介護保険の改訂がこの4月から実施されたことを受けて、当太陽の家でも職員の雇用改善に重点的な改善を実施することとした。九年度では、介護報酬とは別枠で、雇用改善給付金なるものが与えられていた。新年度からは若干の制度変更が加わり、今までのような介護給付額に応じて純粋に加算給付されていたものを、キャリアパスやスキルに応じて仕分けられていたものが、本年度からは、介護給付の中に含んで給付されることとなった。もちろん、雇用を改善する目的を持った加算なだけに、事業所が利益として計上することは許されていないことはもちろん、それなりのスキルアップが果たせていないと、既定の利率で加算されることはない点がミソである。要するに、一定額の加算で私腹を肥やす事業所は罰せられ、もらうだけもらって自身のスキルアップもおざなり、介護の質の向上も望めないようなケアでは、逆に事業所も含めて罰せられる。もらう以上はがんばれよ!といった具合である。
さて、そんな条件付きでスタートした雇用改善。太陽の家では、利用者への提供サービスの向上もともかく、職員のスキルアップをメインに考えたキャリアパスを導入し、もう一度、職員の知識、技術と理念に至るまで、大改革を実施することとなった。基本的に、今よりはお給料はアップすることは約束するとして、その上げ幅が問題である。そこで、キャリアパスの登場である。
キャリアパスを簡単に言えば、その人なりの知識や技術などケアに必要な質の向上に向けて、段階的に向上させていく向上プログラムのようなものと考えてもらえればよい。今の状態がゼロの者もいれば、今が上級レベルの70の者も混在する中、持てる知識や技術レベルで判断するのではなく、私は、その人の向上していく努力の度合いを評価する方向でキャリアパスを導入するつもりである。つまり、私と初心者の介護職員とではレベルが違うことは一目瞭然であるが、こんな私も自己覚知もなくスキルアップも実践しない場合、一生懸命に努力して初級の高齢者ケアを学んでいる者よりも、評価は低いということである。評価が低いということは、その分のベースアップが困難になってしまう。つまりお給料に反映されない評価しかもらえない。ということである。
さて、そのキャリアアップに不可欠なのが、研修と定期的に行う人事考課である。研修は今までのように参加するだけではなく、その研修の目的を十分に理解してもらうためにレポートの提出を義務付ける。そして、そのレポートは採点を行い、それを踏まえた再アセスメントを行い、次の課題設定に結び付けていく。当然、人によって進捗状況は異なる。亀だから評価が下がるというわけではない。亀は亀なりに地道な努力を怠らなければ、それなりに評価を加えていく。
要するに、高齢者介護の世界も「家族介護の延長線」レベルではいけない!この道のプロフェッショナルを目指さなければいけない時代に来ているのである。素人でも良い。この道に入るきっかけが素人でもウエルカムである。しかし、一年たち、二年たちしながらも、初年度と同じレベルで介護を継続させるわけにはいかないのである。理論も当然、介護技術と介護理念も含めて、成長していかなければいけない。ちょこっと厳しくはなるが、それなりの達成感はある。どのみち、働く以上、どの職場でもスキルアップは求められる。働く社会人にも試験を受けてランクアップを成し遂げていく。ただ単に時間を過ごせば給料がもらえる時代ではなくなったのかもしれない。それなりに考え、それなりに結果を出していかなければいけないわけだから、職員もノホホンとしている場合ではないのかもしれない。
