、それも単独で押している。狭い通路をやみくもにカートを押して歩く状況は、献立に迷いながら品定めをして買い物してるオッサン、オバサンには危険である。

 どちらの方向に行きたいのかわからず、こちらの方が自分の思う方向を譲らなければいけない状況があった。まあ、100歩譲って、相手は幼い子供のやること。そんなに目くじら立てて憤慨する必要もないわけだが、それでも、親は何も言わない。こちらの方がハラハラ・ドキドキする状態である。

 今どきの親の考え方はともかく、夕暮れ時のスーパーは、夕ご飯の材料を調達して、速やかに夕食の調理にかからなければいけない者ばかり。みんな結構、先を急ぐ者が多い中、子ずれの客にも同様の権利があるといわんばかり、または、公共の公園で子供を放つ親のように、本当に子供は自由に、思うまま走り回る。これは、はっきり言って「暴力」である。あなた方以上に、私にも安全に、そして速やかに買い物ができる権利がある。相手が無邪気な子供だから責任はないにしろ、それらのガキを管理する義務は親は持ち合わせているはずだ。これらの無頓着な(横着な?)親に声を大にして言いたい。

「あなた方の勝手な理論を掲げて、子供を放し飼いにするな!」と。

2012/5/22
サービス利用者の主張と介護する者の感情

デイサービスにしろ、入所系施設利用者にせよ、今の介護保険利用者とサービス提供者との感情的もつれ。ってのはどこからも聞こえてくる悩みのようである。苦情と言うレベルではなく、個人的な感情のもつれもあるし、肌が合わないといった些細な理由で特定の介護者を無視したり、避けたりする利用者感情が存在するということである。我々、介護する側には、公平性や平等なサービスの提供を義務づけられている以上、利用者を差別することは出来ない。元より、バイスティックの7原則の中には、平等の前に、非審判的態度を求める項目がある。如何なる状況であっても、利用者を評価、判定することはしてはいけないのである。

 理論上は、利用者のすべてに対して平等で公平な安定したサービスの提供が行われるべく、介護者自身が自分自身を律して業務にあたっているはずであるが、そこに、少なからず感情の因子がからんでくるのである。これは人間である限り、当然と言えば当然の姿であるが、そこをもう一度考えるべき職業が介護職員であり、直接処遇者と言われる職種である。

 しかし介護職員だから、専門職だからと言って、文句は言うな!と切り捨てることは、介護職員の負うこととなるストレスの観点から適切な処置とは言えない。すべての介護職員が修行僧のように厳格な規律を守って厳しい修行を積んできた者でない以上、すべてを理解して相手に対して公平な感情を維持しろと言う方が無茶苦茶な説法である。

 今日、この話題にふさわしい話が飛び込んできた。うちの介護職員の一人が片麻痺の女性利用者の入浴を介助してた時に、一番の新顔になる職員の介助を拒否したという話である。本人の口からの訴えではないので、本人が受けた感情的負のダメージに関してはよくわからない。しかし、この女性利用者は、過去にも新人イビリが目立つ利用者でもあり、新人たちは概ね最初のころに洗礼を受けているような、とても難しいタイプの人である。一歩退いてみてみると、若くして脳梗塞を発症し、左半身不随となり発語にも多少の障害が残ってしまった女性だけに、ある意味、身体は一般の高齢者に比べても若い。脳の機能も高齢者と違って若さを保っており、我々の言うことは概ね理解できる状態である。心身ともに健康で、ただ単に身体機能に不随が存在するという状況は、さぞやストレスフルでフラストレートな気分であるだろうと考えられる。自分に置き換えて考えれば、今の自分自身の行動に、物理的に制限を受けながら、毎日を暮しているとすればどうだろう・・・?!自分が思うまま行動し、必要と思った時にショッピングに出かけ、自分の欲求どおおりに活動できる我々が、活動の制限を受けるわけである。これは辛い。ただでさえ、じっと家にいることを嫌う若い世代に、そんな制限ある生活なんて出来っこないはずである。そう考えれば、ある程度、彼女のわがまま(取りあえず、わがままと表現させてもらう)には理解が伴うはずである。

