僕の気持ちいいことも、第四弾、結構お気に入りのタイトルのようだ。実際、僕の気持ちいいことを書き始めれば、それこそバケツいっぱいの言いたいことがある。生活のあらゆる場面でお気に入りのモノと嫌いなモノに分けられるから、バケツ一杯どころか、それこそ万と存在する。まあ、その中でも、介護に関連する事柄を出来る限り書き出してみたい思う。
貴方は緑茶?麦茶?紅茶?・・・・??普段、貴方の家で咽が乾いた時に一般的に飲んでいる飲料は何でしょうか?人によってはコーラと言う方もいるだろう。番茶でも麦茶でもない、ほうじ茶だ!と言う方も居る。スーパーに行っても、コンビニでも沢山の種類の飲料が販売されている今の時代。それだけお客さんの好みが多様化していると言うことの現れです。それと共に、最近の傾向として、飲料や食品に季節の壁が無くなったことも大きな変化として注意が必要です。一年を通して、ほぼ何でも食べることが出来る時代です。イチゴも、トマトも、スイカだって、一年を通して食べることが出来ます。もちろん、旬のモノは、殊更うまい。しかし、味にしても、季節外の食品は希少性が関与して、別のうまみがあるようで値段に関係なく売れているようだ。
今、我々がお世話してるお年寄りは、その大半が大正、昭和の初期に生まれた方々だ。 戦前派の方々は、物不足の時、まだまだ貧しかった日本を経験してきた人たちだから、食べることにそれ程のこだわりは持っていないように見える。しかし、本当に何の文句も無く受け入れているのか?は大きな疑問である。
人それぞれに好みが違う。当然、飲み物にしても個人によって好みがあるはずだ。その人が一番ホッとする飲み物は何なんだろう・・・?と考えてみても良いのではないだろうか・・・・? ひょっとすると、今のお年寄りよりも味に疎い、また、数ある品種のお茶を単なる「お茶」として、単調な認識をしてるのは老人よりも我々、介護者の方では無いのか?
洋菓子のケーキのお共にと言えば、必ずコーヒーを出す? 紅茶にはレモンのスライスを添える?
僕の気持ちいいこと・・・は、決めつけないでほしい事。貴方の経験知を僕に当てはめないでほしいだけ。イチゴのショートケーキを番茶で食っても良いではないか? 紅茶はストレートで飲んでも良いではないか?その時の気分で飲み物は変わるものだ。と言う意識で、大事なのは、その「時」を楽しむための演出として、お茶やコーヒーを楽しめる環境があることが一番気持ちいいことなんだ。と思うのです。
そう言えば、僕の友達は白米のご飯に牛乳と砂糖をかけてスプーンですくって食べてたなあ・・・真似してみると意外と旨い。うちの婆ちゃんは、田舎あられをお椀にたっぷり入れて、少しの塩とあつ~いお茶をかけて食べてたな・・・。
食文化は人によって違う。全て介護者を中心に判断して、押し付けないでほしいなあ・・・と我儘な僕は呟いていた。
一年前からハイブリッド車に乗っている。それまでのワゴン車を下取りにしてハイブリッドの一番安いグレードを買った。何も付属品はついていない。エアコンとヒーター位か・・・。今、一年を過ぎる頃、燃費の爆発的改善に驚いている。何と、リッターあたり23Kmを走行する。満タン容量を45リッター程のタンクを備え、走行距離は800キロを越えて給油と言った倹約。四輪車ながら二輪車のような燃費。凄い!の一言に尽きる凄い車なのである。
ただ、残念な事に、この車を運転してることイコールとろくさい走り。と言うイメージが他車にあるようだ。後ろからやたらとせっつかれる。早く走れ!と言われているように、僕のハイブリッド車の後方にへばり付いてくる。僕のルームミラーに後ろの車の運転手の顔が認識できる程近くまで寄ってくる。下手にブレーキを踏もうものなら、追突されそうな雰囲気である。現に、つい先日、左に曲がろうと交差点に入った僕の車の前を横断歩道を駆け足で渡ろうとした歩行者を見つけた時に、後続の四輪駆動車にガッツ〜ンとやられちゃったのだ。その時は何かトランクルームの荷物が転がっているような音がして、僕は衝撃も感じず仕舞い。相手は、そのまま停車して謝ること無く直進して走り去ってしまった。要するに当て逃げだ!
