昨日、デイサービスのサービス担当者会議に自転車乗って出掛けた私。訪問先の玄関先に自転車を停めて、家の中に入った。ごくごく一般的な田舎の住宅街。昔からある「在所」と呼ばれる地域である。周り近所は何代も前からの顔なじみばかりと言われる地域。 私自身、最近、体重の増加が著しく、食事に制限を加えているつもりが、体重計の数字はあがる一方。これは常日頃よりの運動量不足と判断し、近場への移動には車ではなく自転車や徒歩で出掛けるようにしてるが・・・・う~ん??なんでだろう?
まあ、そんな体重の話は兎も角、そのような訳で自転車に乗って、サービス担当者会議に出席。大よそ30分程度、家の中で話を終えて、外に出てきたら、そこには停めてあったはずの自転車が消えている。忽然と!
この自転車は、市のリサイクル事業の一環で放置自転車等の処分品を購入したもので、昨年の5月に購入した。昨年の5月の僕のブログでも写真入りで、7号車として紹介したものである。変速機もない、普通のママチャリと呼ばれるもので、ハンドル前に籠をつけたものである。私以外にも職員さんの一部は、近所のお買い物や市役所などに出掛ける際には使い、結構、便利なものだった。
そう言えば、今日のネットニュースの中に静岡県内の県立高校(実名報道に踏み切ったということだが、高校名は忘れた)では、万引きで補導される生徒が、そん高校の一割の生徒に相当すると言う内容の報道である。私の自転車を盗んだのが高校生とは言わないが、今の時代、教育現場でも、医療機関においても、介護の現場においても、モンスター○○○と呼ばれる人々や理不尽な苦情がまかり通る世の中。人権が重要視され、加害者の人権も重要視されている時代。警察権力も教師の権限も無くなり誰も恐れなくなった犯罪者達。怖いものなしの世の中では、何が起こっても不思議ではない。
最近、また、困ったメールが沢山送られてくる。出会い系もさることながら、最近暫く拝めなかった多額の金銭を無償で受け取る権利があると言う類のメールのことである。今回は、今月に入る頃から始まった。最初は2500万を振り込む準備が出来た!至急、受け取り意思を示してほしい!と言う。無視していると、最近では金額があがってきた。今では4800万である。何とかという女性が死に瀕した状況であり、死の淵で4800万を、見ず知らずの私に無償で差し上げたいと言う。
まあ、世の中には有り余るお金持ちもいるだろうから、こんな高貴なお方も居るのだろう・・・・!日本の人口一億を超えて、インターネットを行っている者も沢山いる中で、この私が4800万の受け取り権を得た。という設定が笑える。そして、その金額を受け取るには、こちらから返信メールとして「許可」と送るだけで、4800万は2分以内に私の銀行口座に振り込まれるらしい。このメールは毎日昼ごろから1時間毎に送られてくる。微妙に文面が違っているので、有る程度、担当者が文章入力や変更を加えながら送信しているようである。まあ、私の場合に限らず、大半の方のメールにはブロックがかけられているから深刻な問題となるには至らない。しかし、1時間毎に、深夜の2時ころまで送信されてる迷惑メールは文章も巧みである。ただ、毎回、深夜に近くになるにつれ、書かれている文面がヒステリック調に変化してくる。または、何の返信もしない私を挑発してくる。
こんなメールが毎日送られてくるわけだが、送信文面や誘い文句を読んで、その話術と言うか言葉巧みな文章をある意味楽しんでいるのは良いが、よくよく考えてみれば、とっても卑怯で卑劣な文章をおくってきているのである。死の淵の女性の、唯一の気持ちを踏みにじってしまう貴方は・・・・とか、なぜ気持ちを素直に取れないのか?等の文言は、いくらビジネス(?)と言えど、あまりにも身勝手で、全く関係ない見ず知らずの者を愚弄する文言。人の気持ちを踏みにじって悪徳な金儲けを企んでいる。そんな者がネット上に存在することが許されない。