最近の若者を見てて思うことがある。今日も、近所の市民センターまで徒歩で向かっている時に会った若者もそうだった。一人、たばこをくゆらせながらゲームセンターに向かって歩いていた彼。歩き方も覇気がない。ダラダラとふてぶてしく、そして面構えも不機嫌そのもの。朝から何がそんなに気分が悪いのか知らないが、少しでも文句を言おうものなら、途端に包丁出して僕を襲うぞ!ってな感じが伝わってくる。ゲームセンター入り口でたばこを地面に放り投げ、足でもみ消して中に入っていった。
京都の小学生の登校列に車で突っ込んで、数人の人を殺してしまった18歳の若者といい、中学生がバスジャックを試みて運転手の胸を果物ナイフで刺したりと、とにかく今の時代の子供たちは病んでいるように思う。大事!大事!と過保護に育てたアホな親の元で成人するにつれ、子供たちをしっかりと指導育成する人物が周りにいない。そんな言ってみれば「不幸」な若者たちが多く存在する。アホな親は、子供ってのは放っておけば勝手に大きくなると信じ込んでおり、子供の都合や求めを無視して、自分の要望に固執し、まずは自分のやりたいことを優先。余った時間で子供を溺愛する。
親のプライドと勝手な理屈をつけて、学校の教育現場に怒鳴り込んでいくモンスターペアレンツも同様、権利ばかり主張して、社会との協調性を無視し言いたい放題、不条理であっても声が大きいほうが勝!勝手な論理をまくし立てる親を見てれば、子供だって、同様に言いたい放題、ごねたもの勝ち、そして、自分中心の論理を、正論のごとくまくし立てる。
今の若者を責める前に、今の親たち。私たち世代のものの考え方をいったん冷静に考え直し、世の中をリセットすることができれば、さぞうれし!といった状況である。先日のブログでも書いたように、人生、誰しもにそれなりのチャンスは到来する。今の日本社会には、アフリカの一部地域で貧困にあえぐ人たちのような厳しい現実は存在しない。もちろん、就職浪人や生活保護設けることができずに餓死する人も中には存在する。しかし、ある程度、最低限度の生活は送ることができる社会には成長している。社会をどのように考え、どう生きるか?は、個人次第という側面が無きにしも非ず。しかし、仕方なくすべてを社会に依存して生きるとしても、そこからの脱却は人間である以上、最低でも努力すべきである。野生の動物でも生きるため、必死になって餌を探す。それこそ生きる努力をしている。人間の勝手な行為が自然界の連鎖を断ち切っておきながらも、そんな自然界に適応しようともがく動物。
今の社会を恨み、反発し、不条理な論理を吠えまくり、自分中心な行動を考え直そうともしない人間たちは、それこそ自然界で必死に生きようとする動物よりも劣る!
◎ずばり・・・「速読術」
この本、たかだか120ページ。800円の本。読むのに2週間。
いまだに、セクション1しか読んでない。
・・・・・・・・・効果ないじゃん!
◎今、とても気にしてる事・・・・・・・「適度な運動」
春先の天候不順で歩くことができない日が多い。近所に数あるトレーニングジムへ通うか?!と思い立ったのがこの春に入る冬の終わり。いまだに、どこのジムにも所属せず。
◎ジムに出かける時間に都合がつかないなら、エクササイズレッスンをDVDで・・・・と考えて
最近よくCMで流れるエクササイズDVDを購入・・・・・
しかし、うちの家にはDVDプレイヤー無いし・・・・・
◎太るからと間食を止められつつも、買い物に行くたびに欲しくなって買ってしまったベルギーの板チョコ。
食べてるところを見つかると煩わしいからと仕舞いこんでしまい、今では一年が経過!