こちとら突然の歩行者に急ブレーキに夜間と言うこともあって、急停車。そこへ車間距離を保っていない後続車両の運転手は、前の左折車(……僕の車)を避け切れずに右角を当ててしまったと言うワケ。
逃げ去った車を追いかけるにも、方向転換して追いかけても追いつかないどころか、逆に追いかける自分が別の事故を起こしそうで、そんなアホな行動は辞めとこうと、諦めも肝心。
お陰で家に帰って翌日、日の光の元、ゆっくりと追突カ所をマジマジと確認したが、コンパウンドで消える程度の傷で幸い。うちの車両メンテをお願いしてる従兄弟の車屋さんへ持ち込んで傷を消してもらった。
これでも、若い頃はモータースポーツをやっていて、四輪カートレースにも参戦してたくらいの車好き。多少なりとも運転には自信をもっているし、この年でも警察にスピードチケットをもらう程のスピード狂だ。血の気も多い。そんな自分が、後ろから当て逃げされるんだ。ジジイになった!と嘆くばかりだ。でもね! 先日、ある友達が、こんな僕を捕まえてこう言った!
『そろそろ、おとなしくしたら!』 彼に言わせると、こんな僕もまだまだ血の気が多いと言う訳だ! ・・・・燃費のいいオッサン車両に乗り換えて、ノンビリと走っているのに・・・・なんだよ!!
僕が気持ちいと思うこと 第三弾! このまま続くと面白いかも・・・と思いながら、今回、堂々の第三打!
さて、今日の鈴鹿は生憎の雨模様。春雨じゃあ~!!!なんて恰好つけて傘もささないで濡れても大丈夫なようなシトシトと降るのですが、こんな日は、足元が煩わしい。昔のように未舗装の道路で、いたるところに水たまりがあって、雨をたっぷりと吸い込んだ泥はぬめり滑りやすい環境ではなく、今どきでは泥道を探す方が難しい時代。しかし、環境こそ整備されているものの、濡れた靴底はタイルやプラスティック床などでは、とても滑りやすい。前進しようとつま先に力を掛ければすべる!こんな時こそ、年寄りは転倒に注意が必要だ!
春雨も歓迎は出来ないが、これが日本の四季。シトシト雨あり、西から吹き下ろす強風の日もあり、次第しだいと春の陽気に変わっていく。その頃には梅の花から桜の花、チューリップやクロッカスなど畑一面に花が咲く。木々の枯れ枝にも新芽が芽吹き、薄い黄緑色の葉っぱを付ける。こんな、うろやかな季節には、外に出て思いっきり日の光を浴びたい。そして、座り心地の良い椅子にゆったりと腰を沈め、ゆっくりと目を閉じる。まぶたの裏に眩しい程の太陽の光を感じながら、そよ風に身をまかせ、物思いにふけってみたい。日本の熱い夏が来るまでの、ほんのわずかな時を思いっきり楽しみたい。
歳をとると何かと生活全般が面倒になってくるようだ!まだ僕の場合は、第一線で働いている身だから(・・・・?そうだよね!?)自由に外出できるし、それなりにやらなければいけない事柄も多い。しかし、自分が完全に仕事からオフの日などは、朝のんびり起きて、ゆっくりと食事を摂り(朝食、昼食を兼ねるような)、時には、パジャマのまま、あるいは家着のまま、一日中家の中でゴロゴロすることもある。歳を取って生活が面倒になる状況とは、僕たちのオフの状態と同じようなモノなんだろうと考えてみる。私達にとって たまの休日はノンビリしたい。しかし、これが毎日、毎日、いつ終わるか予想できない日々を目的も無く、ただひたすら生きなければならない。そう考えると、これは「辛い!」 おまけに、年寄りは、そんな毎日の生活の中で、周りの友人や知り合いが亡くなっていく。 人が死ぬ度に、次は自分の番か?と不安になる。
うちの女房が、年齢と共に老けて行く自分の顔をとても気にしている。若い頃の艶は無くなり、張りも無くなる。若く輝いていた頃の自分が時と共に朽ちて行く。そんな恐怖が女性にはあるようだ。『美』の捉え方によるが、若い女性は何も施さなくとも美しい。(化粧もいらない。そのままでも美しく光っていると言う意味で)それが、年齢を重ねるごとに肌のつやは消え、皮膚にたるみが生じてくる。若い頃のピチピチ感は次第となくなっていく。女性は、そのような肌の衰えや肉体の衰えを気にする。肉体の衰えや肌の衰えは、女性に限らず男性にも同様、外見から年齢が想像できる状態となる。
老ける、体の動きが悪くなる、体中の関節など、急に動かそうものならギシギシと音を立てて痛みが伴う。おまけに人様に見せる自信もない姿は、どう偽っても変えようがない。そんな「 無理 」をしてまで外出したくない気持ちになるのも納得である。
