今日の僕のブログは、毎月、提出してもらっている
職員の自己評価と次月の目標から感じたテーマに触れてみたいと考えている。
太陽の家を設立当初から、職員全員には自己評価を前月の自分に採点してもらう。
それを踏まえて次月の目標設定を自ら考えてもらう。
その自己評価を読ませてもらった僕から、メッセージやアドバイスを
記入して返却する。
このブログ更新がままならなかった時期には、
職員へ自己評価への書き込みどころか、返却まで滞って
皆には迷惑をかけてしまったわけだけど、
今日、読ませてもらった自己評価にアドバイスとして
皆が実践している介護全般的に言えることとして
内容はすごく良い介護を実践していると思う。
利用者の気持ちと個別性に配慮したケアは素晴らしい。
朝のコップ一杯のミルクにしても、
口腔ケアへの格段の配慮にしても
スキルと共に理念も充実していると感じた。
そして、ここでもう一つ、実践している現在のケアに
ほんの少しエッセンスを振りかけてもらえれば
尚のこと、この太陽の家のケアはよりベターな唯一無二のモノとなる
そんな気がした。
それは、皆さんのやっているケアに、皆さんの心を添えることで
利用者の気持ちに更に訴えることができるように思う。
例えば、コップ一杯のミルクを提供する時に
そのタイミング、温度、量を考えてあげる心。
口腔ケアに際し、水で口を漱ぐことに加えて
マウスウォッシュの希釈液で最後の濯ぎを勧めるとか、
使っている義歯の手入れを入念にし、今までよりサッパリと
管理してあげることが、僕が思う「心を添える」と言う意味だと思う。
元リッツ・カールトンの日本支社長の高野登氏の講演からも
なぜリッツ・カールトンが政界の一流ホテルとして残るのか?からも
ヒントを得ることができるモノが多くあった。
その人が「嬉しい!」と思えるサービスを添えること。
それも通常の業務にささやかな「あと少し」のエッセンスである
気遣いと思いやりを添える。
相手を思う気持ちは、好きな人にはすすんで発揮できる。
でも、相手に対する気持ちが無ければ、それは普通で終わってしまう。
今現在の内のスタッフを観ている限り、
普通で終わっているようには見えない。
異性としての愛情ではなく、人として相手を思う気持ちがよく見える。
それなら、そこに皆さんらしい一振りのエッセンスを
加えてあげてみると、さて、どう変わるだろう・・・・・
そこが楽しみだ。
毎日のブログ更新が継続している。
一か月を超えて毎日、更新しているのは初めてこと。
ひと月の更新回数では、過去にも記録として
今よりも多く、一日に4本や5本のブログ更新をしていた時もあった。
もう、なんでもありの世界だったかもしれない。
ただか数撃ちゃあ当たる式のね・・・
今のブログ更新も、どこかそのような惰性で継続していると見えなくもない。
なかなか毎日、新鮮な話題は転がっていないけど、
これも自分がアンテナを高く掲げていない証拠。
それと、すべての事柄に素直な気持ちで臨んでいないからかもしれない。
毎日が、言うなれば初のことばかりのはずなのに
同じルーティーンとしか自分が見ていなければ
そこには何も感じるモノは無くなってしまう。
ほんの些細なことでも、新鮮な経験と謙虚に思えることが
若さを維持する秘訣だと考えてはいるが
なかなかそのように自分の気持ちを維持できないところが
悩ましいところだ。
今日、ショッキングな出来事はたくさんあった。
女子競泳選手の病気の報道があったり
年老いた大型犬を散歩途中に蹴っ飛ばした飼い主の動画報道、
コンビニや寿司チェーン店のアルバイトの素行不良等
なんで?と悲しくなるニュースが飛び交っていた。
僕たちは、単なるニュース報道の一部でしか
それらの情報は入ってこない。
愛犬を蹴っ飛ばした飼い主にも、他に言い分はあったかもしれない。
そのような断片的な情報だけで、人を糾弾することは避けるにしても
虐待や人や物を尊重しない場面は、至る所で起こっている。
今や、情報に壁を立てることはできない社会。
僕のブログにしたって、どの様に僕個人の思いがねじ曲がって
トラブルを引き起こすかわからない状況だよね。
本当に世の中、年々生きにくい時代となっていってる。
太平洋戦争を未体験の自分が昭和の半分を過ごし、平成を終えて
