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ブログ-施設長の部屋

2011/8/5
高齢者と世相の相関関係

 小難しい表現のタイトルとなって、読み手にとっては「なんじゃこりゃ・・・?」と言うところでしょう。まあ、簡単な話、うちの実家の三代にわたる年寄りの生き様とでも言うか、そこに時代がどう関係したかについて話をまとめたいと思ったのです。どの時代の爺さん、婆さんが一番幸せな一生を終えたのか?と言う点の評価は、はっきり言って難しい。

 僕のばあさんは、明治の時代に生まれ、僕が誕生して数年後に一回目の脳梗塞を発症。片側まひの障害を負いながらも幼少の僕を連れて(父が言うには、ちょうど良い杖代わりとして連れて歩かれたそうだ)、いろいろな神社仏閣に祈願を兼ねて訪問したそうだ。ちょうど日本が高度成長のまっただ中の時代、しかし、介護保険の制度はなく、若干だが高齢者専用の施設は全国に誕生し始めようとする頃の話である。その後、婆さんは僕が中学に学ぶ頃までに数回の補佐を繰り返し、次第に寝たきりになっていった。寝たきりで5年程。今で言う「在宅ケア」となり、夫である爺さんを中心に、父、母が協力しながら介護に明け暮れた時代である。

 そして、その父と母が今や、爺さん、婆さんの年齢を超えて健在である。母は骨粗しょう症などがもとに関節のゆがみやらなんだかんだで次第に歩く事が困難な状況となり、今は介護保険のお世話になっている。父は、軽く認知症の初期症状がみうけられ物事の管理ができなくなってきつつある。

 ここで爺さん、婆さんの時代と違う点といえば、爺さん婆さんを支えた時は孫も含めて6人の家族全員が介護を行った。しかし、父母にすれば、息子の僕は近くではあるが離れて生活をしている。要するに父と母は「老老介護」なのである。ボケ始めた爺さんが母の移動を介護し、身体的障害に苦しむ母はボケ始めの夫に不足する記憶部分を補いながらの生活を維持している。不安と言えば不安であろう。また、ある面では、老老介護は自立という観点から考えると、一種有用な手段であるとも考えられる。これはかなり詭弁ではあるが、要するに年老いた家族が他に頼るところも無く自分頼みと感じた時に、意外としっかりと自分自身のエンパワーメントを活かした生活ができると言う事である。車は出来る限り運転した方が良い!自分が出来るところは他人に依存せず自分でやりましょう!病院巡りをしないで全てはホームドクターをもってお任せしましょう!等と号令をかけながら、出来る限りの現状維持を目指している状態である。これで、父母のいづれかが先立てば、残された方はどう生活するか?大きな問題が残される。通常であれば長男の僕が自宅に呼び寄せて生活を共にするべきであろうが、夫婦共働きでお互いに老人介護の生活を行っている者同士、なかなか自宅に年老いた老人を呼び寄せることは出来ない。これは、女房の父母にしても同じ環境であり、将来的に同じ問題を抱えている。

 そして僕の時代がすぐにでもやってくる。僕の場合はボケる前に死んでしまう可能性は大きが、それでも何らかの形で人の世話にならなければ死ねない。そして家族と言えば女房だけ。子供が居ない。これは余談ながら、子供の居ない僕は、将来的に自分の最後を看取ってもらう為に太陽の家をつくった。そして、その時に適切な介護を受けれるように職員を丸めこもうとしている。今後介護保険制度が、どのように変化して行くのかは時代の流れと経済状況によって変わっていく。しかし、時代と共に高齢者への若者の感情の変化は著しい。家族で介護することが普通な時代から、核家族化し頼りの子供たちは離れて住み、それぞれが独立した経済生活を行い始めると経済的に裕福にはなりながらも、親を介護する観念が希薄となりつつあるように思える。

 時代の流れと、欧米思想や人生そのものをゲーム感覚で生きようとする考え方など、世相によって老人介護の考え方は著しく変化している。高齢者の介護は負担が大きい。一人の高齢者を家族一人で介護する事は、介護保険の精度を活用しても難しい。昔の儒教の考え方の残る世代からすれば耐えられる(耐えようと努力する)介護も、今の時代では、掛る負荷から介護者の精神にまで大きなダメージを与えかねない。そんな時代背景の中で、高齢者となり自分の意思で物事を決定できない、その権力さえ奪われてしまう老人達は、家族の意向という一言で簡単に自宅から老人施設へ入居させられてしまう。その方が、要介護者にとって幸せだkらと言う家族の一方的な都合だけを言い訳にして放り込まれる。