振り込めサギやら語りやら、まっとうな事業で汗流すことなく、安直に大金を手に入れようとする者達が多い世の中。また、社会保障を食い物にする働けるのに働かない者、動物も人間も見境なく冷淡にも殺してしまう無感情な者、本当に今の世の中、病んでる人が多い。
今日、夕方に時間を見つけて美容院へ行ってきた。僕の場合、髪が短いので仕上げまで1時間はかからない。早ければ30分ほどで終了してしまう。まあ、カットに掛る時間が問題なのではなく、先にカットを終えたお客さん(常連のお客様と思うが)が、帰りがけに「良い年を迎えてください!」と言って店を後にした。
う~ん、そんな時期なんだ!と感心してしまう。まだまだ震えあがるような寒さを感じてない為か、それともクリスマスを終えてない気分からか、そんな時期と意識できない自分が居た。
お正月まで一カ月を切った。次にカットに来るのは年明けか・・・??(僕は、もう一度、年内にカットしてもらわないと、短髪ゆえに、少し伸びてもボサボサ感が生じる) 月日のたつのは早いものだ!と叫びながらも、正月がそこまで近くに来ているとは思いもしなかった・・・・。
日増しに、このような年末のご挨拶が聞こえてくるのも、あと数週間内。そろそろ年賀状の準備もしなければいけない。そう考えると、心忙しくなってくる気がする。
この春の大震災の影響は今でも大きなひずみを残している。と言っても、地殻にひずみ、といったものではない。つまり、あまりの大災害に日本国民の全てが恐怖におののき、次は我が身とばかりに、皆が将来起こりえる大震災に対して、それぞれに対応策を準備しているようなのだ。実は、僕も、うちの施設用に飲料水の備蓄を購入するつもりで、今日はネット通販で探し求めていたんだ。どうせ、備蓄するなら消費期限の長いもの。長期保存が可能な物が良い。だから、長期保存水でネットショッピングを探しまわること一時間。出るわ出るわ! ものすごい数の販売元が検索ヒットする。が、しかしだ! その全てに「売り切れ」の文字。どうなってんだ??なんで売り切れなんだ!震災直後ならともかく、あれから9カ月も経過して、何で今でも売り切れなんだ!
そう言えば、震災後のヘルメットの類、防災頭巾や懐中電灯、乾電池の防災グッズの一切が品切れの時が続いていた。しかし、防災ずきんなどは、すでに入手済み。乾電池も市場に十分ならんでいるし、好きなだけ購入できる状態に戻ってる。しかし、水だけは、そんな訳にはいかない様である。もっとも、値段を言わなければ在庫は存在する。しかし、わざわざ倍の値段を払ってまで備蓄を準備する気にもならない。
なかなかうまくいかないのが人生なんですね!きっと!
もう今となっては、過去の出来事として記憶の隅に追いやられた安保闘争。その当時、日本の社会は猫も杓子も日米安保闘争で湧き立っていた時代である。海外ではベトナム戦争の真っただ中、同年代のアメリカ人の若者たちが、毎日戦争の犠牲者となっていた時代である。新聞やテレビのニュースでも、毎日、学生運動隊と警察機動隊との衝突の報道が伝わってきていた。あの当時は、一部の学生の中でも過激派と言われる人達が、公安当局との武力闘争に奔走していた時代である。その多くは、地下組織として、一般社会の中では普通の生活をしながら、夜な夜な自分たちの主義を通さんばかりに、デモ行進したり街頭演説したり、また時には、活動を制限しようとする公安当局と前面衝突し、火炎瓶やゲバ棒、投石などで死闘を繰り返していた。