新たな元号を迎えようとしている。
棒の祖父は明治生まれで、父は大正生まれの人だ。
爺さんは親と一緒に三人の兄弟でアメリカに移民した
初期の移民家族である。
同じく移民でアメリカに居た婆さんと結婚し、
生まれたのが僕の父だ。
父が9歳の時に儲けた金をもって家族全員が日本に帰国。
そこで父と母が結婚し、生まれたのが僕である。
父は太平洋戦争前に日本に帰ってきていたので
戦争では日本海軍として徴兵され、広島の方で兵役の予備軍として
訓練を受けている最中に終戦を迎えたそうだ。
おかげで戦死することもなく、鈴鹿に帰って来た。
戦後8年がたって、僕が生まれた。この時にも父は二重国籍で
日本とアメリカの両方の国籍を持っていたが、日本軍として
徴兵されたことで、アメリカの国籍は失った。ちょうど僕が
小学校に入るような頃に、アメリカの国籍を再申請して
アメリカの大使館に行ったりしていたそうだ。
その頃の鈴鹿市は、まだまだ古い日本の田舎町で
僕の通った小学校など木造二階建ての 建物で
先生に言われて、布袋の中に炒った米ぬかを詰めたもので
床板や階段を磨くのが掃除の一つの作業だった。
米ぬかの脂が、床板に適度なワックス効果を与え
磨くと床が光りだす。そんな時代だった。
また、高岡から木田町へ鈴鹿川沿に
関西本線が亀山方向へ蒸気機関車が走っていた。
高岡の山の途中に関西本線の真上を渡る橋があって
そこで記者が通るのを待っていると
真っ黒な煙を吹いてSLが、橋の下を走っていく。
ボンネットバスがところどころ未舗装の国道を
走っていた時代である。
今でこそ、一家に何台も自家用車がある時代だけど
あの当時に、車を持っている家なんて医者か 地元の名士くらいで
大衆の乗り物は、良くってスクーター程度。
うちの家も大衆の一家だったんのでスクーターと自転車。
大きなものを運ぶのは牛車。其のまま字のとおりで
牛が大八車を引いてあるく。だから、のんびりしたものだ!
牛の歩くスピードなんて、人がブラブラ歩く程度のスピード。
移動にかかるスピードは、今からは想像できない速度であるし、
その分、移動できる距離もしれている。
必然的に生活圏と言われるエリアは小さい。
なにせ、そんな頃の三日市や平田町は、
今でいう亀山とか四日市のようなもの。
町と町の間がしっかりと別れている。今は民家が町の境界線まで
びっしりとつながっているが、その当時は在所と言われる集合体が
畑や田んぼで囲まれ、その先に隣町が存在した。
これが昭和の30年代の地元の姿、
そして、この10年後、昭和40年代になると急激に社会が変化し始める。
テレビ、洗濯機、冷蔵庫などの電化製品が普及し始める。
時代の変化と共に、生活が変化していった。
移動手段がバスや電車、自家用車の普及によって早く、楽にできるようになった。
この頃、親父が東山動物園に家族全員を連れて行ってくれた。
婆さんや爺さんも連れて、子供二人の6人が名古屋まで日帰りで
行って遊んできている写真が残っている。
あの頃は、親父を先頭に家族それぞれの役割が存在していた。
父親が絶対的な権力を握っていた。
僕の父も非常に厳格な人だったし、僕もよく殴られた。
父がNO!と言えば、絶対にNO!だった。
悪いことをして叱られ、そしてパンチを食らう。
その当時も今も、僕は親が子供をしかる時に
拳骨で殴ることをDVとは考えていない。
もちろん、意味もなく感情で殴るのは許せないが
躾の一環として殴ることに否定はしない。
まあ、今回は虐待の定義についてはこれくらいにして
もう一度時代の変化について話をもどそう。
昭和って言うのは、戦争で荒れ果てた日本が
高度経済成長の波に乗って、平成の礎を築いた時代。
何もない時代から、ものすごいスピードで人が豊かになり
モノに溢れた時代。
今や、家庭の中で当然のように蛇口をひねればお湯が出る。
スイッチを押せば、決められた時間にご飯が炊ける。
自分専用の車があり、自分専用の電話を常に持ち歩ける。
好きな時に、好きなものがコンビニで買って食べることができる。
物質的に日本も欧米諸国と同じくらい恵まれている。
お釣りのこない便所。(こんなの今の若い人には理解できないわ!笑)
僕の子供の頃と比べれば、今の社会は超便利だし、清潔!