以前の僕のブログでも紹介したが、BSで放送されている番組である「小さな村の物語」というイタリアの小さな村の紹介番組。旅番組ではない。毎回違った、観光地でもない、なんの編綴もないイタリアの小さな村に暮らす人の生活を紹介している番組である。その人の家族、生活、そして生活歴などである。僕はイタリアが好きで、もちろんこの国の料理も大好きである。料理というより、この国の食文化が好きである。日本人によく似た食文化を持つイタリア人たちの普通の人生。そんな彼らの飾らない平凡な毎日。貧しかった若いころの話を織り交ぜ、小さな村で暮らす人々の人生を描こうとしている。
僕が、この番組の中でいつも思うこと。それは、彼らが日本人ほど遮二無二働かないにも関わらず、とても裕福な生活をしている点に驚いている。裕福という表現は、日本人にとって誤解を生みやすい表現かもしれない。何故なら、日本人の言う裕福とは、物質的な裕福であり、大きな家、立派な調度品やブランド品に囲まれ、高級車を乗り回す。そんな物のあふれた贅沢な環境を裕福と憧れるからだ。しかし、この番組に紹介される家族たちは、いたって平凡、シャネルもルイ・ビトンもベンツもレクサスも無い。みんな普通のファッションに身を包み、イタリアの大衆車を運転し、歴史を感じる古い建物を手直ししながら近代風のキッチンにはしてるものの、それほど豪華な台所でもない。本当に普通の生活をしているのである。
日本をみてみると、朝から晩まで必死(お前は死にもの狂いでは働いていないだろう・・・!という声が聞こえてきそうであるが・・・)で働いて、今のこんな生活環境である。自分の人生を楽しんでいる余裕すらないのが一般的である。仕事して家事をして、風呂入って、寝て、また働く。毎週必ず仕事は休めるものの、子供のための何かをする。または、地域のための共同作業を行う。
イタリアの小さな村だから、日本ほど物質文明も豊かではない。携帯電話は普及してるが、その携帯なんて番組の中の生活には一切登場しない。日本のように携帯電話が鳴り続ける環境はないようだ。もちろん、イタリアでもミラノやローマなどの都会に出れば、日本と同じように皆が携帯電話で話しながら街中を闊歩しているが、こんな田舎では、そのような姿は見かけない。山間の急斜面を利用して段々畑が続く中に、石造りの古い街並みが立ち並ぶ。それほど肥沃とも思えない土地に植えられたオリーブやレモンの木には、自然の養分をいっぱい吸った果実が実り、畑の野菜には虫が共存し、日本のスーパーで販売されているような見た目美しく形の良い野菜ではなく、虫食いだらけの葉っぱや形の悪いキュウリやトマトでも大切にパスタソースに調理して食卓に並ぶ。
物質文明に憧れ、時代の先端を突き進み、世界の一流品を所有することに明け暮れ、一番大切な心の余裕を失っている、そんな我々日本人の生活と比べると、なんと豊かな人生を送っていることか・・・
今日は久しぶりに朝夕の送迎に加わった。朝は8時5分前に出発、順調に予定する利用者をお迎えに上がり、午後の4時半より、朝とは違った顔ぶれを乗せて個々の自宅までお送り。ちょうど一時間を要して、全員を無事に送り届けて、安どのため息。送迎運転手って結構疲れるんだ。だってさあ、車を運転してる間中、交通ルールを厳格に守る以上に、自動車教習所で運転を習う時と同じような運転をするんだ。直線道で障害物があるときなど、進路変更のウインカー、元に戻るときのウインカー、交差点で進路変更するときは、進路変更する3秒前にウインカーを出して、後方確認をして進路を変えるんだ。おそらく、今でも、自動車教習所で一発合格できるほど、運転は交通法規に従って運転できてると思う。
さて、話は運転のことではなく、全員を下した後、安どのため息をついて、さて、ここからは自分ひとり。FMラジオのボリュームを上げて、適当に音楽を聴きながら帰り始めた。すると、その局から面白いトークが聞こえてきた。一人芝居なのだが、家政婦ロボットミータを相手に男がいろいろと用を言いつける話。スイッチオンすると、毎回必ず、自己紹介から始まる。
「おはようございます。家政婦ロボットミータです。」(夕方なのに、おはようございます。は変だけど・・・)
そして男は、はじめてのミータに年齢を聞く。「お歳はいくつですか?」するとミータは
「女性に年齢を聞くのは無粋です。気分を害したのでスイッチオフ」ってな具合でロボットが勝手に自己判断でスイッチを切ってしまう。男はあきれ果てて、それでも剥きになって、すぐにスイッチオン。次は、年齢は尋ねずに、仕事を言いつける。洗濯をしろ!と命令する。するとミータは、汚いパンツ!と言って、また勝手にスイッチオフ。掃除しろ、特に拭き掃除をしろと告げると、手が荒れるからいやだ!といってはスイッチオフ。料理を頼めば、カップめんしか出さない。文句を言えば、またスイッチオフ。
そんなオン・オフを繰り返し、それではミータは何をしたいの?と聞けば、「今日はお休みにして下さい!」と言い残してスイッチオフ。
なんだか、うちの嫁さんとの会話のような気がして笑えてきた。
この番組、くだらないトークに合わせて、昔のロックを流す番組。ギターが踊り、しゃうとするタイプのギンギンのロックを聞かせてくれる。。言ってみれば「ノリノリの番組」。 僕は結構気に入ってしまった。特に今日の家政婦ロボットミータのトークは面白かった。笑えるし、気分が軽くなった。
ちょうど車が駐車場に到着したとき、同じ送迎運転手さんが別の送迎車で帰着。僕の車の横に停めながら、聞こえてくる大音量のロックミュージックに目を白黒。家政婦ロボットミータみたいな女、結構その辺にいっぱいいそうで怖いよね!