 しかし、これも時代の流れであり、完全に否定は出来ない。つまり、そうしないと家族全体の生活が成り立たなくなる時代であり、老人介護は専門機関に任せて、その家族は自分自身の本業に専念しなければ生きるための糧まで失いかねない厳しい社会があると言うことである。こう考えてくると分かってもらえるだろうか、時代の流れは、家族間の思いやりの形が変化してきていること。そして、仕方なく専門職に家族の介護を委ねなければならない現実とその中で捨てられた感情を抱く要介護者の気持ち。これらの世相を理解していかないと、今後の高齢者介護は出来なくなる。

 僕は、太陽の家の職員には、この世相の違いを要介護者の年齢と生活歴、家族の考え方も含めて対応できるよう、そして、利用者の感情も理解できるように育ってほしいと願っている。

2011/8/4
太陽の家 夏祭りの開催

今年の夏祭りは、例年とは変わって規模を少し大きくしました。今までも利用者のご家族様にも自由に参加して頂いていたのですが、今年はさらにバージョンアップ。ご家族の集まり易い土曜日に開催。そして、色々なゲームや盆踊りなどを一緒に楽しんで頂くと同時に、今年は屋台を楽しんで頂こうと計画しています。

 その場で調理して、参加者のみなさんと利用者方々も一緒に、たまには太陽の家のホールで家族一緒に屋台の食事を摘まむのも良いんでは無いの・・・!という発想から計画がまとまってきました。豪華ではありませんが、それなりにB級グルメを堪能してもらえればありがたいです。

 そして、この日は職員の家族も同席させて頂く事となります。会場の広さに限界がありますが、狭くても身をすりよせて(夏のさ中に暑苦しいかも・・・・!笑) 皆さんと一緒に楽しみたいと思います。

 太陽の家 夏祭り   平成23年8月27日(土曜日) お昼ご飯ごろから開催!!(なんとアバウトな・・・・!)

2011/8/4
今日の玉ちゃんの失敗!

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 今日の反省。このブログを読まれる方にお教えするのは恥ずかしい内容なのですが、でも、今日の僕の対応の仕方は許し難く、その大きな反省を兼ねて皆さんにご報告いたします。

 その内容とは、今日のお昼の時間に、偶然厨房の配膳台近辺で一緒になった女性スタッフに対する僕の対応は、最低の対応でした。彼女は、先日の僕のブログに彼女のお嬢さんの写真を掲載したことに対するお礼の言葉でした。彼女なりに感謝の気持ちを込めて「ありがとうございました!」と言ってもらったのですが、僕は、とっさにアホな対応をしてしまい。知ってるにもかかわらず「○○ちゃんって・・・誰や!?」とぶっきら棒に切り出したのです。これは、言い訳できるような次元では無いのと、その時に深く彼女を傷つけた事を感じました。彼女は、その時の怒りや不満を僕にぶつけることなく、只黙ってしまいました。僕も僕で、その場を取りつぐろうことなく、無視するような素振りになってしまったのです。

 ちょうどこの日は、僕にとっては体調が昨夜から優れず、食欲もなく、しぶしぶお昼ご飯をたべなきゃ!と自分に言い聞かせるような体調だったことが唯一の僕の弁明にあたるのかもしれない。しかし、僕も経営者の端くれ。こんな体調不良を理由に職員さんにストレートに自分の感情をむき出しにするのは、如何に人間が小さいか!と言ってるようなもの。恥ずかしい限りである。

 人の上に立つ者として、やはりどんな場面でも、どんな状況でも、弱い者をかばう。自分よりも年下の者を守るという観念が無ければ、人を指導することは出来ない。そう言う意味においても、今日の僕の言葉は、人として重要な部分が欠けていた。常に、自分なりに、うちの太陽の家で働いてくれる職員さんの全て、そして関係する業者の皆さんには感謝の気持ちと、その人たちを思いやる気持ちを大切に考えているような、ブログを書いてる割にはお粗末な行為でした。

 

