アメリカで生活していると、毎年、春先からサマータイムが導入され、ある日の深夜12時を境に1時間早く進む事となる。つまり、深夜0時を迎えると、その時点ですでに深夜1時。と言う具合に社会の時計が時を刻み始める。当然、その日から朝の6時はmサマータイムの7時ということとなる。まあ、文章で説明しようとすれば少し分かり難いかもしれない。しかし、それまでの毎日と何が違うって、それは、一日の終わりの頃のイメージが変わる。会社帰りの時間帯のイメージ。例えば、日本人は働き蜂の人種だから、会社を終えて帰宅する頃には当然日もとっぷりと暮れて、辺り一面まっ暗。それが、帰宅時間帯に、まだ薄らと空の端が明るく周りの状況がみえる環境。この違いは大きいでしょう。
さて、当のアメリカではどんな感じ?僕の住んでいたカリフォルニアでは、朝日のあがるイメージとその時間・・・要するに日の出の時間設定がアメリカと日本では多少違いがある。あの当時、学生だった僕は、朝一番の授業で7時からの授業ってのもあって、その時間に学校へ行っても辺りは真っ暗。街路灯に明かりがつく中、教室に入って行った経験があるのです。逆に、学校の授業を全部終えて帰宅してから、地区の草野球の仲間たちとフィールドでナイター照明も無く、野球をして、帰って夕食を食べる。そんな環境が普通だったんです。
今、日本では東北沖大震災から原子力発電の危機的状況に日本中が恐れおののき、単純な報道発表を受けて市中のスーパーからミネラルウオーターが消えてしまっている。この原子力発電に関しては、僕は最初から一貫して反対意見を書いてきた。電気の便利さから私達の生活は一気に向上し、申し分ない生活の質を確保できている。寒い、暑いにはエアコンがスイッチ一つで対応し、一つの画面で映画から歌謡ショーまで数百の専門番組を構成したチャンネルを瞬時に楽しむことができる。しかし、自然の光を十分に活用できるように社会システムを変えてあげれば、それはそれで原子力発電等に依存しない安全な社会を構築できるのではないか?と思うのです。サマータイムの導入に関して、日本の政府は、更に働きすぎることとなる日本人気質に配慮したようであるが、働きたい日本人は働けば良い。何時働き、何時休みをもらい、何時まで働くまでをお上に決めてもらわなくては、自らの休みも取れない日本人ってどうなの?
ハッピーマンデーと言う名称で、やたらめったらと連休を増やし、日本国民を半強制的に休ませようとする。連休中に休めない業種ってのもあるんだ。医療、福祉、子育てなんかは完全に年中無休。サマータイム導入もいってみれば、この強制的世の中総3連休システムと同じような、同じ尺の中に押し込んでしまう動きと言えばそうなる。しかし、天日というものを、もう一度、まったく別の角度から見てみると、それなりに新たな発見があるかもしれないよ!
うちのデイサービスに通ってくれるお年寄りとお話しする機会があった。相談員の身で話をする機会があったとは?どういう意味じゃア?と叱られそうだが、この場合の話す機会と言うのは、利用者全員を前にして話す機会を得たということである。
その中で、今回の大震災のニュースはこの地方の高齢者にとっても、重く辛いニュースであったようで、それなりに心に大きな恐怖感を持ちながら先の震災以降、毎日を不安な気持ちで生活しているようである。もちろん、今の段階で東海、東南海地震へのつながりの可能性は低いような報道もされており、一応はゆっくりと夜眠ってもらっても良い状況ではある。
ただ、災害は思わぬところに落とし穴が存在する様であり、今回の大津波被害にしてもここまで大きな津波に襲われるつもりではなかったと言われている。私達の暮らす東海地方でも、近々に大地震の発生が噂されてはいるが、後々の20年から30年の中で発生する確率が90%。そして、この期間の認識の違いが大きな被害の差になって出てくるのかもしれない。
僕が恐れているのは、利用者の皆さんの安全。命の保証であるが、その利用者の人を守るために若い職員の命が犠牲になる事を一番恐れている。今回の福島、宮城でも同じようにベッドに寝た切りになっていた高齢者が助かり、その高齢者を助けるために奔走していた若い介護職員が命を落とすという状況があった。年齢順に犠牲者が決まると言う事を言ってるわけではない、高齢者の命も大切であることは当然、しかし、それよりも介護する側がもっともっとリスクマネージメントを徹底しながらお互いの命を救えるよう、さらに努力してほしいと切に願わざるを得ない。
ぼくは、絶対にうちの太陽の家を使って頂く高齢者の命はまもってみせる。同時に、一人でも職員が命をかけなくてはいけないような場面には送らない。その為に、多少過剰反応と言われるかもしれないが、地震、台風などの自然災害に対しては、私達の安全基準を守りながら利用者の皆さんを見守り続けたい。
40年近く吸ってきたタバコを辞めた!