私達の年代は、その当時まだ年若く、実際にデモ行進に参加したり、火炎瓶を投げたりと言う行動には出ることは無かった。もちろん、先輩達のように日本を変える為にがちがちに固められた独特のイデオロギーを基に理論武装した猛者には、まだまだ若すぎて仲間には入れてもらえない状態であることも事実であった。この当時、僕の憧れの先輩も、国立の某有名大学に通いながら、うらぶれた横町の飲み屋街の赤ちょうちんで、酒をあおりながら僚友たちと激論を繰り返していた事を覚えている。あの当時の先輩は熱く、燃えたぎるような熱意を持って話し合っていた。と言うより、相手との言葉の応酬を繰り返し、熱い自分に快感を感じていたようにもみえる。その反面、社会には、このような場面を億劫がり面倒なことから遠ざけるような考え方もあった。それらを三無主義と言っては、先輩方のやり玉に挙がっていたわけであるが、その三無主義とは、無気力、無関心、無責任。そんな人も、その時代に存在した。
そんな熱い学生たちの時代も、一部の超過激派と言われる者たちのテロ行為によって、組織自体、そのイデオロギー自体に内部分裂が起き始め、次第しだいに国民全体の意識から一部の過激論者のたわごとに変化していった。時代は代わり、今では個人情報の漏えいに神経をとがらせ、学校教育現場における体罰の禁止や学生の人格尊重などの思想によって、昔のような締め付けて統制する管理社会から自由社会へと変貌していった。個人が尊重され、権利と自由思想が勝手に独り歩き。犯罪に手を染めない限り、全てが自由な国にと変わっていくわけである。
先日、テレビニュースで紹介されていた、現代のカラオケは一人で楽しめるような小さな個室にヘッドフォンを着けて楽しめるようになっているらしい。また、ボーリングも他人に見られない様、個々のレーンがパーテイションによって囲われ、他者から見えないようになっているところもあるような報道がされていた。今の若者が幼少のころからデジタル社会にとっぷりとつかって育てられ、屋外で近所の悪ガキと一緒に遊ぶ事を止めてしまい、コンピュータゲームが唯一の遊び相手となって、他者との交流が苦手な若者が多く育ってきている。個人のプライバシーを尊重するあまりに、ボーリングまで顔を隠して、誰にも見られない様にゲームを進める。カラオケで歌う為に、まずはプライベートな空間で一人で歌を練習してから皆とカラオケに行く。近頃の人間の思考回路はとても複雑になって、70年安保の時代に青春を過ごしてきた自分たちからは理解し難い。
私達の子供の頃は、教師による体罰もえこひいきもあった。同級生やクラスメイトのいじめ(?・・・・その当時はいじめとは思っていなかった。)も派閥もあった。喧嘩は日常茶飯事、女の子のスカートめくりや悪戯もいっぱいあった。もちろん、怪我も多かった。あの時代は、今とは違った子供社会があった。泣いたり笑ったり、嫌な思いをしたこともあったが、今では、その頃の同級生を懐かしく思い、たまに街で出会った時には昔話に花が咲く。子供社会の中で優劣を体験し、競争し、負けることも勝つことも、妥協することも学び、それらの体験を肥しにして今に至っている。今の自分が決して素晴らしい人間ではないが、自分なりに今の子供たちの持ってないモノを持っている自負心は感じている。
少子高齢社会の今、子供は極端に大切に育てられ、危険というモノを一切排除したなかで育てようとしている。英才教育を施し、他の者よりも良い高校、良い大学を目指し、将来への安定路線をひこうとする親。確かに高等教育は受けているが気付きの無い若者が多くなっている。無気力、無関心、無責任な子供達である。そんな子供たちに安保闘争を戦った人達が認知症高齢者となって介護を受ける時代となっていくのである。・・・・・どうですか?みなさん!