そんな年寄りたちに同情するつもりはない。だって、その人なりにしっかりとご自分の人生を生きてこられ、それこそ胸いっぱいの思い出と経験をもっているのだから、僕たちのような若輩者が同情するなんておこがましい。しかし、だからこそ、今の生活を上手に締めくくって頂ける様、どのような協力が出来るのか?ってところが問題なのです。そろそろ、春ウララ・・・陽気に誘われて木々が芽吹き、色々な虫たちが活動を再開する時。僕たちが思う気持ちいい事ではなく、その人の想う気持ちいい事をお手伝いしたい。これが、今日の僕の気持ちい事、Part 3です。
昨日のブログでは、僕の想う気持ち良い事として音楽をあげたが、今日は、別の視点で介護を受ける立場で気持ち良い事を書いてみたい。 その人を中心においた介護については、昨日のブログでも名称だけは紹介したが、そのことについて更に詳しく、事例をあげながら紹介したいと考えている。
その人を中心においた介護とは、決してその人の我儘を認めると言う事とは同じではない事を最初に断りながらの話です。僕が理解している『その人を中心においた介護」の基本とは、その人が想うことを出来る限り忠実に実現してあげるよう支援する姿勢を言うと考えています。だから、今の僕がこのような気分だから、昼食時間でもないのに昼ご飯を持ってこい!とか、今から風呂に入りたくなったから風呂の準備をしろ!という類の要望には、丁重にお断りして理解を求めると言う結果となってしまう。その意味でも、その人の我儘を通させる事と、その人を中心においた介護とは意味合いが違うのです。 ですから、さらに簡単に説明すれば、介護の現場で、ケアプラン政策の時点でも、介護する側の都合やら施設側の勝手な都合をもってケアを行うことではなく、その人の為になる、その人が必要としている(ここで、この、その人が必要としている、と書いてしまうと、世の中のクークー達は屁理屈を言うのです。時間外の入浴も、時間外の食事も本人の要望に変わりない・・・と) つまり、介護を行う目的の一つには、その人が健康で平均的な日常生活を営むことが出来る様(憲法25条に添って)支援する必要がある。ここでは、その憲法で生存する権利を保障されている点に重点を置いて、私達介護職が公平な立場で提供できる最低限度の支援を行わなければならないにもかかわらず、それさえも場面によっては職員や施設の都合で捻じ曲げられる事の無いように支援することを言うのです。 理屈から言うと、とてもわかり難いのですが、ここで一つの事例をあげてみましょう。
認知症のAさん男性83歳は、通常規模のデイサービスを利用しています。若い頃から事務職でコツコツタイプのサラリーマン、一生懸命働きながら所帯をもち子供二人を育ててきた、極普通の父親でした。適度に人生を楽しみ、お酒が好きでいつも赤い顔をしているほど。長年の飲酒と不節制がたたり、糖尿病を患い、今では隔日の人工透析を必要としてます。腎臓の機能こそ低下してきましたが、認知機能はしっかりとしています。逆に周りの利用者に対して注意をしたり、指示を出したりするので、逆に他者からは阻害されがちです。そんなある日、利用日の午前中に席を隣り合わせた利用者BさんとCさんの二人は、入浴が終わる時間には、別のテーブルに変わっていました。この席替えの理由は詳しく述べなくても理解できると思いますが、ここで、問題となるのは、その事の説明が十分に行われたのか?と言う事です。
事情説明までは諸事情の絡みで無理としても、そのことへの職員の配慮がAさんに行われたのかと言う点が不明瞭に終わっています。当の本人にとってみれば、朝方からの自分自身の言動や態度を思い起こしながら、その理由を探そうとするはずです。確かに、職員は利用者B,Cさんの意向は汲んであげました。しかし、その時にAさんへの温かなフォローを忘れています。忘れていると言うより、その所に気付かなかったのです。これでは、その人が中心なケアは出来ていないに等しいです。
例え通常規模であろうと、デイサービスの現場では、ある意味、団体行動た集団の中で「時」を共にします。プライバシーを求めることが若干困難な環境です。それらの我々の持ち合わせるマイナスな面を如何にカバーしながら、利点だけを求めていくかと言えば、このような細かな感情の揺れに対しても、細かな配慮が求められるのです。