 さて、そこで次に、こんな差別的な介護職員が受けることに対して、もう一歩踏み込んで話を進めたい。一応、彼女を理解することは、軋轢を感じた本人が冷静な気持ちとなれば可能とする。しかし、これらの軋轢にしても数重なれば、そんな理解力もへったくれもなくなるわけで、そこに行きつくまでに介護職員として、遣らなければならないことが存在する。それは、信頼関係の構築である。ここでいう信頼関係とは、深い部分でお互いの心がつながる信頼関係ではない。「私があなたを介護しても、安心しててくださいね!」と言う信頼関係である。この関係づくりに一番効果的な行為は「会話」である。単なる日常の会話でよい。あいさつ程度から少しだけ踏み込んで、自分の好みの色やファッション、好きな事などの話から、相手との共通な話題を探す行為である。人間である以上、些細な感情のもつれも生じると同様、少しの会話を実施するだけで相手を分かったような気になるものである。お互いが通じるものがあると思わせること。この働きかけが、一番最初に実施されるべきである。

 それと同じくして、やはり同僚の応援と言うのも欠かせない。自分が受けた軋轢を話すことによって、少なからず新人職員の人格を傷つけて痛手は癒すことができる。先輩職員の一言「ドンマイ!ドンマイ!」と、温かな思いやりの一言ですべては丸く収まる。介護の現場ってそんなところさ!

2012/5/21
至福の時

天候の良い一日、自宅裏庭のベランダでスイングベンチに揺られ音楽を聴くことは、僕にとって最高にリラックスする至福の時である。表通りの喧騒から離れ、裏庭には静けさが存在する。風の音とともに時折上空に飛来するジェット旅客機の音が、眠気を誘うかのごとく・・・今日、聴く音楽はやはりトニー・ベネットか?!それとも、ジェットストリームか?

 それほど多くはない木々の新緑の葉っぱが風に揺れ、かすかなジャスミンの花の香りが僕の鼻をくすぐり、こうやってノートパソコンを膝に乗せて、おもいついたままブログを書き込んでいく。こんな時は頭の中も余裕がたっぷり!いろいろな思いが駆け巡っていく。同じ駆け巡っていくにも、仕事の時とOFFの今日は、随分と重みが違う。OFFの日は、面倒なことは一切考えない。夕食の献立に思いをはせ、時には流れる音楽の音色にうっとりと聴きいり、軽く目を閉じて惰眠をむさぼるのも良いかもしれない。風が少し肌寒いものの、一枚余分に着込んだ長袖のカーディガンで十分に事足りる。

 その昔、僕の一番好きな場所は同じようにカリフォルニアの下宿のバックヤードだった。学校の教科書をもって、同じようにスイングチェアーに腰を下ろし、本を読むとき。それは、何とも言えない最高の気分であった。乾燥した空気とそよかな風に包まれ、均一に刈り込まれた緑やわらかい芝生とオークツリー、庭の隅には真っ赤なバラ。パターグリーンの先には、まだ時期的に誰も入らないスイミングプールは水をはったまま、全自動のプールスイーパーなるクリーニングロボットが、時折水を吐き出しながら水面のごみを集めている。

 僕の家の裏庭からは、鈴鹿の総合病院の建物が見える。昨年の一時期、あの建物の中にしばらくの間お世話になっていたことを思い出す。僕は、もう、あそこに戻る必要はないが、今もあそこに世話になっている人が大勢いることを思うと少し胸が痛くなる。こうやって、自分が思うように外の空気を吸って、好きな時に音楽を聴き、好きな葉巻をくゆらせ、飽きてきたら部屋に戻る生活。健康だからできることであって、その有難さをしみじみと感じるのである。

2012/5/16
今日の驚き!

今日は車に関する驚きを二つ経験した。一つは、また、また、ちょっとおしゃれな車に、僕の愛車を煽られた!と言うお話。特にチンタラ標準的スピード(標準的と書いたのは、制限速度を超えて流れに沿ったスピードと言う意味で、そのように表現した)で走行中に、僕の車の真後ろにベタリと鼻先を押し付けるように近寄って運転する車。それは、ヨーロッパの車。コンパクトな車だが、結構機敏な走りに定評のある車である。僕のルームミラーに相手の運転手の顔がはっきりと分かる位べったりと!猫か何かが飛び出してきて急ブレーキでも踏めば、そのまま後部に追突される距離である。そして、その運転する人は若い女性である。驚いた、以上にあきれ果てた。何と無謀な!!

