人間にとって食事とは大事な作業の一部なのです。(当たり前のことですが・・・)
口から食べ物を放り込んで、歯で噛み砕いて、唾液と混ぜて飲みこんで体の栄養素として利用するのですから、立派な生きるための手段なのです。しかし、事はもっと複雑で、その生きるための行為に「嗜好」が合わさることで、より複雑になります。また、同時に人間の欲望が絡み、なおのこと一筋縄ではいかない問題を抱えています。その問題とは「肥満」です。
今の私は、この食の誘惑に負けていると言うか、食への欲望が強く、英語でいえば「GREED」(貪欲、意地汚い)と言われるほど食べることに執着しています。結果、大豚への道をまっしぐら!
豚になると良くないのが、高血圧、高脂血しょう、心臓病やら糖尿病が心配される点です。まァ、別に早死にしても良いのですが・・・(このように言う奴ほど、生に対する執着はつよいそうです)病院に入院しなければいけなくなったり、注射や手術など痛い目に逢うことは避けたいですね。
さて、どれくらい、食べたいか・・・・毎食後に必ず甘いものが食べたくなる。洋菓子でも和菓子でもOK!スイートと呼ばれるものが食べたい。
夜、デスクに向かって仕事してると、何かしらの「おつまみ」がほしくなる。今の時期だとスルメ!
止まらない食欲に、摂取カロリーの調整が困難な場合は消費カロリーを増やす算段が必要と考えて、最近、ウォーキングを再開しました。夜遅がけは交通事故の危険性もあるの、できるだけ早い時間帯に。一人で裏の農道を平田まで歩いています。この効果が表れるにはまだまだ時間が必要ですが、この顎の余分な肉を取らないと・・・と思っています。
認知症グループホームが地域密着となってから以降、運営推進会議なる仰々しいタイトルの会議を実施しなければいけなくなった。運営推進会議とは地域に根ざした高齢者施設であることを施設を運営する者、地元自治会や老人会、利用者家族の代表や行政など、高齢者福祉の関係者が再確認する場であると私は理解していますが・・・なかなか有意義な会議の開催に至っていない。
前回までは、会議らしく事項書を用意し、司会進行を務めていたが、どうもしっくりこない。やっていて面白くない。
それで、オブザーバーとして参加してもらっている行政側の担当者として地域包括の管理者に相談したが、堅苦しいのかもしれない。とアドバイスを受け、今回の会議からは、以前よりはリラックスした雰囲気の中で、地元自治会や民生委員の発言がしやすいような雰囲気作りに努力した。
最初は焼酎談義に始り、このままで運営推進会議と言えるのか?!と心配しながらも、所々で、グループホームの実情についてお話を加え、それなりに活発な意見交換ができた。
しかし、こんな会議を2か月に一回、開催しなければいけない。
地域密着は確かに認知症高齢者のBPSDに対して有効な手立てであり、その関係が社会資源として利用できる重要な要であることは理解できる。しかし、なんで2か月に1回の頻度での開催を義務付けられるのか? それと、我々、営利法人の経営する高齢者福祉事業所はとかく営利主体の事業所のように誤解されがちで、社会福祉法人の運営する福祉施設に比べても、世間一般の視線は社会福祉というより商売として見られていることも災いして、運営推進会議へのボランティア的な参加をお願いしても理解を得難い部分がそこにあるように思ってしまう。
営利法人の運営する高齢者施設は社会福祉施設ではないのか?という疑問について、我々営利法人として肩身の狭い過去の出来事としてコムスン問題が存在する。あのコムスンの儲けを第一に考えるやり方が批判されがちだが、コムスンは儲けのために事実とは異なる申告を行い、不正に介護報酬を受け取っていたことから指定の取り消しに至った。儲けることが問題の中心ではないし、公益法人にしたって利益を追求しているのは事実です。
我々、営利法人は利益に対しては法人税の支払いの必要性はもとより、事業所の使用する介護車両の購入や施設の土地確保には取得税はもちろん一般の企業と同じだけの税金は支払わねばならない。営利法人だから、行政の補助は受けられない、団体からの寄付に対する優遇は受けられない等、沢山な不利な条件の中でも公益法人と同等、また以上のサービスの質をの確保を求められているのです。