その人の些細な感情なんて気にしていられない。もしも、そのような気持ちで介護を実践している介護士が居るとしたら、それは考え方を変えてもらわないといけない。私達はヒューマンサービスを行ってお金を貰っている。言ってみれば、飛行機会社のフライトアテンダントやタクシーやバスの運転手さんと同じ業務です。また、レストランのウエイトレスと同じで、最低のサービスを行っていれば、お店に来てくれるお客さんは減少します。客が減り始めると食材の仕入れが高くなり、次第と仕入れる食品の鮮度も古くなりがちです。古い食材を使って提供される食事は、最低レベルの接客態度で更に不味くなって提供されます。結果的には、このようなサービスは社会から抹殺されます。
だれしもが気持ち良くなれる。そんな夢のようなサービスを実践している事業所もあります。私達は、それをまねる必要はありませんが、でも、それらから教訓を得て、一人でも多くの高齢者の方々が楽しく、健康で過ごせるよう支援出来ればと考えています。これが、僕の気持ちいいこと、Part2です。
デイサービスにしろ、グループホームにしろ、最近の高齢者介護の中心は、その人を中心においた介護(Person centered care)である。そろそろ、爺になりつつある自分を例に、僕が気持ち良いと感じる時についてお話ししよう!
今、僕の中での一番のお気に入りは音楽である。普段からクラッシック音楽を中心に、車の中や自宅のひと時にはパソコンに入力した音楽を聴いている。そしてクラッシック音楽と同じくらい心地よいと感じる音楽に、ちょい昔のアメリカのクラブシンガーと言われる、フランクシナトラやトニーベネットの曲がある。今、はまっている曲に「How do you keep the music playing?」と言う曲がある。いろいろな歌手が歌っているが、この曲の歌詞が好きで、聴く度に感極まって涙が止まらなくなる。それ程、気持ち良い時がそこにある。
デイサービスでは、どんな人にも同じように古ければ良いと言わんばかりに、懐メロと言われる歌を歌わされている。愛染かつら、銀座のカンカン娘などの戦前戦後の流行り歌である。ここに義務として参加して(本当は、もっと他の要望があるかもしれないが・・・)昔懐かしいとされるそれらの歌を 利用者全員が同じように歌わされる。そこでは、僕は、その歌、嫌いです!なんて言うことも出来ない。みんなが声をそろえて歌ってるのだから一緒に歌ってください!の一言で参加させられる。僕は、そのような施設は利用したくない。ましてや、決して上手とは言えない音程の外れたスットコドッコイが音頭を取っているような、そんな場所に居ること自体が苦痛以外の何物でもない。
トニーベネットを聴いて、物思いにふける人なんて、この鈴鹿には居ないのかもしれない。でも、少なからずも僕は、そんな一人の人間である。もしも、自分が隠居を通り越して、ボケボケ爺さんになってしまったら、耳にイヤホンを突っ込んで、これらのCDを聴かせておけば、一日中ご機嫌さんでいられると思う。
人によって生活歴や習慣や好みが違う。その人の細かな気持ち良い事まで気にする事は無いのかもしれない。でも、年老いて残りの人生がみえてきた時点で、僕は、自分の好きなように過ごしていきたいと願っている。無理やりに筋トレすることも嫌。不慣れな日本の音楽を聴かされ、歌わされる毎日が続くくらいなら一人で静かに垂れ流しでも良いから部屋にこもっていたい。今更、男気を出して女性を口説く気にもなれない。ましてや、そんなボケボケ爺さんに真剣に寄り添ってくれる介護士の人も居ない。それなら、いっそのことソッとしといてほしい。
デイサービスを嫌う人が居る。人と交わることが嫌い?そこの施設に相性の合わない職員が居る?いろいろな条件が合わないで利用を中止する人が居る。それはそれで、私達がその人の求めるものを探せず、その人を気持ちよく出来なかったことが大きな原因であるなら、そんな人も一緒に気持ち良くなれる場所を提供できるようにしたい。まだまだ、僕たちの太陽の家は未完成である。そして、僕にとって気持ち良い場所であると同時に、他の利用者にとっても気持ち良い場所となりえるように、今もまだ模索している。