久しぶりのブログ更新だ。ここの所色々と忙しい毎日だった。僕の場合の忙しさとは、他の職員さんの様に実際のケアに係る自分の関わり度が増えた。訳ではなく、介護以外の雑用が多いのである。実際、忙しいと言う状況は、忙しい分だけ発生してくる売上額の増加を連想してしまいがちであるが、私の場合、大半がタダ働きであるケースが多い。
タダ働きである、イコール、無料奉仕ってこと?と問われれば、少し違う。僕は、色々な社会関係をもって生活を営んでいる。これは僕に限らず、社会人なら誰しも何らかの関係や役割をもって生活している。自治会活動や子供のPTAなどがそれに当たる。それらの活動から金銭的な収益は期待できないが、其処からはお金に変えられない人間関係や色々な学びやいい意味でのストレスを得て、自分自身の成長に大きく貢献していると考えられる。
金銭的な利潤ばかりではなく、人間として生きる上で、これらの社会との関わりは年齢が増して、要介護状態となっても必要不可欠なファクターであり、年寄りだから、車椅子の生活だから、記憶障害を抱えた認知症だから、そんな社会生活は不要と考える事は僕達には出来ない。面倒だけど逆に何かの役目をもってもらうことを勧め、役割作りを推進する。
そんな関わりを創りたい。
今日は長崎の平和祈念日。広島への原爆投下と同じ66年前の今日、11時02分に長崎県に原爆が投下された。人類に二度と同じ苦しみを繰り返さないことを祈願して、また、同時に世界が平和であることを祈念する日として、後世につなげていく重要な日である。繰り返しになるが、広島の平和祈念日にも感じたこと。二度と繰り返さない惨劇を、原発事故によって放射線の恐怖に生活する場所を追われてしまう結果となってしまっている。
広島、長崎の原爆投下による恐怖を考えるとき。世界的な株価の下落が始まり、史上初の円高記録を更新する経済市況の混乱に世界経済への不安が見え隠れする。1929年のニューヨークの株価の大暴落から世界恐慌へと発展した暗黒の時代を想像してしまう。また、イギリスでは、低所得層の若年層を中心に暴動が発生。世界のソニーの倉庫から製品が略奪され、その後に放火されたようで、保管されていた製品が消失。ソニーに限らず、イギリスの複数の地方にも暴動は波及して大きな問題になっているようだ。
福島、宮城、岩手県を襲った大震災によって、日本全土が試練を体験する中、欧米諸国も色々な面で試練を体験しているよう。なぜそこまで試練が与えられ無ければいけないんだ!?と神を罵りたくなるような、そんな苦しいときを人類は経験させられている。
さて、今日のタイトルとブログの内容に、脈絡が感じられない文書となってしまった。本当は、記念日の解釈次第で、まったく意味の異なる日本語の読みに、日本語の難しさをあらためて感じた日となったと言うお話でした。
1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、広島市上空のB29爆撃機「エノラ・ゲイ」からウラン型原子爆弾が投下された。
今から66年まえの出来ごと。66年前の今日がその日。奇しくも今の日本は、悪夢のような東日本大震災の津波によって福島の原子力発電所が破壊される被害をこうむる事となり、その後遺症と言うか影響を受けて地域一体また日本中に放射能汚染の魔の手が広がりつつある。世界で初めて原子爆弾の恐怖を味わったはずの日本が、66年の歴史を刻む中で、またも原子力の脅威に国民全体が恐怖におののく事になるのも何かの皮肉か・・・?
