愛知県の日進市における花火大会の中止のニュースは、色々な意見が彷彿する問題を抱えている。事の発端は、東北地方の震災復興を兼ねて福島県、宮城県、岩手県の花火を日進市のお祭り会場で打ち上げようという企画から始まっている。この情報を知った一部の市民から、花火打ち上げによる放射能の汚染は大丈夫か?と言う疑問の声が上がったわけで、一部の市民からは、それらの花火を持ちこむ車の除染も完璧でない以上、放射線汚染を広げることにならないかと言う懸念から、花火大会自体が中止となったというニュース。この報道を聞いて皆さんはどのようにお考えか?
僕は一番に感じた事として、花火による放射線汚染の可能性について疑問を投げかける市民の存在は普通かな!と思った。多少、神経質になりすぎてやしないかとも思える内容だが、それとて自分の家族、特に幼児を抱える人々にとっては大きな問題である。放射線汚染が目に見えない存在であり、どこまで汚染され、どのように生体に影響を及ぼすのか分からない現状では、ある意味仕方ないのかもしれない。と考えた。しかし、腹立たしいのは、運搬車両が放射線を市内を通過することによって放射線をまき散らすと言う意見を持ちだした市民に対しては怒りを通り越して呆れてものが言えない。前述のとおり、放射線汚染は恐ろしい、しかし、いたって少数の台数でしかない花火関係者の車両が、福島県から訪れたにせよ、その車から放射線gまき散らされる危険性、そしてその放射線を道路脇で浴びる危険性を考えてもクエスチョンしか浮かばない。
僕たちは健康診断や病気治療の目的でCTやレントゲンを使って放射線を浴びることが皆無では無い人生をおくっているにも拘らず、一部の極論者によるアホな理論に翻弄されるのは止めてほしい。同じ国民として、福島県民であろうが三重県民であろうが、今回の震災被害を共有し同じ目線で対処することが、強いて言えば我々の国を元の元気な日本に戻す一番の力であると考えるべきだろう! ニュースでは国を超えて台湾からは、今回の震災に多額の支援金を集めてくれて、おまけに災害救助隊の派遣もいち早くおくりこんでくれたと言う。人種を越え、国を超えての支援を受けながら、日本人同士がお互いの「生」を育むことが出来ない、そんな国が今の日本なのか? 個人の権利もそこまでいくと単なる利己主義としか思えない。
うちのエアコンはブログにも書いたように12日から故障している。この亜熱帯的蒸しぶろ状態の日々の中、毎夜毎夜、自宅リビングでは、完全に窓を開放して少しでも多くの冷気を呼び込もうと苦心惨憺する日々をおくっている。まあ、エアコンの故障に関しては、今日の午後から新たにエアコンを買い替えることで、なんとか今抱えている問題は解決に向かいつつあるが、そんな昨夜。僕は、室外であるベランダに出ている方が涼しい事に気づき、外に出た。
うちのベランダは、隣の商業施設の為の駐車場となっており、結構な台数をとめる事の出来る駐車スペースが確保されている。この夜も数台の車が駐車されていた。そして、緑色の小型スポーツ車が一台。その車のわきに妙齢の男女が二名。手には某ハンバーガーショップのドリンクとハンバーガーらしきものをもち、談笑しながら夕食の途中らしい光景が目に入ってきた。このお二人、年齢的には40代くらいと思しき男女。車も派手な小型車であり、身なりも個性的である。ちょっと見、時代の先をあるくようなファッショナブルと言える系の人物。そして、時間が経過し、それぞれのお食事(立ちながらではあるが・・・・)が終わると、まず女性の方が、手にしていたドリンク容器を地面に置いた。そして、そのまま、助手席のドアを開けて車に乗り込んだ。
あれっ・・・・ドリンク容器は、置いてくのか・・・・?と目を疑っていると、次に男性も同じように反対側の車のドアをあけ車に乗り込んだ。車に二人が乗り込んで暫くしてエンジンがスタートし、その緑色の派手な小型スポーツカーとイケてる風の中年男女は、何事もなかったように涼しげな顔をして走り去ってしまった。先ほどまで車の停まっていた場所には、二か所にドリンクの容器、そしてハンバーガーの入っていた紙袋が残されていた。
僕は普段からイタリアンなちょい悪オヤジを気どっているが、このようなマナー違反はもっとも許せない事の一つで、最初に妙齢と書いた、ある程度の人生経験も積んだような人物が、公共道徳のかけらもない行為に腹がたつ。自分の身なりを気にする人なら尚の事、ルールとマナーを守ってこそファッションが生きると言うものだ! 道徳のかけらもない人物が運転するスポーツカーなんて、恰好良くないし、そんな奴はスポーツカーに乗る資格すらない。
この現実をみて、走り去る二人に同じ恰好を気にする中年(初老。・・・・?)の一人として、非常に寂しい思いになった昨夜だった。