2011/8/3
芝生のお話し

メジャーリーグのテレビ放送を見ていて、いつも芝生の養生の素晴らしさに驚かされる。アメリカで一番ポピュラーな芝生の種類がケンタッキーブルーグラスと言う種類ですが、この芝生の特徴として生育が早い、葉がしなやかで青色が年間を通して継続する、但し、水分を多く必要とし夏の盛りには一週間に一回は芝刈りが必要である。葉っぱがしなやかな分、芝刈りの方向に芝自体が寝る傾向があり、それによって見た目に縞模様が出来やすい。アメリカのベースボールフィールドは、この芝の特性を利用して、見事なまでの幾何学模様を造りだしている。要するに縦じま、横じまを組み合わせたりして碁盤の目模様を造ったりしている。

 僕もアメリカ留学時代には、アルバイトの一環で芝刈りの仕事をしていたのです。給料はとても安く、一流のガーデナーが稼ぐ金額の十分の一程度。金額にして一時間で2ドル程度のお金をもらって働いていた時を思い出します。雇い主は地元の有力者達。高級住宅地に広大な庭と邸宅を構え、芝生の面積も日本では考えられない程の大きさだったのです。前庭と邸宅の裏庭等を合わせると、日本の一般的な住宅が10戸は建築できる広さがあるのです。その芝生をエンジン付きの芝刈り機で刈り込んで行くのですが、まず建物に沿って縦に交互に刈り込んで行き縞模様を造ります。その後、最終的に芝生の外周に沿って刈り込んで行くのです。最後にヘッジトリマーなる散髪機に小型版を使って、芝生の縁の刈り込みを行います。これで前庭を終了。同じように裏庭の刈り込みを行います。裏庭は何処の庭も形が歪で、素直な円形や四角などの形は少なく結構独創的な形が多く、刈り込みに時間がかかります。全部の芝を刈りとって、芝の水やりを行い全て終了。ここまでで約半日はかかります。それで8ドルから10ドルですから安いですね。でも、学生の僕には大金でとても重要な生活費になっていたのです。

 さて、話が脱線しましたが、アメリカ人にとって芝生の持つ意味はとても大きな資産と同じで、芝生の手入れ次第によって、その家の資産価値が変わるのですから大変です。アメリカの色々な地方都市を回れば、それぞれが庭の敷地の大小はあっても、必ず庭には植木と芝生が育てらています。生活レベルの差によって庭の手入れに格差があります。一般的より多少下がる低所得者層の住む地域では、それなりに芝生にも雑草が生え、芝生自体の色も濃い緑ではなく、枯れた茶色の部分が増えてきます。高額所得者達は、そんな隣人の住む地域には住みたくないのと同じで、自分達はそれなりの地域にかたまって生活します。だから、街を走っていて芝生の手入れをみれば、その地区の住民の所得レベルがうかがい知れるのです。

 さて、もう一度、芝生の育て方を紹介すれば、アメリカでは、まず土壌の整備から入ります。これは、日本でも同じ。芝を植える地面を掘り起こして、想定される基準値より芝の厚みや土壌改良に入れる砂を多く含んだ土を入れて平らにならします。それを適度に圧縮した上に、すでに生育した芝生のロール(日本ではブロックサイズに切り取られた高麗芝を並べていきますが)幅50センチ×1メートルくらいの長さにはぎ取られた芝生をロールにして販売されているものを並べていきます。並べ終わった芝生の継ぎ目に、先ほどの特殊な土をかぶせながら、圧縮ローラーを転がして表面の高さを揃えていきます。こうやって1カ月もすれば、庭先に素晴らしい青々とした芝生の庭が広がります。そして、1カ月に一回程度の肥しを与え、害虫の駆除、除草を行い、毎日のたっぷりな水やりを欠かさなければOK。簡単に言うものの芝生を管理すると言う事は、労力も費用もかかる一大事業なのです。そんなアメリカ人の気質が、そのままベースボールフィールドに反映されており、テレビの画面に映し出される芝生の青さに、アメリカ人の生活の質の向上に芝生と言うのは大きなカギを握っている事を感じてしまうのです。

2011/8/3
経年的物忘れ・・・

 歳を重ねるにつれ物忘れがひどくなる。これは、知能が劣っていくと言う訳ではなく単なる歳相応の物忘れであり、特別に問題視する必要性は全くない。それよりも、物忘れが増えてきたと感じる時から、出来る限り記憶に頼るのではなく書いてメモを残すことに徹することが、高齢者の認知症予防には最適である。僕も58歳となる今年、昨年以上に物事の名称や日程など、また仕事関係の会話の中で自分の発言にあやふやな記憶が多く発生し始めている。所謂、老化現象と言われるものである。