営利法人の運営する高齢者施設は決して儲かっている事業ではないのです。どこの事業所でも、十分な賃金を確保できないほどの事業予算のなかで喘いでいながらも「捨てる」ことのできない社会的な責任感のもと、青色吐息で運営を継続しているというのが現実なのです。
こんな話を運営推進会議の席で出来るよう、地元の方々を巻き込んでいかなければいけないのでしょうね。
認知症と認知症グループホームの関連について小論文をまとめている。この作業は三重県の依頼を受けての作業であるが三重県GH協が受けて、僕にその作業が回ってきたと言った方が正しいかもしれない。とにかく、大変な作業で、同時に僕のもう一つの論文作成期限が12月1日に迫っている。これのテーマは知的障害者施設の高齢化とソーシャルワークの課題についてである。二つの文章が交差するなかで、すでに頭の中はぐちゃぐちゃです。う~ん、ぐちゃぐちゃと言うより、集中力が飛んでしまって、冷静にストー^リーが組み立てられない。そのような現象に困り果てている。
さて、このような今日この頃、うちに利用者Aさん。今日は二回、三回、と生活相談があった。一つは腰が痛い!病院受診したい!仏壇のお守りを放棄したい!まっすぐ立てない!言ってみれば、全てが関連して発生している。一番最初のきっかけはご自身がトイレで排便処理をしている最中に、よろけて右わき腹を擦るように撃ったことから発症している疼痛である。その時の職員が同行して整形外科を受診しているが、Dr.の診立ては骨折の可能性は低いが安静にしてようか!と言われたそうだ。同時に、また痛かったら病院に来なさい!(結局、この言葉が今日まで彼女の脳裏に引っかかっているのですが)
今日は朝から大騒ぎ。職員を共だって病院を受診する!しない!でもめている。痛みを表現するのは本当に上手である。私も最初のうちは、病院受診してもシップだけしか対応してもらえないと思うよ!と言うが、本人はどうも病院へ行って、なにがしかの医療的エビデンスを求めているようである。きっと「入院」とでも診断されれば納得。もうそれこそ上機嫌で帰ってこれるような感じである。流石の私も、あまりの迫真の痛みの訴えに根負けして、職員に病院受診するように指示した。
程なく、病院受診から変えてきた彼女を事務所前に迎え。様子をきいてみた。あまり幸せそうではない!
どうも私の想像通り、Drにはもう少し運動をしなさい!と言われて湿布薬すらもらえなかったそうだ!そして、病院が思いの外不発であったので、次に、自分が入所の際に無理を言って持ち込んだ仏壇の世話が困難な状況になってきたので処分したいという申し出がでた。体調悪いから仏壇のお世話もシンドイのは理解できるけど、そうやって全ての役割を削除していくことで、老化現象もどんどんすすんでしまうから、歯を食いしばってでも続けてほしい!とお願いをして、この件に関しては私の考えを曲げなかった。結局、表現は相応しくは無いが、彼女の意見に僕の意見が勝ったような状況となった。
このAさんの訴えは、腰痛でも仏壇のお世話のトラブルでもなく、一番言いたい問題点は、毎日の生活が単調なのでしょう。だから何かの変化がほしい。ちょうど、毎日の生活のパターンに飽きが来ているのでしょう。グループホームの体制を見直さなければいけない時期なのでしょうね。
24日間の現場実習を今日で終了した。今まで、私のブログの更新が遅れ気味であった理由がこの実習の影響を受けていたのであるが、知的障害者更生施設での実習を終えて最終日の今日。通常の業務として夕方の午後5時30分までしっかりと業務をこなし、施設の職員さんにお別れのご挨拶をしたのち、普通のように施設の出入り口に向かった。
この施設の夕食時間は午後の5時30分が夕食の開始時間であり、普段なら利用者は食堂の入口でたむろしているはずであったが、今日は、全員が私が退出する玄関ロビーに集合していた。