太陽の家デイサービスセンターをご利用の皆様
いつもご利用、ありがとうございます。今年も、早くも12月となり、年の瀬も押し迫ってまいりました。今年は、春先の東日本大震災を経験し、非常に悲しく大規模な災害を経験しました。また、台風12号による風水害も紀伊半島を中心に大きな被害を与え、とても厳しい一年となってしまいました。ただ、デイサービスをご利用の皆様におかれましては、今もお変わりなくお元気に過ごして見えることが唯一の喜びでもあります。来年も皆様のお元気な笑顔を見せて頂ける様、職員一同、心よりお待ち申し上げております。
太陽の家 デイサービスセンターは 12月31日より翌年1月4日までお正月休みを頂戴します。
1月4日朝より、通常通りサービスの提供を行います。ご不便をおかけいたしますが、ご理解のほどお願い致します。
太陽の家 施設長
会場のレストランの写真です。
今月17日の土曜日は、太陽の家全体の忘年会を行います。ただグループホームの職員さん数名は勤務の都合上、職場を離れることが出来ないので忘年会への参加は出来なく申し訳なく思っています。昨年に引き続き、忘年会にかかる費用は全額事業所が負担しますが、当日会場ではお酒が出ます。お酒を飲む人は、帰りの車の運転は出来ませんので、その点を考えて会場まで来てください。
忘年会日時 ; 平成23年12月17日(土曜日) 夜7:00より
忘年会会場 : 鈴鹿市住吉町 欧風家庭料理の店 「 ランテルナ 」にて
二次会は当時、相談の上、決定します。
さて、忘年会にはお酒が付き物です。お酒の飲み方は千差万別、それぞれの固有の飲み方があるようです。舐めるように楽しむ派、グビグビと水を飲むごとくワインを飲む派、飲めば飲むほどケタケタと笑い上戸になる派、逆に酔っぱらうと涙を流して悲しくなる派、そして、最低なのは、怒り始める派。最後の怒りはじめて、やたらと相手に噛みつく輩は、扱いが非常に難しい。「まあ~まあ~まあ~」といなそうにも、相手は僕の手を振りほどいて逆に怒りが増す。挙句の果てに「おまえには、わからへん!」と来る。 「・・・・・そりゃまあ~、俺にはわからへんさ!」と心の中で思いつつも、そんな事を言おうものなら、彼の怒りの矛先は関係無い僕に向けられる。何を言っても、勝手にい飼っている本人は、放っておくに限る、かくして、怒り上戸の彼は一人ぽつ~んと放置され、寂しく一人手酌で酒を飲み続けてしまうのである。
飲み続けて酔い潰れる輩は、まだ可愛い!飲みつぶれるどころか、前にも増して怒り心頭、その内に物に八つ当たりし始める輩は最低である。こん輩と派酒の席を一緒にしたくはない。でもね、そんな八つ当たりの彼も、翌朝には酒が抜けて正気に戻るわけだが、そんな夜のハプニングを彼は一切覚えていない。皆に迷惑かけたことなどどこ吹く風。いたって平常心で仕事にもどっているのである。
って、この話は太陽の家の職員の話では無いですよ! 皆さんには誤解の無いように!
前回、僕のブログでも書いたが、デイサービスの利用者の意欲を高めるには、何が必要か?と言う点について、今回、ある職員から相談を受けた。確かに、利用者の中には、意欲を一切感じる事の出来ない方が居るのも事実である。認知症がすすんでいるわけでもなく、既往歴を見ても特に生活に支障をきたす要素もみられない。客観的には「廃用性」の症状が強いのではないかと思える人。そのような利用者がチラホラ見受けられる。今日のデイサービスにおいても、午前中の入浴時間に順番を待つフロアーで、介護主任が四苦八苦している姿を見かけた。結構、話術も巧みでソフトな接遇を実践できる主任ですら苦慮するのである、いったいどうすれば、この利用者に意欲を持ってもらえるのか・・・?