完全に一本も吸わなくなってもうすぐ2カ月が過ぎようとしている。逆に言えば、まだ二カ月程度なのではあるが・・・・・・
タバコは禁煙外来を利用した。二回ほどカウンセリングを受け、その順番待ちに駐車場に止めた自分の車に戻ってタバコを吸いながら順番を待っていたものだ・・・(・・・・そう! 決して禁煙には結びついてはいなかった)それが、ドクターの一言がきっかけとなり、その日からタバコを吸わなくなった。それの記念すべき日が1月28日である。
何が変わった? タバコを辞めている期間の最初の一カ月は辛かった。本当に少しでも良いのでニコチンを体内に入れたかった。自分の周りにタバコが存在しておれば恐らく禁煙の継続は無理だったろう・・・・偶然、タバコは僕の周りには一本も残されていなかったため、後の誘惑は点在するコンビニである。コンビニに出向けばタバコは買える。この歳だから『年齢確認もフリーパス!」これが一番危険である。禁煙をくじく最大の要因、タバコを入手しやすい環境が整っている。
それでも、タバコを吸わないでいると、いつの間にか『えへん虫」が居なくなるのです。 えへん虫・・・・タバコを吸わない人には無いもので、喉の奥に痰が絡みやすい。実際の痰の量よりも、人間の機関誌の内部にびしりと生えている細かな毛が、気管支内部から異物を除去させるように働いているのだが、喫煙者のそれは、タールがへばりついて、その細かな毛が機能してないらしい。これは、海にもれたオイルタンカーの重油に海鳥が全身オイルまみれにして瀕死の状態のニュース番組で見ることがあるが、まさしくこの状況を私は想像して、タールの恐ろしさを感じていた。
次に空気を吸いやすい。これって意外と喫煙者は知らず知らずのうちに犠牲にしている障害なんだ。肺活量が落ちる。健康的な時には大きな問題は無いが、喫煙者が病に倒れた時は、かなり重篤な問題として喫煙者自身がハイリスクを背負わなくてはならない。病気だけでなく別のリスクまでも喫煙者は負わなくてはならないのは辛い!!
口が臭くならない。(もちろん、喫煙が口臭の原因とは言わないが)、着衣がタバコ臭くない。次第しだいと喉の奥でゴロゴロいっていた「ゼイメイ」が無くなる。それと同時に肺がんになる確率がいっぺんに半分まで減少した。このまま継続すれば、更なるパーセンテージで多種類の高齢者特有の疾患から遠ざかることが可能となる。
本当に病気になると喫煙を呪い、悪しき習慣を恥じるのであるが、その病から回復基調に乗るとその決心もゆらぎやすい。分かっちゃいるけど止められない。僕も禁煙の必要性は感じておりながら禁煙を成功させることの無かった者。だからこそ、言えるが、病気になってから辞めるのではなく、病気にならない為にタバコを辞める。そう考えてほしい。
デイサービスのスタッフが新たに入れ替わったわけではないが、時々、このテーマで話をしないと、どうしても自分たちの思う方向へ誤って進んで行きそうな恐怖観念が僕にあるのです。 職員の皆さん、聞きたくは無いだろうが、僕の意見を聞くのではなく僕と一緒に考えてもらいたい。
太陽の家デイサービスセンターは、今年の事業計画の中に昨年同様、利用者のQOLやADLを如何にして高め、自立支援の意識を高め、他人に依存しない生活支援を目指しています。つまり、自分には障害があるからと自らの可能性をすべて伏せてしまい出来ることもやらなくなる考え方を改めてえもらう。また、機能訓練に対する概念を変えてもらうこと。その為に単なるリハビリ中心の訓練ではなく、遊びとゲーム感覚とでもいうような、チャレンジする事に楽しみを見出してもらい、それらの訓練の中にそれなりの改善の結果を可視化する事で更なる意欲に結びつけようと思っているのでしたね。
そこで、今日のデイサービスはどうだったの?