そして、利用者の皆が、「お兄ちゃん、明日からこやへんの・・・?」と問いかけてきた。こんな言葉どころか、利用者の皆が玄関に来てくれる事だけでも感激の自分に、明日からこえへんの?やら、寂しいやら!の言葉に思わず目頭が熱くなり、言葉が出なかった。その場所で、みんなの顔を見ながら、話をしていたら恐らく僕は泣き出してしまっていただろう。実際、僕は、彼らの言葉を「また、遊びに来るでな!」と一言いっただけで逃げるように施設の外へ飛び出してしまった。みんなの気持ちに素直に答える事も出来ず、嫌な大人の自分が居た。玄関から駐車場まで歩きながら、もう一度、玄関に戻ってみんなと一緒に最後にきっちりとお別れをすべき?!だったのか・・・・?迷いいながらも、目から涙が流れてしまった。
24日間、土日をお休み頂いて居たので、実際に滞在したのは5週間。最初は、知的障害者のケアを始めて体験する戸惑いや慣れない職場環境に、実習期間を満了できるのか不安だった。高齢者介護しかやったこと無く、この施設の利用者の行動、思考回路、パワーに圧倒され、半分ノイローゼ気味の環境の中で意地をはって今まで頑張ってきた。
この日までには、この施設の職員さんの温かな励ましや、ご理解、ご協力を頂き、私はとても恵まれた実習環境において頂いていたから挫折することなく、また期間中に体調不良にもならず頑張ってこれた。そして、この純真で素直な利用者の人達にたった24日間だけではあったが情がうつり、本当に人間らしく愛らしい憎めない人達に囲まれていた事に感謝の気持ちがいっぱい、溢れてきました。この施設の職員さんは退職する人が居ないと聞かされた。今日、その理由が分かったような気がした。
この施設の利用者達は、一切の掛け値なしの関係なのです。損得を考えて人と接しない。騙されてても疑う事をしない。頑固に執拗に自分の思いに拘る人達は、本当に純粋な人生を生きているのです。
実習を終えて学んだ一番大きな成果は、人としての正直な関係の素晴らしさでした。
この実習で学んだ成果を、今後は高齢者介護の現場で十分に発揮できるよう頑張るつもりです。
11月になって、もうすぐ20日が過ぎようとしているこの頃、久しぶりのブログの更新です。・・・・・・いやァ・・・・別にブログに飽きてきた?訳ではないのです。ここ数週間は毎日の他事業所での実習体験中で身も心も精神も疲れ果てて・・・・・ってのはオーバーな表現ですが。
まァ、実習を終えて帰宅すると、まずしなければいけない事項として、実習日誌の記入と考察を書かねばなりません。実習レポートを毎日書いて翌朝にはお世話になっている施設の方に提出しなければなりません。これが結構、時間がかかります。この年にもなると、下手な文章も書くわけにはいかない。それなりに熟慮された文章でなければいけないと思うと、肩に力が入り、妙にぎこちなく、片っ苦しいだけの文章となってしまう。
まあ、そんな訳で、夜は夜で文章を書くことに集中して、書き終わると一日の疲れがどっと出てきてしまうのです。そういう理由ですが、ブログの更新が実施できにくい状況であったという言い訳だけでも書いとくか!
さて、さて、実習当初の実習先施設の利用者に関して言えば、実習生の私の言葉など、まったくの無視!だったのだが、ここにきて随分と様子が変わってきた。利用者の様子の微妙な変化を見極めることができるようになってきたこともあるが、私の問いかけに言葉少ないものの確実に答えてくれるのである。自閉症の男性、今までお話もしたことがない。ただ軽作業を行う場面には、ちょこちょこ声をかけれる距離にいた。そんな彼に、今日の作業終了後に部屋の掃除を行いながら、チリトリを持ってきて貰えるように頼んでみた。彼は、最初「チリトリ」の意味が理解できなかったのか、ひとりでうつむき加減のいつもの様子で考え込んでいた。仕方なく、彼を連れて掃除道具入れのロッカーまで行き、チリトリを取り出して、彼に手渡した。
黙って僕の差し出したチリトリを手にして、僕のあとに従いゴミの前に戻ると、そのちりとりを持ってしゃがんでくれた。ゴミを取ろうとする仕草なのだ。
とても感動した。僕は手にした箒で床のゴミを集め、彼の手元にあるチリトリに集めながら、彼の名前を呼び、感謝の気持ちを伝えた。彼に僕の感謝の気持ちは伝わったことと思う。
彼は、僕が差し出した手を、そうっと自分の手で触り、何かの感触を確認しているような仕種をした。彼の手は意外としっかりと大きく、手入れの行き届いてないゴツゴツした手ではあったが、僕と同じようにぬくもりがあった。暖かく、やさしい手だった。