 うちのデイサービスを利用する後期高齢者の要介護者達には更に記憶に関するあやふやな部分が多く散見され、その定かではない記憶に不安な気持ちが高まり意識のレベルにまで影響を及ぼす方もいる。意識レベルと書くと、やけに大事のように感じられるが、要するに認知症の周辺症状(BPSD)と言われる特有の状態であり、これは高齢者だからと言う訳でもなく若年層にも過度の記憶に障碍を持ち始めると起こってくる症状である。

 私達介護を専門とする役職は、これらの記憶の障害に際し、無理やりに記憶を引きずり出すお手伝いをするのではなく、忘れたことよりも、忘れない様にお手伝いする。つまり予定を書いていく支援、書いたものを必ず目を通し確認する動作を徹底する、また重度の記憶障害者には家族による行動チェックも重要になってくる。

 要するに結果を言えば、高齢に伴い全ての人が記憶に何らかの問題を抱え始める。その欠けていく記憶を周囲にいる者たちが連携を摂りながら補っていくことによって、その人(要介護者)の心理的な不安感情は緩和され、周辺症状(BPSD)も減少し困惑感情も薄らいでいくこととなる。

 高齢者は以前には、その人生を尊ばれ尊敬されて生活してきたと同時に、ある意味、一般的な高齢者の枠からはみ出た人々は屋敷牢や離れと言われる別棟の小部屋に幽閉され社会から完全に隔離されてきた。今でも一部の社会的地位に高い人々などは、認知症を患うと同時に社会から隠れるような生活を送る人もいる。もちろん、そのようなVIP達の幽閉生活は庶民のそれとは大きく異なり、優雅で贅沢な毎日を過ごすことが可能である。しかし、一般社会との接点が皆無ということは、その時点で認知症の進行を早め、全ての機能不全に向けて思いの外、早く進んで行くようである。そう考えると、それ程の経済力の無い庶民が公的な支援を受けてデイサービス等の外部サービスを利用することは大いに意義があるはずである。

 その公的支援に関して言えば、今や要介護者数よりも多くの供給数を確保する事業所間での競争が激しい市場に向かっている。恐らく市内のデイサービスで定員いっぱいで新規要介護者の利用をお断りしているところは無いと言っても過言ではないだろう。そんなうちも同様、定員までには、まだまだ余裕があり、新規利用者の獲得に努力している状態である。まあ、新規利用者の獲得も申ことながら、そこでケアを担当するケアワーカーの獲得も重要な問題でもある。適切な介護を行う上では職員の数と質がとても大きな要因として、流行るデイサービス又は低迷する事業所間の格差を大きく広げていく事に繋がっている。

 うちのデイサービスでも職員の数は潤沢とまでは言えない。行政によって決められた人数は確保できているが、一人も余分な休暇を摂れないような状況では、その内に職員の心的・肉体的疲労感の蓄積により退職に結び付きやすい現状がある。職員にとって働きやすい環境と良好な人間関係が確立された職場こそ「働いてみよう!」という気持ちにさせるモノと信じている。もちろん働く以上は、それ相応の金銭的な課題も満たさなければならない。我々、介護の現場で一番の弱点と言われる低賃金の問題。これには、経営者としても頭の痛い問題である。先の震災以降、操業に問題を抱えて運営規模の縮小を余儀なくされていた自動車産業もここのところ、運営の復帰、拡大をもくろんで事業拡大を推進し始めた。期間労働者の採用枠の拡大は、そのまま介護の世界に流れていた労働者の流れが一気に喪失してしまう現象に変わった。今では、鈴鹿市のハローワークでも、介護職を求める労働者の数は日増しに激減している。これには就労に対する金銭的な保障額の問題が大きく関わっているのである。我々の職員に支払える給料は、全てが介護保険の給付にかかっている。働く量に応じてではなく、利用者の要介護度に応じて決められた金額を利用日数に応じて支給を受ける中で、給料の支払いを行っている。この体質は悪く考えれば、利用者の受けるメリットの量と質ではなく、時間単位で預かるだけの暇つぶし機関であっても同額の給付しか受けられない。