やはり一部の職員さん(特に経験の少ない人)は、介護する視点が対象者に近すぎる。 私達は限られた人員の中で、複数の高齢者介護を同時に行っている。人員基準から言えば、三対1の割合に近くなるのですが、それでも、一人の職員さんが三人の高齢者を見守るのではなく、三人の介護職員さんが9人の利用者を三方から見守っている。というのとどちらが有意義な見守りか?この問いには言わずとも知れた後者がベターに決まっています。多面的に利用者を見守り支援出来れば一番の理想に近い介護なんです。多面的に利用者を見る目る為には、自分の相手を見る位置が近すぎると多面的にみることは出来ません。少し後ろに下がって全体を観る。広い範囲で利用者を見る事に徹するんですよ。
僕は、太陽の家デイサービスセンターの一番のメリットに、自由な行動があります。要するに、相手を束縛しない。徘徊は止めない。徘徊を何も気づかずに束縛するほうが危険なのです。徘徊は認知症高齢者が訴えかけようとしている自らの非言語の表現方法なのです。影に何が潜んでいるか?を考えて、利用者の気持ちを読み取ってあげたいですね。 ただ。最近では、一対一でないと。相手の気持ちを測りえない!と気弱な介護職員が増加してきたようです。
さあ、もう一度、デイサービスの人員配置は、何を求めて配置され、自分の仕事は何なんだと十分に理解してもらうように期待してます。
アホほど丁寧で基本マニュアルに忠実に感情をこめず情報を公表する今の政府に対する文句ばかり言っていても気分は晴れない。それなら、いっその事話題を180度変えて、僕の好きな音楽と言うテーマで書いてみたい。
こうやって深夜帯に目覚めることが多い今の時期。(昼夜逆転では無いぞえ! どうしても仕方ない状況下で、そう長くは続かないであろうが、この状況に実際自分は辟易としている。) そうそう、この深夜帯に僕は暗がりの中でアメリカのジャズ中心のFM放送局にトランスすることがある。日本にいてアメリカ国内のFM電波を拾えるわけではなく、これには若干のコツが必要となる。つまり、インターネットを通じてロックオンする場合や、IPadなどのWiFi電波を通じて世界的なネットワークから探しだしてくるのである。コンピュータをお持ちでインターネットにつながる環境があれば一度お試しください。
検索窓口に「カリフォルニア州 FMラジオ局」または「ニューヨークのFMラジオ局」とでも、好きな地域のFM局を検索すれば、その州の全てのFMラジオ局の一覧が登場する。次に、その中からこれと思うラジオ局のコールネーム(西海岸はKからスタート、例えばKKSF,KFOGなど・・・東海岸はWからスタート、例えばWBLCなど・・・をクリックして、その局のホームページへ。
各局のホームページには、Listen Live と書かれた窓口があり、そこをクリックすると、そのまま今放送されている番組が世界中で楽しめると言うことになる。もちろん、海外のCMも含め、時には交通情報やお天気情報まで・・・・なかなか海外の生活を満喫できる雰囲気を楽しめるってわけだ。
さて、僕の好きな音楽の中心話題から遠ざかってラジオ局の説明となってしまったが、その中で、先日、久しぶりに1970年代に活躍した「ジョニー・ミッチェル」と言うトランペット奏者のアルバムを紹介していた。彼のトランペットはマイルス・デイビスのようなA級五つ星なトランペットではなく、妙に物悲しく、その音色は場末の路地の奥の方から響いてくるようなトランペットの音色で、知る人ぞ知る、ある意味マニアックなジャズプレーヤーである。そんな彼の、いつもに負けずこぶしを聞かせて、無理やりに風呂場の中で響きまくらせて演奏する曲に酔いしれていた。昔、カリフォルニアで生活する頃、酒に酔った頭で聞いていると、宇宙空間をトリップ出来るような気がした。そんなアーティストに久しぶりに遭遇。