空をみてビックリ! 我が家から西の方向の空一面に 写真のように色とりどりのバルーンがいっぱい。 そう言えば、近所のスーパーでバルーン フェスティバルのポスターを見た覚えがある。この不順な天候の中、うまく雨雲や台風の影響の合い間をぬって開催できたものだと感心する。バルーンと言えば、ヨーロッパ発生のスポーツであり、日本でも世界大会が開催されるなど、知る人ぞ知る的イベントが、この鈴鹿市でも、記憶は不明確ではあるものの1990年代初め頃より毎年継続的に開催されているイベントである。
僕もそれ程、このバルーン協議については明るくないものの、熱気球の特性を生かし上手く気流をつかんで目的地へより近く飛行することを最大の目標とするゲームである事くらいしかわからない。今日も、我が家から一番近くに浮かぶ気球を見てたら、バーナーをゴーゴーと音を立て燃やしながらも、一機の気球が下降してきた。今にも手が届きそうな(実際は、地上20から30メートルは離れているかと思うが)距離まで下降してきた気球から、長い帯のようなものを付けたウエイトのような物が放り出された。なんだか、目標となるターゲットにむけてマーカーを投げているような雰囲気で、地上に落ちたマーカーを確認するスタッフ様の一数人が、投てきを確認した後拍手していた。 熱気球は、元来推進力を風に頼る乗り物ゆえ、コントロール出来るのは浮遊高度の調整だけしかできない。皆さんも御存じなように、空中には、複数の層に分かれて違った空気の流れが存在する。極端な話、地上数十メートル上空では、風は南に吹いていて、それから100メートル上空では真逆の北に吹いている場合もあるようだ。熱気球のパイロットは、その気流の流れを読み取って自らの操縦する気球の高度を調整しながら、右へ左へと方向を変えながら、目的地まで飛行するわけである。
それと、熱気球ってのは、一人のパイロットだけで運転できるわけではない。空中に浮かぶ時点でもパイロットを中心に数名のアシスタントを乗せて、それぞれが役割を持って安全な飛行を管理している。また、さらに、一機の熱気球に対して数名の地上クルーがワゴン車ないしはトラックに予備装備を満載して、常に行動を共にしている。つまり、熱気球の行き先々まで地上クルーは車を使って追いかけているわけである。地上クルーの役割としては、熱気球の緊急時の対応や燃料であるプロパンガスの補充や競技上の作戦や情報などの管理を行っている。時々、気球が田んぼの真ん中に不時着することもあるが、あの大きなバルーン。地面に降りた時に、地上の風にあおられたり、一般道の交通の遮断につながるようなアクシデントから、バルーンや付近の住民の安全を守るために常にスタンバイしている役目を担っている。考えてみれば、一機のバルーンを空高く飛ばすには、本当に沢山のスタッフの協力があって成されている事が良く理解できるはずだ。
それと、この話は僕が十数年前に聴いた話だが、あのバルーンの価格。古い話で確実な線ではないが、あの気球にぶら下がっている籠の部分だけで400万円もかかる高価な物らしい。本場、イギリス製の籠とバルーン本体で一千万円近くの費用がかかり、パイロットになるためには資格取得が必要らしい。とにかく、バルーンと言えども、そう簡単に大空を自由に飛び回るには、それなりのお金もかかるようで、参加するにもちょっとやそっとでは出来ないものなんだね。
今日も残暑厳しい一日であった。実際、今日の夜のニュースでも岐阜県や名古屋で夏日を記録して、おまけに小中学校の運動会の練習中に熱中症症状で救急搬送された児童も沢山いたようである。近年の地球全体のグローバルな温暖化傾向に、我々の子供時代とは夏の気温にも大きな変化があるようで、この夏、節電の影響もあり、毎日、多くの人々が熱中症で救急搬送されている。その大半がお年寄りや子供達であるが、しかし、これだけ子供達が日中の校庭での活動に際し、頭痛、吐き気やめまいを訴える様な状況に学校側も苦慮しているのではないだろうか?今日、熱中症の症状で救急車で搬送された児童の学校では、校庭に生徒達の控える校庭には大型テントまで設置していたにもかかわらず、熱中症の訴えがあったそうだ。
社会全体が熱中症に限らず感染症や事故に対する危機感があまりにもセンシティブになりすぎているように感じる。高齢者福祉の世界でも高齢者を守るための行政指導や施設内のリスクマネージメントなどが徹底され、完全に予防されるべく対策が講じられている。大切な人の命をお預かりしている以上、命を守るために些細な事故も、感染症などの病気の罹患などは発生させない。そのことの重要性は理解しているが、最近の社会の風潮からすると、自分の命を自らの責任で防衛する本能が薄らいできてるのではないか? 最近の子供達(青年も含めて)自分達にとって都合の良い権利は主張し、七面倒な義務と責任は無視し、他人の責任にすることが蔓延しているように思う。