 この点について、何も活動のない又は利用者の言いなり介護や甘やかし介護を実践して、単なるゴマすり施設でも、必死に高齢者の機能回復を願って活発に活動を繰り返す施設であっても変らない評価しか受けられないのは大きな差別であると考えるが、そこは良識ある家族又は夢と希望を捨てきれない要介護者の選択権と市場原理を利用して、より良い施設を選んでもらえることが提供するサービスの質の向上を生み、事業所の繁栄を生む要素となると考えるべきだろう。

 僕もあと少しすれば、このような外部サービスに依存する高齢者の一員となる時が来る。僕のような我儘で自分勝手な理屈をこねる者は、このようなデイサービスでは嫌われる。そんな僕でも、なんなくこなせるだけの技量を蓄えた介護職員の居る施設に自らが太陽の家を育てていかなければ、僕の老後は悲惨である。

 職員の皆さん、こんな勝手な僕です。よろしくお願いします。

2011/8/2
もてるイタリアンな、ちょい悪オヤジ!??

僕が最近定期購読している月刊誌に「レオン」というファッション雑誌があります。7月末に発行された表紙のタイトルが、ブログのタイトルの同じ、イタリアンなちょい悪オヤジがもてる!と言う見出しが大書きされているのです。その雑誌を僕の仕事場のデスクに置きっぱなしで席を外れていたのですが、その間、僕が席をはずしている間に、事務所の中では職員さんの、その大書きされた雑誌のタイトルが話題になっていたようです。つまり、僕の目指すちょい悪イタリアの親父ファッションと、僕の第三者から見た印象のギャップについての話題だと思うのです。要するに、目指すイタリアのちょい悪オヤジは、僕という人物を普段から見続けている職員さんには、大きな食い違い・・・?思い違い・・・・?独り善がり・・・・?まあ、何でも悪口なら、すべてが当てはまると言う状況だったのでしょう。 その時の職員さんの話の内容は、次の僕の行動ではっきりする事となったのです。

 僕は外から戻り、事務所に無言で入るなり、大きなゲップをしたのです。決してお行意義が良い行為では無いので反省はするのですが、どうも今日服薬した薬の影響かしら・・・?! 部屋に入るなり不謹慎にも「げぷ~っ!」とやってしまったのです。それを事務所の皆が大笑いしながら指摘するのです。イタリアのちょい悪オヤジ、それもモテルオヤジを目指す人間のする行為か?と言う訳なんでしょう。するどくケアマネの加藤に指摘され、とてもバツの悪い思いをしていたのでした。

 当然、女性にもてるイタリアンなちょい悪オヤジは、人前で決してマナー違反な行為はしませんよね!!!これは、完全に僕の不覚でした。外見だけファッショナブルに着飾っても中身が伴わなければ、近鉄特急にのってくるマナー違反なオッサンと同じですな!このおっさん達は質が悪い。僕の座る席のアームレストに後ろの席から足をのせてくる。一日中歩き回って汗をかいて、革靴の中でムレムレのオッサンの足は臭い!その臭い足を、人の座っているアームレストにのせてくれば、当然、座っている僕には臭い足の臭いがもろに僕の鼻に伝わってくる。こんな輩と同じ行為に、人前でのゲップも同様ですね。

 いやあ~そう考えると、猛省です。明日からは見た目も、中身も、イタリアンなちょい悪オヤジを目指していきます。

2011/8/2
職員さんと一緒に料理教室の開催です。

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今日の業務終了時からデイサービスの職員さんを対象に料理教室を開催!今日はイタリアン料理の中でも両極端である冷製パスタとカルボナーラの二種を作りました職員さんの子供さんも交えて、簡単なイタリアンを皆で作ってみたのですが、やはり大勢のパスタをゆで上げて、ソースと絡めるのもなかなか難しいのです。特に塩加減が難しく、一部のパスタ。特に冷製パスタの場合、塩加減が難しいですね。職員さんにはバケットを添えて出来たてのパスタを食べ比べてもらって、色々な批評を聞か施てもらいました。

次はペペロンチーノを作れ!と、早くもリクエストが入り次回の開催に期待がかかってしまいました。ペペロンチーノはシンプルなソースだけに、火加減とタイミングが重要になるので、それこそ大勢のペペロンチーノを作るのは難しくなります。まあ、でも、皆と一緒にワイワイ言いながらパスタを造るのも楽しいですね。

今回はデイサービスの職員で開催しましたが、出来ればグループホームの職員さんと一緒に料理教室を開催しますね。

ちなみに、最初に掲載している写真は、うちの職員さんの子供さんの写真です。かわいいでしょ!


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