次に、「ミルト・ジャクソン」って言えばヴィブラフォン奏者で超有名なアーティストがいる。初めて僕がミルト。ジャクソンを紹介されたのが「サンフラワー」ってアルバムであった。これも、ちょっと都会的な音色でありながらも、人生に疲れた気だるさを感じさせる音色で、聞く者の気落ちを誘う・・・・(?)いやあ、これは僕の感想ですから・・・・、兎に角、寂しい曲調なんですね。
そうこうしている間に自分自身も年齢を増しながら、いつの間にかバッハやショパン、マーラーと言ったクラシックに入り込んで行く事となる。このきっかけは、非常に単純で、オーボエ奏者の宮本文昭氏がCDを沢山リリースするようになり、それらのCDに収録されているのが宮本氏のオーボエの奏でるG線上のアリアであったり、カノンである。旋律も綺麗で、オーボエ特有のわびしさを織り交ぜた情感が、心を癒してくれた事がきっかけだ。この当時、僕は四輪駆動車に乗って、信州の山の中でキャンプする生活を好んでいた。宮本文昭のオーボエは夕焼けに金色に染まる林道をドライブするには打って付の音楽であったわけだ。そしてオーボエだけでなく、チェロ、バイオリンなど、それぞれの単独の音色も当然、それらの混ざったオーケストラの音楽にも感動する事が出来るようになっていった。 今ではジャズも聞きながら、クラッシック、オペラにまで興味は拡大し、それに伴って歴史的な時代背景や文化に興味を持つようになった。
人それぞれに好みの音楽のジャンルは違う。邦楽であったり、レゲーだったりと多彩なジャンルの音楽に、それぞれの人生は少なからずも影響を受け、その一つ一つに、その人の思い出を重ねて記憶されている事と思う。僕にとっても時代、時代によって好きな曲も変わり、その時代の特定の音楽を聞けば自然と涙する。そんな音楽を持ち合わせている。人生における音楽の意味は、重要とは思えないが、その実、その人の人生観に大きな影響を持って存在するものだろう・・・・
さて、皆さんの思い出の曲? どんな曲なんだろう・・・・・?
蛇足ながら、貴方が認知症高齢者となった時にセンター方式と言う技術を使ってケアプランが作成される。その中で必要となる詳細情報の中に、これらの好きな音楽、嫌いな音楽などを分類し、貴方の精神的安定を図ろうとする。その時の為にも、いまから貴方独自のマイパーソン履歴などを作成しておいたらいかが・・・・・・?
この18日の僕のブログで書いた「買占めのひかえ!」。この現実が、更に悪化しつつある今を懸念している。何を今なすべき事かをよく考えて、被災地では無い地域の日本人は行動すべきだ。私達のような、今回の地震災害の地域から500Km以上も離れて特になんの被害にも遭遇していない地域からは、本来、自分たちの生活を普段以上節制し余ってくる資材やエネルギーを被災地へ優先的に回すことが求められているのではないか? 今回の津波被害を恐れるあまりに、津波に遭遇しても流されない場所に秘蔵っ子の保存食や備蓄品を確保する事では無い!! 今日の報道では、この現象、日本国中沖縄まで波及しているらしい。普通の生活を送ることができれば、それ以上の何を望むのか? 買占めされ家電量販店の商品棚から乾電池が消えた!その所為で、高齢者のバイタル管理を行うにも支障をきたし始めている。こんな愚かな行動が継続される社会に、社会福祉の充実を求める権利は無い。
日本人であることを恥じる!
次に原発に関して、今日の報道で政府の考えを発表した。今、最大の問題である原発を廃炉にする方向で検討段階に入ったそうな・・・・・なんで今なんだ?最初から、人命を最優先としてアメリカの提案を受け入れていれば、もっと被災地復興にと救済に全精力を投じることができたのでは・・・・・? まあ、これも結果論といえば結果論である。しかし、これまた、日本に生まれて日本人である誇りを持てない。強い愛国心を持てそうにないそんな日本政府のトップの考えかたに・・・・
日本人であることを恥じる!