太ってる奴ほど高カロリーの間食をする。どう~しても食いたくなるブタまん。十分お昼ご飯も食べているにもかかわらずコンビニに寄ると食べたくなる。そりゃ~痩せやんわア~と自分でも嫌になる。
しかし、よくよくブタまん食べながら周りを観察していると、太ってるブタほどハイカロリーなモノを食べたがるようである。しかし、ブタまんって商品名、何とかしてほしいよね! セブンイレブンさん!
いつの間にやら日本中で個人の情報管理について、とても厳しい統制を必要とする社会となっていた。インターネットなどの電子媒体の普及によって、個人情報の悪用や影響に歯止めが効かない状況が増加したことと、情報の漏えいによって被る精神的負荷に個人が耐えられなくなってきたことも、大きな要因となっているのであろう。確かに、自分自身はもろく、崩れやすい、弱い人間である。強きを装いながらも、社会全体から総スカンを食らったとしたら、それこそ胃に穴が開くほどの精神的苦痛に悩むのではないかと想像される。ネット上の個人攻撃、根も葉もない誹謗中傷の類に、平然と平静でいられる人は少ないと思われる。だからこそ守秘義務が、何につけ取りざたされ、社会的コンプライアンスとして厳格な目をもって、我々の社会自体を監視するようにも思える。
さて、その中で、今、話題の男性三人を金銭的に利用した挙句に練炭自殺と見せかけて殺害する。という容疑者の裁判員裁判が行われた。そして、その100日にも及ぶ裁判員裁判は、毎回、たくさんの傍聴人が入れ替わり傍聴しながら、徹底的に審議が行われた。別にこの事件に限らず、刑事裁判は一般の者でも傍聴を希望すれば、裁判を傍聴できる。それも何の条件も制約も受けることなく、傍聴希望者の多い場合は抽選で傍聴人が決定される。
このように、いうなれば誰でも容疑者の犯した犯罪の全容を傍聴席で体感できる場が存在する。容疑者の顔どころか、細部にわたる個人情報が加害者側も被害者側も公の場にさらけ出されるのである。言っておくが、僕は今だかって裁判という場に出た経験は、交通違反をして簡易裁判という場で反則金を決められた程度しか持ち合わせていないが、どうも納得がいかない点として、これだけ守秘義務が叫ばれながら、犯罪という特殊なシチュエーションを、何の関係もない人間が傍聴する権利は、守秘義務よりも勝るのか?という疑問である。と同時に、それほどのアヤフヤな守秘義務の定義に対して、それらを盾に表札をあげない家が常態化し、回覧板さえ受け取りを拒否し、自治会活動の参加を拒否するのか?大きな疑問を抱えている。地域密着という名の連携の輪と、地域協力を得ながらお互いを支えあう。そんな理想郷を目指す方向性にある高齢者または障害を持つなどの弱者救済の現場で、隣の人は何をする人ぞ!?では、理念と現実に乖離がみられる。
裁判を公に(一部ではあるが)することで、犯罪に対する抑止力を養成するという目的性を持たせて、同じような事件を起こさない!ためにも必要不可欠な制度と考えられているのかもしれない。しかし、それならば、元からの個人情報なんてのは何なんだ? 銀行の口座番号や所得額や資産などの詳細について公にする必要性はない。しかし、どこの誰で、何をする人か!程度の情報が独り歩きすることが、そんなに大きな問題なのか?僕には、これら個人情報の管理自体に許容範囲を超えた行き過ぎが存在し、その結果が、冷淡な事件の多発やあまりにも簡単に人が殺されてしまう今の時代の恐怖につながっているように思える。過剰な個人情報保護意識の蔓延は、先に書いたような人の死を安易に考える事件の発生と表裏一体の問題を抱えているのではないか?と危惧している。