この問題は、非常に難しい側面をもっている。意欲を促す中で障壁となるのが「個人の意思を尊重する」と言う点である。高齢者の人権を守る上で、尊厳と自己決定が大きく叫ばれる中、無理強いは決してしてはいけな。しかし、有る程度ねちっこく口説き落とそうとする行為に、逆に個人の感情を害することも想定される。こうなると、知識や経験の不足している職員は、口説き落とす前にギブアップするか、放置してしまうことになってしまう、または、職員自身も自信を喪失して業務に対するモチベーションが低下すると言う結果にも繋がりかねない。管理者として、この状況を放置する分けにはいかない。
さて、そもそも、この『意欲』と言うものについて考えてみたい。意欲がその人にとって今、必要ななのか?である。意欲って、言葉で言って、相手の中に湧き上がる感情ではない。もっと簡単に言えば、意欲は食欲や性欲などの欲求とは少し違う欲求ではないか?と言うことである。食欲も性欲も、人間の中の欲求ではあるが、どちらかと言えば煩悩に近い欲求である。それに比べて、この特定の人の意欲は、何よりもその人のパーソナリティーとして考える方が自然かと考える。パーソナリティー=人格ととらえると、その人の持つ様々な特性因子が作用している特性論的人格と判断できる。つまり、高齢者の場合、本人による評価と第三者による評価に誤差があるのですが、まさしく、この状況ではないかと考えられます。さらに分かり易く言えば、私達、断三者が判断する「相手は喜んでいない」「相手は意欲を持っていない」であっても、その当事者は意外と喜んでいたり、それなりの意欲をもっている場合がある。ここで、忘れてほしくないのは、高齢者の感情自体は、老化に影響されず豊かであり、第三者から見るとあまり感情が表出していないように認識されやすいと言う点である。
ここまで小難しい理論を書いてきましたが、実際の現場でのアドバイスにしては、現場職員に受け入れてもらえにくいので、もう少し具体的にどうすれば良いのか・・・を書いてみたい。 先にも書いたように、意欲を感じられない利用者の本心は、私達が感じる以上に意外と意欲的なのかもしれないと言う点を理解して、その人の人格として感情表出が苦手な人なんだと考える必要性も頭に入れながら、さらに感情を上手に表出できる場面を作っていくことに専念する。他者と同じ場所では「遠慮」など感情表出に邪魔なのであれば、場所を変え、その人がやりたい事をどんどんやってもらえる環境を確保する。そうしながら利用者の信頼を得るように働きかける。その人にとって信頼でき、安心できる支援者であれば、そこには、更なる本音が出てくる。
その人を本当に理解し、信頼を得ない限り、いくら言葉で誘っても、職員の意のままに高齢者を操れないと言う事です。
介護職ってのは、本当に大変です。しかし、これらの事を考え、理解し、実践できる介護職員は素晴らしい。
2011年の12月1日。とうとう今年も最終月となってしまいました。社会人となって(この言葉にはちょっと恥ずかしさがある。だって、社会人となって、すでに30年を超えている者としては、恥ずかしいよね!)以降、1日の過ぎ去る速度が変わった。それはつまり、1日の内にやらなければいけない事が多いと言う理由からです。午前中はアレしてコレして・・・午後からは会議が入って・・・と言う風に1日中、せわしく仕事していると、朝起きて夜寝るまでの時間があっという間に過ぎ去っていくのです。毎日を、この調子で過ごしていると1日、1週間、1カ月が早く過ぎてしまい、おまけにこの1年の長い時間経過の中に、自分なりの目標や余暇の予定がある事によって、楽しみを待つ気分として、その分、ドンドンと日の過ぎ去るスピードがアップしてしまうのです。
幸せな時、楽しみな時、そんな自分が大好きな時間を過ごしていても24時間という経過スピードと、逆に病気で病院のベッドに横たわっている人にも、時間経過は全ての人に平等に流れて行きます。病気で苦しんでいる時、連続的に点滴が必要な患者さんも、気の遠くなるような時間を要する治療も、大好きな海外旅行を楽しんでいる自分も、経過時間は同じなのです。ただ、その経過時間を快く思えるか苦痛に思ってしまうかの違いだけなのです。今年の自分は療養の1年でした。年初めに大病を患い、その治療にほぼ1年かかってしまいましたが、そんな苦痛と心労を受けながらも、とうとう12月の最終月を迎える事となりました。
これは、後になって思う事ですが、あの気の遠くなるような長期間の治療も、今思えば意外と早く終えることが出来たようにも感じます。気持ちの持ちようによって、人は苦痛や困難な閉塞感にも立ち向かえることが可能なように出来ているのですね。人間の精神力って意外と強いとばかり油断は出来ません。拷問のような苦痛に四六時中長時間にわたって浸されている中では、こんな悠長なことも言ってはいられません。その言う特殊なケースはの除いて考えれば、緊張の時間、緊張を緩める時間、全てを忘れる時間と、自分の気持ちを転換できる場面を意識的に設けていくことで、掛るストレスは随分と緩和されます。