今日で東北関東の沖合で巨大地震が発生してから10日が過ぎる。本当に大きな地震と想像を絶する津波のパワーに恐怖を覚える。被災者の皆さんの毎日の生活を思うと、出来る限り早く普通の生活に戻れるように心よりお祈りしたい。日本政府も発生当初から大量の自衛隊を送り救助に徹していたが、ここにきて僕には良く分からない疑問が浮かんできた。それは、福島の原子力発電の扱いについてである。昨日は、消防署の一部のエリート部隊140数名が、放水車に乗車して原子炉の建屋に放水・注水を実施、それなりの作業効果はあったような報道がされている。
僕は、朝からこの報道を見ながら、実際の作業にあたった一部の精鋭達の決しの覚悟を察しながら、テレビ画面を食い入るように見つめていた。隊員たちの決死の覚悟とは、今回の会見のさ中に涙ぐんで家族からの応援メッセージを語るその姿に強く表れていた。それぞれが家族を持ち、家庭を持つ今を盛りの隊員たちの決しの覚悟。って並では出来ない事と思う。僕なんか超軟弱者なので、自分の命を投げ出して出陣することは不可能であろう。
また、同時に現場には東京電力の社員(?)協力会社(?)は分からないが『人」が現場復興に努力していると言う。誰にとっても放射能をあびることの恐怖は十分に理解された上での作業を遂行している人達。そんな人たちの「命」に変えて、東京電力、政府の両者は原子炉を守りたいようである。
最初の段階でアメリカからは原子炉の廃炉を前提とした協力申し込みがあったそうで、それを良しとしない両者がとっている行動が、この一連の福島原発の騒動であるようだ。果たして、電力はそれほど重要か?人の命を犠牲にするかもしれない危険性を敢て無視して守るべきモノなのか? かく言う私自身にも電気の恩恵をかなりの部分で受けなが生活をしている。このPCの電源、音楽ソースの電源、携帯電話、テレビ、炊飯器、冷蔵庫、暖房機器などなど書き出したらきりがない程、この電気と言う便利な物に頼りきっている生活である事はいがめない。
ただどうなんだろう、この便利さを金額に換算し、同時にこの便利さを守るために犠牲となる人々の命を値段で換算した時、政府は当然ごとく文明の利器を守る方が得策と考えるのでしょうね!
アメリカンのオバマ大統領は福島原発を中心に80Kmの範囲に生活する自国民に避難指示を出したそうである。スタンドプレーであるかもしれないが、まずは人命を最大限に尊重することから始まる欧米人気質とはたまた国家的プロジェクトを国民の生活よりも優先する考え方の日本。はるか昔、日本が真珠湾を攻撃して第二次世界大戦に突入していった頃の考え方と同類ではないか?!
もうそろそろ、原子力発電に頼る電力行政から脱却しないと、日本は破滅してしまうのではないのか?
先週末に東北関東地域を襲った巨大地震と津波の被害には、驚き、恐怖と悲しみ、言葉では言い表すことのできない、同じ日本人として心痛む思いでいっぱいである。地震の揺れをこの地域でも感じ、テレビのブラウン管を通して映し出される津波の映像に恐怖し、逃げ遅れた車が波にのまれていく様を、何もすることができずテレビにしがみついていた自分である。
あの恐怖の津波から5日が過ぎようとしている今でも、色々な生活物資が不足しているという。僕の横浜に住む友人によれば、被災地からそこそこの距離が離れている横浜においても、ガソリンが不足していると言う。茨城県や千葉県と言うのであれば理解できるが、横浜でもガソリンが入手しにくい現状をどう考えるか?
そして驚きは、さらにこの鈴鹿の市内でも。なんと、乾電池やフラッシュライトの類が全て売り切れの状態となっているのである。僕は、今日、自宅のベランダの白熱球が切れたので、予備球を買いに近所の家電量販店に行った。その量販店では、全ての乾電池が全て品切れ。フラッシュライトも品切れ。棚の上には商品が残っていない。この鈴鹿市もさしずめ被災地の様相である。その後、近所のスーパーへ今晩の夕飯の材料を買いに・・・ここでは、ミネラルウオーターが棚から消えている。そして、インスタント食品(ラーメンの類)・・・・ここって被災地なの?と疑ってしまう。
私達の住む鈴鹿市にしても巨大地震と津波の災害に巻き込まれないとは限らない事は確かです。しかし、今は、まだその地震被害を想定して非常食品類を買い占める必要は無いんでないの?と思う。もちろん、今すぐに直下型巨大地震が起こるかもしれない。その場合は、備蓄品を買いだめした人はラッキーで、それすら出来なかった我々はアンラッキーと言えるのか?