物事すべてに「旬」と言う状況が存在する。旬と言えば、その時々の季節の野菜や果物をさして、一般的に使われる言葉ではあるが、その旬。人間同士の交流の中にも旬が存在する。たとえば、背中が痒い!と言うとき。(例えが悪いか・・・?)、もっと適切な説明をするならば、僕の経験談の一つに、その旬を逃した出来事のひとつ。そのことをお話ししたい。
僕が日本福祉大学に学んでいる頃、東京の代々木でスクーリングがあった。僕は一学生として、この代々木のスクーリングを受講していた。この代々木のスクーリングは、全国で開催されるスクーリングの中でも一番規模も大きく、受講する生徒も多いのが特徴であり、当然、全国津々浦々からの生徒が集まってくる場である。集まる生徒もマチマチ。学生とは思えない強者もいれば、僕のようなヘナチョコ学生風中年もいる。まあ、それでも、僕は、どこに行っても、図々しさが売り! 日福の中でも結構活発な活動を行っていたおかげで、教授陣には面識も多く、いろいろと可愛がっていただいていた。まあ、もちろん、こんな僕よりも強者がいると書いたが、そんな強者の一人と知り合い、そのお蔭で学生同士の輪や教授との馴染みも拡大させてもらったという幸運も持ち合わせいる。話はそれるが、コヤツは女性でありながら、とんでもない輩で、怖いもの知らず。どんなところでも、僕よりも図々しく入り込んでいく。おまけに頭の切れは、流石と言わざるを得ない。そんな輩である。僕よりも一年先輩でさっさと社会福祉士の資格を取得し、その翌年に僕も資格取得。そして、その翌年には(2年後)には精神保健福祉士の資格も一発で仕留めた輩である。それでいて、その資格を持って、障碍者のボランティア支援を行っているという変人。(まあ、だんだんと、話題がそれていくが・・・)ともかく、そんな、東京のスクーリングってのは、僕にとって素晴らしい未知との遭遇、新たなる出会い、そして新鮮な刺激と多方面で得ることも多く、とても充実した学びの場であったことは事実である。
さて、その代々木のスクーリングの最終日のひるごはんの後。僕は一人でたばこを吸いながら、代々木の会場の喫煙場所にいた。そこに、今回のメインの講師である教授が通りかかり、僕は教授に会釈し、少なからずご挨拶をした。すると、経済学と福祉施設運営の両面を取り入れた講義を専門とする教授が、そんな僕を夕食に誘ってくれたのである。突然ではあったが、僕の名前を憶えていてくれただけではなく、夕食でも一緒にしますか?とお誘いを受けたのは、とてもありがたく。授業では聞けない部分など、いろいろなお話を聞かせてもらえる場として、それこそ、のどから手が出るほどの幸運に躍り上った僕だったが、ちょうどその時、僕は、同時刻にアメリカ時代の友人と夕食をとる予定で、麻布のイタリアンレストランに予約を入れていたのである。教授には、とても残念ながらと言う理由を告げて、丁重にお断りをした。
流石に日福の教授だけあって、そんな事で怒ったりはせずに、笑って「じゃあ、また次の機会に・・・」と言ってくれた。が、しかし、それ以来、その教授と何度もお会いする機会はあったにもかかわらず、お誘いは二度となかった。僕は、旬を逃したのである。
物事には、その時!という旬がある。その旬とは、言い換えれば、その人に与えられた「幸運のカギ」なのだ。飯を食う!その行為ではない。その時の教授の気持ちを大切に考える。好意を無にしない。そのことで、どの様な幸運が待ち受けているかわからないが、そのカギを握って進むことで、人生にとって何かの変化につながったかもしれない。と僕は考えている。教授について行って、食事の場に同席させていただくことで、そのスクーリングに参加していた外部講師の先生や学校関係者との交流も広がったはずである。現に、僕の友人の強者とともに、日福の一番人気の医学概論の教授のお誘いに乗り込んで、京王プラザの韓国料理店で焼き肉をごちそうになった。その時にも、外部講師たちや学校の事務局と同席して、いろいろな角度からお話を聞かせていただいた経験がある。