今日の原爆記念日のニュース映像を見ていて、小学生の子供二人が原爆の恐ろしさを繰り返さないと必死に訴えていたのが印象的であった。しかし、過去を知らない子供に、誰か大人の書いた原稿を読ませる姿に一種の違和感を感じたのは僕だけだろうか?子供に伝え、この思いを継続してほしいと言う願う気持ちは理解できる。しかし、その反面で、原子力発電に電力供給を頼り、福島の事故を経験してもなお、電力会社はコスト重視の原発に依存する電力需給に、本当に日本人の我々は、過去の広島、長崎の原爆投下を肝に銘じて平和を願っているのか?サラサラ疑問である。
僕自身、終戦後の日本に生まれ、原爆の日を知らない。広島の原爆ドームを見学した程度で原爆の恐ろしさを理解しているとは言えない。しかし、福島の原発にまつわる苦悩については、ある程度察することができる。廃炉するにも長い時間と、非常に危険な業務の遂行、多額の保証金、周辺地域の放射能汚染など、そうやすやすと解決できそうにない程の苦悩が山積みである。
チェルノブイリの原発の事故を知り、遠く離れたロシアの彼方の事故と、他人ごとのように見ていた当時。フランスから輸入されていたミネラルウオーターが一時、輸入を自粛したことがあった。放射能汚染を懸念した輸入元が自主的に判断して輸入を取りやめた。同時に、店頭から在庫も引き上げた時代があった。牛肉だけでなく、日本の食の安全が脅かされている。過剰反応は良くない事はわかるが、日本人の我々も、社会も、経済発展を優先するあまりに、あまりにも先を急ぎ、安易な御都合主義に流されてはいないのだろうか?
今の僕の一番のお気に入りがこの写真の状況である。エアコンの効いた室内よりも、やはり蒸し暑くも若干の風が吹き抜ける屋外(裏庭のベランダ)のロッキングベンチに座り、ぬるいペットボトルの水を飲み、蚊取り線香をたいて、パソコンで遊ぶ。この時間が一番、和み、心安らぐ時間である。今日は、いつもより外は熱く、首筋に汗をかきながらの休憩だ。第三者から見れば、一見涼しげに見える、この状況であるが、なんのこたあない、むちゃくちゃ暑いのです。先ほど、パソコンを取りにデイサービスのフロアーを抜けて行ったら、その涼しさと快適な空気は何?と言うほど気持ちよく感じたくらいです。
では、なんでエアコンの効いた室内でパソコンをしないの・・・?と言われそうだが、やはりね、自然の風や自然の音を聞きながら好きな音楽を流して、陽の光を感じて過ごす時間が最高。最近、部屋の中のうす暗さがどうも感覚的に合わなくなってきてるのです。うす暗い所にいると息が詰まる。だから、多少暑くても、外でノンビリと揺りかごのように椅子に揺られて物思いにふけっている方が好きなんですね。
最近、入手したバッハの曲を女性二人のピアノデュオが演奏するCDがお気に入りです。そんな週末の過ごし方。僕にとって、一番、今優雅な過ごし方。
小難しい表現のタイトルとなって、読み手にとっては「なんじゃこりゃ・・・?」と言うところでしょう。まあ、簡単な話、うちの実家の三代にわたる年寄りの生き様とでも言うか、そこに時代がどう関係したかについて話をまとめたいと思ったのです。どの時代の爺さん、婆さんが一番幸せな一生を終えたのか?と言う点の評価は、はっきり言って難しい。
僕のばあさんは、明治の時代に生まれ、僕が誕生して数年後に一回目の脳梗塞を発症。片側まひの障害を負いながらも幼少の僕を連れて(父が言うには、ちょうど良い杖代わりとして連れて歩かれたそうだ)、いろいろな神社仏閣に祈願を兼ねて訪問したそうだ。ちょうど日本が高度成長のまっただ中の時代、しかし、介護保険の制度はなく、若干だが高齢者専用の施設は全国に誕生し始めようとする頃の話である。その後、婆さんは僕が中学に学ぶ頃までに数回の補佐を繰り返し、次第に寝たきりになっていった。寝たきりで5年程。今で言う「在宅ケア」となり、夫である爺さんを中心に、父、母が協力しながら介護に明け暮れた時代である。