介護職員と言う仕事は、航空会社のフライトアテンダントやホテルのボーイさん達のように「対人」を業務としている職業です。対人である以上、ある意味命にも大きく関係してくる業務ですから、そこに発生する責任は重大なものとなります。その点では我々の業務は、フライトアテンダントよりも、ホテルマンよりも重度なリスクを背負っているのですから、ここで受けるストレスには注意を払わなければいけません。何でも無い事も、処理することをなおざりにする事で、大きな精神的負担となりえます。管理者は、職員の細かな精神的ストレングスにも留意して、それなりに必要な処置をしなければいけません。また、同僚職員は、同僚として、日々の変化を注意深く見守っていかなければいけません。
光陰矢のごとし。と言う言葉どおり、私達の生活は現在は存在しません。未来から瞬時にして過去に流れ去っていきます。過去に悔いを残さない為にも、過去を素晴らしいものとするためにも、時運の未来を大切に考えて行動するよう神経を使いたいと思っています。
今回の研修は、認知症対応型事業所管理者研修の中のひとつである「権利擁護とリスクマネージメント」が、私の担当となってしまいました。権利擁護とは、特に認知症高齢者の意思能力に障碍を抱えた状態に付け込む悪徳な商人や心無い介護職員による金銭、介護内容、行動による全ての悪質行為から守るためのシステムの事であり、憲法で保障される人権を守るための制度のことです。またリスクマネージメントとは、リスク、つまり危険性を知り、未然に防ぐことを目的とした、言うなれば「気付き」を増やすための研修です。認知症という症状が、まだまだ社会全般に理解されずに、特に一般社会では、家族の一員が認知症を患う事の受容が出来にくいケースも多く、その介護の中で精神的負荷から暴力や暴言を浴びせてしまうケースも少なくは無いのが現状です。さて、そんな研修ですが、研修を受ける対象者が「管理者」と言うのですから大変です。管理者になろうとする人には、それなりの経験や資格を持っている方が大半で、謂わば「この道の猛者」と言われる人を相手に、じっくりと2時間、私の講義に注目させなければならないのです。いつもの調子で、面白おかしくパワーで押し切る講義形式では、相手も納得できな事と思いますし、そう考えると胃が痛くなる思いがします。
さて、私の講義といっても、認知症グループホームの協議会の研修で開催したり、うちの事業所内の研修で実施した程度。一応、パワーポイントを使って解説を入れるのですが、今回の管理者研修では、相手の履歴から考えても、今までに色々な研修や講義の中で、権利擁護とリスクマネージメントについては、何度も何度も勉強してきているわけですから、通り一辺倒な内容では受講者の興味にはつながりません。講義の内容もおろそかにできない、また切り口にも工夫が必要であると言う点では、非常に頭が痛いのは事実ですね。
ただ、私の唯一の強みは、物おじしない事です。どんな相手にも自分の話が出来る事です。大勢の聴衆の中でも司会進行は出来ます。以前、この協議会の全国大会で司会進行を任されたのですが、特に緊張することなく完成させることも出来ました。この点を利用しながら、今回の研修も実施して行くつもりです。そして、なによりも、相手にわかり易く、共感を得られる内容で講義を構成する事です。とかく人の話は、特に研修となると、眠くなるものです。声のトーンやスピードが一律した一定の周波数で流れる時、人は、その単調さに眠気が襲います。話すスピード、トーン、間のとり方などに変化をもたせて、時折冗談を交えて、会場の出席者に聴く意義を見出してもらえるように努めようと考えています。
それにしても、いろいろと考えていると、自分の考えがぐらつく時があります。つまり、最初の計画から、資料作りを行っているうちに、講義内容の骨格が曲がっていくと言う現象です。例えば、人と話をしていて、あれもこれも言いたいことがいっぱいあるとすると、話の内容が脱線する時があります。まさしく、その「脱線」という状況が生まれてくるのです。それを、そのまま続けて行って本番を迎えると、それこそ聴いてる方としては話の内容にブレを感じて、何を言いたいのか理解できないと言う事になりかねないのです。とにかく、今は、この問題に注意しながら全体の骨組みを構成中なのです。
まあ、後1カ月、苦しみながらも講義をまとめ上げて、参加者全員が得るモノを感じて帰ってもらえるよう努力するのみです。