例えば、行楽地や観光施設に来場する観客の命を守る責任は、それらの施設にあるわけで、自らの体調管理も出来ない人が気分が悪くなった場合の責任まで負う。観光地には、最近のユニバーサル思考によって、障碍者も健常者も分け隔てなく参加できる場が求められる時代である。障碍を抱えていても普通のように参加できる制約の無い行楽地は、本当のユートピア思考であるといえよう。しかし、この点で、施設側としては、広く一般の人々を受け入れてるなかで、それぞれの個人の情報は分からないし、みえない。その人の既往歴や現病も見えない中、問題が起こるまで状態の変化は外部からは察知できないわけで、それこそ、バリアフリーである以上、個人で自分の体調を管理する能力も必要である。すべてを他人に任せるのではなく、あくまでも自分で体調管理できるようなノウハウを普及させる必要があると思うのだが・・・。
最近の小中学校の生徒達も、今の時代の考え方も影響を及ぼしているのか知れないが、少し体力不足な生徒が増加してるように思える。炎天下で活動してれば、誰だって気分は悪くなるし頭痛もおこしてくる。炎天下の作業なんて、社会にでれば一杯存在する。道路工事、農業、林業、水産業など、炎天下ではないにして大手の製造業などは、高温高湿度の劣悪な環境での作業を強いられる人もいる。作業場のところどころに会社側から提供された飲料水と梅干などで流れ出る塩分を補いながら就労している現場も存在する。
少し軟弱な子供達の教育に、画っこ王の先生方も気苦労が多いのかな・・・!と日本の将来を心配する気持ちとなってしまう。
太陽の家の職員さんからデイサービスの利用者さんとの話題作りに苦労すると言う意見をよく聞く。話術と言うのは、ある意味「慣れ」みたいなところがあって、人前で話す機会の多い人は、相手が高齢者であろうと苦にすることなく話が出来るものである。色々な場所で色々な人を相手に話をする機会ってのは、一般的には経験することが少ないのかもしれない。僕は偶然にも、グループホーム協議会で毎回、司会進行を担当することから、人前で話することは苦手ではない。逆に人前で話をする事が大好きである。この意識の差が人前で話す行為を負のストレスにするのか、正のストレスにするのかの分かれ道となる。好きこそ物の上手なり!と言われるように、人前で反す事を苦にしない意識は、そのまま話し上手な方向へ変わっていく。
さて、人前で話す事の上手い下手に関しては、話す機会を増やすことによって改善されていく。ここでタイトルに据えられたデイサービスにおける話題作りに関して言えば、これは好き嫌いの問題ではどうにもならない。基本的に高齢者の心理をまず理解しなければいけない。年寄りがなんで、そのような発言をするのか?、なぜ、こう言う行為が伴うのか?と言う点で、高齢者の心理は、それこそシンデレラのガラスの靴のようにセンシティブでナイーブなのである。うちのデイサービスにも一人のばあさんが居る。この婆さん、80歳を超えて周りの同年代のばあさんよりもすこぶる元気な方。ただ最近、発する言葉に棘が出始めた。最初は第三者の悪口と言うより、その人の状態を同情するような素振りで嫌味を言う程度だったものが、最近では聞えよがしに悪口を言うように変化してきてる。この場合、何が影響を及ぼしているのかを考えなければいけない。臭いものに蓋をすれば的な思考では、根本的な問題解決にはならない。このばあさん、自宅では孤立しているのかもしれない。唯一の社会的交流はデイサービスで保たれているだけで、自宅に帰った時点で誰とも接点もなく、部屋の壁越しに家人の存在を感じる程度の生活かもしれない。本人はある面で、長生きは罪だ!と考えていたかもしれないが、最近になって開き直りが出始めている?いろいろな場面を考慮しながら、職員同士が話し合って対応策を考えていかなければいけない。そして、デイサービスでの会話作りは、それらのデータを職員全体が共有したうえで構成されるものでなければいけない。
私達の実施しているデイサービスやグループホーム、また老人福祉施設は、職員が高齢者の人々の暇つぶしのお世話をする場所になってしまってはいけない。あくまで、介護施設として分類され存続する以上、専門職として高齢者の方々を的確に観察し、必要な支援を適量(この適量と言う言葉には説明が必要であろうが、ここで敢て説明は割愛する)行える事を最大目的としなければいけない。だから、職員の話をもって時間をつぶしてもらう意識ではなく、そこで実施される介護は全てをプログラミングされたもので無ければいけないはずだ! 個々のデイサービス事業所は大阪の難波花月に娯楽を楽しみに来てるわけではないと言うことを考えなくてはいけない。太陽の家の職員さんが、同じ意識を共有し個人に必要な支援を的確なプログラミングをもって支援できるプロフェショナルな軍団に成長する日をこころより期待したい。