 次に紹介するお話は面白い話。片側二車線のバイパスを津の三重県総合文化センター向け走行中。僕は車内温度が上がりすぎるために運転席と助手席の両方の窓を開放して、追い越し車線を走行してたのです。二つ先の信号を右折するつもりで追い越し車線を走行。運悪く(?)手前の信号で赤信号、強制的に停止を命じられてスローダウン。僕の左側には軽トラック。次いで右側の右折ラインにシルバーマークを付けてた軽車両。最初、左の軽トラックから漏れ聞こえるラジオの音。そして、右側の右折車線に入ってくる軽車両が近づくにつれ、聞こえてきたラジオが、ステレオのように両方から聞こえ始めたのです。しっかりと、二台の軽車両に挟まれたように停車したのですが、偶然にも両隣の車両が同じAM放送を聴いてた。ってなわけで、それも両方の車両を運転するのはオジサン。聞いてたラジオ番組も「ラジオショッピング」だった。『通常は〇〇円のところ、本日限りのお得なお値段・・・・』ってな調子である。この偶然に思わず笑えてきた。ってお話。

 えっ?面白くなかった?! そりゃ、申し訳ない!

2012/5/15
最近は読書にはまっている。

先日のブログでも紹介したように、最近、よく本を読む。前回紹介した本はすべて読み干した。昨日見つけた里中李生という三重県出身の作家の書いた「一流の男、二流の男」を読み終えた。本屋さんで立ち読みしている中で、このタイトルにひかれ、おまけに同じ三重県人が書いた本ということに、とても興味がわいた。

初めて読む作家のエッセイであるが、とても人生に対して厳しい視点を持っている人で、言葉自体も厳しい。それこそ「あほ、ボケ、カス」の言い回しである。軟弱い現代の若者を糞呼ばわりして、ヨワッチイ人間は死ね!と言わんばかりの厳しさ。これまで読んできた高野登氏のホスピタリティーからは、180度、真反対の作風である。

 ところでそんな里中氏の理論から判断されると僕は一流の男か?二流の男か?答えは二流の男となってしまう。その理由は、僕の中に彼が言うほどの厳しさが欠けているからである。里中氏の言う一流の男とは、昔、好んで読んでいた大藪晴彦氏のハードボイルド小説の主人公のような人物なんだろう。すべての物にこだわりを持って、自分の成功のためなら愛する女まで犠牲にできる男。それでいて、自分を世界にアピールし、思い描く姿に向けて夢を実現していく男。そして、二流の男は、そのまったく正反対のダメ人間で、マクドナルドやサイゼリアなどのファーストフードで空腹を満たし、肉欲だけに植えているだらしない男を言うらしい。

 しかし、本当のところ、スーパーマンのような超できる男を応援し、できない男を拒絶するような文章を書きながらも、どこかで二流の男たちを鼓舞し擁護する優しさが、この本には存在する。高野氏のホスピタリティーを正当方とするならば、里中氏の文章はサディスティックであり暴虐的であるかもしれないが、お互いに求めるところは同じような気がするのである。実際に彼の本を読んでみると、僕の言う面白さは理解いただけることと思う。所々で、僕自身も似たところがあるとも感じる。言葉はきつく、悪いけど、本当に相手を信じ、思う姿が隠されている。ただ、表面的に見る限りでは、とても津もなく横着で横柄な態度に、周りからは理解しがたい人物と映るかもしれない。

 本を読むということは、楽しい。紙に書かれる活字を読むことは楽しい。i-padなどで読む電子書籍よりも、やはり紙に印刷された文章を読むことの方が何十倍も楽しめる気がする。もしも、このブログに興味をもたれる方がいたら、とりあえず、自分が読みやすい活字の本を買ってきて、または、自分が興味を抱くジャンルの本を読まれることをお勧めする。テレビから仕入れる情報よりも限りはあるが、それらの情報量よりも中身の濃い知識を得ることができるはずだ。


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