まあ、人間、どこにどのようなチャンスがあるかもしれないが、チャンスは待っているだけでは来ない。自分で捕まえ、それを自分の都合に合わせて調理できるような手腕をもって料理することによって、はじめてチャンスをモノにしたというえるのではないかと思う。
流石というか、あっぱれと言うか、ハチャメチャと言うか・・・・石原都知事が尖閣諸島を東京都が購入すると言い出した。いろいろな思惑は潜んでいるとは思うが、この報道に笑いが込み上げる。・・・・・いやいや・・・・決して馬鹿にした笑いではないですぞ!逆に尊敬に値する発言で、その勇気に敬服するほど。ちょい前の近所の市長さんが南京大虐殺で波紋を呼んだのとはレベルが違う。ああだ~こうだ~!ときれいごとを並べ立てた挙句、次の日には発言をひっくり返して原発推進を認めるどこかの大臣とも大違い。良くも悪くもはっきりと方針を示す点では、今の日本を動かす政治家には無い部分である。
都民の税金を使って、まったく遠く離れた無人の島の権利を買うことの是非は別問題として、この作戦を実行したブレインは、素晴らしい。そして、そんなブレインを従えた政権が天下を取った場合は、逆に恐ろしい場面も発生してくる。いわゆる恐怖政治と言われるもので、独裁的政治がはびこる可能性も無きにしもあらず。すべてにバランスよく、国民の平和と安心を軸に政治を行ってくれる人はいないものだろうか?
ここのところ世間を騒がせていた北朝鮮の衛星(?)発射のニュースではあるが、あれだけ大騒ぎした割には、線香花火のような大きな野望も露と消えたようである。打ち上げに際しては、国連も含めて周辺諸国やアメリカまで乗り出してきて、打ち上げ阻止に躍起になり、日本の防衛省では、首都圏はもちろん沖縄諸島に至るまで幅広く、迎撃ミサイルまで配備する徹底ぶり。新聞、テレビのニュースでは、いろいろな専門家を招いてのミサイルか?衛星か?の論議でにぎわい。実際の飛翔ルート近辺の諸島では緊急放送の準備まで整え、国民総出で北朝鮮の行動を見張っていたような時が過ぎ、今日の朝のワイドショーの時間帯での報道となった。
奇しくも京都の繁華街で車の暴走事故があり、8名の人が亡くなった報道と同時に、北朝鮮のロケット発射のニュース。8時30分頃のワイドショーの中では、未確認情報としながら打ち上げ失敗?!と情報の錯綜といったニュアンス報道がなされた。テレビのニュースソースは韓国の報道を基に発表され、その後に日本政府からの発表が行われた。発射失敗から一時間も経過している段階で、日本政府は正式なコメントを発表していなかった。
この数日というもの、北朝鮮のロケット発射に関しては、かなりの確率で迎撃できる態勢は整えた!と言い切っていた政府ではあるが、今日のドタバタを見てる限り準備万端と豪語していた姿勢に疑問を感じざるを得ない。韓国メディアは、発射の時から状況を把握しており、どこの誰よりも北朝鮮の行動を確認していたようである。もちろん、日本政府も打ち上げの瞬間から、しっかりと状況把握はできていただろうが、国民の無用な不安感情を誘導することを恐れて情報を徹底的に精査し、確定情報だけをリリースするつもりだったのだろう・・・・。
しかし、その割に8時半の防衛大臣のコメントは、未確認物体の飛翔という内容であった。どこから、何が、どこへ向いて飛翔しているのか、本当はつかめてないのではないの・・・?と穿った見方をしてしまいそうである。日本にしては巨額の防衛費を投入し、最新鋭の迎撃システムをフル稼働させ、幾千人の隊員や関係閣僚が神経をとがらせて大騒ぎしてた割には、どうも結果がお粗末としか言いようがない。これでは、世界からも相手にされない小人国「日本」と評価されても、言い返すことができない非常に残念な結果であった。