そして、その父と母が今や、爺さん、婆さんの年齢を超えて健在である。母は骨粗しょう症などがもとに関節のゆがみやらなんだかんだで次第に歩く事が困難な状況となり、今は介護保険のお世話になっている。父は、軽く認知症の初期症状がみうけられ物事の管理ができなくなってきつつある。
ここで爺さん、婆さんの時代と違う点といえば、爺さん婆さんを支えた時は孫も含めて6人の家族全員が介護を行った。しかし、父母にすれば、息子の僕は近くではあるが離れて生活をしている。要するに父と母は「老老介護」なのである。ボケ始めた爺さんが母の移動を介護し、身体的障害に苦しむ母はボケ始めの夫に不足する記憶部分を補いながらの生活を維持している。不安と言えば不安であろう。また、ある面では、老老介護は自立という観点から考えると、一種有用な手段であるとも考えられる。これはかなり詭弁ではあるが、要するに年老いた家族が他に頼るところも無く自分頼みと感じた時に、意外としっかりと自分自身のエンパワーメントを活かした生活ができると言う事である。車は出来る限り運転した方が良い!自分が出来るところは他人に依存せず自分でやりましょう!病院巡りをしないで全てはホームドクターをもってお任せしましょう!等と号令をかけながら、出来る限りの現状維持を目指している状態である。これで、父母のいづれかが先立てば、残された方はどう生活するか?大きな問題が残される。通常であれば長男の僕が自宅に呼び寄せて生活を共にするべきであろうが、夫婦共働きでお互いに老人介護の生活を行っている者同士、なかなか自宅に年老いた老人を呼び寄せることは出来ない。これは、女房の父母にしても同じ環境であり、将来的に同じ問題を抱えている。
そして僕の時代がすぐにでもやってくる。僕の場合はボケる前に死んでしまう可能性は大きが、それでも何らかの形で人の世話にならなければ死ねない。そして家族と言えば女房だけ。子供が居ない。これは余談ながら、子供の居ない僕は、将来的に自分の最後を看取ってもらう為に太陽の家をつくった。そして、その時に適切な介護を受けれるように職員を丸めこもうとしている。今後介護保険制度が、どのように変化して行くのかは時代の流れと経済状況によって変わっていく。しかし、時代と共に高齢者への若者の感情の変化は著しい。家族で介護することが普通な時代から、核家族化し頼りの子供たちは離れて住み、それぞれが独立した経済生活を行い始めると経済的に裕福にはなりながらも、親を介護する観念が希薄となりつつあるように思える。
時代の流れと、欧米思想や人生そのものをゲーム感覚で生きようとする考え方など、世相によって老人介護の考え方は著しく変化している。高齢者の介護は負担が大きい。一人の高齢者を家族一人で介護する事は、介護保険の精度を活用しても難しい。昔の儒教の考え方の残る世代からすれば耐えられる(耐えようと努力する)介護も、今の時代では、掛る負荷から介護者の精神にまで大きなダメージを与えかねない。そんな時代背景の中で、高齢者となり自分の意思で物事を決定できない、その権力さえ奪われてしまう老人達は、家族の意向という一言で簡単に自宅から老人施設へ入居させられてしまう。その方が、要介護者にとって幸せだkらと言う家族の一方的な都合だけを言い訳にして放り込まれる。
しかし、これも時代の流れであり、完全に否定は出来ない。つまり、そうしないと家族全体の生活が成り立たなくなる時代であり、老人介護は専門機関に任せて、その家族は自分自身の本業に専念しなければ生きるための糧まで失いかねない厳しい社会があると言うことである。こう考えてくると分かってもらえるだろうか、時代の流れは、家族間の思いやりの形が変化してきていること。そして、仕方なく専門職に家族の介護を委ねなければならない現実とその中で捨てられた感情を抱く要介護者の気持ち。これらの世相を理解していかないと、今後の高齢者介護は出来なくなる。
僕は、太陽の家の職員には、この世相の違いを要介護者の年齢と生活歴、家族の考え方も含めて対応できるよう、そして、利用者の感情も理解できるように育ってほしいと願っている。