ましてや、今回の東北関東大地震のように超特大の津波で、家を根こそぎ破壊されてしまえば、備蓄もへったくれもありゃしない。非常時には、自分だけ、自分の家族だけ、親族だけと限定して救う事は出来なかろう。みんな平等に持てるものを勇気も含めて、残った者が分かち合う事が重要である。ある避難所では、津波被害は免れた住民から灯油の余りを寄せ集めて避難所の暖房に使っていると言う。公共の公民館や体育館などに大勢の人と寝食を一緒にする事はプライバシーの面でも辛い。ましてや、この寒い夜に一人毛布二枚しか支給されてないとすれば、こんな劣悪な環境ってない。食うものも食わず、冷えた心と体を温める術もなく、この災害を生き抜くにはどうすれば良いのか?自分だけ買いだめしておいたカップめんを食べながら、自分だけ豊富な燃料を確保しながら生き抜くのか?人間である以上、被災民の中で、自分だけの特別枠は無い。と考えた方が精神衛生上も良いのではないかと思う。
昨夜の夕食前に私の病室の静寂を破ったものがあった。別にベッドに横になって目を閉じている生活ではないが、それなりに一人で静かに(静かにしてなければ、他に何もやることが無いんですよ!)過ごしていると、うちの太陽の家の事務長を先頭に、デイサービスの職員さんと看護師さんが大群で押し掛けてくれた。
何が嬉しいって、そりゃ皆の顔がみれる事です。いつも気にかけて、それなりに成長を楽しみにしていた職員さん達と一緒にすごしているわけでもなければ、夫婦でもないけど、それでも僕はこの子たちが大好きである。この子たちとは失礼な言い方ではあるが、ある意味、僕はこの職員さん達だけではなく、職員さん達の家族も含め見守る責任があるわけで、その責任から、例え僕よりも年配の職員さんであろうと、僕は自分の子供への目線と同じ目線で見守っていかなければいけないと考えているからである。
兎に角、皆と手術後の体調や気分を話しながら、色々な笑いを貰った。やはり楽しい時間である。それと同時に、僕は、この人たちのためにも、早く施設に戻って、仕事がやり易いように管理、運営を行わなければいけないと思った。あと数日、そんな逸る気持ちを抑えて、つかの間の楽しさを味わった一瞬だった。
このアイデンティティータグは歓迎できないね!なんせ、不愉快だよ! 朝から晩まで、それも寝てる最中、全てにおいて僕よりも幅を利かせているんだ! こういう大きな病院では、僕の顔や名前だけではなく、このタグが全てにおいて物を言う。太陽の家にいる時は、名札無くても、僕は「校長先生であり、オーナーであり、施設長であり、玉ちゃんであり、アホ、ボケ、カスでもあるわけだが」ここでは、全てをこのタグで確認して処置がすすんで行く。
それと、こんなタグを付けている事自体、病人の証であって、健康な人間はこんなタグは不要なわけである。人の一生は、結構長いかもしれない。しかし、そんな長い人生、たった数週間でもこんなタグを付される生活を必要とされなければ、その方が良いに決まっている。ヨーロッパではタバコの販売に更なる規制強化がとられるようで、店頭や自販機などで一般の人の目に触れる販売を規制するそうである。何だか、タバコを買い求めるのが罪な気がしてくるでは無いか? もちろん、僕はタバコを辞めたけれど、そこまでタバコに対して敵視する必要性は見えないけどね・・・・しかし、今回の病気治療で初めて、喫煙の愚かさを知らされた。大きな手術を受ける者には、やはり喫煙癖は致命傷である。なんせ、息苦しい。酸素が入らない!!!!!息できない!!!!そして、痰が出せない!!!!! つまりは、全てにおいて呼吸する事に大きなデメリットを抱えてしまうのである。
食べ過ぎる習慣、喫煙の習慣、不眠不休を自慢する愚行、年齢と共に体の色々な部位で次第しだいに悲鳴を上げ始めていた事に気づかないでいると、このようなタグで管理された生活を余儀なくされる。皆さんもご注意ください。