でも、時々、そんな不便で暗い昔の生活が懐かしく思える時がある。
パイプオルガンの音色が好きで、時々、思い出したようにCDで聴く。
そりゃCDを再生して聞くよりも、コンサートホールで聴く方が音は良い。
しかし、やはりパイプオルガンは教会で聴くのが一番良い。
昔、学生の頃、スタンフォード大学の教会でパイプオルガンを聞いた。
僕が教会を訪れた時、ちょうどパイプオルガンの練習をしていたのか、
だれも居ない教会の中に響くパイプオルガンの音色に
全身鳥肌が立つような気分になった。
僕はクリスチャンでもないし、キリストについてそれ程知っているわけではない。
そんな僕でさえ、パイプオルガンの奏でるミサ曲を全身に浴びた時
天空のさなかに神を感じたことを覚えている。
もちろん、薄暗い教会の中に、幻想的なステンドグラスの文様が
音と混ざって、更に雰囲気を盛り上げているからだと思う。
教会ってのは、本当によく考えられて設計されているものだ。
天井の高さ、石の床、ステンドグラスから注がれる色彩、
その中心に十字架のイエスキリストがいる。
ヨーロッパの生み出した最高級のエンターテイメントだと思った。
日本の神社にも、別の感覚として人を魅了する術がある。
太鼓と鈴の音がそうだ。
人を引き付けるための演出は、ある意味、冷めてないとできない。
客観的に人の心をよんで、そこにベクトルを合わせ
色々な作用を重ねていくことで、最終的に主体を引き立てる
そんな演出を成功させるには、ブレの無い思い。
この思いは熱く、行動は冷静に!
そんなことを夜遅くCDから流れてくるミサ曲を聞きながら
耕うん機、無事に動いてくれました。
すこぶる調子いい。ただ、側面の泥除けがひん曲がって
ローターと干渉してしまうので、今日は片側の泥除けをはずしての作業となった。
畑を耕すことは問題なく、何とか必要なっ部分だけは
耕して畝を作ることができた。
たった3本だけど、これほど畝を真直ぐに作ることの難しさを初めて知った!
高さもそうだが、幅が均一ではないし、
何よりも真直ぐに畝を導くことができない。
クワを使っての作業は非常に難しいし、腰が痛い!!
随分と目につく石は拾い出したつもりが、
耕うん機でかき混ぜ、クワを使って整地していると
まだまだいっぱい出てくる。
今日はこの3本の畝を作るだけでも、写真にある一輪車に
二杯の石を処分した。
開拓農民の苦労がよく分かる。
そして、足元から冷えがくる。長靴履いて完全防備のつもりが
数時間も土いじりをしていると足が冷える。
さて、この畝を使って何を植えるか??
一本はジャガイモを作ろうと考えている。
ここで採れたジャガイモを湯がいて、バターと塩で食べてみたい。
夏に向けて、トウモロコシやトマト、キュウリやナスも植えてみたい。
まだまだ痩せた土地だけど、少しずつでも生物が息づき、
成長していく姿が見たい。
まだ虹の丘は、人が住んでいる空気の漂わない場所だが、
春になって花が咲き、野菜が芽吹き始めると
人が暮らす場所に変わっていけそうな気がする。
うちには、もう一つ世話しなければいけない畑を僕の実家の近所にある。
そこも手入れをしなければいけないが、
まずは、この虹の丘の畑に、もう少し緑を増やして